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実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

古代道路・「北陸道」にあった潮津駅

2013年11月18日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

11月16日(土)に行われた加賀市観光ボランティア大学16回講座

 宇吉郎の世界と篠原古戦場-科学の心と歴史の心-」で、講師の

枷場達雄さんから、片山津周辺の歴史についても教えていただきました。

篠原新町にある実盛塚のすぐ前を通る県道は「石川県道20号小松加賀線

といって、今は海側を通って小松市にアクセスする重要な道になっています。

そして、今回の講師・枷場達雄さんからは、この県道20号小松加賀線

実盛塚前あたりの道は、実は、遠い昔、律令時代(飛鳥~平安時代)に整備された

五畿七道の一つ「北陸道」の一部だった可能性があります、というお話を

していただきました。

北陸道」は七道の中では小路にランクされていましたが、それでも幅が6mも

あり、両側に幅60cmある立派な側溝もあったそうです。そして、20里

(10.56km)ごとに置かれていた駅家には、国を守る役目を持った官人たちが

使う馬が置かれることになっていました。今の篠原町篠原新町は、この当時、

潮津町の一部で、このあたりに「潮津駅」があったそうです。古代の官道は、

山があろうが川があろうが、とにかく一直線につくられていたそうで、加賀市には

今の橘町に「朝倉駅」もあったそうです。ですから、篠原町と橘町を結ぶラインが

その昔、今の加賀市の幹線道路だったということになります。

わたしたちが今、なにげなく通っている道を、今から1,000年以上も前の人たちが

歩いていたのです。そして「潮津駅」に多くの人たちが行き交っていたと思うと、

とっても不思議な感じがします。

みなさん、今度「石川県道20号小松加賀線」の実盛塚前を通られる機会があったら、

今回、実高ふれ愛隊がお伝えしたことを思い出してみてくださいね!

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「篠原池」は旧新堀川です!

2013年11月17日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

11月16日(土)1330分から行われた加賀市観光ボランティア大学

16回講座 宇吉郎の世界と篠原古戦場-科学の心と歴史の心-」に

参加してきました。

今回は、片山津の枷場達雄さんや山口美幸さんにガイドしていただいて、

加賀の源平合戦の歴史を語る首洗池や実盛塚、「中谷宇吉郎雪の科学館」を

見学しました。そして、今日は、篠原新町の実盛塚のすぐ近くにある「篠原池」を

見学してきましたので、篠原池」についてレポートさせていただきます。

篠原池」は、明治44年~大正4年にかけて、柴山潟の水を日本海に流すために

つくられた旧新堀川がもとになった人口の池です。柴山潟の水は、かつて今江潟・

木場潟など「加賀三湖」の水と合わさって小松市の安宅海岸に流れていました。

しかし、安宅海岸の河口が冬の季節風が運ぶ土砂によってふさがり、柴山潟周辺の

水位が高くなり、水没する被害が深刻だったため、柴山潟から直接日本海に水を

排出する運河を6年にもわたる工事をへて掘ったのです。

しかし、工事が完成したのも束の間、皮肉にもこの旧新堀川の完成を祝う式典が

あった日の夜、この河口も安宅海岸と同様に、日本海の荒波が運ぶ土砂によって、

あっという間に塞がってしまったのでした。

それから40年後の昭和29~39年にかけて今の新堀川の建設が行われました。

この工事は、「国営加賀三湖干拓建設事業計画」とよばれた大規模なもので、

過去の反省を踏まえ、長い導流堤を設けて、いまの新堀川を完成させました。

旧新堀川は、新しい新堀川の完成により、その役割を終え、今は「篠原池」として、

柴山潟歴史を伝える遺産となっているのです。

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「加賀ふるさと検定」練習問題(1)

2013年11月16日 | 日記

隊員NO.4まこで~す

今年12月1日(日)に行われる第1回「加賀ふるさと検定」に、

大聖寺実業高校の1年生が全員受験することになりました。

今日は、実高生が検定に向けて取り組んでいる練習問題(古代~近世編)

をご紹介させていただきますので、みなさんもチャレンジしてくださいね!

