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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

サマルカンドへ ロング・マルシュ 長く歩くⅡ

2023-04-09 20:21:48 | ヨーロッパ旅行記

 

サマルカンドへ ロング・マルシュ 長く歩くⅡ
ベルナール・オリヴィエ 著
内藤伸夫 渡辺純 訳
藤原書店 発行
2016年7月10日 初版第1刷発行

62歳のフランス人男性が、2000年にトルコ東端からイランを横断し、トルクメニスタンを通りウズベキスタンのサマルカンドに、ほぼ徒歩で至った旅の記録です。
この前後にはイスタンブールから出発し、西安まで歩き、最終的にシルクロードを制覇しています。
結構な歳の方が歩くだけでも凄いのに、自然の脅威や社会的にも危険な土地柄、そして信用できない警察や国境の役人に対して立ち向かう姿にはさらに敬服させられます。
自分はテレビの町ぶら番組が好きで、その中でも日本国内の四国八十八ヶ所や芭蕉の奥の細道を歩いてめぐる番組、まさしくロング・マルシュ番組を視聴して、なおかつ憧れているのですが、まず体力からして持ちそうにないのが残念です。
 

1 嵐
廃位された国王と同じ名前だった人
イランの革命の後、大学を去らね場ならず、長距離トラックの運転手となる。
フランスでは、40年のフィリップたち(ヴィシー政権のフィリップ・ペタン元帥にちなむ)は、その名前のせいでこれほどの辛酸をなめる必要はなかった。p38

2 バザール

 

3 キャラバンサライ
キャラバン用の館の伝統は、二十五世紀前からアレクサンドロス大王に征服されるまでにこの地を支配したアケメネス朝にさかのぼる。
もとは郵便用の宿駅だったが、その後商人やさまざまな宗教の信者の宿泊地となる。

4 渇き

5 泥棒警官
泥棒警官にカメラを盗まれる筆者

6 テヘラン
トルクメニスタンのビザの取得、砂漠横断のための小さな荷車(表紙の写真)の制作、新たなカメラの受け取りを何とか行う
 

7 砂漠
一部を車で移動
2000年6月29日 セムナーンで徒歩旅行再開

サッカーのユーロカップ決勝をホテルで観戦する筆者たち
フランスの逆転優勝
(自分はパリにいた時にこの試合を見て、フランス勝利後夜のパリの街をさまよった思い出があります)

8 芸術家たち

 

9 タリヤーク
タリヤークとは阿片のこと
麻薬が蔓延するイラン

10 サヴァク
サヴァクとはシャーの時代に忌み嫌われていた警察
革命後その警察を再利用するムッラー

ホメイニを受け入れたからフランス人は好きだが、イラン・イラク戦争の時イランを爆撃したのはフランスの飛行機だった。p174

11 巡礼者たち
三百万以上の人口を数えるイラン第二の都市マシュハドのすごいところは、何よりも毎年千五百万人の巡礼が九世紀にひと房の葡萄で毒殺された第八代イマームのレザーの墓にお参りにやってくることにある。p289

 

12 国境
イラン社会でわかったことは、偉人や聖人の廟を訪れるのはごく普通のことだが、それはムッラーたちの乱暴で息のつまる権力に対して距離を置いていることを表現できるからなのだ。p296

イランで驚くべきことは、自然の国境がなく、波瀾の歴史を経てきたにもかかわらず、統一性を保持できたということである。p300

13 トルクメン人
旧共産党幹部であったサバルムラト・ニヤゾフはTKPトルクメニスタン共産党という略語の一文字を変えてTDPトルクメニスタン民主党、にしただけである。それ以外、何も変わったものはなく、党が莫大な富を握り続け、党を率いていた特権階級がいまも変わらずその地位にある。
そしてニヤゾフに対する個人崇拝は古今の例をしのぐ。p322

トルクメン人とウスベク人はロシア語に対する独立性を確認する意味でラテン文字を採用したが、それでもロシア語がトルクメン人、ウスベク人、タジク人、キルギス人が使う中央アジアの本当の共通語である。p328

 

