ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

柳田国男の見た菅江真澄 日本民俗学誕生の前夜まで

2022-03-27 07:23:23 | ヨーロッパあれこれ

 

柳田国男の見た菅江真澄 日本民俗学誕生の前夜まで
石井正己 著
三弥井書店 発行
平成22年9月7日 初版発行 

三河に生まれた菅江真澄(1754~1829)
その後半生を旅に暮らす
信濃に滞在した後、出羽・陸奥、そして蝦夷地まで歩き、『真澄遊覧記』と呼ばれる克明な記録を残す
神社・仏閣だけでなく、年中行事や民間信仰に関わる庶民の暮らしを記録 

柳田国男は菅江の内閣文庫の蔵書を読み、秋田図書館を訪ねて著作目録を作る。そして昭和2年から昭和5年の講演など、本書は柳田の情熱が集中した時期に焦点を当てている。

 

遠野物語に出てきた『外国』
献辞の『この書を外国に在る人々に呈す』
そして106話で「海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりと云ふ」
山田と「外国」は深いつながりがあったのでは。
昭和2年の『老媼夜譚』89番塩吹臼より
「‥若い時分には山田港に入ったロシヤの船などに出入りしたりして、世間の広い人であった」
山田港はロシアと日本を結ぶ出入口だった。p24-25

遠野物語に出てきた「西洋」
27話の頭注「此話に似たる物語西洋にもあり偶合にや」と疑問を持っている。『グリム童話集』の「29 金の髪の毛が三本ある鬼」では?
84話 江戸末期でも、ロシアをはじめ北方とのつながりは、我々が鎖国という先入観で見てしまう以上に、かなり盛んだったよう。p26-27

 

柳田が行った菅江真澄研究の現れ方
第一期 明治・大正期 文庫・旅行における調査 
第二期 昭和初年代  講演・執筆と『真澄遊覧記』刊行
第三期 昭和10年代  『菅江真澄』刊行と旅行
第四期 昭和20年代  自著の挿画と書き入れ本
p164

柳田の云う郷土研究の三つのやり方
旅人が目で見て調べられるもの
一定期間滞在する寄寓者が目で見、耳で聞いて調べられるもの
そこで生まれた人でなければできないもの
菅江真澄は寄寓者には近いかもしれないが、違う。
一番近い民俗学者は宮本常一かもしれないが、それでも民俗学者は誰も真澄にはなれなかった。p174-175

 

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ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか

2022-03-26 09:53:30 | ヨーロッパあれこれ

ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか
佐野敬彦 著
平凡社 発行 
2008年3月10日 初版第1刷

Ⅰ イタリアの丘の町 
南イタリアのギリシャ植民都市の特徴は、整然とした規則的な格子状の道路の構成だった。それは彼らの国家体制、つまり民主的で平等の観念に基づくものだった。

丘上都市の美の第一にあげる特徴は、上下に延びる垂直感
第二に丘上都市がおもしろいのは錯綜した平面、つまり道路や広場といった公共の場が直線で区切られた単調なものではなく、複雑な形を見せて迷路の楽しさを味あわせてくれる。
(自分の乏しい体験では、シエナがそのような街だった)

丘の上の町では、秩序の美、比例の美が基底にあって、それを打ち破って自由な形に崩している。この無意識的というか、自然な感性のほとばしりをイタリア語でスポンタネイタという。スポンターネオはその形容詞。スポンターネオ感覚が地中海地域の造形をつくっている。

木造の建物では柱や梁を直角に結合するので、建物は直角の角度の規則的なものになる。鉄骨コンクリートの場合も同様である。しかし石やレンガを手で積む壁構造では道や地形に合わせてどんな角度にもつくることが容易である。こうしてキュービックな建物が変化に富んだ表情を見せてくれる。p54

 

Ⅱ 広場という快楽

Ⅲ 彫刻と水の詩 ローマの噴水

Ⅳ ルネサンスのある修道士の環境美術
15世紀末から16世紀初めの絵画で、寄木細工の手法でつくられる寄木画で絵画のような平面的な表現
その寄木画を専門としたイタリアの修道僧、フラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナ(1457か58~1525)

