ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

シャンティイ城庭園の大運河

2020-11-28 08:05:33 | フランス物語


シャンティイ城庭園の大運河(LE GRAND CANAL)のそばに出ます。
この大運河は、庭園設計の一貫として、やはりアンドレ・ル・ノートルにより造られています。
時期は1671年から1673年です。
水路を東西に掘り、領地を横切るノネット川から水を引き、大運河を造成しました。
現在でも、地図をよく見ると両側はノネット川と間接的につながっており、水の補給や水量の調整を行っているものと思われます。
起重機などない当時、工事は大変だったと思います。
なぜか自分の中では、「パタリロ!」のタマネギたちが、一生懸命運河を掘っている姿を想像してしまいました(笑)。



シャンティイ城庭園の地図です。
ここまで矢印の方向へ写真を撮っていました。

岩倉使節団の足跡を追って・欧亜編 「米欧回覧」百二十年の旅

2020-11-23 21:13:56 | ヨーロッパあれこれ


岩倉使節団の足跡を追って・欧亜編
「米欧回覧」百二十年の旅
泉三郎 著
図書出版社 発行
1993年8月30日 初版第1刷発行

この本では岩倉使節団の回覧の内、十か月余にわたった米英の回覧を終え、1872年12月、欧州大陸に入ってから日本に帰るまでの記録および、その足跡を一世紀後に追っかけた著者の記述を中心に構成されています。
著者としてはまず「米英編」を読んでいただきたい、とのことです。

ロンドンのヴィクトリア駅からドーヴァーに着き、波止場から船に乗りカレーに到着する。著者の旅行の時もまだ海底トンネルはなかったようで、同じようにフランスに達していた。

使節団の時のフランスは二年前、プロイセンに敗れた時だった。パリはコンミューン騒ぎがあって戦場と化していた街だった。さらにアルザス・ロレーヌを割譲させられ、50億フラン(9億5千ドル)という巨額の賠償金を課せられていた。
しかし目前のパリは敗戦もコンミューンも賠償金も、まるで忘れたかのように華やかに息づいていた。

この時に謁見した小柄な老チエール大統領は、したたかで老獪な政治家であり、ある意味でフランスを象徴するような存在だった。p23
フランス銀行の大金庫にはそのようなときにもかかわらず豊かな金銀を蔵していた。
フランスはもともと恵まれた土地のある所に、革命により自作農が誕生し、民法によってその財産権が保護されたため、農民はそれぞれに努力し富を蓄えてきた。
ブロック博士によると、もともとドイツ国民は貧乏で、フランス人の資金を借りて経済をやりくりしていた。平和の時はその借金の取り立てを厳しくやらなかったが、この時のように多額のお金が入ったら、フランス側は債権の取り立てを厳しくするようになり、結局個人の手でフランス側に取り戻すことになった。

一行はサン・ジェルマン・アン・レイにも立ち寄り、レストランで飲食をしている。
またその数か月後、途中で帰国する大久保利通をメインゲストにした初の在欧鹿児島県人会も開かれている。この時代に鹿児島だけで三十有余名(記念写真では16名)集まった。

ポンピドーセンターを見た著者の感想
ある意味これはパリそのものが、伝統的に完成されたデザインに堪えられず、その鬱屈した不満を異常なエネルギーとして噴出したおできのようなものに見えた。p56

ベルリンでビスマルクの招宴で演説を聴く一同。
米英仏白蘭と回ってきた後、プロシアほど置かれている立場が日本に似ている国はなかった。列強に囲まれ、産業革命に一歩遅れた状況で、ようやく封建的な領邦国家から統一を成し遂げた状況も。

1979年にベルリンを訪問した筆者
フランクフルトから、東ドイツを見るため、空路ではなくあえて列車でベルリンに入る。
西ベルリンでその軽薄さ、ちぐはぐさ、落ち着きのなさを感じる筆者。ホテルに泊まってもまさにアメリカだった。当時米英仏の共同統治下で、西ドイツでありながら西ドイツではなかった。
東ベルリン観光バスにも乗った筆者。手続きは簡単でヴィザの必要もなかった。そこはソ連式の全体主義と画一主義のサンプルしか見られない。
ベルリンは西をアメリカのショーウインドにし、東をソ連の出店にされてしまったのか。

1992年にベルリンを再訪した筆者
壁のあった時代は、まだお互いが張り合っているように見えたが、1992年には互いに見せびらかす必要がなくなったからか、何かしらけたような雰囲気が感じられた。

岩倉本隊はベルリンからロシアに向かう。バルト海沿いのルートを通り、途中ケーニヒスベルクを経由してペテルスブルグに達している。

久米の説によれば、世界で最強の国はロシアだった。英仏はオランダ同様町人の国であり、ドイツ・オーストリアは欧州内で強を競うだけに過ぎないと思っていた。しかしそれが井の中の蛙の妄想に過ぎないと気づく。