14 カラクム
カラクム砂漠
人が神の声を聞いたのは、常に砂漠のことだったといわれる。
生命の跡すらなく、人間は圧倒されるほかないこの無辺の世界では、神の力、救いの手を差し伸べてくれる力という考えにすがるのは慰めである。p355

15 ブハラ

16 サマルカンドの青い空
変化の渦中にあるウズベキスタン
ロシア人は国外に移住している。公式言語はウスベク語
宗教は往時の繁栄ぶりを取り戻しているが、アフガニスタンのタリバンの侵入を警戒している。p421


独仏国境の街ケールの教会

2023-04-02 06:48:17 | ヨーロッパ旅行記

 

ドイツの国境の街ケールのプロテスタント教会です。
以前に紹介した母なるキンツィヒの記念碑と同じくマルクト広場に建てられています。
名称はドイツ語なのでよくわからないのですが、Googleマップを見ると福音教会や平和教会という訳になっていました。
ケールの街は1683年にストラスブールの橋頭堡として、かのヴォーバンの手により要塞化されたそうですが、この教会は要塞の土台の上に建てられているそうです。
1847年9月24日に礎石が据えられ、1851年7月27日に奉献されました。
その後三度の戦争、とすると普仏戦争、第一次、第二次世界大戦でしょうか、を経験しますが、比較的に無傷だったようです。
激戦地だったと思うのですが、建物自体の被害が少なかったのは奇跡的なことに思えます。
過去の壮絶な歴史をくぐり抜け、現在は独仏の平和な青空のもと、広場にたたずむ人たちを静かに見つめ続けています。

(主にGoogleマップの自動翻訳されたクチコミを参考にしました)

 


柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通

2023-03-25 07:56:57 | ヨーロッパ旅行記

 

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通
田中正明 編
昌文社 発行
2005年6月25日 初版

柳田國男が旅先から家族にあてた絵葉書の全容です。
国内篇は、明治二十三年から昭和二十六年にわたって投函された126葉。国外篇は、大正六年の台湾・中国への旅、および大正十一年から十三年の間に国際連盟統治委員会委員として滞欧した先々から投函された144葉です。

柳田民俗学のかくし味 鶴見和子(社会学) 
柳田民俗学のかくし味とは、柳田が心の中に隠し持たれたヨーロッパ体験の準拠枠である。p8
(柳田民俗学は一国民俗学といわれているが、ヨーロッパ体験はそのかくし味というより、民俗学が本当の学問になるための基盤になったような気がします)

 

国内篇
宛名を「孝子」としている。孝が本名で、遊び心が「子」を加えさせたものであろうか。同様な心情は三穂・千枝・三千・千津の四人の女児にもはたらいたようで、千津を除いてその例を認めることができる。 
なお“穂”とか“千”といった文字を用いたのは、柳田の“田”に合わせたもので、父國男の発想であった。p70 

『故郷七十年』より
一旦帰京してまたすぐ旅に出ようとした時、次女が病気で入院した。普段あまり文句をいわない養父から、この時だけは、「こんな時ぐらい旅行を止めたらどうか」といわれたので、さすがの私もすっかりへこたれてしまった。「秋風帖」の旅がたしか大正九年の十月で、それから一ヵ月ぐらいぼそぼそして家に居り、十二月末に九州の旅に出たのである。p72
(へこたれて、ぼそぼそして家に居り、という表現が面白いです)

 

国外篇
「本場の広東料理」より
日本はこれ迄種々のものを支那から学べるにも拘わらず、食事においてはとうてい支那と手をとって並び得なかったのは如何なるわけであろうか。自分は幾度か其の理由を見出だそうとして能わなかったが一言を以て云えば鰹節の束縛と云おうか、若しくはお茶のデスボジションと云おうか。日本の料理はサッと煮てサッと出す方が多い反対に、あちらの料理の一貫している原則は煮すぎなのである。p165

1921年6月、ニューヨークからフランスのブーローニュ=シュル=メールに入港し、イギリスには寄らなかった。ブーローニュから五時間ほどの汽車の旅でパリに到達p188-189

