ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ロシア万華鏡 社会・文学・芸術

2023-11-29 20:57:03 | ヨーロッパあれこれ

ロシア万華鏡

社会・文学・芸術

沼野恭子 著

五柳書院 発行

2020年3月31日 初版発行

 

この本は、2007年よりおよそ十年間に書きためた、ロシアに関する文章をまとめたものです。

現在から見ると、まだロシアの風通しのよかった時代だったなあと感じてしまうのが、哀しいです。

 

第一章 社会編

ラジオ・ジャパンのロシア語放送の特別番組で国立民族学博物館の加藤九作さんにインタビューした筆者

大佛次郎賞を受賞した『天の蛇』に心打たれたから。

アイヌ語や宮古方言の優れた研究をしたニコライ・ネフスキーという悲劇の日本研究者の評伝

(柳田国男と深いつながりがあったロシア人です)

 

料理が順番にゆっくり運ばれてくる給仕法はフランス由来と思いがちだが、実はもともとはロシア式セルヴィスと呼ばれ、19世紀末、そちらの方が合理的だと判断したフランス人シェフによってフランスにもたらされたものだった。

 

ウズベキスタンの三不思議

・アヴァンギャルド作品の美術館

・やたら札束が必要になる

・報道の自由が制限されている独裁国家にもかかわらずにこやかに笑っている人が多い

 

お茶が普及する以前のロシアの国民的飲料は「ズビーチェニ」。「蜂蜜湯」とも訳される。

 

ロシア最古の酒は、ウォッカではなく蜜酒

 

ロシアで空間的な「異郷」のエキゾティシズムを漂わせた飲み物といえば「馬乳酒(クムィス)」

馬乳を発酵させて作るため三パーセント程度の弱いアルコール分と酸味

 

第二章 文学編

ロシア文学の題名の意訳に成功した例

サミュエル・マルシャークの童話劇『十二月』を、湯浅芳子が『森は生きている』と名付けた。

 

聖愚者(ユロージヴイ)とは?

正教会において「キリストのために」狂人を装い、さすらいながら修行する者のことで、しばしば自ら首や手足に重い枷や鎖をつけ、裸足にぼろをまとって歩き回った。

第三章 芸術編

イワン・クラムスコイ『忘れえぬ女(ひと)』

霧にかすむぺテルブルグで、最新モードに身を包んだ高貴なたたずまいの女性

実は彼女は高級娼婦であるのは間違いないらしい。1883年作。トルストイの小説、アンナ・カレーニナが発表されて数年後の作品。

 

ギターを爪弾きながら歌う詩人、ブラート・オクジャワ(1924-97)

(個人的には五木寛之の対談集で名前を知り、ロシアの声の日本語放送にリクエストし、曲をかけてもらった思い出があります)

 

20世紀後半のソ連で一世を風靡した「歌う詩人」のことを、ロシア語ではケルト語由来のバルドという言葉で表す。

ソ連時代の一群の「歌う詩人」たちに共通しているのは、何よりも自分の詩に自分でメロディをつけて、ギターを爪弾きながら歌ったことである。

 

バルドたちの歌が広まった技術的な理由として、1950年代から60年代にかけて家庭用カセットテープが急速に普及したことだ。

当時のソ連社会にとってカセットテープは、おそらく中世のグーテンベルグの活版印刷技術や現代のインターネットの普及に匹敵するような革命的な技術革新だった。


アッティラ大王とフン族 神の鞭と呼ばれた男

2023-11-28 20:46:12 | ヨーロッパあれこれ

アッティラ大王とフン族

神の鞭と呼ばれた男

カタリン・エッシャー

ヤロスラフ・レベディンスキー 著

新保良明 訳

講談社 発行

2011年7月10日 第一刷発行

 

再びアッティラおよびフン族に関する本です。

本書の目的は、史料のみに基づいて、アッティラとその生涯、彼の治世、その行動を、可能な限り正確に提示することにある、とのことです。

フン全史について知りたい人は、『フン族の歴史』(1973年)、ボナの『フン族、ヨーロッパの大蛮族帝国』(2002年)を読んでください、とのことです。

 

