岩倉使節団の足跡を追って・欧亜編
「米欧回覧」百二十年の旅
泉三郎 著
図書出版社 発行
1993年8月30日 初版第1刷発行
この本では岩倉使節団の回覧の内、十か月余にわたった米英の回覧を終え、1872年12月、欧州大陸に入ってから日本に帰るまでの記録および、その足跡を一世紀後に追っかけた著者の記述を中心に構成されています。
著者としてはまず「米英編」を読んでいただきたい、とのことです。
ロンドンのヴィクトリア駅からドーヴァーに着き、波止場から船に乗りカレーに到着する。著者の旅行の時もまだ海底トンネルはなかったようで、同じようにフランスに達していた。
使節団の時のフランスは二年前、プロイセンに敗れた時だった。パリはコンミューン騒ぎがあって戦場と化していた街だった。さらにアルザス・ロレーヌを割譲させられ、50億フラン(9億5千ドル)という巨額の賠償金を課せられていた。
しかし目前のパリは敗戦もコンミューンも賠償金も、まるで忘れたかのように華やかに息づいていた。
この時に謁見した小柄な老チエール大統領は、したたかで老獪な政治家であり、ある意味でフランスを象徴するような存在だった。p23
フランス銀行の大金庫にはそのようなときにもかかわらず豊かな金銀を蔵していた。
フランスはもともと恵まれた土地のある所に、革命により自作農が誕生し、民法によってその財産権が保護されたため、農民はそれぞれに努力し富を蓄えてきた。
ブロック博士によると、もともとドイツ国民は貧乏で、フランス人の資金を借りて経済をやりくりしていた。平和の時はその借金の取り立てを厳しくやらなかったが、この時のように多額のお金が入ったら、フランス側は債権の取り立てを厳しくするようになり、結局個人の手でフランス側に取り戻すことになった。
一行はサン・ジェルマン・アン・レイにも立ち寄り、レストランで飲食をしている。
またその数か月後、途中で帰国する大久保利通をメインゲストにした初の在欧鹿児島県人会も開かれている。この時代に鹿児島だけで三十有余名(記念写真では16名)集まった。
ポンピドーセンターを見た著者の感想
ある意味これはパリそのものが、伝統的に完成されたデザインに堪えられず、その鬱屈した不満を異常なエネルギーとして噴出したおできのようなものに見えた。p56
ベルリンでビスマルクの招宴で演説を聴く一同。
米英仏白蘭と回ってきた後、プロシアほど置かれている立場が日本に似ている国はなかった。列強に囲まれ、産業革命に一歩遅れた状況で、ようやく封建的な領邦国家から統一を成し遂げた状況も。
1979年にベルリンを訪問した筆者
フランクフルトから、東ドイツを見るため、空路ではなくあえて列車でベルリンに入る。
西ベルリンでその軽薄さ、ちぐはぐさ、落ち着きのなさを感じる筆者。ホテルに泊まってもまさにアメリカだった。当時米英仏の共同統治下で、西ドイツでありながら西ドイツではなかった。
東ベルリン観光バスにも乗った筆者。手続きは簡単でヴィザの必要もなかった。そこはソ連式の全体主義と画一主義のサンプルしか見られない。
ベルリンは西をアメリカのショーウインドにし、東をソ連の出店にされてしまったのか。
1992年にベルリンを再訪した筆者
壁のあった時代は、まだお互いが張り合っているように見えたが、1992年には互いに見せびらかす必要がなくなったからか、何かしらけたような雰囲気が感じられた。
岩倉本隊はベルリンからロシアに向かう。バルト海沿いのルートを通り、途中ケーニヒスベルクを経由してペテルスブルグに達している。
久米の説によれば、世界で最強の国はロシアだった。英仏はオランダ同様町人の国であり、ドイツ・オーストリアは欧州内で強を競うだけに過ぎないと思っていた。しかしそれが井の中の蛙の妄想に過ぎないと気づく。
1979年、筆者はベルリンからレニングラード(ペテルスブルグ)に列車で行く。
パリから一日一本ベルリン経由で「「レニングラード・エクスプレス号」という急行列車が走っていた。
それはみすぼらしい6両の列車だった。
岩倉使節の時代には43時間かかった旅路を、その時の急行列車でも36時間かかった。もちろん現代なら、飛行機を使うだろうが・・・。
岩倉使節のペテルスブルグとストックホルムの旅は、ドイツを起点として往路・復路ともほぼ同じルートを通っていた。
著者はレニングラードからヘルシンキを抜けバルト海を船で渡ってストックホルムに達した。
ヘルシンキには多くの船が泊まっている。エストニアやリトアニアや東ドイツへ行く船である。ペテルスブルグが凍り付いて使えないから、ヘルシンキが結局ソ連の海への玄関口の役目を果たしているのではないか、そんな感じを抱かせる光景である。p140
オーストリアとイタリアの国境でもあるブレンナー峠
峠を過ぎると風景が一変する。寒色のヨーロッパから暖色のヨーロッパへ、きりりと引き締まった内陸の雰囲気から、のびやかな地中海世界と舞台が転換する。p157
岩倉使節の足跡を追って旅をしてきて、著者はいつのまにか「百年という物差し」をあてるのが癖になっていた。ところがローマでは、そんな物差しは用をなさない。二千年来の遺跡が現存しているローマでは、百年などという時間はどこかへ消え失せてしまう。そして近代という時代区分の外側にもう一つ二千年の物差しを持たねばならなくなったような気分になっていくのだ。p165
岩倉使節の時のローマは、帝国衰亡後ヴァチカンの門前町と化し小規模な街に変身してしまっていたのが、漸く統一イタリアの首都に返り咲き、その威信を回復しつつある時期だった。p166
ヴェネツィアは、この百年に変わったのは、わずかにガス灯が電気になり、舟にモーターがついたことくらいであろうか。岩倉使節の見た、感じた街がそのままそこにある。岩倉使節を追う長い旅路で、ヴェネツィアほど街ぐるみ変わっていないところはない。
ここでは百年の時など瞬きの間だ。p182
ジュネーヴで日本とスイスを比較する筆者
日本の街は電線と看板と貯水槽と空調機のコラージュという感じ。p235
岩倉使節の旅も、17・18世紀のグランド・ツアーのようなものではなかったか。
ただそれは遊び半分の若様旅行ではなく、使命感に溢れたサムライたちの文明探索旅行であり、新しい国つくりのための重大な責務を帯びた「グランド・ツアー」だった。
ヨーロッパ諸国を旅して、著者が思ったこと
・歴史の厚みと多様性
・自然風土の面でも民族や言葉の面でも極めて多様
・日本はヨーロッパからこの120年間、実にいろいろなものを学んできた