ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ヨーロッパ大学都市への旅 学歴文明の夜明け

2023-03-26 13:59:03 | ヨーロッパあれこれ

 

ヨーロッパ大学都市への旅
学歴文明の夜明け
横尾壮英 著
リクルート出版部 発行
昭和60年10月20日 初版第1刷発行

中世のヨーロッパの大学に興味を持ったきっかけは、「大世界史7 中世の光と影」(堀米庸三 著 文藝春秋)でした。その中でアレクサンダー・ネッカムという若者が、1177年、イングランドからドーバー海峡を越えてパリに着き、そこの大学で学ぶ姿が描かれていました。
今までヨーロッパ中世の大学や学生の姿を断片的に書かれた本は読んできましたが、一冊にまとめた本はこれが初めてです。

 

Ⅰ 大学への道
昔の学問や教育には旅がつきものであった。
そうした長い道のりをこなして目的地に着く時、学生が見出だしたものは、それまでほとんど経験したことのないヘテロジニアス(異質な、異種の)な世界であったろう。p12
さまざまな形の放浪や遍歴は、中世社会の一種のエートス(習慣・特性)であった。しかしそれも、大学史の観点からすれば、特に13世紀まで濃厚に見られる反面、14世紀以降は希薄になっていく。大学人に著しい定住の傾向が見られていく。

中世の大学への道の困難
・自然の障壁
・金の問題。奨学制度などは未発達
・ラテン語の習得 p23

 

Ⅱ カルチェ・ラタン
法学ではボローニャほか、神学ではパリほか、医学ではモンペリエなどがその権威と名声を誇っていた。p35

ヨーロッパの中世大学は、修道院と違い、巷間を拠り所としていた。

カルチェ・ラタンはまず若い学生や教師が数多くいた。彼らの多くは他国者だった。そしてラテン語が幅をきかせていた。
そして中世大学は最初、土地も建物もない人間だけの大学だった。

パリのカルチェ・ラタンで、教場がたくさんある通りとして知られたのは、「麦わら通り」であった。学生が麦わらの束を買い込んで教場に持ち込んでいた。p43

教会や修道院を借用する以外に、固有の集会の場を持たなかった大学団としては、実質的にも名目的にもタベルナ(飯屋ないし飲み屋)を利用する理由を持っていたのでは?p55

 

Ⅲ 寝ぐら
当時仲間どうしで一軒の家を借りる合宿(ホスピキウム)が一番ポピュラーだった。
そしてその後、学寮という形態を取るようになってきた。

1180年、パリ大学ができはじめた頃、十八人学寮ができた。学生用の寝ぐらが、ある個人によって寄贈されるという慣わし。p63

学寮は修道院というサンプルがあった。学寮の発達は修道院のルネサンスをも意味する。p84-85

 

Ⅳ 他国者のギルド
中世大学以上に国際的な大学の時代はなかったと言ってよい。
しかし、大学が国際的であるということは、国際的でしかないということではない。
中世大学で最も重要な集団の単位となったのは、国民団(ネイション)と呼ばれるものであった。それは出身地を同じくするものが相互の利益を守るために大学のなかで結成した基本的な集団。p88

国民団の代表=国民団長

カルツァー=学生牢

 

Ⅴ 大学の金庫
中世大学の収入源
・ブルサと呼ばれた一種の割当金
・学位の取得に伴って受領者が出した金
・役職者に選ばれた者が出さされた金
・違反者が納めた科料
・寄付
・借金

アルカやキスタと呼ばれる大学の金庫
形は日本の長持に似て、いくつもカギがついている。
別々の人たちにカギを持たせて、開ける時はみんなで立ち会う

中世の教会の学校では無料で教えていた。
しかしその後、学生から教師に払われる金(コレクタ)を集めるようになり、更に俸給をもらって授業する官吏的教師像が台頭してくる。

 

Ⅵ 大学の裏方たち
ビードル
大学の総長を先導して彼の権威の象徴の職杖を捧げもつ者

出納係、書籍商、羊皮紙と紙の業者、ヌンティウス(使いの者)

