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実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

芭蕉が詠んだ山中の美しい情景

2013年10月19日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

山中温泉といったら、「こおろぎ橋」ですよね。

「時と季節のせせらぎに こおろぎ橋は いつもやさしい」

この付近は岩石が多く、越前(いまの福井県)に向かうときにとっても「行路危(こうろぎ)」

場所で、またこの周辺で、秋の夜、可憐になく蟋蟀(コオロギ)の声が多く聞かれた

ことから、こおろぎ橋」と名付けられたといいます。

松尾芭蕉は、山中逗留4日目の1689(元禄2)年7月30日(新暦9月13日)に

こおろぎ橋」の上流の河原へ行って、一句よんでいます。この付近は高瀬と呼ばれ、

その昔鮎漁のよき漁場として賑わっていた所で、かがり火を焚いて魚をおびき寄せる

漁師の舟がひしめきあっていたそうです。

いさり火に かじかや波の 下むせび

(清流の小石に身を伏せているかじかを漁り火で追っているのであろう。さやさやと

聞こえてくる瀬の音は、かじかがつかまるのを怖がって、川底でむせび鳴いている声

であろうか。)

この句でよまれている「かじか」は、”むせび”という一字からみても、鮎やウナギでは

なく、小エビかゴリ(オコゼ)であったろうと考えられますたいまつの火で魚を追う里人、

そしてじっと川の底にかくれているかじか。

当時はごくありふれた情景だったのかもしれません。それが、小さな魚に感情移入する

芭蕉のこまやかな句を通すと、とっても美しい山中温泉の一場面が目の前にあらわれて

くるようですね。

現在、この場所には「高瀬大橋」が架けられ、「ろくろの里」として有名な奥山中の

菅谷町に向かう重要な役割を果たしています。

 

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました。)

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松尾芭蕉と山中温泉・道明(どうめい)が淵

2013年10月18日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

加賀市観光ボランティア大学第13回講座 『奥の細道』-芭蕉と山中温泉-」で、

講師の西島明正先生から教えていただいたことをもとにレポートをつづけます。

松尾芭蕉山中温泉に滞在して3日目・1689(元禄2)年7月29日(新暦9月12日)の

ことです。芭蕉は、宿泊先の泉屋の当主・久米之助に、自分の俳号である「桃青」の

桃の一字を与えて桃妖(とうよう)」と名付けました。当時久米之助はまだ14歳でした

が、芭蕉はこの若き久米之助に、俳人としての大いなる可能性を見い出したのです。

そして、芭蕉は鶴仙渓の中でももっとも美しい場所の一つとされる

道明(どうめい)が淵において、次の句を詠みました。

   加賀山中桃妖に名をつけ給ひて

 桃の木の其葉ちらすな秋の風  芭蕉 『泊船集』

(今日から俳諧の道を歩もうとする若々しい桃妖よ、どうかそのすばらしい才能を

伸ばして大成してくれよ。)