アナトール・フランスの著作には、特別な関心を持っていた。「ブランデスアナトールフランス論を読んでしまう」「アナトール・フランスのバルタザルも一読し了る」「アナトールフランスのタイスを英仏両文にて読みはじめ面白い為に外のことをせず」などと記されている。p191

 

滞欧時にはたくさんの本を収集して日本に送ったことが知られている。高橋治「柳田国男の洋書体験一九〇〇ー一九三〇」に詳しい。

1921年9月ストラスブールにて
「国際聯盟の発達」の中で「私は昨年九月末ナンシーから上アルザスを経て瑞西に帰った。此の辺も戦争中は肉弾戦の行われたに相違なく、その荒廃も仏国の戦場に等しいものがあったのに町の近くの道には人の往来が繁く野原に遊ぶ牛馬の群れは旅人に平和な感を与えていた。」p217

1922年6月、スエズにて
網干の中川欽之助に仏供送ることを絵葉書で依頼p237


1922年10月19日の絵葉書
イギリスのラファエル前派の画家ロセッティによる「見よ、われは主のはした女なり」ロンドン、テイト・ギャラリー
「此絵はロンドンの国立絵画館の神品にて日本にてもよく知られたる聖母夢想の図に候 右の端にある紅いツイ立てやうのも何ともいへずよい色に候」p262
(受胎告知系統の絵画にこのような作品があったのですね。構図といい、シンプルな服装や背景といい、何ともいえない聖母マリア様の表情といい、凄い新鮮で衝撃を受けました。まさに「神品」です。現代的な解釈による作品と言えます。柳田さんは右下の赤い衝立の色に感心していますが、確かにそこだけ妙に目立っていますね)

1923年2月ソルレント(ソレント)より
「帰れソレントへ」の歌で知られている
詩人トルクワート・タッソー(1544-95)、イタリア・バロック期の最大の詩人の生まれたところp275
(ゲーテがタッソーについて書いていました)

絵はがきの心 柳田冨美子(柳田國男長男為正未亡人)

 

編者解説 柳田國男 旅と絵葉書
柳田は一生の間に、何回くらい旅をしたのであろうか
『柳田國男写真集』の「年譜 旅の足跡」によると138回
ただし海外旅行と保養のための家族旅行は省いているので、実際はこれを凌駕している。
また一回ごとの旅の日数が長い。一週間から十日間は普通で、月を跨いで続けたり、旅先で年末年始を迎えることも一再ではなかった。p316-317
 

美しいウクライナの景色 (「私たちの東欧記」より)

2023-03-19 06:19:02 | ヨーロッパ旅行記

「私たちの東欧記」の中に、美しいウクライナの景色を美しい、夢のような文章で表現した箇所がありましたので、ウクライナに平和が戻る願いを込めて、引用させていただきます。最後はオチがついていて、ちょっと笑ってしまいますが。


ウクライナの景色
さっきから汽車は同じところを走っているらしい。窓の外は一時間前と同じ景色がまだ続いている。線路はまっすぐで、全然まがっていない。
線路の両側にはひょろひょろとよく伸びたポプラの木が二、三メートルおきに植えられ、まるで緑の屏風のように立っていた。この木は風よけのためにあるのだろうか。それとも、何かほかの目的のためにあるのだろうか。
ポプラのむこうは果てしなく続く麦畑だった。地平線まで、さえぎるものは何もない。刈り入れ前の麦の穂先が風に波打っているだけだ。ソ連の穀倉ときかされてきたウクライナはまさに黄金の大洋だった。
見はるかす大海原をわたしたちの船は一直線に走っていく。たまに視界に入ってくるのは刈り入れのコンバインで、漁船のように見える。漁船は一すじの線を残してすすんでいく。その線は地平線までつづく、長い長い線であった。
麦畑がおわって、つぎにあらわれたのは、ひまわりの畑だ。映画『ひまわり』のあのシーン。今、わたしは本物のひまわり畑を見ているのだ。真夏のグリーンのなかに、まるい黄色の点々があざやかに目にとびこんでくる。ぎらぎらした太陽に敢然とむかって咲き誇っている大輪のひまわりは、さながら天に向かって輝く地上の星であった。
その先は、とうもろこし畑。しなやかにのびた茎から、幾重にも細長い葉っぱが波のかたちをなしてさがっていた。その葉のつけ根のところに、うすみどりの髪をたらした若い実が宿っている。
汽車の窓からのながめといえば、「まわり灯籠の絵のように」かわるものとしか知らなかったわたしに、地球的規模でひろがるウクライナの畑は、まさに豊穣の海そのものに映った。
うっとりと眺めるわたしのとなりで声がした。
「ねえ、おかあさん、あのとうもろこし、一本もいできて、焼いておしょうゆつけて食べたらおいしいやろなぁ」
子どもの言葉はいつもわたしを夢から現実の世界につれもどす。