Ⅶ 学長
ヨーロッパの大陸部の大学では、レクトールという言葉が大学という集団の長を指すものとして定着した。
教師の中だけでなく、学生の中から選ばれることもあった。

 

Ⅷ 年期 資格への旅 
学位を与えるとか、もらうというしきたりは、12世紀頃から始まったもので、それ以前には、学位というものも、大学というものもなかった。p173

本来講座とは背の高い椅子のことでしかない。p176
教師は椅子にかけて講義するから、その椅子は彼の聖なる職場であり仕事の象徴でもある。p177

ラテン語や法律などの知識を得た、大学を出た者、あるいは大学に籍をおいていた者が、聖俗の両方で、高位高官をはじめとする、新しいヒエラルキーの中で活躍の場を見出だしたのが、中世末の社会現象であった。p183

ヨーロッパの中世大学というのは、学問する者を集団として受け入れ、定められた時間帯の中で、定められた知的内容に関して学ばせる、という方式を新しく発見し確定した。p185

 

Ⅸ 引越し 大学の旅
大学の大きな移動として歴史上最後の例となったのは、1409年のプラハ大学の分裂、つまりライプチヒその他への移動であって、それまでの二世紀余は、大いなる移動の時代だった。p194

中世大学の引越しの原因
・地元との喧嘩(パリやオックスフォードなど)
・思想・信仰の対立
・ペストなど疫病の流行

 

Ⅹ お墨付 ローマへの旅
大学団と都市との契約で大学は自由に出現した。
13世紀の段階では、イタリアでもフランスでもイギリスでもスペインでも、大学の設立権は都市にあるとみなされていた。
しかし神聖ローマ皇帝のフリードリヒ二世は、人為的あるいは政策的に、自分の町ナポリに大学を作ることにした。
そのあとすぐに、ローマ教皇の手でトゥールーズの大学や、ローマの教皇庁の大学が作られた。p208

ヨーロッパの各地における大学の新設による現象
・大学のパターンの伝播
 ボローニャは学生大学の祖となり、パリは教師大学の祖となる
 それぞれがアルプスの南と北の諸大学に影響を及ぼす
 法学部はボローニャの、神学部にはパリの息がかかった
・学生の旅路の変化

 

旅のあとに
ヨーロッパの大学は、もともと作者不詳、読み人知らずの産物であった。
それはメタンガスのようにぶくぶくと、青春のにきびのようにおのずから12世紀の社会に生まれた。
青春のにきびとは、文明のにきびだ。歴史の体内に貯えられたエネルギーがひそかに発酵したあと、いくつかの条件で露出した。
その後中世大学は
学ぶ者の集団化→学ぶシステムの開発→学ぶ施設の確保
という歴史を展開した。
教皇や皇帝のお墨付きが必要で、教授も官吏化し、学生も大学の増加で地元の大学に行く。
こうして大学は時とともに国境の中に自己を閉じ、国内を主な活動の場とする傾向が、中世大学の後半、特に14世紀以後からはっきりしてくる。
ラテン語も日常的には国語にとって代わられる。
(冒頭に書いた、十二世紀、ネッカムらが学んだ時代の大学になぜ魅力を感じたかが、理解できたような気がします)
 
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柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通

2023-03-25 07:56:57 | ヨーロッパ旅行記

 

柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通
田中正明 編
昌文社 発行
2005年6月25日 初版

柳田國男が旅先から家族にあてた絵葉書の全容です。
国内篇は、明治二十三年から昭和二十六年にわたって投函された126葉。国外篇は、大正六年の台湾・中国への旅、および大正十一年から十三年の間に国際連盟統治委員会委員として滞欧した先々から投函された144葉です。

柳田民俗学のかくし味 鶴見和子(社会学) 
柳田民俗学のかくし味とは、柳田が心の中に隠し持たれたヨーロッパ体験の準拠枠である。p8
(柳田民俗学は一国民俗学といわれているが、ヨーロッパ体験はそのかくし味というより、民俗学が本当の学問になるための基盤になったような気がします)