アッティラ以前のフン族小史

 

第一章 史料

アッティラの同時代史料は四つのカテゴリーに分類される。

・歴史家ににして外交官、唯一の現場の目撃者であるプリスクスの著作の残存する断片

・簡潔だが中立的な叙述の年代記

・教会史関連史料

・文学作品

 

1948年、E.A.トンプソンは『フン族 謎の古代帝国の興亡史』の最初に、なぜ考古学がアッティラとフンの理解に役立たないかを説明した。

トンプソンから八年後、考古学に対するペシミズムは、ヴェルナーの業績『アッティラ帝国の考古学に関する研究』(1956)によって覆された。

 

アッティラに関連する三つのタイプの考古学の知見

・フン「王」の埋葬品

・蛮族支配地域での多量のローマ貨幣

・アッティラの戦闘行為の考古学的痕跡

 

第二章 アッティラの生涯 史料に記されている事実

アッティラはブレダとともにルガ王を継いだ時、初めて史料に登場する。

 

ブレダとアッティラの共同統治(435-444)

ブレダの死(444ないし445)

アッティラの単独統治(444あるいは445-453)

 

第三章 人物

アッティラは衝動的にというよりは計算的に行動していたことは議論の余地はない。

 

アッティラの事例が特異なのは、発見した剣を牛飼いがフン王に届けるや、ただちに王が、これは戦の神が持っていた剣だと言明した点にある。

彼の意識においては、その剣は崇拝の対象というより唯一なる護符にして正当性の象徴だった。

 

アッティラの宮廷には占い師がいて、未来の予言をしていた。

 

第四章 君主

アッティラの同時代人が感じた彼の権力の未曾有性とは、領土の広大さ、あるいは服属する民族の数、ではなく、フン帝国そのものに対する彼の権力の独占性にあったものと思われる。

 

強調すべき点は、逃亡兵と投降兵の問題、すなわちフン帝国民のローマ領への逃亡問題の重大さである。

アッティラは先王たちと同様に、定期的に逃亡兵引き渡しを要求し、応じなければ戦争になると脅迫した。

 

アッティラが征服者でなかったことは、これまであまり強調されなかった。

アッティラの治世下にはフンの領土はたいして拡大しなかった。

 

第五章 外交家アッティラ

アッティラとコンスタンティノープル政府との関係は途切れることなく緊密だったが、総じて険悪だった。

この関係の一定の原則は

・アッティラは高位の大使としか交渉しなかった。

・アッティラの方からもコンスタンティノープルに何度も使節団を送っている。

・アッティラは強要し脅迫した

・フンが非難する問題は常に同じ、すなわち先立つ戦争の後で取り決められた貢納金の支払いと逃亡兵の引き渡しである。

 

アッティラと西ローマとの関係は、東ローマとの関係とは非常に異なっており、明らかにより良好だった。もっとも、逆説的なことに、結局は451-452のガリアとイタリアでの二つの大戦争にいたるのだが。

 

第六章 大将軍アッティラ

アッティラ軍は「多国籍」部隊の混成軍

三つのグループ

・フン族

・東ゴート族とゲビド族が大多数を占めるゲルマン人

・アラン人とサルマタイ人

 

アッティラ軍は古代遊牧民やゲルマン人が苦手だった攻城戦を行った。攻城機械を用いただけでなく、それを作製した。

 

451年のガリア戦役は、大将軍としても君主としてもアッティラの経歴の一大転機となった。

 

オルレアン市は、西ゴート領の要にあたる、ロワール川にかかる橋のために重要性を有する街であった。

おそらくこの都市は、後の六世紀にトゥールのグレゴリウスが言及している河川交易によって、すでに当時から栄えていた。

 