10問中7問正解(70%)で合格です。(正解は最後にありますよ。)

「加賀ふるさと検定」 練習問題(第1回)

◇各問の( ? )にあてはまるものを、それぞれ①~④から一つ選んでください。

問1 加賀市の( ? )遺跡は、旧石器時代(今からおよそ1万3千年以上も前)の

遺跡で、ここからは石刃や掻器などが見つかりました。

①  藤ノ木 ②宮地向山 ③吸坂丸山 ④法皇山

問2 合河町では、弥生時代後期の遺跡で「北陸の登呂遺跡」ともいわれる

( ? )遺跡が見つかり、1,800年前のしゃもじやくわなどの貴重な木製品が、

ほぼそのままの形で発見されました。

①  宮地向山 ②狐山 ③猫橋 ④茶臼山

問3 昭和7年に、二子塚町地内で、5世紀中頃の前方後円墳である( ? )古墳が

見つかり、現在国指定史跡になっています。石棺からは成人男子の人骨とともに

銅鏡「画文帯神獣鏡」、銀製帯金具、刀などの副葬品が発見されたことから、

江沼臣の一族に関係する古墳ではないかと考えられています。

①  大野山 ②柴山出村 ③宮地向山 ④狐山

問4 勅使町では、大正11年に考古学者の上田三平により、6世紀中頃から

7世紀末にかけての( ? )横穴群が確認され、国指定史跡となっています。

横穴の数はおそらく200基以上あるだろうと考えられており、日本海側では最大級の

横穴古墳群として知られます。

①法皇山 ②南郷・黒瀬 ③狐山 ④分校

問5 奈良東大寺の正倉院文書のなかに、天平12年(740)の「越前国江沼郡

( ? )計帳」の一部が残っており、江沼臣族のことを調べる上で興味深いものです。

 ①菅浪郷 ②長江郷 ③山背郷 ④三枝(さえぐさ)郷

問6 平安時代に入ると、古来よりの白山信仰と仏教思想が結びつき、当地域では、

柏野寺、( ? )、極楽寺、小野坂寺、大聖寺の五つの寺が「白山五院」として

信仰の拠点になっていたことが『白山之記』に記載されています。

①温泉寺 ②全昌寺 ③医王寺 ④愛染寺

問7 加賀江沼出身の( ? )は、幼い頃に出家し、比叡山で仏教を学びました。

天慶9年(946)天台座主、天徳2年(958)には僧上の位につき、朱雀・村上両天皇の

師となりました。

① 親鸞 ② 蓮如 ③蓮誓 ④延昌

問8 加賀市手塚町にある「首洗池」は、1183年の「篠原の戦い」で木曾義仲に

討ち取られた平家の武将( ? )の首を洗ったと伝わる池です。

①斎藤維盛 ②斎藤忠盛 ③斎藤清盛 ④斎藤実盛

問9 文明3年(1471)7月、本願寺8世( ? )が、吉崎御坊を作ると、浄土真宗が

北陸一円に広まりました。浄土真宗は白山信仰と並んで、当地の信仰心の核となって

いきました。

①蓮如 ②実如 ③覚如 ④蓮誓

問10 天正10年(1582)江沼郡は、丹羽長政の与力、( ? )が、4万4千石の領主と

して大聖寺城に入りました。彼が江沼郡を支配した期間は15年ほどですが、大聖寺の

城下町としての基本的な形は、この時につくられたものと考えられています。

①  丹羽長秀 ②溝口秀勝 ③山口玄蕃 ④前田利治

〈正解〉問1 ② 問2 ③ 問3 ④ 問4 ① 問5 ③ 問6 ① 問7 ④

    問8 ④ 問9 ① 問10 ②

みなさん、成績はどうでしたか?「加賀ふるさと検定」を受験される皆さんは、頑張って

くださいね!