芭蕉がこの句を詠んだ道明が淵には、昔から不思議な龍の伝説があります。

道明が淵の龍伝説

『ある長雨がおさまった日、一人の娘さんが、音を立て渦をまく濁流を見ていると、

巨大な龍が爪を逆立てながら現れ、娘さんを飲み込もうとしました。

そこに、一人の若者が立ちはだかり、龍の背中にまたがって、黄金の太刀で、

一瞬にして急所をつき、龍をおとなしくしてくれました。

命を救われた娘さんは、若者に「名前をお教えください」と尋ねました。

でも若者は「道明」とだけ名乗り、姿を消してしまいました。

娘さんは若者にどうかもう一度会いたいと毎日医王寺に行って、薬師如来に念じました。

すると道明の姿がかすかに現れました。娘が「あなたはどなた様ですか?」と聞くと、

「わたしは龍頭観音。龍とともに天に昇ります。わたしに会いたければ、薬師如来を

拝みなさい」と告げて姿を消しました。道明は龍頭観音だったのです。

村人たちはいつしかこの淵を「道明が淵」とよぶようになりました。』

現在道明が淵の上には「あやとりはし」という勅使河原宏氏デザインのとても

モダンな橋でかかっていて、橋の上から道明が淵を見下ろすことができます。そして

あやとりはし」から大聖寺川の上流の方をながめると、その川の流れが、まるで

龍が天に舞い昇っているかのようにみえるのです。また高さ30メートルもあり、

くねくねS字型に曲がりくねったあやとりはし」の上を歩くと、少し揺れて、まるで

龍の背中に乗ったような気分を味わえます。

いよいよ紅葉の季節が近づいてきました。みなさん、山中温泉においでの際は、

この龍伝説を思い出しながら、「あやとりはし」の上から、芭蕉さんも愛でたと

いう道明が淵の美しい景色をご鑑賞下さい!!

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「やまなかや 菊はたおらじ ゆのにほひ」

2013年10月17日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

加賀市観光ボランティア大学第13回講座 『奥の細道』-芭蕉と山中温泉-」で、

講師の西島明正先生から教えていただいたことをご紹介します。

 

松尾芭蕉山中温泉に到着したのは、1689(元禄2)年7月27日(新暦9月11日)

16時30分頃のことです。当時の山中温泉には、湯ざや(共浴場)の周りに42軒もの

宿舎がありました。芭蕉はその中でも湯ざやのすぐ近くにある湯本十二軒の一つ泉屋に

逗留しました。湯本とは、山中温泉草創から宿舎を営む旧家のことです。泉屋は、

現在の北國銀行山中支店の所にありました。今、そこには「芭蕉逗留泉屋の跡」の

石碑があります。

翌7月28日、芭蕉は、朝からゆっくりと湯につかって疲れを癒したのでしょう。

山中のお湯は昔から、「熱くもなく、ぬるくもない、やわらかでやさしいお湯だ」と

いわれています。すっかり長旅の疲れを癒した芭蕉は、夕方薬師堂(医王寺)や町辺を

歩いています。芭蕉はきっとにぎやかな山中温泉の町中を歩き、医王寺下の楊弓場

(ようきゅうじょう)山中漆器の木地挽き物を見物したことでしょうね。

この日、芭蕉は泉屋当主の久米之助に温泉頌(しょう)の懐紙を書き与え、山中温泉

すばらしさを讃えました。

温泉頌山中の句            石川県立美術館蔵

北海の磯づたひして、加州やまなかの湧湯に浴す。里人の曰(いわく)、

このところは扶桑三の名湯の、其一なりと。まことに浴することしばしばなれば、

皮肉うるほひ、筋骨に通りて、心神ゆるく、偏(ひとえ)に顔色をとどむるここちす。

彼桃源も舟をうしない、慈童が菊の枝折もしらず。

  やまなかや 菊はたおらじ ゆのにほひ   はせを

(日本海の磯づたいに旅して、今やっと山中の湯に浴している。地元の人が言うには、

山中の湯は、日本三名湯の一つであると。なるほど何度も浴していると、体の皮肉が

うるおい、筋骨まで湯がしみわたって、心はゆったりとくつろぎ、顔の色もつやを保つ

心地がする。極楽のような所であるから、わざわざ桃源郷へ行くための船を仕立てる

までもなく、またこの湯に入っていると寿命も延びるようで、中国の故事にある菊慈童は、

菊を手折ってその花の露を飲んで、長寿延命を保ったというが、その必要もない。)

どうでしょう。松尾芭蕉は、とっても気に入り、まるでここは桃源郷(理想郷)だとして、

山中の湯を最大限の賛辞でたたえたのです。喜びに満ちた芭蕉さんの顔が目に浮かぶ

ようですね!

