隊員NO.3ゆかぴで~す
9月12日(木)の加賀市観光ボランティア大学第11回講座
「日本一の富豪村・北前の里-北前船主の粋な生き方-」で講師の
江沼地方史研究会・見附裕史先生から教えていただいたことをレポートしています。
現在「北前船の里資料館」となっている建物は旧北前船主・酒谷邸です。
酒谷家は、江戸時代後期から海運業を営み、橋立では西出・久保・増田家などに
次ぐ大船主の家柄でした。1888(明治20)年の小松税務所管内での所得調べでは、
酒谷家の年間納税額が3,317円となっていて、とんでもないお金持ちだったようです。
ところで、今の橋立町には、旧北前船主の邸宅が酒谷家のものも含め、たくさん
残っているのですが、不思議とどの家の壁板にも無数の穴が開いています。
みんなとっても豪邸ばかりなのに、なんで壁板に穴が開いているのでしょうか?
その答えを見附先生が教えてくださいました。
橋立町の旧北前船主邸には、もともと北前船の船底に使われていた「虫食い板」と呼ばれる
板が使われていたからです。木造船の船底には、船喰虫(フナクイムシ)という二枚貝の仲間
が寄生し、巣を作るために、無数の穴が開けられるそうです。船喰虫はゴカイに小さな殻を
つけたような姿をしていて、その固い殻で木に穴を開けます。そしてできた穴の内側に
薄い石灰質の膜を貼り付けて巣を作るのです。「板子一枚下は地獄」の北前船にとって、
その船喰虫が開ける穴は最大の敵でした。そこで毎年航海が終わったあとには、
必ず「たで場」という所で、船の底を外から火であぶって、船喰虫を殺したり、船板にしみ込んだ
水分を除いたりする作業をしたそうです。そして船喰虫はなぜか板を二枚重ねると、外側にだけ
穴を作る習性があります。そこで北前船では、船を守るために板を二枚重ねにして、「包み板」と
して使った外側の板を定期的に取り替えたのです。そしてこのときに取り外した「虫食い板」を、
塩水に強く風にも強い性質をもっていたため、海に近い橋立町の家の板塀として再利用したのです。
なお、現在トンネルをつくるときに使われている「シールド工法」というのは、木材の虫害について
研究していたイギリスのエンジニア・マーク=ブルネルが、船喰虫の習性をヒントに編み出した
のだそうですよ。おもしろいですね!
明日も「北前船」のレポートをさせていただきますので、よろしくお願いします!!