 


私たちの東欧記 ソビエトからブルガリアへ

2023-03-18 13:13:55 | ヨーロッパ旅行記

 

私たちの東欧記 ソビエトからブルガリアへ
藤本ますみ 著
日本放送出版協会 発行
昭和56年3月20日 第1刷発行

35歳で勤めをやめた母と6歳の娘による、舫(もや)い旅を記録した本です。1974年の夏、日本からシベリア鉄道によってモスクワまで行き、そこからウクライナを通ってブルガリアまで行きます。そしてブルガリアでエスペラント語の語学講座に参加します。
著者のご夫婦で特徴的なことは、夫がエスペランティストだったことと、ご本人が梅棹忠夫先生のもとで八年間秘書をしていたことでしょうか。それらもこの旅を決行させる要因になったようです。
旅の中で交わされる、親子の会話が柔らかい関西弁(京都弁)なのが、読んでいてほっこりします。

 

Ⅰ シベリア鉄道の旅
当時のブルガリアは一般の人の外国流行はきびしく制限していた。そこでエスペランチストの文通友達に滞在費負担で「招待」してもらい、その代わり、友達にもブルガリアに来てもらって、そのときは自分が一切の面倒をみることにした。そうすれば、どちらも損得なしのお互い様だ。p5
エスペラントはいわば地球市民のもっている共通の鍵なのである。p6

1974年6月29日、横浜港からソ連船バイカル号に乗る。
船内のサロンでソ連入国の手続きが始まっている。バイカル号はすでにソ連国内なのだ。

バイカル号はナホトカに上陸し、そこから汽車に乗ってハバロフスクに出て、そこでウラジオストクからくる汽車に乗った。

 

Ⅱ モスクワからソフィアへ
ウクライナのキエフ(キーウ)のエスペラントクラブに出席する藤本さん。日本語の漢字について説明する。日本語はたいへん面白い、難しい、謎のような、神秘的な言葉だという感想。
それに対し、漢字は魔法の言葉で、それを発明したのは、魔法使いですと相槌をうつ著者。p127

ソ連国境の駅、ウンゲニで、本やノートや大切な手帳を検査官に取り上げられる藤本親子。
焦って混乱して、子どもを列車内に残して、駅構内をさ迷うお母さん。
しかしやはり思い直して列車内に戻ると、子どもは泣きじゃくっていた。「さみしかったの、わたし。おかあさんのばか、ばか、ばか」と、ところかまわず母の体を叩く子ども。
子どものいうとおり、わたしは馬鹿な母親であった。
十分もした頃、検査官が戻ってきて、取り上げたものをベッドの上に次々投げ出す。
結局、検査官は取り調べのために、いったん品物を持ち去っただけのことたった。
なんでこんなつまらんことをして、人の気持ちをひっかきまわさなならんのやろか、と怒る藤本さん。

 

駅名表示板のMOARA VLASIEI(最後のAは上に点)
モアラ・ヴラスィエイと読むのかな。
それにしても、とてもすっきりした看板だな、ともう一度ゆっくりながめる。そして、やっと気がついた。
「ここはルーマニアだ。キリル文字の国じゃないんだ」
この二週間、ソ連の看板やメニューばかり見てきたわたしの目には、ここの看板はたいそう、あっさりして見える。p155