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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曽良の日記でわかる「芭蕉」の足跡

2013年10月16日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

加賀市観光ボランティア大学で、講師の西島明正先生から教えていただいた

松尾芭蕉の『奥の細道』や『芭蕉と山中温泉』のことについてレポートしています。

松尾芭蕉の『奥の細道』は、紀行文という文学作品で、物語をスムーズに進めるために

日にちが前後しているところがあったり、現実とは違うフィクションが描かれている場合も

多いそうです。たとえば、芭蕉が平泉(岩手県)で詠んだという

「五月雨の 降りのこしてや 光堂」

<まわりが、雨風で朽ち落ちていく中で、光堂だけが昔のように輝いている。

まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているように思われることよ。>

は、この日とてもよいお天気だったにもかかわらず、まるで五月雨が降っていたかのように

表現されています。また芭蕉が越後路(いまの上越市直江津)で詠んだ

「荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」

<荒れ狂う日本海の荒波の向こうには佐渡がある空を見上げると、白く美しい天の川が、

佐渡の方にまで横たわっていて、とても雄大だ。>

も、この日は雨で、天の川は見ることができず、また夏の日本海は波も静かで「荒海」では

なかったそうです。

そのようなフィクションも多い『奥の細道』を正しく読み解く上で、とっても重要な史料が、

芭蕉の『奥の細道』に随行した弟子・河合曽良(1649~1710年)がつづった

奥の細道随行日記』なのです。曽良は誠実で几帳面な性格だったようで、江戸にいる時

から芭蕉の身の回りの世話をし、『奥の細道』の旅では芭蕉の秘書的役割を果たしました。

そこで、芭蕉を研究される方々は、曽良の『奥の細道随行日記』を参考に、史実を明らか

にするのだそうです。(この日記が発見されたのは、意外と新しく昭和18年のことです。)

この日記により、奥の細道における実際の日付・天候・旅程・宿泊その他の芭蕉

動静がわかったり、芭蕉の制作意識をうかがい知ることができます。

石川県内においても、『奥の細道』では、芭蕉がまるで那谷寺を訪れた後に、山中温泉

来たように描かれていますが、じつは、芭蕉山中温泉で8泊9日逗留した後に、那谷寺を

訪れているのですよ。そもそも「奥の細道」と曽良の旅日記とでは、江戸深川をスタートした

日にちからして違っているそうです。奥の細道」では3月20日となっていますが、曽良

日記では3月27日になっています。

旅日記』によれば、芭蕉山中の道明ヶ淵(どうめいがふち)で川魚漁を見た日は快晴、

また芭蕉が山中から那谷道をたどって小松に戻った前日は朝から雨と記されています。

わたしたちは、曽良の『奥の細道随行日記』によって、「芭蕉と山中温泉」についてくわしく

知ることができるのですね!