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「加賀ふるさと検定」・実高1年生が全員受験します!!

2013年11月15日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

今年12月1日(日)に行われる第1回「加賀ふるさと検定申込期限が

迫ってきました。申し込み締め切りは、11月15日(金)です。

今回の加賀ふるさと検定」の問題作成には、わたしたち実高ふれ愛隊

特別協力させていただいてます。そして、本校の1年生113人が加賀ふるさと検定

に全員受験することになり、北國新聞11月14日朝刊で、記事にしていただきました。

また、わたしたち実高ふれ愛隊の写真をとっても大きく掲載していただきましたので、

ご紹介します。

1年生は、来週1週間、朝のスキルアップタイムの時間に、先生が作成される模擬試験に

挑戦して、本番に備えるそうです。「さ~て、何人が合格できるかな?」とっても見ものです。

主催者の方によると、今回は初級ということもあって、大体合格率50%をめどに問題が

作成されているそうですよ。

受験をされるみなさん、合格目指して頑張ってくださいね!

加賀ふるさと検定」ホームページ(加賀商工会議所)をリンクさせていただきました。

お申し込みがまだの方は、どうぞお急ぎください!!

「加賀ふるさと検定」ホームページ(←クリックしてください!!)

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平家物語『篠原の戦い絵詞』

2013年11月14日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

11月7日(木)の加賀市観光ボランティア大学15回講座 加賀の源平合戦

-木曾義仲・実盛・仏御前・義経-」で、平家物語で描かれている篠原の戦い

について、竹本利夫先生から教えていただきました。

今日ご紹介するのは、加賀市手塚町の「首洗池」に掲示されている『篠原の戦い絵詞

に書かれている「篠原の戦い」のお話です。

①1180年に源頼朝や木曾義仲らが挙兵すると、能登や加賀でも平氏の支配に不満を

もつ者たちがあいついで兵をあげました。

②1183年倶利伽羅峠で、平氏の大軍が義仲軍の奇襲をうけ大敗。勢いづいた源氏の

軍勢は、北國街道を手取川から能美、江沼へとおいかけました。

③平氏の軍勢は加賀篠原にかかる海浜の松林に陣を建て直し、義仲軍と決戦。義仲軍

の勢いは強く、しっかりとした布陣もできず四散。

④平氏の武将・斎藤実盛は、「この戦、もはやこれまで」と、赤地錦の直垂、黒糸威しの

冑で着飾り、さらに老武者とあなどられては武士の恥と白髪を黒く染めて出陣しました。

⑤敗走する平氏の軍勢の中で、ただ一騎踏みとどまった実盛は、義仲軍の武将、

手塚太郎光盛の呼びかけに応じ、切りあうこと数回、ついに手塚太郎の刀により

討ち取られてしまいました。

⑥手塚太郎光盛とその仲間、樋口次郎兼光は、高貴な衣装を身につけた黒髪の武将を

不思議に思い、近くの池で、その首を洗ってみました。それはまぎれもなく平家の武将

斎藤実盛の姿でした。

⑦驚いた光盛と兼光は、その首を木曾義仲に差し出しました。義仲は幼い頃、斎藤実盛に

命を助けられたことを思い、さめざめと涙を流しました。

⑧義仲は、実盛の亡骸を近くの松林に手厚く葬りました。かつての恩にすがることなく、

その名を秘して武士らしく立派な最期を遂げた実盛は、現在もなお多くの人々から畏敬の念

で慕われています。

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「加賀市の人物」(加賀ふるさと検定特別講座)