オルレアンの戦いのあと、東に撤退したアッティラ軍は、トロワ付近で踵を返し、敵軍と真正面から向き合った。

その「マクリアクス」あるいは「カタラウヌムの野」はトロワから7.5㎞の西方の平原である。

 

アッティラのイタリア戦役(452年)はガリアでの失地回復の試みだった。

その戦争の三つの局面

・フンのイタリア侵入とアクィレイア包囲

・ポー川平原への侵入

・アッティラを退却に至らせた交渉

 

イタリアでのフンの苦戦の理由

・東ローマからのアエティウスへの援軍派遣

・イタリアに進駐したフン軍を襲った伝染病

・東ローマ軍によるフン本土の攻撃

 

第七章 アッティラの死

アッティラは鼻血による窒息死といわれるが、暗殺説もある。可能性のある首謀者、その動機、計画実行のチャンスを見つけ出すことはできるにしろ、何一つとして明らかにすることはできない。犯罪があったとすれば完全犯罪である。

 

アッティラの墓は、おそらくまだ発見できていない。ここで「おそらく」というのは、彼の墓だと断定できるのかどうか、またできるとすればそれはいかにして可能かどうかが問われることになるからだ。

 

アッティラの死後の名声は、逆説的なことに彼の死がその帝国とフン族自体に終焉を告げたとこに起因している。

 

第八章 アッティラの神話

古くからの三つの伝承

・西洋キリスト教世界によるアッティラの悪魔化。神の鞭

・大陸系とスカンディナヴィア系の二つのゲルマン叙事詩があたえる対照的なイメージ

・ハンガリーの民族神話

ハンガリーの場合は、フン族の子孫であるとみなされ、後にはみずからもその子孫であると称した人々によって創設された神話

現代のハンガリーにおいてはフンの神話はもはや史実とみなされていない。

 

アッティラに関して今日流布している主たる誤解と誤りの数々

・ローマ宮廷の人質としてのアッティラ

・名称不明の神の名

・アッティラの中国への旅

・西洋文明の破壊者、アジア人アッティラ

・アッティラのヨーロッパプロジェクト

 

結論

フン帝国の真の構造的弱点は、二重の意味での寄生であった。

支配民族フンの支配下の民族への寄生と、支配者層によって代表されるこの広大な「蛮族」全体のローマ帝国の、中でも東ローマへの寄生である。

 

アッティラは巧みな外交家とはいえないのではないか。

第一級の強請の達人ではあったが、長期ビジョンよりも場当たり主義がまさっていた。

 

それでもその短い治世を通じてアッティラは、自らの資質と歴史上のコンテクスト(文脈、背景)に合致したことにより、プリスクスの言うところの「蛮族」の代名詞となり、時代のシンボルとしてその時代に画するに足る歴史上の一人となった。

 

付録 プリスクス『断片』八の全文

 


教養としてのゲーテ入門「ウェルテルの悩み」から「ファウスト」まで

2023-11-23 20:40:02 | ヨーロッパあれこれ

 

教養としてのゲーテ入門

「ウェルテルの悩み」から「ファウスト」まで

仲正昌樹 著

新潮社

2017年1月15日 発行

 

第一章 ウェルテルの「悩み」とは?

『若きウェルテルの悩み』は書簡体小説という形式をとる

 

第二章 人間関係における「親和力」とは?

「親和力」というタイトルは、最先端の知である科学の法則のような厳密さで、一般的には情念によって突き動かされる非合理の領域とみなされてきた恋愛を分析し、その法則を解明することを試みる、というスタンスを表明している。この科学的スタンスは、作品の随所で暗示されている。

 

第三章 「教養小説」における「教養」とは

『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』

教養小説というジャンルの模範とみなされている小説

教養というよりも、人格形成の意味合いが強くなる。主人公が(市民)社会の中で様々な体験を積みながら、人格を形成する過程を長期にわたって描くことが特徴

村上春樹の作品も、主人公の内面や世界観の変化に焦点を当てているという面で教養小説的であると見ることができる。

 