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松尾「芭蕉」の名前の意味

2013年10月15日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

10月10日(木)の加賀市観光ボランティア大学13回講座 「『奥の細道』加賀路の

芭蕉芭蕉と山中温泉-」で、講師の西島明正先生から、松尾「芭蕉」の名前の由来に

ついて教えていただきましたので、レポートします。

1644(正保元)年に今の三重県上野で生まれた松尾芭蕉は、29歳の時江戸へ出て、

専業の俳諧師を目指しました。31歳のときに、桃青(とうせい)を名乗り、33歳で、

俳諧師の師匠となりました。芭蕉は、俳諧の中心地・日本橋に居を定め、多くの弟子を

集めるようになります。しかし、当時の江戸の俳壇は、滑稽や華やかさなど、言葉遊びを

競う句ばかりが持てはやされ、師匠たちも弟子の数を競い合う状況だったそうです。

芭蕉李白・杜甫らの漢詩に興味を持ち、自然や人生を織り込んだ、より芸術性の高い

俳諧を理想とするようになりました。そこで、彼はあえて江戸の中心地を離れ、町はずれの

静かな深川に粗末な草庵を結びました。そして草庵に「バショウ」の木を植えたところ、

見事な葉がつき評判となったことから、この草庵を「芭蕉庵」に改称したのでした。

松尾芭蕉は、この「バショウ」の木を自分に例えたといいます。

「バショウ」の幹は柱にもならないし、葉は全く役に立たない。わたしもこの「バショウ」と

同じような存在である。「夏炉冬扇(かろとうせん)」というが、わたしも夏の火鉢や冬の扇の

ように、日常生活には何の役にも立たない人間である。しかし、人生に役に立つ「無用の用」

のような俳人でありたい。

41歳のとき、「この旅で死んで悔いなし」という思いで、江戸→郷里・伊賀を旅し、

『野ざらし紀行』を著した芭蕉は、46歳になった1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)に

奥の細道』の旅をスタートさせます。その奥の細道』の有名なはじまりが、

月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり

(月日は永遠の旅人であり、われわれの命というのも、旅人の命である)です。

尊敬する西行をしのび、旅の途中で死んだ先人(とくに源平合戦で亡くなった古人)の跡を巡り

ながら、各地の俳諧グループの仲間との「一期一会」を目的とする、門人曽良との二人旅が

始まりました。金沢で仲間と会い、小松市の多太神社で、篠原の合戦で亡くなった

斎藤別当実盛の遺品の兜(かぶと)を見て、

むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす

(もう秋です。実盛の兜の下で、コオロギが一匹鳴いていますが、このコオロギは実盛の霊かも

しれない。ああ、おいたわしい。)と詠んだ松尾芭蕉は、7月27日(新暦9月10日)に山中温泉

入ります。串茶屋→七曲辻→動橋→庄→山代→二天を経て、4ヶ月近い旅の疲れを癒すために、

松尾芭蕉は8泊9日間もの間、山中温泉で過ごすのでした。

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山中温泉と松尾芭蕉

2013年10月14日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

10月10日(木)1930分から加賀市民会館で、加賀市観光ボランティア大学

13回講座 「『奥の細道』加賀路の芭蕉芭蕉と山中温泉-」が開かれました。

講師の先生山中温泉と松尾芭蕉について大変お詳しい西島明正さんでした。

西島先生は講義のはじめにこうおっしゃいました。

「わたしは決して松尾芭蕉の研究者ではありません。以前、山中町の図書館に

勤務していたとき、観光客の方から、芭蕉のことや温泉、九谷焼、山中節、

山中漆器などについて聞かれました。それらの質問に答えられるようにと勉強した

のです。芭蕉については、1989(平成2)年の奥の細道』300年の記念イベントの

ために、山中での芭蕉の足跡を調査研究しました。研究者の方から、「山中温泉における

芭蕉の足跡をまとめるのは地元の方の役目ですよ」というアドバイスを受けて、

芭蕉と山中温泉』(北國書籍印刷刊)という本をまとめることになりました。」

西島先生には、長年の研究をもとに、とっても丹念に「奥の細道の足跡」「加賀路の芭蕉

芭蕉と山中温泉」についてお話しいただきました。本当にありがとうございました。

奥の細道』は、1689(元禄2)年、松尾芭蕉が46歳のとき、5カ月間、600里

(2,400km)にわたる旅の記録を紀行文にまとめたもので、日本を代表する文学作品と

いえます。

山中温泉には、今から324年前の1689年7月24日(新暦8月29日)から8泊9日に

わたって逗留しました。奥の細道』の旅の途中、芭蕉はいくつもの温泉地をめぐって

いますが、これほど長く滞在している温泉地は唯一山中だけです。また、山中温泉

奥の細道』で長らく二人旅をしてきた曽良と別れた地であったり、蕉風俳諧の真髄で

ある「不易流行」について芭蕉自らが弟子・立花北枝に語った場所、芭蕉が連句の添削を

行った真筆(「曽良餞翁直しの一巻」)が残された地で、奥の細道』の研究者にとって、

とても重要なスポットなのだそうです。

 「やまなかや菊はたおらじ湯のにほひ」

みなさんは、松尾芭蕉山中温泉でよんだこの句の意味をご存じですか?

これから、西島先生に教えていただいた山中温泉と松尾芭蕉」のことをレポートさせて

いただきますので、よろしくお願いします!!