人間を取り巻く環境としての風景は二つのものに区別される。一つは人間がつくった環境である都市の風景。もう一つは自然の風景

フラ・ジョヴァンニこそ都市風景画も田園風景画も数多く制作し、近世の風景画の先駆者だった。しかし通常の絵画ではなく、寄木画という特殊な工芸的なものであったために美術史家は認めず、17世紀のフェルメールらオランダ人たちに風景画の始祖の名を与えているが、対象への意識の点からいえば、フラ・ジョヴァンニが先行した。p150

楽器という不可解なテーマ
小さな非宗教的楽器で、多くのものは壊れている。
考えられるのはフラ・ジョヴァンニの音楽好きと、この官能的な音楽を生み出す楽器を遠ざけるといった意味を表すことであり、つまり愛好とその否定の二重のコードをもった存在であったのかもしれない。p156
(ゲーテが激賞したラファエロの「聖チェチリア」を思い出した。下側に壊れた楽器があり、聖チェチリアは上部に描かれた天使の歌声を聴いている)

 

Ⅴ 人間の道、パリのパッサージュとヴェネツィアの小路

Ⅵ バロックからアール・ヌーヴォーに至る曲線感覚

Ⅶ アール・ヌーヴォー時代のパリの環境
アール・ヌーヴォーの闘いは常に官学派の古典的な形の感覚に対するものだった。それは石の建築だった。鉄は引っ張る力に強いため、石に比べれば、はるかに細い柱で空間をつくることができた。こうして建築は軽快さとリズムを持つことができるようになる。これこそ二十世紀の感覚であったわけで、近世と近代の違いである。p194

 

Ⅷ アール・ヌーヴォー都市ナンシーの建築的環境
1871年の対プロシャとの戦争(普仏戦争)の敗戦の講和条約で、ロレーヌの大半はドイツ領となった。ナンシーはフランス領に残り、ドイツとの国境は町から25キロほどのところに置かれた。アルザスはすべてドイツ領となった。この時、住民たちは国籍を自ら選ぶこととなり、フランスを選んだ人たちは故郷を捨てて、フランス領内に移住した。ナンシーにはこうしてロレーヌ人、アルザス人の多くの人が集中し、にわかに人口が増加した。
1877年のナンシーの成人(二十歳以上)の約45%が独身だったことで、これから見てもナンシーは若者の町だったわけで、今日の落ちついた町よりも、はるかに活気があったに違いない。p209-212

Ⅸ アール・デコの装飾する建築

Ⅹ イタリアの近代建築の夜明け

ⅩⅠ 環境デザイナー、エットレ・ソットサス

 

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それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影

2022-03-21 11:32:56 | ヨーロッパあれこれ

それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影
六草いちか 著
講談社 発行
2013年9月3日 第1刷発行

少し前にこのブログで紹介した「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」の続編とも言うべき本書です。エリスのその後について、鷗外の作品なども織り交ぜながら、更に探求を深めていきます。

序章 続きのはじまり
鷗外の次女杏奴が母から聞いた回想の中に、鷗外が「この女」とその後長い間文通だけは絶えなかったという一文。あんな別れ方だったのに、なぜ文通したのだろう?ひょっとしたら、エリーゼは鷗外の子を産み、ひとりで育てていたのではないか?という疑問。

舞姫の登場人物と、実在のモデルは同じような名前なのに、太田の親友の相沢謙吉だけは賀古鶴所と全く違う名前。

賀古も参加した山縣視察団には、古市公威も内務省の二等技師として参加していた。p25

 

第1章 エリーゼは鷗外の子を産んだのか
1 森家の不思議な海外送金
鷗外の母の日記などから、鷗外は毎日かならず、独逸に、八十円などの送金の事実。しかし詳細は不明。

2 戸籍役場に行きなさい
まず教会の記録を探す筆者。だが見つからない
再開した”墓地の彼女”に戸籍役場に行くことを勧められる。

3 クララの子ども
エリーゼの妹クララの子どもが見つかる
フルネームは「ゲルハルト・アルヴィン・エルンスト」
『舞姫』エリスの亡くなった父親の名と同じ

 

第2章 ままならぬ思い
1 鷗外の再婚をめぐって
エリーゼの帰国後、母に押しきられ、登志子と結婚
1890年9月、長男於莵が生まれるや、於莵を引き取って離縁
1902年1月、志げと結婚

エリーゼの住所帳
出版年1903、申請年1902まではLucieで帽子製作
出版年1904、申請年1903にはEliseで縫製業に戻している
鷗外の再婚と関係あるのだろうか?