2013年11月13日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

11月10日(日)の加賀ふるさと検定・特別講座」で、講師の藪下昇一先生

(江沼地方史研究会会長)から、検定に向けた加賀市の人物」の勉強の仕方に

ついてアドバイスがありましたので、ご紹介させていただきます。

 130917poster

今回加賀ふるさと検定(初級編)」では、60問の出題のほとんどがテキストから

のものだそうです。テキストで紹介されている人物の数は全部で72人。

「あぁ、やんなっちゃうなぁ~」っていう数ですね。そこで、藪下先生は効率的に

勉強する方法として、「どのような人物であるか、分類して勉強するといいですよ!」

とアドバイスされました。そこで、72人の「加賀市の人物」を「何をした人か」で

分けてみました。

〈政治家・役人〉梅田五月・大塚志良・坂田英一・竹田儀一・宮永盛雄・

〈武 士〉市橋波江・小塚藤十郎・斎藤実盛・前田利治・前田利直・前田利鬯・

     前田利昌

〈産業人〉飛鳥井清・新家熊吉(2代)・石川嶂・岩原謙三・大澤五洲・柿沢理平・

    篠原藤平・清水孝平

〈軍 人〉磯村年・瓜生外吉・小栗孝三郎・草鹿任一・草鹿竜之介・辻政信

〈医者・医学博士〉稲坂謙吉・桂田富士郎・馬場健吉・本川弘一・渡邊卯三郎

〈学 者〉上杉慎吉・大幸勇吉・大田錦城・木村素衛・中谷宇吉郎・中谷治宇二郎・

     東方芝山・広田亥一郎・三森定男・宮本謙吾

〈お坊さん・宗教家〉延昌・小泉日慈・戸田城聖・明覚

〈文学者・芸術家・画家〉下口宗美・西出朝風・硲伊之助・広田百豊・深田久弥・

    森本仁平・藪内竹翠・山田宗美

〈北前船関連〉大家七平・久保彦兵衛(6代)・西出孫左衛門(11代)・廣海仁三郎(5世)

〈九谷焼関連〉浅井一亳・北出塔次郎・後藤才次郎・須田菁華(初代)・竹内吟秋

    塚谷竹軒・中村秋塘(初代)・吉田屋伝右衛門(4代)

〈山中漆器関連〉大下雪香・筑城良太郎

〈その他〉新家理与門・鹿野小四郎(初代)・北ヶ市市太郎・河野安通志・道官咲子

加賀市の人物」に、これほど立派な方がいたなんてビックリしました。

河野安通志(こうのあつし)という方は、大聖寺出身で、日本初のプロ野球チームを

つくった人なんですよ。みなさ~ん、もしよろしければこの分類を参考にして

加賀市の人物」を勉強してみて下さいね!

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「加賀市の方言」(加賀ふるさと検定特別講義)

