実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「篠原の戦い」ってどんな合戦だったのでしょうか?

2013年11月10日 | 日記

隊員NO.1いぶで~す

11月7日(木)の加賀市観光ボランティア大学15回講座 加賀の源平合戦

-木曾義仲・実盛・仏御前・義経-」で、講師の竹本利夫先生から、「篠原の戦い」に

ついて教えていただきました。

加賀市には、首洗池・実盛塚・木曾街道など源平合戦ゆかりの地や手塚町・源平町

など「源平合戦」と関係する地名が沢山あります。それでは、「篠原の戦い」って

一体どんな合戦だったのでしょうか?

篠原の戦いは、1183(寿永2)年6月22日、現在の加賀市篠原町で源義仲軍と平氏軍

との間で行われた合戦です。1180治承4年に以仁王(後白河法皇の息子)の平氏

追討の令旨(りょうじ)が出され、平氏に不満を持つ全国の武士が蜂起しました。

とくに信濃で挙兵した源(木曾)義仲はまたたく間に越後や北陸を平定し、その勢いが

まるで朝日が昇るようだったので、「旭将軍」と呼ばれるほどでした。そこで、平氏は

北陸に10万の兵を繰り出します。その際、加賀市黒崎町に源(木曾)義仲を迎え撃つ

ため、陣を張ったといわれ、今は松林となった一帯は「平陣野(へじんの)」と呼ばれます。

そして1183年6月2日、富山・石川県境の倶利伽羅で合戦が行われました。兵の数で劣る

源(木曾)義仲でしたが、人望があったのでしょう。地元の地形に詳しい武将の情報を得て、

巧みに夜中の戦いを仕掛け、有名な「火牛の計」で、平氏軍を総崩れにしたのでした。

篠原の戦いは、敗走する平氏軍を源(木曾)義仲軍が追撃し、篠原の地で平氏軍を捉えて

行われたものです。そのとき平氏軍はほとんど交戦能力を失い、惨憺(さんたん)たる

状態で逃げだし、義仲軍の圧勝でした。

そのような中で、勇敢にも最後まで戦った平氏の武将が斎藤実盛(さねもり、1111~83)

だったのです。自陣が総崩れする中、最後尾の守備を引き受けた奮戦ぶりは、『平家物語』や

『源平盛衰記』で描かれ、実盛が義仲が2才の時に、木曾へ逃がした恩人であった逸話は

世阿弥の能『実盛』に伝えられました。

手塚町の「首洗池」は、そんな斎藤実盛の首を洗った池であるといわれています。

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