ヨーロッパの中世では、演劇は、カトリックなどの儀礼に付随する宗教演劇、あるいは民衆中心の祝祭の一部、旅芸人や吟遊詩人による大衆演芸などとして、分散した形で発展した。

専門的に職業化された俳優が登場し、一座を結成し、常設劇場で芝居が演じられるようになるのは、16世紀に入ってからである。p97

 

ドイツ語圏では18世紀後半以降「秘密結社小説」と呼ばれるジャンルが発展した。

「秘密結社」が文学の素材としてたびたび取り上げられるようになった背景として、現実にフリーメイソン、イルミナティ、薔薇十字団などの秘密結社がドイツ語圏での活動を拡大したことがある。p129

 

第四章 諦念の文学

『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』

この小説が中心がどこにあるか見えにくい、様々な小物語の集合体の様相を呈しているのは、ヴィルヘルム親子に課せられた、遍歴修業のルールに起因している。三日以上同じ屋根の下に留まってはいけないというルール。しかも宿を移るときは、前の宿から1マイル以上距離を取らねばならない。

 

第五章 近代の悪魔

戯曲『ファウスト』

悪魔を名乗る存在と契約し、「契約」を結ぶところから物語が展開していく。

三つの暗示

・悪魔というのは、学者ファウストの心の闇が実体化したものかもしれない

・伝説のファウストが代表する錬金術と、戯曲の主人公ファウストが代表する、近代的自然科学の「連続性」の問題

・近代的貨幣と錬金術との間の「連続性」という問題

 

第六章 ファウストが見出したもの

 

終章 ゲーテに何を期待すべきが

 

ゲーテの受容で中心的な役割を果たしたのは森鷗外である。

日本近代文学の形成において、鷗外がドイツのゲーテに相当する役割を果たした。

 

 


エマニュエル・マクロン フランス大統領に上り詰めた完璧な青年

2023-11-22 20:52:35 | フランス物語

 

エマニュエル・マクロン

フランスの大統領に上り詰めた完璧な青年

アンヌ・フルダ 著

加藤かおり 訳

プレジデント社 発行

2018年4月1日 第1刷発行

 

フン族のアッティラの次は、フランスのマクロン大統領です。

われながらすごいギャップですね。

 

プロローグ そして”マニュ”は夢を見た・・・

”突然変異体”マクロン

 

第一章 ”神の子”

第一子の死産から一年ほどで生まれてきたエマニュエル

 

エマニュエルの言葉「金融の世界はタフだが、そこではいくつかの規則が守られている。しかし、政治の世界に禁じ手はない」p44

 

第二章 マニュとマネット、「愛するのはあなただけ」

祖母のジェルメーヌ・ノゲスはマネットと呼ばれた。

祖母と孫エ「マニュ」エルは、お互いを選んだ。特別な絆

 

第三章 生きること、愛すること

30代、フランス語の教師、子持ち、相手は演劇クラブで指導している男子生徒、舞台はフランスの田舎町、不安に駆られる両親、汚されたモラル・・・

1969年のガブリエル・ルシエの悲劇と共通点のあるマクロンとブリジットの恋物語

一方はカップルの一人が愛のために死を選び、もう一方は共に生き、愛し合おうと決めた。

 

第四章 生涯唯一の女性、ブリジット

マクロンはブリジットこそが自分にとっての”選ばれしひと””生涯で唯一の人”であることをわかっていた。

 

エマニュエルはこの結婚を通じて、既に存在していた家族をまるごと引き受けることにもなった。

ブリジットの家族は当初、二人が付き合うことに強固に反対していたが、エマニュエルは彼らと少しずつ距離を縮め、最終的には信頼を勝ち取ることに成功した。

七人いるブリジットの孫はエマニュエルの子どもであってもおかしくない年齢で、この若いお祖父ちゃんを”ダディー”と呼んでいる。

 