2013年11月12日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

11月10日(日)の加賀ふるさと検定・特別講座」では、「加賀市の方言」に

ついてのお話を聞くことができました。

今回加賀ふるさと検定」では、テキストにない「加賀の民俗・祭礼・方言」にかんする

出題もいくつかあるそうで、講師の藪下昇一先生(江沼地方史研究会会長)からは、

その勉強の仕方についてのアドバイスがありました。

藪下先生は、「加賀市は多核都市で、方言も大聖寺・山中・山代・橋立では少し離れた

だけで違いがあります。最近では、古くからの方言を話す人が減っています。大事に

したいですね」とお話しされた上で、いくつかの加賀市の方言をご紹介されました。

〈状態をあらわす言葉〉

・「てんぽな」=たいへんな  ・「かさだかな」=おおげさな  ・「じらくさい」=「じらす」

ようなそぶり  ・「べんこ」な子=ませた子  ・「どぼどぼ」=ぬれているさま

・「つるつる」いっぱい=水が器にいっぱいでこぼれそうなさま

・「(ひ)ねくらしい」=大人びた  ・「むたむた」=ちらかったさま

〈きたない言葉〉

・「だら」=馬鹿  ・「はよ、しね」=早くしなさい  ・「どつまな」=訳の分からない

・「どんじゃいや」=どうなってるの

〈相手を敬う言葉〉

・「ござらっしゃった」=いらっしゃる  ・「さっしゃる」=尊敬の音変化

〈日常生活で使う言葉〉

・「よんべ」=昨晩  ・「あんか」=兄  ・「おっさ」=おじ  ・「ばんば」=祖母

・「こうびり」=おやつ

〈関西系〉

・「そやさかい」、「そやそや」、「どんじゃいや」

そして、「はんかくさい」という言葉は、実は北海道の方言が伝わったものだそうです。

藪下先生は、「『加賀市史(上巻)』や『大聖寺町史』の巻末を見て、方言を勉強する

といいですよ。」といわれていました。さぁ、みなさん、勉強頑張りましょうね!

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加賀ふるさと検定「特別講座」が開かれました!!

2013年11月11日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

11月10日(日)午前9時から加賀商工会議所2F大ホールで、12月1日に実施される

加賀ふるさと検定(初級編)」にむけた特別講座が開かれました。

今回わたしたち隊員は都合により参加できませんでしたので、顧問の先生からお聞き

したことをもとにご報告させていただきます。

今回の講座は、もともと商工会議所の3F会議室で行う予定だったものが、受講希望者が

予想をはるかに上回る60人を超えたため、急遽2F大ホールに変更になったそうです。

会場には今回の加賀ふるさと検定(初級編)」合格を目指す熱心な皆さんが、

早くから来場されて、テキストブックを手に予習されていました。

講義の内容は、「加賀の歴史編(古代~近世)」「加賀の近現代・産業・文化財編」

「加賀の人物・方言・自然編」の3部構成で、それぞれ山口隆治先生(郷土史家・文学博士)、

伊林永幸先生(郷土史家・大聖寺公民館長)、藪下昇一先生(江沼地方史研究会会長)の

お三人が担当されました。3人の先生ともに時間いっぱいまで、とってもわかりやすく

合格のポイントを押さえながら、解説をされていました。そして受講生の皆さんも

キーワードにアンダーラインを引きながら、一生懸命勉強されていましたよ。

今回の加賀ふるさと検定(初級編)」には、わたしたち実高ふれ愛隊も、出題に

特別協力させていただいています。受験の申し込み締め切りは11月15日(金)です。

まだ申し込みをしておいでない方も、ふるって受験して下さいね!!

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「篠原の戦い」ってどんな合戦だったのでしょうか?

2013年11月10日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

11月7日(木)の加賀市観光ボランティア大学15回講座 加賀の源平合戦

-木曾義仲・実盛・仏御前・義経-」で、講師の竹本利夫先生から、「篠原の戦い」に

ついて教えていただきました。

加賀市には、首洗池・実盛塚・木曾街道など源平合戦ゆかりの地や手塚町・源平町

など「源平合戦」と関係する地名が沢山あります。それでは、「篠原の戦い」って

一体どんな合戦だったのでしょうか?

篠原の戦いは、1183(寿永2)年6月22日、現在の加賀市篠原町で源義仲軍と平氏軍

との間で行われた合戦です。1180治承4年に以仁王(後白河法皇の息子)の平氏

追討の令旨(りょうじ)が出され、平氏に不満を持つ全国の武士が蜂起しました。

とくに信濃で挙兵した源(木曾)義仲はまたたく間に越後や北陸を平定し、その勢いが

まるで朝日が昇るようだったので、「旭将軍」と呼ばれるほどでした。そこで、平氏は

北陸に10万の兵を繰り出します。その際、加賀市黒崎町に源(木曾)義仲を迎え撃つ

ため、陣を張ったといわれ、今は松林となった一帯は「平陣野(へじんの)」と呼ばれます。

そして1183年6月2日、富山・石川県境の倶利伽羅で合戦が行われました。兵の数で劣る

源(木曾)義仲でしたが、人望があったのでしょう。地元の地形に詳しい武将の情報を得て、

巧みに夜中の戦いを仕掛け、有名な「火牛の計」で、平氏軍を総崩れにしたのでした。

篠原の戦いは、敗走する平氏軍を源(木曾)義仲軍が追撃し、篠原の地で平氏軍を捉えて

行われたものです。そのとき平氏軍はほとんど交戦能力を失い、惨憺(さんたん)たる

状態で逃げだし、義仲軍の圧勝でした。

そのような中で、勇敢にも最後まで戦った平氏の武将が斎藤実盛(さねもり、1111~83)