 

2 行きは「姫君」、帰りは「賤女」
独逸の鷗外は充分な資力があったのでは?

エリーゼの一等客室に乗り合わせた人たちの中に生田益雄という留学生。ベルリンの下宿先が鷗外の知己の場所。彼にエリーゼのエスコート役を頼んだのでは?

エリーゼの帰りは、最初は一等だったが、途中で二等に変更されている。予算の関係か?

3 モノグラム型とカフスボタン
「ぼ鈕」(ぼは手偏に口)という詩にみるベルリンで買ったぼたんへの熱い想い

 

第3章 ベルリン余話
1 橋本春の恋
エリーゼ=賤女説は全くの誤報
また賤女の相手は橋本春とされたが、当時「賤しい女」とは働く女たち、親の資産や夫の収入で優雅に生活するのではない、自ら職業をもち収入を得る女性たちはみんな、当時の上流階級の尺度では「賤女」なのだ。
春も鷗外も普通の家庭のお嬢さんを好きになり、真面目に交際していた。
また春は女が原因ではなく、過度の勉強がたたってしまった。

2 梅錦之丞の忘れ形見

 

3 考証・鷗外の下宿
鷗外第三の下宿は現存しない、という噂は『新説 鷗外の恋人エリス』の中で爆撃を受け破損した家屋の写真が掲載され、それから建物が取り壊された、という噂が一人歩きしたのではないだろうか?p140

ベルリン森鷗外記念館は森鷗外第1の下宿であるという情報、およびマリーエン通り32番地にあった鷗外の下宿がルイーゼン通り39番地から入る造りに建て替えられたという情報は、事実無根だった。p171

 

第4章 うしろ姿が見えてきた
1 エリーゼは結婚していた
エリーゼは38歳で結婚した。
夫のマックス・ベルンハルトはモザイーシュ、ユダヤ人だった。
エリーゼは1953年没だった。

2 妹エルスペス
エリーゼはクララとの二人姉妹ではなく、エルスペスという十歳年の離れた妹がいた。

エリーゼの夫マックスは1918年12月31日に亡くなっていた。

3 地図を広げた石の段
鷗外ら家族が使っていた日在(ひあり)の別荘
鷗外は亡くなる前年(1921)、そこの川岸でわざわざ夜に地図のようなものを広げて、提灯を置いてしきりに何か探していた。
ベルリンの地図で、妻を傷つけないために隠れて探していたのではないか?

 

第5章 あともう一歩
1 ユダヤ人墓地へ
エリーゼの妹エルスペスの夫の名はリヒャルド 

2 『普請中』と『即興詩人』
『普請中』は再会に見せかけた隠れ簑?
妻を安心させるため? 

3 マックスの墓
ユダヤ人墓地のマックスの墓
他の墓石には、故人の名前と日付だけ記したものが多いなか、マックスの墓には「私の愛する夫マックス・ベルンハルトは、ここに、神のもとに安息する」と刻まれていた。p274

 

第6章 その面影に
1 「暗号」の幻
エリーゼが住所帳に「ルーツィ」と名乗っていたことが妙に気にかかった。もしかして「ルーツィ」はふたりの間で決めた暗号だったのではないかと。p288

2 ああ、ルーツィ! ルーツィだ
エリーゼの妹エルスペスの息子クルト
そしてクルトの息子フェターさんにたどり着く

3 エリーゼの写真
フェター家を訪問。エリーゼの日本風ティーセット、エリーゼの写真を見る。
ルーツィと呼ばれていた理由は不明
エリーゼが日本に行ったことは知っていた。
子供はいない、と即答したが…
埋葬された墓地も不明
エリーゼは二つ目の名前からマリーとも呼ばれていたため、マールチェンとも呼ばれていた。
長女の茉莉はそこから来ていた?