 

国内篇
宛名を「孝子」としている。孝が本名で、遊び心が「子」を加えさせたものであろうか。同様な心情は三穂・千枝・三千・千津の四人の女児にもはたらいたようで、千津を除いてその例を認めることができる。 
なお“穂”とか“千”といった文字を用いたのは、柳田の“田”に合わせたもので、父國男の発想であった。p70 

『故郷七十年』より
一旦帰京してまたすぐ旅に出ようとした時、次女が病気で入院した。普段あまり文句をいわない養父から、この時だけは、「こんな時ぐらい旅行を止めたらどうか」といわれたので、さすがの私もすっかりへこたれてしまった。「秋風帖」の旅がたしか大正九年の十月で、それから一ヵ月ぐらいぼそぼそして家に居り、十二月末に九州の旅に出たのである。p72
(へこたれて、ぼそぼそして家に居り、という表現が面白いです)

 

国外篇
「本場の広東料理」より
日本はこれ迄種々のものを支那から学べるにも拘わらず、食事においてはとうてい支那と手をとって並び得なかったのは如何なるわけであろうか。自分は幾度か其の理由を見出だそうとして能わなかったが一言を以て云えば鰹節の束縛と云おうか、若しくはお茶のデスボジションと云おうか。日本の料理はサッと煮てサッと出す方が多い反対に、あちらの料理の一貫している原則は煮すぎなのである。p165

1921年6月、ニューヨークからフランスのブーローニュ=シュル=メールに入港し、イギリスには寄らなかった。ブーローニュから五時間ほどの汽車の旅でパリに到達p188-189

アナトール・フランスの著作には、特別な関心を持っていた。「ブランデスアナトールフランス論を読んでしまう」「アナトール・フランスのバルタザルも一読し了る」「アナトールフランスのタイスを英仏両文にて読みはじめ面白い為に外のことをせず」などと記されている。p191

 

滞欧時にはたくさんの本を収集して日本に送ったことが知られている。高橋治「柳田国男の洋書体験一九〇〇ー一九三〇」に詳しい。

1921年9月ストラスブールにて
「国際聯盟の発達」の中で「私は昨年九月末ナンシーから上アルザスを経て瑞西に帰った。此の辺も戦争中は肉弾戦の行われたに相違なく、その荒廃も仏国の戦場に等しいものがあったのに町の近くの道には人の往来が繁く野原に遊ぶ牛馬の群れは旅人に平和な感を与えていた。」p217

1922年6月、スエズにて
網干の中川欽之助に仏供送ることを絵葉書で依頼p237


1922年10月19日の絵葉書
イギリスのラファエル前派の画家ロセッティによる「見よ、われは主のはした女なり」ロンドン、テイト・ギャラリー
「此絵はロンドンの国立絵画館の神品にて日本にてもよく知られたる聖母夢想の図に候 右の端にある紅いツイ立てやうのも何ともいへずよい色に候」p262
(受胎告知系統の絵画にこのような作品があったのですね。構図といい、シンプルな服装や背景といい、何ともいえない聖母マリア様の表情といい、凄い新鮮で衝撃を受けました。まさに「神品」です。現代的な解釈による作品と言えます。柳田さんは右下の赤い衝立の色に感心していますが、確かにそこだけ妙に目立っていますね)

1923年2月ソルレント(ソレント)より
「帰れソレントへ」の歌で知られている
詩人トルクワート・タッソー(1544-95)、イタリア・バロック期の最大の詩人の生まれたところp275
(ゲーテがタッソーについて書いていました)

絵はがきの心 柳田冨美子(柳田國男長男為正未亡人)

 

編者解説 柳田國男 旅と絵葉書
柳田は一生の間に、何回くらい旅をしたのであろうか
『柳田國男写真集』の「年譜 旅の足跡」によると138回
ただし海外旅行と保養のための家族旅行は省いているので、実際はこれを凌駕している。
また一回ごとの旅の日数が長い。一週間から十日間は普通で、月を跨いで続けたり、旅先で年末年始を迎えることも一再ではなかった。p316-317
 