 

Ⅲ 私たちの東欧記
四ヶ月から半年、子どもと二人だけで旅行することを不審がるブルガリアやポーランドの人々。夫婦が不仲か、女房のわがままかと疑う。
夫婦や恋人同士ならお客の前でも普通に寄り添っている人々。

ブルガリアの晴天続きの夏
六、七、八月は麦刈りがあるし、ひまわり、とうもろこし、ぶとうが熟するときだから、カッとお日さまに照ってもらわなければ困る。畑にはスプリンクラーがついていて水まきができるから、一ヵ月位雨が降らなくても大丈夫。それに夏は黒海に太陽をもとめてくる人が多いから、雨なんて降ってもらったら困る。p213

エスペラントの授業中で海水浴場の絵を見て藤本さんは海水浴がひらめくのに、ほかの人はいっせいに日光浴といった。日本人と北ヨーロッパの違いかと思ったが、太陽がふんだんにあるブルガリア人も同じく日光浴だった。p215

遠足の時にもらったお弁当
大きなサラミ一切れやきゅうりやトマト、そしてブルガリアパン
ルーマニアのモアラ駅でもおじいさんが同じような朝食を食べていた。
チェコスロバキアやポーランドの女性は不満そうだが、藤本さんはひどいものだと思えなかった。
あと塩と大きいカップを持っていけば、大丈夫だ。

 

なぜブルガリアがエスペラント語に力を入れ、普及をすすめるようになったのか?
第二次世界大戦でブルガリアが日独伊三国同盟に加わると、ソ連はブルガリアに宣戦布告し、ソ連赤軍が侵入してきた。政府軍はこれを迎えて戦ったが、国内の共産党を中心とするパルチザンたちはひそかにソ連軍側につき、ファシスト政権を敵にまわして戦った。その時のパルチザン軍の仲間にエスペランチストたちも加わり、勇敢に戦ってファシスト政権を倒し、パルチザンを勝利に導いた。これによってパルチザンたちは祖国戦線政府をうちたて、1946年9月、国民投票を行い王制廃止を決め、「ブルガリア人民共和国」を成立させた。
パルチザンとして戦ったエスペランチストの中にも新政府の要職につく者が出てきて、ブルガリア国内にエスペラントの普及をはかるよう努力した。p231

定住ジプシーの一角を訪問する藤本夫妻
黒ずんだ廃墟のようなたたずまいで、近寄りがたい雰囲気
ジプシーは夫妻が村に戻りかけると、ぞろぞろとついてきた。しかし、この先には村の人家があるというところまでくるとピタリと足をとめ、そこで自分たちの家のほうへ戻っていった。まるで村へは足をふみこまない、決めてあるみたいだった。

 

ポーランドはエスペラントの創始者ザメンホフの生まれた国である。1859年、ワルシャワの東北の町ビアウィストクで生まれたユダヤ人だった。この町は当時ロシア領で、人口の七割を占めるユダヤ人、そのほかポーランド人、ロシア人、ドイツ人、リトアニア人、タタール人などが住んでいた。人々はお互いに言葉が通じないために、誤解や行きちがいを起こし、争いが絶えず、ついには流血騒ぎになることもしばしばであった。
異なる民族が話し合うためには、どれかひとつの民族の言葉ではなく、どの民族にも属さない言葉にしなければならない。そう思ったザメンホフ少年は自分でその言葉の試案をつくり、学校友達や弟に教えたり、自分で翻訳してみたり、実際に使えるかどうかを何回も試してみた。
何年にもわたって修正を重ね、ついに1887年、彼は「国際語」を発表した。ただしそのときは創案者の名前としてザメンホフを名乗らず「エスペラント博士」という匿名を使った。それで後になってこの言葉は「エスペラントの言葉」といわれるようになり、やがて「エスペラント」と呼ばれるようになった。p255-256

ポーランドでは妊娠している女性や赤ちゃんを抱いている女性は特別扱いで、列に並ばなくてもいいことになっている。p261
(日本ても少子化対策のために、真似してみてはどうか)