 

終章 つらいことより喜びを
1919年1月1日付のベルリナー・ターゲブラット紙に掲載されたマックスの死亡広告
冒頭に死亡広告には見られない「書状に代えて」の一言
ルーツィだけでなく、旧姓のヴィーゲルトも書いてある
広告の多くは葬儀の場所を知らせるだけだが、エリーゼは住所も書いてある。
そしてこの新聞は鷗外が定期購読していた。

1944年3月、第二次世界大戦中、エリーゼからエルスペスに書かれた手紙。
このような苦しい状況でも、二度も「幸せ」という言葉を書いている。なんと強い、なんと美しい精神の持ち主なのだろう。
鷗外も彼女のこういったところに惹かれていたのではないか。

 

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すごいトシヨリ散歩 池内紀・川本三郎 編

2022-03-20 08:53:11 | ヨーロッパあれこれ

 

すごいトシヨリ散歩
池内紀・川本三郎 編
毎日新聞出版 発行
2021年11月5日 発行

ドイツ文学者、エッセイストの池内紀さん(2019年8月逝去)と、評論家の川本三郎さんによる対談集です。もとは月刊誌『望星』で2016年9月号から2019年9月号に連載されていたものです。

普通、ヨーロッパの都市の真ん中は「旧市街」といわれるいちばん古い地域で、王宮や官庁など由緒ある建物が集まっている。ところが東京の中心は、巨大な空間に一家族だけが住んでいる。中世や近世ならそれもわかるんですけど、21世紀の神話みたい。これにも外国人は驚きます。p22

一つ目小町
有名な町の、一つ隣にいいところがあるという見方。
忠臣蔵で有名な播州赤穂の隣に坂越(さごし)という町がある。赤穂は昔から塩の産地だが、その塩の積み出しを行っていた港町。p32

 

山形は井上ひさし、丸谷才一、藤沢周平などたくさんの文学者を輩出している。ところが隣の秋田県からはほとんど出ていない。山形の人に言わせると、理由は簡単で、戊辰戦争のときに山形を含めて奥羽越列藩同盟が負けたから。東北では秋田の佐竹氏のところ(久保田藩)は官軍側で、維新後は立身出世の道が開けた。かたや山形の庄内藩は負けた方だから、出世の道が閉ざされたため文学の方へ行った。p35

日本を大きく分けると、国の動向を察知し、それに即して動くところと、それはそれとして、自分たちはこうだからと、国の意向にはすぐには従わないところがある。ぼく(池内)のふるさとは、わりと前者の方で、版籍奉還の第一号が姫路藩。時代を見る目が早かったのかと思いきや、そうではなくて、潮目を見て、さっと舵を切り換えたらしい。p36

龍野がいいと思ったのは、姫新線の本竜野駅を降りると、駅の周辺はスーパーや市役所が集まる新しい町で、揖保川を渡ると旧市街になっていること。新しいものと古いものの住み分けがちゃんとできている。p37

 

菅江真澄の旅は仕事ではなく、目的は特になし。自分では、神社・仏閣、珍しいものを見て回りたいとだけ述べている。旅費などお金のことは、いちばんわからない。p170

菅江真澄は18世紀の半ばから19世紀の人ですけど、ゲーテと生没年がほぼ同じで、ゲーテのイタリア紀行と同じように小さな町町を旅している。p172

菅江真澄は和歌の技能者であり、薬草に詳しかったよう。新しい町に来ると、必ず医者を訪ねている。おそらく、それを生業としていたのではないか。p173-174


高峰秀子曰く
「大スターなんて、なるもんじゃない。女優でいちばんいいのは、脇役。いまいちばん幸福な女優は誰かっていうと、沢村貞子さん。あの方はたくさんの映画に出ているから、出演料はいっぱいもらっているし、大スターじゃないから出費も少ない。ああいう人が、実はお金を持っているのよ」p184