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ハイカラ茶通・岩原謙三と「チョコレート茶会」

2013年10月13日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

←蓮光寺にある岩原家の墓

昨日のブログでご紹介させていただきました大聖寺出身の偉人・岩原謙三

初代NHK会長)は、ハイカラ茶通として知られ、奇抜な茶会を開いては、

まわりの人びとを楽しませたというエピソードの持ち主でもあります。

『加賀江沼人物事典』(江沼地方史研究会刊)によると、岩原謙三

「謙庵の号をもつ茶人であったが、粗忽・愛嬌で茶会を行い、素骨庵の名を

奉られた」とあります。そこで、インターネットを使って調べたところ、

岩原謙三のユニークなエピソードが、室町時代後期創業の日本を代表する

和菓子の老舗「株式会社 虎屋」のホームページで紹介されていました。

虎屋のホームページのなかに、「菓子資料室虎屋文庫-歴史上の人物と

和菓子-」というコーナーがあって、その中で「岩原謙庵とこぼれる菓子」という

逸話を読むことができるのです。(是非、一度お読み下さい!)

この逸話によると、1907(明治40)年3月に、東京・品川での茶会で、岩原謙三

夫人によるチョコレート茶会」が行われました。この茶会は謙三の奥さんがアメリカ

仕込みのココアを飲ませるという趣向で、大寄せ茶会の中の一席として行われたもの

です。当時ココアはチョコレートとも呼ばれていたことからこの名がついたそうです。

ココアを熱湯でよく練って、牛乳でのばす動作が濃茶を練るのに似ていると、参加者の

喝采を浴びたそうですよ。とってもうまそうで、わたしたちも一度飲んでみたいです

この茶会は、当然岩原謙三が夫人と相談した上で行ったのでしょうね!

岩原謙三って、やり手の実業家だっただけでなく、とってもお茶目な人物だった

ようですね!

(記事の作成にあたり、「菓子資料室虎屋文庫-歴史上の人物と和菓子-」の記事を

一部引用させていただきました。また虎屋広報部の皆さんにご協力いただきました。

本当にありがとうございました。)

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蓮光寺にNHK初代会長・岩原謙三のお墓がありました!!

2013年10月12日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

10月8日(火)の課題研究の時間に、わたしたちが大茶盛を体験した

日蓮宗「蓮光寺」には、大聖寺出身の偉人・岩原謙三(1863~1936年)の

お墓があります。そして今年はちょうど岩原謙三生誕150年の年にあたり、

蓮光寺門前には新たに岩原謙三の顕彰碑が建立され、11月3日(日)には、

除幕式が行われるそうです。

茶会が終わった後、わたしたちは、ご住職の中山久勝さんに特別の許可をいただいて、

岩原家のお墓を見学するために、お寺の裏山を登らせていただきました。

「わっせ、わっせ!」。急な坂道を3分くらい登ったでしょうか?山のてっぺんに

とてもとても大きな岩原家累代の墓が見えて来ました。

学校に戻って、図書室にあった『加賀江沼人物辞典』(江沼地方史研究会刊)で、

岩原謙三について調べてみました。

岩原謙三は1863(文久3)年、大聖寺穴虫(現錦町)で岩原孝興の長男として生まれ

ました。9歳の時に上京し、1883(明治16)年から東京商船学校で学んだ後、三井物産に

入社。実業家としての道を歩みはじめました。三井物産では、ニューヨーク支店長、

本店理事などを歴任し、1906(明治39)年には常務取締役をつとめました。

岩原謙三は、多方面に術策をもって当たり、手も口も利くやり手として評判だったそうです。

その後、当時の日本において6割以上の電気機械製品を供給していた芝浦製作所

(現東芝の前身)社長として活躍した他、多くの大企業の社長や取締役を務めるなど

バイタリティにあふれる実業家でした。

そして、わが国にラジオブームがわき起こり、放送が公共的国家事業として注目を集めていた

1926年(大正15)年に、岩原謙三日本放送協会(NHK)初代会長に就任し、

「日本放送事業の父」として大活躍したのでした。東京港区のNHK放送博物館には、

現在も岩原謙三の銅像が展示されているそうですよ。

【記事の作成にあたり、『加賀江沼人物辞典』(江沼地方史研究会刊)を参照させて

いただきました。】

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蓮光寺・庭園と茶室がとても素敵です!!

