アッティラ大王とフン族
神の鞭と呼ばれた男
カタリン・エッシャー
ヤロスラフ・レベディンスキー 著
新保良明 訳
講談社 発行
2011年7月10日 第一刷発行
再びアッティラおよびフン族に関する本です。
本書の目的は、史料のみに基づいて、アッティラとその生涯、彼の治世、その行動を、可能な限り正確に提示することにある、とのことです。
フン全史について知りたい人は、『フン族の歴史』(1973年)、ボナの『フン族、ヨーロッパの大蛮族帝国』(2002年)を読んでください、とのことです。
アッティラ以前のフン族小史
第一章 史料
アッティラの同時代史料は四つのカテゴリーに分類される。
・歴史家ににして外交官、唯一の現場の目撃者であるプリスクスの著作の残存する断片
・簡潔だが中立的な叙述の年代記
・教会史関連史料
・文学作品
1948年、E.A.トンプソンは『フン族 謎の古代帝国の興亡史』の最初に、なぜ考古学がアッティラとフンの理解に役立たないかを説明した。
トンプソンから八年後、考古学に対するペシミズムは、ヴェルナーの業績『アッティラ帝国の考古学に関する研究』(1956)によって覆された。
アッティラに関連する三つのタイプの考古学の知見
・フン「王」の埋葬品
・蛮族支配地域での多量のローマ貨幣
・アッティラの戦闘行為の考古学的痕跡
第二章 アッティラの生涯 史料に記されている事実
アッティラはブレダとともにルガ王を継いだ時、初めて史料に登場する。
ブレダとアッティラの共同統治(435-444)
ブレダの死(444ないし445)
アッティラの単独統治(444あるいは445-453)
第三章 人物
アッティラは衝動的にというよりは計算的に行動していたことは議論の余地はない。
アッティラの事例が特異なのは、発見した剣を牛飼いがフン王に届けるや、ただちに王が、これは戦の神が持っていた剣だと言明した点にある。
彼の意識においては、その剣は崇拝の対象というより唯一なる護符にして正当性の象徴だった。
アッティラの宮廷には占い師がいて、未来の予言をしていた。
第四章 君主
アッティラの同時代人が感じた彼の権力の未曾有性とは、領土の広大さ、あるいは服属する民族の数、ではなく、フン帝国そのものに対する彼の権力の独占性にあったものと思われる。
強調すべき点は、逃亡兵と投降兵の問題、すなわちフン帝国民のローマ領への逃亡問題の重大さである。
アッティラは先王たちと同様に、定期的に逃亡兵引き渡しを要求し、応じなければ戦争になると脅迫した。
アッティラが征服者でなかったことは、これまであまり強調されなかった。
アッティラの治世下にはフンの領土はたいして拡大しなかった。
第五章 外交家アッティラ
アッティラとコンスタンティノープル政府との関係は途切れることなく緊密だったが、総じて険悪だった。
この関係の一定の原則は
・アッティラは高位の大使としか交渉しなかった。
・アッティラの方からもコンスタンティノープルに何度も使節団を送っている。
・アッティラは強要し脅迫した
・フンが非難する問題は常に同じ、すなわち先立つ戦争の後で取り決められた貢納金の支払いと逃亡兵の引き渡しである。
アッティラと西ローマとの関係は、東ローマとの関係とは非常に異なっており、明らかにより良好だった。もっとも、逆説的なことに、結局は451-452のガリアとイタリアでの二つの大戦争にいたるのだが。
第六章 大将軍アッティラ
アッティラ軍は「多国籍」部隊の混成軍
三つのグループ
・フン族
・東ゴート族とゲビド族が大多数を占めるゲルマン人
・アラン人とサルマタイ人
アッティラ軍は古代遊牧民やゲルマン人が苦手だった攻城戦を行った。攻城機械を用いただけでなく、それを作製した。
451年のガリア戦役は、大将軍としても君主としてもアッティラの経歴の一大転機となった。
オルレアン市は、西ゴート領の要にあたる、ロワール川にかかる橋のために重要性を有する街であった。
おそらくこの都市は、後の六世紀にトゥールのグレゴリウスが言及している河川交易によって、すでに当時から栄えていた。
オルレアンの戦いのあと、東に撤退したアッティラ軍は、トロワ付近で踵を返し、敵軍と真正面から向き合った。
その「マクリアクス」あるいは「カタラウヌムの野」はトロワから7.5㎞の西方の平原である。
アッティラのイタリア戦役(452年)はガリアでの失地回復の試みだった。
その戦争の三つの局面
・フンのイタリア侵入とアクィレイア包囲
・ポー川平原への侵入
・アッティラを退却に至らせた交渉
イタリアでのフンの苦戦の理由
・東ローマからのアエティウスへの援軍派遣
・イタリアに進駐したフン軍を襲った伝染病
・東ローマ軍によるフン本土の攻撃
第七章 アッティラの死
アッティラは鼻血による窒息死といわれるが、暗殺説もある。可能性のある首謀者、その動機、計画実行のチャンスを見つけ出すことはできるにしろ、何一つとして明らかにすることはできない。犯罪があったとすれば完全犯罪である。
アッティラの墓は、おそらくまだ発見できていない。ここで「おそらく」というのは、彼の墓だと断定できるのかどうか、またできるとすればそれはいかにして可能かどうかが問われることになるからだ。
アッティラの死後の名声は、逆説的なことに彼の死がその帝国とフン族自体に終焉を告げたとこに起因している。
第八章 アッティラの神話
古くからの三つの伝承
・西洋キリスト教世界によるアッティラの悪魔化。神の鞭
・大陸系とスカンディナヴィア系の二つのゲルマン叙事詩があたえる対照的なイメージ
・ハンガリーの民族神話
ハンガリーの場合は、フン族の子孫であるとみなされ、後にはみずからもその子孫であると称した人々によって創設された神話
現代のハンガリーにおいてはフンの神話はもはや史実とみなされていない。
アッティラに関して今日流布している主たる誤解と誤りの数々
・ローマ宮廷の人質としてのアッティラ
・名称不明の神の名
・アッティラの中国への旅
・西洋文明の破壊者、アジア人アッティラ
・アッティラのヨーロッパプロジェクト
結論
フン帝国の真の構造的弱点は、二重の意味での寄生であった。
支配民族フンの支配下の民族への寄生と、支配者層によって代表されるこの広大な「蛮族」全体のローマ帝国の、中でも東ローマへの寄生である。
アッティラは巧みな外交家とはいえないのではないか。
第一級の強請の達人ではあったが、長期ビジョンよりも場当たり主義がまさっていた。
それでもその短い治世を通じてアッティラは、自らの資質と歴史上のコンテクスト(文脈、背景)に合致したことにより、プリスクスの言うところの「蛮族」の代名詞となり、時代のシンボルとしてその時代に画するに足る歴史上の一人となった。
付録 プリスクス『断片』八の全文