最近は、自分(川本)よりも若くして世を去っている作家には興味がなくなってしまった。芥川や太宰は70代を経験していない。その点、荷風や谷崎は、70代を経験している。p269

 

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ドゥ・ゴール 佐藤賢一 著 (後半)

2022-03-18 19:38:49 | フランス物語

第6章 フランス共和国臨時政府 
ローズヴェルトの戦後構想では、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中国による「四大国の執政官政府が諸々の問題を取り決める。国際連合の議会が、この四大国の権力に民主主義的な様相を与える」というものだが、そこにはフランスは含まれていなかった。p182

アルザス、ロレーヌを取り戻せば、それで十分なのではなかった。少なくとも「偉大でなければフランスではない」と考えるドゥ・ゴールには受け入れがたい。仮に敗戦国でなくなったとしても、まだ戦勝国ではないからだ。勝ったと声を大きくしたいなら、フランスは他の連合国に増して、ドイツに攻め入らなければならないのだ。p198
その結果ヤルタ会談で、フランスにドイツにおける占領区域のひとつが委ねられた。
また国際連合においても安全保障理事会の常任理事国の席が与えられることが決まった。p201

ヴィシー政府のみ代表されていたら、フランスは戦勝国になっていなかった。
ジローの政権が続いていたら、アメリカの傀儡国家になっていた。p210

 

第7章 第四共和政 
政界から引退し、シャンパーニュの片田舎、コロンベ・デ・ドゥー・ゼグリーズに退いたドゥ・ゴール
しかし1947年4月7日、ドゥ・ゴール人気の高いストラスブールでフランス国民連合(RPF)が結成され復活

アルジェリアは他のどんな植民地とも違っていた。すでに百二十年余の歴史があり、地中海の対岸という地理的な近さがあり、フランスと一体であるという感覚は、もはや揺るがなくなっていた。p229-230

アルジェリア問題をきっかけに、ドゥ・ゴール待望論が再燃

 

第8章 第五共和政
1958年6月4日、アルジェリア総督府のバルコニーに進んだ。その大きな身体で長い腕をいっぱいに伸ばし、V字を作るという得意のポーズを見せたから、もう人々は増すばかりの期待感に、いっそうの歓呼を叫ばざるをえなくなったのだ。p248
(ペクレスさんも、大統領候補に指名された時、同じようなポーズをしていたかな?)
 
戦勝国で国際連合の常任理事国フランス、その地位の危うさが1956年のスエズ動乱で顕れた。だからこそ、アルジェリアを譲れなくなってしまった。

アメリカと距離を置いて、なお一等国たる地位を保つためには、政治的、経済的、軍事的にドイツと連帯するのが、ドゥ・ゴールの構想だった。p271

ドゥ・ゴールは核兵器の開発を叱咤した。金に糸目をつけない急ピッチの開発だった。p274

 

第9章 アルジェリア問題
1961年のアルジェリアの反乱は終息。
ドゥ・ゴールは声だけで叛徒と戦い、それに勝利した。
それゆえ「トランジスタの勝利」と呼ばれる。p289

何度もテロの標的になるドゥ・ゴール
1962年8月22日のテロ未遂が一番危なかった
仕事鞄の中の亡き娘アンヌの写真の金属製の額の縁で、また別の弾丸が止まっていた。p299

 

第十章 偉大なるフランス
学生運動に対するドゥ・ゴール
以前ならデモでも、暴動でも、クー・デタでも、扱いを取り違えることなどなかったと。それが見通し甘く、無理押し一辺倒になったあげく、事態を悪化させたとするなら、おかしいと。政治家としての力が落ちたのかと。じき七十八を迎える男の、これが老いというものかと。p326

エピローグ
ドゥ・ゴールの墓はパンテオンではなく、コロンベ・デ・ドゥー・ゼグリーズに置かれている。墓石にはシャルル・ドゥ・ゴール(1890-      )とだけ刻み、あとは何も刻むなかれ、と遺言に書かれていた。
(森鷗外の墓を思い出した)

 

 

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