2013年10月11日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

10月8日(火)、大聖寺山ノ下寺院群にある蓮光寺で「大茶盛体験をさせて

いただいた後、ご住職・中山久勝さんに、とっても素敵な庭園茶室

ご案内いただきました。

落ち着いた回廊式の庭園にある池には、とっても大きくて立派な錦鯉がたくさん

泳いでいます。そして池の横には、水蛍形灯籠と棗(なつめ)形手水鉢がおかれていました。

藩政時代、今の永井町に大聖寺藩の鳥の狩り場があり、そこにあった藩主の休憩所から

これらが運ばれたそうです。原料となった石は永井町の松谷山産です。

そして茶室。昭和38年に、石川県版の茶室百選に選ばれたという素晴らしいもので、

床柱は、「としょ」という木でできています。「としょ」という木はなかなか大きくならない木で

このような「としょ」の木でつくられる床柱はとっても珍しいのだそうです。

そして「黒柿」の木でつくられた床板の模様がとても不思議でした。

横の部分には「空の雲」、上の部分には「太陽」と「月」が形取られているように見えます。

茶室の脇には水屋と呼ばれる茶会の準備をする部屋もありました。

蓮光寺は、学校のほんのすぐ近くにあるお寺なのですが、実際見学させていただくと

ビックリするような発見がいっぱいでした。

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蓮光寺・「大茶盛」が始まりました!

2013年10月10日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

10月8日(火)、大聖寺山ノ下寺院群にある蓮光寺で「大茶盛」を体験させて

いただきました。さぁ、いよいよ「大茶盛」のはじまりです。

本日の主客の役目は、顧問の先生なのですが、そわそわして隣に坐った

NO.4まこに「どうしたらいいんや?教えてや。」って、緊張しています。

奥様が主菓子をのせた菓子器を持っておいでました。

菓子器は伊切町の作家・山本長三さん作の素敵な九谷焼、主菓子は

大聖寺中町の小山芳月堂さんのとってもおいしいお菓子です。

箸でお菓子をとって、懐紙にのせ、箸を懐紙で清めて、菓子器に戻します。

菓子器は軽く持ち上げて、次の方へ渡していきました。

ご亭主のご住職・中山久勝さんがお茶の準備を始められました。

お茶は、京都宇治から特別に注文したお抹茶です。「お点前ちょうだいいたします!」

とってもまろやかで、おいしいお茶をいただきました。

ご亭主の中山久勝住職から、床の間の掛物や花入のご説明がありました。

掛物は明治から大正にかけて活躍した日本画家・鈴木華邨(すずきかそん)の

お釈迦様の絵。お釈迦様が山での修業を終え、悟りを開いた様子が描かれています。

お花は、やはずすすき・われもこう・こぎく・りんどう。花入は備前。花板は焼杉でした。

とにかく、茶器は全部ジャンボ!

昭和43年に、蓮光寺の檀家だった加賀市出身の元衆議院議員竹田儀一氏の

「宗派関係なく、楽しい茶会をしましょう!」という発案で始まった蓮光寺

大茶盛」。とっても貴重な体験をさせていただきました。

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み~んなジャンボ!!蓮光寺の大茶盛

2013年10月09日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

10月8日の課題研究の時間に、大聖寺山ノ下寺院群にある「蓮光寺」で

大茶盛体験させていただきました。

大茶盛は、鎌倉時代の1239(延応元)年に叡尊というえらいお坊さんが、

奈良の西大寺で始めたそうです。当時、お茶は貴族の薬であり、民衆の手に

入らないものでした。そして今のような抹茶茶碗のない時代でしたので、

どんぶりや水鉢に注いだお茶をみんなで回して飲んだそうです。大茶盛は、大きな

茶碗で、まわりの人びとに助けていただきながら、お茶を飲むとても和やかな雰囲気の

お茶会なのです。なんでも日本海側の地域で大茶盛を行っているのは、ここ蓮光寺

だけだそうで、わたしたちはとっても貴重な体験をさせていただきました。

大茶盛で使われる茶碗・茶筅(ちゃせん)・茶杓(ちゃしゃく)などの道具は

全部ジャンボでビックリでした。



普通のお茶会で使われる道具と比べると、ほら、こんなに大きいんですよ。

今回の大茶盛のご亭主を務めていただいたのは、蓮光寺第23世の

ご住職・中山久勝さんです。またご亭主を手助けし、お茶会をスムーズに進行する

半東の役割を奥様にしていただきました。



本来ならば、わたしたちが用意しなければならない袱紗(ふくさ)・懐紙(かいし)