だったのです。自陣が総崩れする中、最後尾の守備を引き受けた奮戦ぶりは、『平家物語』や

『源平盛衰記』で描かれ、実盛が義仲が2才の時に、木曾へ逃がした恩人であった逸話は

世阿弥の能『実盛』に伝えられました。

手塚町の「首洗池」は、そんな斎藤実盛の首を洗った池であるといわれています。

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南加賀の源平合戦・3つのおはなし

2013年11月09日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

11月7日(木)1930分から加賀市民会館で、加賀市観光ボランティア大学

15回講座 加賀の源平合戦-木曾義仲・実盛・仏御前・義経-が開かれました。

今回の講師は加賀市観光ボランティア大学学長の竹本利夫先生でした。

加賀市には、首洗池・実盛塚・木曾街道など源平合戦ゆかりの地が沢山あります。

そして「源平合戦」って、とっても有名なお話なのですが、今から800年も前のこと

ですので、わたしたちは、「そもそも源平合戦って何なのか?」意外と知らないのです。

そこで竹本先生は、「源平合戦はなぜ起きたのか」「源頼朝VS木曾義仲の理由」

「実盛ってどんな人」「義仲と義経の共通性」などの説明もくわえながら、南加賀の

源平合戦についてお話しいただきました。

歴史は推理とロマンです。今伝えられている源平合戦の逸話はどこまで史実なのか

はっきりしないそうですが、『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『義経(ぎけい」)記』

や能『安宅』・『実盛』、歌舞伎『勧進帳』で語られている源平合戦は、

とっても人間味があって、魅力的です。

ところで、石川県一長い手取川の名前って、源氏が平家と戦う際、流れが速い川を

渡るために、兵が手と手を取って渡ったことに由来していたことを、みなさんご存じですか?

竹本先生には、とってもわかりやすい資料をもとに、スライドを使って講義していただき

ました。加賀に伝わる「木曾義仲や実盛の物語」「義経の物語」「仏御前の物語」など、

3つのおはなしを中心に、明日からこのブログでご紹介させていただきますので、

よろしくお願いしま~す!

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尼御前岬から日本海をのぞむ!

2013年11月08日 | 日記

隊員NO.2ゆきちで~す

わたしたちは11月5日(火)の課題研究の時間、とても天気が良かったので、

美岬町の尼御前岬に行って、晩秋の日本海を見てくることにしました。

尼御前岬に出かける前には、近くの橋立漁港に立ち寄りました。この日は

ちょうど今年のズワイガニ漁解禁の前日でした。「早くおいしいカニが食べたいなぁ」

って話をしながら、港を見学しました。

尼御前岬には、とっても美しい尼御前という女の方の銅像が建っていました。そして、

像の前の説明には、尼御前岬の由来が書かれていました。

尼御前には、次のような伝説があります。その昔、源義経主従が都から逃れて陸奥の国

に向かう途中、この地まで来ましたが、従者の中にいた一人の尼がこの先の(歌舞伎の

「勧進帳」で有名な)安宅の関の取り締まりが厳しいことを聞き及び、主君の足手まといに

なることを憂えて深く意を決し、主君の無事を祈ってこの岩頭から身を投じました。この尼の

名が尼御前といい、それ以来いつしかこの岬を尼御前岬と呼ぶようになったといいます。」

とっても悲しいお話ですね。

わたしたちは岬の突端までいって、美しい日本海を見ました。「お~い!」

海はとてもキレイでしたが、風は強く、岬の岩肌に波しぶきが上がっていました。

冬になったら日本海の荒波がどんどん岬に打ちつけるのでしょうね。

岬のすぐ横には、北陸自動車道の尼御前SAがあって、歩けばすぐに岬からの素晴らしい

眺めを見ることができます。北陸自動車道を通られる際には、是非一度SAを出て

尼御前岬に足を運んでみてくださいね!