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ヨーロッパの言語の旅

2023-03-21 06:25:41 | ヨーロッパあれこれ

 

ヨーロッパの言語の旅
下宮忠雄 著
近代文藝社 発行
1995年4月30日 第1刷

第1部 言語と文化
ゲルマン民族におけるパン
パンの原義は「食物」、ビールの原義が「飲物」であるようにp8

アグネーテと人魚
アンデルセンが『人魚姫』よりも前に出版した戯曲詩の題名
ここにおいては人魚姫とは逆に女が人間で男が人魚だった。
不評だった。p23
(確かにあまり見たいとは思わない・笑)

ヨーロッパの地名と文化
地名はその語形が透明なものと不透明なものにわけることができる。
透明とは当該言語の知識があれば原義が容易に判明するもの
不透明とは語形が非常にかわってしまったため言語史的知識なしには理解できないものp36

 

フランス語の5つの言語層
1 前印欧語   基層
2 前ケルト語  基層
3 ガリア語   基層
4 ロマンス語(ここではフランス語) 中心的な層
5 ゲルマン語  上層

地名の形態論
1 形容詞+場所語(町、城など)
Beograd スラヴ語で「白い町」
Tallinn エストニア語で「デンマークの城」linnは「城」
2 場所語が省略され、形容詞だけが残る
3 民族名+場所語
Denmark 「デーン人の国境」
Frankfurt ドイツ語で「フランク人の浅瀬」
4 支配者名+場所語
Augsburg アウグストゥス皇帝の町
5 普通名詞から
Don,Donau,Danube いずれも古代ヨーロッパ語で「川」
6 地形の名称
Balkan トルコ語で"chain of wooded mountains"

 

ヨーロッパ河川名
ヨーロッパを流れる500km以上の川26個の名の起源を調べると
1 水、川、流れ、沼
2 川名の派生形
3 支流
4 川の色
5 曲がり、湾曲
6 右の、左の[支流]
7 境界川
などの意味から来ていることがわかる。

地名にみる文化
「新しい町」のタイプ:Napoli,Villeneuve
「美しい町」のタイプ:Belvedere,Mirabeau
「居住地、村落」のタイプ:Bonn,Bologna
「市場」のタイプ:Turku,Trieste
産物より:Alma-Ata「リンゴの父」

 

古代ゲルマン人名の構造
姓の起源は、大別して次の四つがある。
1 父称:Johnson=John's son
2 職業:Smith「鍛冶屋」
3 地名:Churchill〈 church hill 教会丘
4 あだ名:Armstrong「腕っぷしの強いやつ」

ヴラディーミル(Vladi-mir 世界の支配者)という意味p56
(かのプーチン氏も…(*_*;)

 

第2部 言語
言語の構造
複数言語間の関係
1 系統的関係:例えば、英語とドイツ語。両方ともゲルマン語
2 類型的関係:例えば、日本語とトルコ語。両方とも「主語+その他+動詞」の語順が共通
3 地理的関係:北米インディアン語と南米インディアン語。系統関係はない
4 翻訳
同系語間:フLe petit prince→エThe Little Prince
異系語間:フLe petit prince→日 星の王子さま
方法により
人間翻訳と機械翻訳

文字を持たぬ言語はあるが、音声を持たぬ言語はない。

文字には次の3種がある。
表音文字:アルファベット
表意文字:漢字
音節文字:かな文字(ひらがな、かたかな)

 

対照言語学の理論と実践
対照言語学は同系または異系の2言語を共時的に比較し、その共通点と相違点を記述する。 
p77

日本語はカタカナ、ひらがな、漢字の3文字使用の珍しい言語である。

ヨーロッパ諸語における潮流
ヨーロッパの6大言語(英・独・仏・西・伊・露)は国際的な言語として、今後ますます拡張し、小言語は弱体化するであろうが完全に消滅することはないであろう。p93
(この本が書かれた当時はこのような予想だったのかもしれないが、現状では英語の一人勝ちになってしまいました)