・黒文字などもちゃんとご用意いただいて、本格的なお茶会の雰囲気を味わうこと

が出来ました。

「お点前ちょうだいいたします!」「結構なお点前でした!」

わたしたちが体験した蓮光寺での大茶盛については、明日のブログでも引き続き

レポートさせていただきますので、よろしくお願いしま~す!!

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「北前船」と加賀橋立についてまとめました!!

2013年10月08日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

わたしたちは、加賀市観光ボランティア大学に参加して「北前船」や加賀橋立町

ことについて勉強しました。

橋立町は、平成21年に朝日新聞社により、”日本の里100選”に選ばれた美しい町です。

橋立町景観、生物多様性、人の営みの3つが調和した里として高く評価をされたのです。

みなさん橋立を一度歩いて北前船主の息吹にふれてみませんか?すばらしさが実感できますよ。

わたしたちが9月以降記事にしたものと、昨年度の先輩が書かれたものをまとめてみました。

もしよろしければ、下のタイトルをクリックして、バックナンバーをご覧下さい。

(1)「北前船」の勉強です!(加賀市観光ボランティア大学)

(2)「北前船の里資料館」(加賀橋立町)建設の経緯

(3)旧北前船主邸の壁板に穴がたくさんある理由

(4)北前船・「北前」の意味を知る決定的史料

(5)「北前船」を決める3つの定義

(6)北前船の里・加賀橋立を歩きました!!①

(7)加賀橋立・散策モデルコースをご紹介します!

(8)北前船の里・日本一の富豪村だった橋立

(9)「大聖寺川水力発電株式会社」をつくった北前船主たち

(10)「驚くべき北前船主の利益」

(11)「北前船のはじまり」

(12)「北前船・『昆布ロード』と『にしんそば』」

(13)「北前船主の里・初秋の橋立を歩きました!」

(14)「橋立・北前船の里資料館」

(15)「橋立を代表する2人の北前船主」

(16)「北前船・加賀と小樽をむすぶもの」

(17)「北前魂・函館に残る西出孫左衛門の足跡」

(18)「北前船が衰退していった理由」

(19)「『北前船・アイヌの人々の視点」

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蓮光寺で大茶盛体験してきま~す!!

2013年10月07日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す 

わたしたちは、10月8日(火)の課題研究の時間に大聖寺山ノ下寺院群にある

蓮光寺で、大茶盛を体験させていただくことになりました。

大聖寺は城下町でとってもお茶会の盛んなところですが、この蓮光寺

大茶盛使われるお茶碗は何でも直径30cmもある大きな茶碗だそうで、

今からとっても楽しみです。

この華徳山蓮光寺は、大聖寺藩初代藩主の前田利治公が1644(寛永21)年に

開いたというとても古い日蓮宗のお寺です。羽咋の妙成寺から日然が招かれ、

その妙成寺の別院として開かれたと伝えられています。またお寺には、戦国武将で、

初代熊本城主の加藤清正が持っていたという鬼子母神が金沢藩2代藩主・前田利長の

縁で伝えられてますし、毎年1月15日に行われる「星祭り」も有名です。

さらには今の大聖寺錦町で生まれた大聖寺の偉人・初代NHK会長の

岩原謙三(1863~1936年)のお墓が寺の裏にあることで知られています。

御殿づくりのお寺や茶室・庭園など見所たっぷりの蓮光寺です。

わたしたちの大茶盛の様子は、後日このブログでご紹介させていただく予定ですので、

よろしくお願いします!!