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おみやげにど~ぞ!幸栄堂の「金沢雅(みやび)」

2013年11月07日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

今日は、11月5日(火)の課題研究の時間に加賀市観光の玄関口・加賀温泉駅前に

ある「アビオシティ加賀」で見つけたすてきなお菓子についてご紹介します。

それは、加賀市宇谷町にある菓子メーカー・幸栄堂の「金沢雅(みやび)」という

お菓子です。

加賀市の特産である香ばしい加賀棒茶を練り込み、じっくりと炊き上げた餡に

能登の大納言を入れ上品な甘さに仕上げられています。そして豆の形に

かたどられた饅頭の生地には、金沢の工芸の金箔があしらわれ、古都金沢を

イメージしています。

この「金沢雅」は、今年広島県で行われた第26回全国菓子大博覧会において、

約1万点の応募の中で、最終審査に残った750点のうち、150点だけが選ばれる

最高賞・名誉総裁賞を受賞したお菓子なのです。そしてこの「金沢雅」は、10月まで

「JALたべまっし!石川・福井キャンペーン」のプレゼント商品にもなっていたそうです。

さっそく、わたしたちも試食してみましたが、加賀棒茶の風味がして、ほんのり甘く、

とっても加賀らしい上品な味わいのお菓子でした。

加賀市はおみやげ用お菓子を製造する一大産地です。加賀市観光においでた皆さん、

加賀のおいしいお菓子を加賀市観光の記念に是非お買い求め下さい!!