 

比較言語学は何をなしうるか
・同系の諸言語の親疎関係(兄弟の関係か、いとこの関係か)の解明と祖語の再構
・それらの言語の担い手である民族の文化の解明p96

比較言語学は同系の諸言語を比較する学問
英語と日本語の比較は比較言語学ではなく対照言語学p97

 

第3部 文法 
能格、この不思議なるもの

テンスとアスペクト

印欧語における否定の表現

固有名詞と文法
ロシアにはne-「…でない」、bez-「…のない」の接頭辞を持つ河川が多い。日本の皆瀬川(水無川)のようなものp144

 

第4部 紀行
ライン河畔のボン
ライン河畔にあること、主要幹線上にあること、大学があること、ベートーベンの生誕地であること、などがボンが西ドイツの首都になる上でのセールスポイントになった。p149

ベルリンの学会

フィヨルドの町ベルゲン
私はヨーロッパ人らしく生きることとは何か、について一つの発見をした。それは英語やドイツ語を話すことなどではなく、だれにでもまねのできる、実に簡単なこと、立ち食い、否、歩き食いをすることである。p163
(この頃の日本人は、まだお行儀がよかったのでしょうね・笑)

 

ベルゲンにおける言語的体験
ノルウェー語の文法書は2人称代名詞に親称(きみ)と敬称(あなた)を区別して掲げているが、この敬称はほとんど聞かれなかった。生徒が先生に対しても「きみ」だし、店員がお客に対しても「きみ」である。
ノルウェーにおける「2つのノルウェー語」なるものの存在を実感した。書物語と新ノルウェー語という2つの公用語のことで、使用人口率は80パーセントと20パーセントであるといわれる。p166

フィヨルド(fjord)はオックスフォードのford、フランクフルトのfurtと同様、「渡し場、渡り場」が原義で、ゲルマン語共通の動詞faran(行く)に由来し、港のportと同じ印欧語根にもとづいている。p168

サマランカ大学とバスク語研究
 
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美しいウクライナの景色 (「私たちの東欧記」より)

2023-03-19 06:19:02 | ヨーロッパ旅行記

「私たちの東欧記」の中に、美しいウクライナの景色を美しい、夢のような文章で表現した箇所がありましたので、ウクライナに平和が戻る願いを込めて、引用させていただきます。最後はオチがついていて、ちょっと笑ってしまいますが。


ウクライナの景色
さっきから汽車は同じところを走っているらしい。窓の外は一時間前と同じ景色がまだ続いている。線路はまっすぐで、全然まがっていない。
線路の両側にはひょろひょろとよく伸びたポプラの木が二、三メートルおきに植えられ、まるで緑の屏風のように立っていた。この木は風よけのためにあるのだろうか。それとも、何かほかの目的のためにあるのだろうか。
ポプラのむこうは果てしなく続く麦畑だった。地平線まで、さえぎるものは何もない。刈り入れ前の麦の穂先が風に波打っているだけだ。ソ連の穀倉ときかされてきたウクライナはまさに黄金の大洋だった。
見はるかす大海原をわたしたちの船は一直線に走っていく。たまに視界に入ってくるのは刈り入れのコンバインで、漁船のように見える。漁船は一すじの線を残してすすんでいく。その線は地平線までつづく、長い長い線であった。
麦畑がおわって、つぎにあらわれたのは、ひまわりの畑だ。映画『ひまわり』のあのシーン。今、わたしは本物のひまわり畑を見ているのだ。真夏のグリーンのなかに、まるい黄色の点々があざやかに目にとびこんでくる。ぎらぎらした太陽に敢然とむかって咲き誇っている大輪のひまわりは、さながら天に向かって輝く地上の星であった。
その先は、とうもろこし畑。しなやかにのびた茎から、幾重にも細長い葉っぱが波のかたちをなしてさがっていた。その葉のつけ根のところに、うすみどりの髪をたらした若い実が宿っている。
汽車の窓からのながめといえば、「まわり灯籠の絵のように」かわるものとしか知らなかったわたしに、地球的規模でひろがるウクライナの畑は、まさに豊穣の海そのものに映った。
うっとりと眺めるわたしのとなりで声がした。
「ねえ、おかあさん、あのとうもろこし、一本もいできて、焼いておしょうゆつけて食べたらおいしいやろなぁ」
子どもの言葉はいつもわたしを夢から現実の世界につれもどす。