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「大聖寺川水力発電株式会社」をつくった北前船主たち

2013年10月06日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

加賀市観光ボランティア大学第11回講座で、講師の江沼地方史研究会・見附裕史

先生から、明治期に、北前船で巨万の富を築いた北前船主たちが中心となって

つくった「大聖寺川水力株式発電会社」について教えていただきました。

ここ加賀市は全国的に見ても、とっても早い時期に電気が使われた地域なんだそうです。

そして、その電気事業は橋立の北前船主の大きな貢献によるものなのです。

日本で最初の電灯が灯ったのは1882(明治15)年のことです。その後、

電力需要は全国で高まり、私たちが住む今の加賀市の地域にもその波が押し寄せて

きました。そこで、1911(明治44) 年2月には、電力の必要性をいち早く感じていた

北前船主たちが中心となって、「大聖寺川水力発電株式会社」が創立されました

(社長久保彦兵衛)。そして大聖寺川から分流する紙谷用水を利用し山中発電所(264kW)

を建設して、明治44年12月には、大聖寺や山中・山代の温泉地へ電力供給を始めました。

一般家庭への電灯供給が第一の目的でしたが、この地域では、山中・山代の温泉旅館が

電灯を必要としていたこと、大聖寺を中心とする機織(はたおり)業が電気動力を必要と

していたこと、さらには当時すでに山中、大聖寺間と山代、動橋間を結んでいた馬車鉄道を

電化するために発電が急がれていたという背景があったのです。

そのようなことから、発電所の建設と鉄道電化の期待が結びつき、後に石川県内で

初の電車が走ることになりました。すごいですね。

その後もそれまで温泉地間の連絡が不便だったことから、鉄道事業を一本化し山中、山代、

片山津などの温泉地を結びつけることにより、さらなる経済の振興が期待されたのです。

山中温泉の上原町にある白山神社には、大聖寺川水力発電株式会社」設立の

記念碑が立っています。みなさん、もしお時間がありましたら、立ち寄ってみてください。

(「加賀市・山中町合併協議会だより」2004年4月号を参照させていただきました。)

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リトルウッドの石碑(久法寺)

2013年10月05日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す 

 

大聖寺下屋敷町・久法寺の墓地にあるバーナード・ジョージ・リトルウッド

というイギリス人の石碑を見ました。この石碑は、先日らくやき体験を

した「らくやき体験工房 翆雲窯」のすぐ横にあります。

そして、らくやき体験の講師をしていただいた荒木実さんのブログに

リトルウッについての記事が紹介されていて、わたしたちは勉強させて

いただきました。さて、リトルウッドとはどんな人なのでしょう?

名前 Bernard George Littlewood

生誕地 イングランドDerbyshire州 Chesterfield

   1870年6月9日 ドイツ船籍Catarina号で長崎着
   1870年6月26日 New York号で神戸着
   1871年4月14日 神戸を立ち金沢へ出発
   1871年4月18日 敦賀で発病
   1871年4月25日 大聖寺で天然痘で死去(30歳)
   1871年4月27日 大聖寺出村山に埋葬
            金沢藩主の弟が300人の家来を従えて葬儀に参列

画像

リトルウッドは、明治3年に語学教師として金沢藩に招かれました。

バーナード・ジョージ・リトルウッド青年はイングランド中部のダービーシャー州出身で、

800人程度しか住んでいない英国の片田舎から、激動の明治維新期だった日本に単身

渡ったのでした。

しかし、目的を果たすことなく、途中の敦賀で天然痘を発病し、大聖寺で死亡して

しまったのでした。金沢藩は300人を派遣し大聖寺の郊外「通称なべのつる」に

丁寧に埋葬したと伝えられています。その後現在の久法寺墓地に移転したそうです。

石碑の冒頭には英語を漢字表記した文字が記されていましたが、最近まで

その読み方に諸説があったそうです。

「比慈律甸宇旺獨英國人也我藩招聘欲受語学客途患痘・・・・・」

それが最近になり、隣接地に墓のある小矢田進氏(NPO法人たぶんかネット加賀

理事長)が神戸や長崎に問い合わせ、明治初期の乗船者名簿などを手掛かりに

名前を特定したのです。荒木さんにブログの記事の引用について許可をいただきました。)

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