ストラスブールの国立行政学院(ENA)のレオポール・セダール・サンゴール期生のマクロン

(ENAでは伝統的に入学時に自分たちの学年に自由に名前を付ける。サンゴールはセネガルの初代大統領で詩人)p104

 

ブリジットはエマニュエルといっしょにスカイダイビングをするため、飛行機に乗り込んだ。それもパラシュートなしで。彼女は運命と、そして人とは違う人生と結婚したのだ。p110

 

ブリジットは「フランス人はカップルに投票する」傾向を意識し、必要があれば進んで人前に出ることを厭わない。

(そういえばフランスの県議会選挙は男女カップルで立候補するシステムでしたね)

 

第五章 エマニュエル・マクロンと文学

 

第六章 人を魅了する力

マクロンは直接会って話をするという手法をよく使う。対話を試みることはマクロンの癖であり、彼が師と仰ぐ哲学者、ポール・リクールの教えの一つを具体的に実践する方法でもある。

 

マクロンは相手を魅了して手に入れるという行為を、女性を次々とたらし込む性的なものとしてではなく、自分はすごいのだという自信を確認し続ける手段として捉えているドン・ファンだ。

 

マクロンはオワーズ県庁の研修で10点満点を得たが、満点をもらったのは140人の研修生の内たった三人で、彼の場合は評定書にこんなコメントまで付いていた。”類まれなカリスマ性をそなえた学生である”。

 

第七章 代父と兄たち

マクロンは実父の他に父代わりとなる人物を次々に得ていった。そうした人々は彼にとって指導者であり、マクロンは彼らの一部を、如才なく愛情をこめて”兄”と呼ぶ。

 

第八章 ”システムの申し子”の家庭風景 ジャン=ピエール、ジャック、アラン、ダヴィド

ジャン=ピエール・ジュイエ・・・高級官僚、政治家

ジャック・アタリ・・・欧州復興銀行元総裁

アラン・マンク・・・裏で糸を引くパリの実力者

ダヴィド・ド・ロチルド・・・パリ・ロチルド(ロスチャイルド)家第五代当主

 

第九章 社交界とセレブたちとの交流

マクロンは自分の実績や失敗を訴求力の強いストーリーテリングに落とし込み、キャリアにおいても私生活においても勤労と確固とした意志を通じてつねに常識に挑戦し、旧習を打破しようとしてきた人物像を作り上げた。

 

セレブ雑誌界の”陰の女帝”である”ミミ・マルシャン”がマクロン夫妻の写真を管理している。

 

2016年、マクロンはオルレアンのジャンヌ・ダルク祭りの総合ディレクターを務めた。p230

 

第十章 政界の未確認飛行物体(UFO)

マクロンの祖母マネットが亡くなったことを伝えられたオランド大統領は「お祖母さんを亡くすことはつらいことだ。私も自分の祖母を亡くしてつらかった」という陳腐な言葉をかけた。

マクロンはその時、オランドが鈍重な人間だと理解した。

言葉一つで政治家の運命は変わるものなのだ。

 

追記 若き成功者としての大統領

ガラスのピラミッド前での勝利集会

このピラミッドは、かつてミッテランが各界の伝統を重んじる人から上がった、悲鳴にも似た反対の声を無視して造らせた建造物だった。

 

ヴェルサイユ宮殿内の最大の部屋をマクロンとプーチンが並んで延々と歩く演出

300年前、ロシアのピョートル大帝がヴェルサイユ宮殿を訪れ、当時七歳だった少年王、ルイ15世に心奪われた。

自分がフランスの歴史を受け継ぐもので、さらにヨーロッパの指導者となりうる存在だとさりげなく主張した。

 


フン族 謎の古代帝国の興亡史(後半)

2023-11-20 20:13:14 | ヨーロッパあれこれ

第六章 アッティラの敗北

Ⅰ アッティラ、アエティウス、西ローマ帝国

Ⅱ ガリア侵入以前の出来事

451年のガリア侵入と452年のイタリア侵入

Ⅲ ガリアから撃退

フン族は気勢をあげてオルレアンを包囲し、撤退を迫る同盟軍が来ないうちにその領内に入った。

しかしアッティラは当時のカタラウヌム平原、現在のおそらくシャンパーニュ全域、へ撤退する。

Ⅳ フン族のイタリアでの失敗

教皇レオ1世を使節団長とする使節団と和解するアッティラ

アッティラがイタリアを離れたのは使節団のおかげではなく、イタリアの疫病や飢饉のためか?