 

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私たちの東欧記 ソビエトからブルガリアへ

2023-03-18 13:13:55 | ヨーロッパ旅行記

 

私たちの東欧記 ソビエトからブルガリアへ
藤本ますみ 著
日本放送出版協会 発行
昭和56年3月20日 第1刷発行

35歳で勤めをやめた母と6歳の娘による、舫(もや)い旅を記録した本です。1974年の夏、日本からシベリア鉄道によってモスクワまで行き、そこからウクライナを通ってブルガリアまで行きます。そしてブルガリアでエスペラント語の語学講座に参加します。
著者のご夫婦で特徴的なことは、夫がエスペランティストだったことと、ご本人が梅棹忠夫先生のもとで八年間秘書をしていたことでしょうか。それらもこの旅を決行させる要因になったようです。
旅の中で交わされる、親子の会話が柔らかい関西弁(京都弁)なのが、読んでいてほっこりします。

 

Ⅰ シベリア鉄道の旅
当時のブルガリアは一般の人の外国流行はきびしく制限していた。そこでエスペランチストの文通友達に滞在費負担で「招待」してもらい、その代わり、友達にもブルガリアに来てもらって、そのときは自分が一切の面倒をみることにした。そうすれば、どちらも損得なしのお互い様だ。p5
エスペラントはいわば地球市民のもっている共通の鍵なのである。p6

1974年6月29日、横浜港からソ連船バイカル号に乗る。
船内のサロンでソ連入国の手続きが始まっている。バイカル号はすでにソ連国内なのだ。

バイカル号はナホトカに上陸し、そこから汽車に乗ってハバロフスクに出て、そこでウラジオストクからくる汽車に乗った。

 

Ⅱ モスクワからソフィアへ
ウクライナのキエフ(キーウ)のエスペラントクラブに出席する藤本さん。日本語の漢字について説明する。日本語はたいへん面白い、難しい、謎のような、神秘的な言葉だという感想。
それに対し、漢字は魔法の言葉で、それを発明したのは、魔法使いですと相槌をうつ著者。p127

ソ連国境の駅、ウンゲニで、本やノートや大切な手帳を検査官に取り上げられる藤本親子。
焦って混乱して、子どもを列車内に残して、駅構内をさ迷うお母さん。
しかしやはり思い直して列車内に戻ると、子どもは泣きじゃくっていた。「さみしかったの、わたし。おかあさんのばか、ばか、ばか」と、ところかまわず母の体を叩く子ども。
子どものいうとおり、わたしは馬鹿な母親であった。
十分もした頃、検査官が戻ってきて、取り上げたものをベッドの上に次々投げ出す。
結局、検査官は取り調べのために、いったん品物を持ち去っただけのことたった。
なんでこんなつまらんことをして、人の気持ちをひっかきまわさなならんのやろか、と怒る藤本さん。

 

駅名表示板のMOARA VLASIEI(最後のAは上に点)
モアラ・ヴラスィエイと読むのかな。
それにしても、とてもすっきりした看板だな、ともう一度ゆっくりながめる。そして、やっと気がついた。
「ここはルーマニアだ。キリル文字の国じゃないんだ」
この二週間、ソ連の看板やメニューばかり見てきたわたしの目には、ここの看板はたいそう、あっさりして見える。p155

 