(取材にあたっては、アビオシティ加賀の担当者の方に特別に許可をいただきました。

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職人の技です!山中漆器加飾挽き

2013年11月06日 | 日記

隊員NO.6れいなで~す

11月2日(土)に山中うるし座で行われた「JAPAN漆YAMANAKA」で、

わたしたちは山中漆器の木地師の皆さんの素晴らしい技に感動しました。

木の堅さって決して一様ではないので、その時々の手触りで、木地師の方々は

削り方を瞬時に変えているとお聞きしてビックリでした。

漆器というと「漆塗り」のイメージがあるのですが、今回わたしたちは、山中

木地師が長い年月をかけて培ってきた木地挽きの技術について調べました。

山中うるしに併設する山中漆器産業技術センターの展示室には、挽物の製作の

際に使われる「加飾挽(かしょくび)き」についての解説がありました。

加飾挽き」とは、木地を轆轤(ろくろ)に固定して、回転させながら削ることによって

つくられるさまざまな模様や技法のことをいいます。環状・渦状・飛状(とびじょう)などの

種類があって、一つひとつ使う道具や加工方法が違うそうです。そして、いろんな道具や

加工方法を組み合わせることによって無限の模様を生み出すことができるのです。

加飾挽き」は、江戸の安政年間(1854~60年)に蓑屋平兵衛という人が糸目挽きを

考案したことにはじまりました。そして明治末期には筑城良太郎が42種類ものひき筋を

開発したといわれています。

展示室にはこれらのさまざまな「加飾挽き」が紹介されていました。「加飾挽き」は、

その後の漆を塗る工程で鉋(かんな)の切れ味の差がはっきりと表れるので、加飾を

入れる間は、途中で道具を研がず、一気に仕上げる技術が必要なのだそうです。

木地師の皆さんが使われている鉋は、すべてご自身が手作りされます。そして鉋は

職人の皆さんにとっては自分の手の延長のようなものだそうです。

木地師のみなさんは職人としての誇りをかけて、回転する木地に全神経を集中し、

刃を立てて挽く一本一本に魂を注ぎ込んでいるのですね。

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山中木地挽物「人間国宝」川北良造さん

2013年11月05日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

11月2日(土)に「JAPAN漆YAMANAKA」が開催された「山中うるし座」で、

ろくろ体験」をさせていただきました。

山中温泉は、木地職人の規模や質、生産量において、間違いなく日本一といえます。

 「山中木地挽物」は、芸術的に価値が高く、平成22年4月には石川県指定無形文化財

に指定されました。そして山中木地挽物」を象徴する存在といえるのが、平成6年に

「人間国宝」(重要無形文化財保持者)に認定された川北良造先生です。川北先生は

山中町に在住されて、現在も 「山中木地挽物」の第一人者としてご活躍されています。

職人の皆さんは口々に「その匠の技はもちろんのこと、人間性や地域への貢献度など、

「人間国宝」にふさわしいすばらしい先生です。」とおっしゃってました。

わたしたちは、ろくろ体験」の際に、川北先生にお会いして、記念撮影をさせていただき

ました。「人間国宝」の方とお会いして、握手していただけるなんて、ビックリでした。

川北良造先生については、昨年せりか先輩が、先生の講演をお聞きして、記事にされて

いますので、再録させていただきます。川北良造先生の世界をご紹介させていただいて

いますので、みなさん、下のタイトルをクリックして、どうぞお読み下さい!

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「山中漆器・川北良造さんの世界と東山神社」

2012年7月22日 「人間国宝・川北良造さんの心」

    7月23日 「人間国宝・川北良造さんの心(2)」

    7月24日 「人間国宝・川北良造さんの心(3)」

    7月25日 「人間国宝・川北良造さんの心(4)」

    7月26日 「人間国宝・川北良造さんの心(5)」

    7月27日 「人間国宝・川北良造さんの世界」

    10月13日 「東山神社・山中漆器と惟喬(これたか)親王」

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山中木地挽物(ひきもの)・木を削る快感

2013年11月04日 | 日記

隊員NO.3ゆかぴで~す

11月2日(土)に行われた「JAPAN漆YAMANAKA」でのろくろ体験」について

ご報告しま~す!!

わたしたち実高ふれ愛隊のメンバー・いぶ、ゆかぴ、いくの、れいなの4人は、

山中漆器連合協同組合所属する木地師のみなさんに先生になっていただき、

初めて山中木地挽物にチャレンジしました。

わたしの先生は山中の木地師としては、もっとも若手の戸田勝利さんでした。

戸田さんは現在34歳で、5年前にお父さんの跡を継いで、木地師の世界に入った

そうです。戸田さんは外挽き鉋(かんな)の使い方や轆轤(ろくろ)を回転させるペダルの

操作について、とっても丁寧に教えてくださいました。

右のペダルを踏むと、轆轤が手前に回転します。そして左のペダルを踏むと逆回転です。

木地に外挽き鉋をあて、右脇に鉋を固定させながら、刃先を下げ、左から右へと操作

します。ペダルを踏んで、鉋を木地にあてると、またたく間に木が削れて、木くずがたまり、

木地がお椀の形に近づいていきます。木地に鉋があたったときの音や手に伝わって

くる快感は何ともいえません。

外側の形が出来上がった後、戸田さんが高台の部分を作ってくださり、わたしは

そこに、「DY」と彫刻刀でサインを刻みました。これでD(大聖寺実業)・Y(ゆかぴ)の

作品の完成です!内側の成形はわたしたちには難しいので、戸田さんをはじめ、

木地師の方々がしてくださいます。わたしたちが製作したお椀は、木地師の皆さんが、

乾燥させ、漆を塗って、学校に届けてくださるそうです。「早く届かないかなぁ~!」

今回わたしたちにご指導下さった木地師の戸田さん、宮本さん、向出さん、寺西さん、

本当にありがとうございました。今回の「ろくろ体験」のことはわたしたち、

ずっ~と忘れません!!

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