Ⅴ アッティラの死

453年、アッティラは夜遅くまで飲んだ後、ひどく出した鼻血で睡眠中に窒息死した

(アッティラは高血圧だったのだろうか?)

Ⅵ フン族の瓦解

アッティラの死後、息子たちは被支配諸国を自分たちのあいだで平等に分割した。

彼らは父が支配した領土を分割したのではなく、その領土を占めていた諸部族を分けた。

Ⅶ 新たな遊牧民、東ヨーロッパへ流入

ステップは大勢の新手の好戦的な遊牧民蛮族にあふれていた。フン族はあわれな残存しか残らなかった。

 

第七章 アッティラ治世下のフン族社会

Ⅰ フン族の富の増大

アッティラは平時においてもまったく独裁的ハーンだった。

Ⅱ 服属諸民族の搾取

Ⅲ フン族社会の女性

Ⅳ アッティラの地位

アッティラだけに家臣がいたのは、王が家臣に十分な報酬を与えられるからだ。

フン族の宴会での飲み物はワインであったが、その後数種のゲルマン族のビールにも馴染むようになった。

Ⅴ 交易

Ⅵ フン帝国瓦解の要因

フン族社会弱体化の最も直接の原因は、大規模な征服がもたらしたフン族軍事力の大分散だった。

 

第八章 ローマの外交政策とフン族

Ⅰ プリスクスの社会的考察

Ⅱ テオドシウス帝諸大臣に対する同時代人の批評

Ⅲ 元老院議員、フン族への貢納金支払に反対

Ⅳ 軍事的に困難な遊牧民攻撃

Ⅴ テオドシス帝の歴史的伝統政策

 

第九章 結論

Ⅰ アッティラの偉大さの限界

アッティラは祖先の支配から既成もしくはそれに近い帝国を受け継いでいた。

モムゼン曰く、アッティラの最大の業績は、フン族社会内の中央権力を強化したこと

Ⅱ ローマ帝国のフン族支援

Ⅲ フン族とヨーロッパ史

フン族はヨーロッパの発展に直接寄与しなかった。

ゲルマン諸民族を絶滅させ、ローマ帝国へ逃亡させた恐怖以外提供するものはなかった。

 

後記(ピーター・ヒーサー)

トンプソンはとりわけアッティラが天才的指導者であり、その個人資質のみで、フン帝国の突然の興隆と劇的な崩壊の原因となったという意見の仮面を剥ぐことに努めた。p245

 

補遺A フン族の歌

補遺B 441年戦争の諸原因

補遺C ヴァリプス

補遺D 441-443年の軍事行動

補遺E 449-450年に関する年代学的注釈

447年 アッティラの東ローマ帝国侵略

448年 アナトリウスの和平交渉

449年 懸案の諸問題がコンスタンティノープルでエデコ、アッティラの本陣で、マクシミヌスによりそれぞれ論じられる。

450年 アナトリウスとノムスによる完全な平和解決の調停

補遺F アッティラの本陣の位置

補遺G ゴート語と推定されるフン人名

 

訳者あとがき

本書はフン族が黒海以北の東ゴート大部隊をはじめて撃破した375年から、453年、アッティラ王の死後中央ヨーロッパから姿を消していく、強大なフン帝国瓦解に至るまでのフン族の歴史である。

著者はアッティラの偉大さはフン族社会への潜在力への際立った洞察力にあったとする反面、その軍事的才幹と外交的手腕については、さまざまな理由を挙げて認めてない。