Ⅲ 私たちの東欧記
四ヶ月から半年、子どもと二人だけで旅行することを不審がるブルガリアやポーランドの人々。夫婦が不仲か、女房のわがままかと疑う。
夫婦や恋人同士ならお客の前でも普通に寄り添っている人々。

ブルガリアの晴天続きの夏
六、七、八月は麦刈りがあるし、ひまわり、とうもろこし、ぶとうが熟するときだから、カッとお日さまに照ってもらわなければ困る。畑にはスプリンクラーがついていて水まきができるから、一ヵ月位雨が降らなくても大丈夫。それに夏は黒海に太陽をもとめてくる人が多いから、雨なんて降ってもらったら困る。p213

エスペラントの授業中で海水浴場の絵を見て藤本さんは海水浴がひらめくのに、ほかの人はいっせいに日光浴といった。日本人と北ヨーロッパの違いかと思ったが、太陽がふんだんにあるブルガリア人も同じく日光浴だった。p215

遠足の時にもらったお弁当
大きなサラミ一切れやきゅうりやトマト、そしてブルガリアパン
ルーマニアのモアラ駅でもおじいさんが同じような朝食を食べていた。
チェコスロバキアやポーランドの女性は不満そうだが、藤本さんはひどいものだと思えなかった。
あと塩と大きいカップを持っていけば、大丈夫だ。

 

なぜブルガリアがエスペラント語に力を入れ、普及をすすめるようになったのか?
第二次世界大戦でブルガリアが日独伊三国同盟に加わると、ソ連はブルガリアに宣戦布告し、ソ連赤軍が侵入してきた。政府軍はこれを迎えて戦ったが、国内の共産党を中心とするパルチザンたちはひそかにソ連軍側につき、ファシスト政権を敵にまわして戦った。その時のパルチザン軍の仲間にエスペランチストたちも加わり、勇敢に戦ってファシスト政権を倒し、パルチザンを勝利に導いた。これによってパルチザンたちは祖国戦線政府をうちたて、1946年9月、国民投票を行い王制廃止を決め、「ブルガリア人民共和国」を成立させた。
パルチザンとして戦ったエスペランチストの中にも新政府の要職につく者が出てきて、ブルガリア国内にエスペラントの普及をはかるよう努力した。p231

定住ジプシーの一角を訪問する藤本夫妻
黒ずんだ廃墟のようなたたずまいで、近寄りがたい雰囲気
ジプシーは夫妻が村に戻りかけると、ぞろぞろとついてきた。しかし、この先には村の人家があるというところまでくるとピタリと足をとめ、そこで自分たちの家のほうへ戻っていった。まるで村へは足をふみこまない、決めてあるみたいだった。

 

ポーランドはエスペラントの創始者ザメンホフの生まれた国である。1859年、ワルシャワの東北の町ビアウィストクで生まれたユダヤ人だった。この町は当時ロシア領で、人口の七割を占めるユダヤ人、そのほかポーランド人、ロシア人、ドイツ人、リトアニア人、タタール人などが住んでいた。人々はお互いに言葉が通じないために、誤解や行きちがいを起こし、争いが絶えず、ついには流血騒ぎになることもしばしばであった。
異なる民族が話し合うためには、どれかひとつの民族の言葉ではなく、どの民族にも属さない言葉にしなければならない。そう思ったザメンホフ少年は自分でその言葉の試案をつくり、学校友達や弟に教えたり、自分で翻訳してみたり、実際に使えるかどうかを何回も試してみた。
何年にもわたって修正を重ね、ついに1887年、彼は「国際語」を発表した。ただしそのときは創案者の名前としてザメンホフを名乗らず「エスペラント博士」という匿名を使った。それで後になってこの言葉は「エスペラントの言葉」といわれるようになり、やがて「エスペラント」と呼ばれるようになった。p255-256

ポーランドでは妊娠している女性や赤ちゃんを抱いている女性は特別扱いで、列に並ばなくてもいいことになっている。p261
(日本ても少子化対策のために、真似してみてはどうか)
 
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