1979年、筆者はベルリンからレニングラード(ペテルスブルグ)に列車で行く。
パリから一日一本ベルリン経由で「「レニングラード・エクスプレス号」という急行列車が走っていた。
それはみすぼらしい6両の列車だった。
岩倉使節の時代には43時間かかった旅路を、その時の急行列車でも36時間かかった。もちろん現代なら、飛行機を使うだろうが・・・。

岩倉使節のペテルスブルグとストックホルムの旅は、ドイツを起点として往路・復路ともほぼ同じルートを通っていた。
著者はレニングラードからヘルシンキを抜けバルト海を船で渡ってストックホルムに達した。

ヘルシンキには多くの船が泊まっている。エストニアやリトアニアや東ドイツへ行く船である。ペテルスブルグが凍り付いて使えないから、ヘルシンキが結局ソ連の海への玄関口の役目を果たしているのではないか、そんな感じを抱かせる光景である。p140

オーストリアとイタリアの国境でもあるブレンナー峠
峠を過ぎると風景が一変する。寒色のヨーロッパから暖色のヨーロッパへ、きりりと引き締まった内陸の雰囲気から、のびやかな地中海世界と舞台が転換する。p157

岩倉使節の足跡を追って旅をしてきて、著者はいつのまにか「百年という物差し」をあてるのが癖になっていた。ところがローマでは、そんな物差しは用をなさない。二千年来の遺跡が現存しているローマでは、百年などという時間はどこかへ消え失せてしまう。そして近代という時代区分の外側にもう一つ二千年の物差しを持たねばならなくなったような気分になっていくのだ。p165

岩倉使節の時のローマは、帝国衰亡後ヴァチカンの門前町と化し小規模な街に変身してしまっていたのが、漸く統一イタリアの首都に返り咲き、その威信を回復しつつある時期だった。p166

ヴェネツィアは、この百年に変わったのは、わずかにガス灯が電気になり、舟にモーターがついたことくらいであろうか。岩倉使節の見た、感じた街がそのままそこにある。岩倉使節を追う長い旅路で、ヴェネツィアほど街ぐるみ変わっていないところはない。
ここでは百年の時など瞬きの間だ。p182

ジュネーヴで日本とスイスを比較する筆者
日本の街は電線と看板と貯水槽と空調機のコラージュという感じ。p235

岩倉使節の旅も、17・18世紀のグランド・ツアーのようなものではなかったか。
ただそれは遊び半分の若様旅行ではなく、使命感に溢れたサムライたちの文明探索旅行であり、新しい国つくりのための重大な責務を帯びた「グランド・ツアー」だった。

ヨーロッパ諸国を旅して、著者が思ったこと
・歴史の厚みと多様性
・自然風土の面でも民族や言葉の面でも極めて多様
・日本はヨーロッパからこの120年間、実にいろいろなものを学んできた

シャンティイ城庭園の噴水と英仏(仏英?)海峡

2020-11-21 07:39:58 | フランス物語


シャンティイの庭園に戻ります。
画像の手前の円形の場所はLA GERBE「噴水」です。
真ん中の岩のようなところから水が吹き出すのでしょうが、この時は使われていませんでした。
その向こうの水面はLA MANCHEと呼ばれています。
辞書で調べてみると、英仏(イギリス)海峡と書いてありました。
同じ型の花壇に挟まれた水路なので、海峡を表現しているようです。
シャンティイの庭園にはフランス式庭園だけでなく、イギリス式庭園も造られているため、英仏海峡なのかなと思ったのですが、単にシャンティイから一番近くて馴染みやすい海峡というだけだったかもしれません。
庭園の中に小世界を描きたい、という意図があったのかな、と勝手に想像してしまいます。

柳田国男の青春(第7章~第11章)

2020-11-15 06:30:58 | ヨーロッパあれこれ
第7章 農政学者
農政学を専攻した国男が農商務省に入るのは自然の道筋だが、世間的にみて、これは官僚としてのエリートコースではなかった。しかも国男たちは、帝国大学を出ればすぐに、文学部なら中等学校長に、法学部なら高等官になれた時代に、すすんで属官として入ったのである。

「最新産業組合通解」は「抒情詩」を別にすれば、国男の最初の著作である。
極めて明快な、機能がそのまま骨組みと化しているような美しい文章。
(カエサルの「ガリア戦記」みたいなものか?)

明治35年、国男は農商務省を去って法制局に移り、参事官になり、はじめて高等官になった。

この時期の旅行は、少なくとも表向きは、官費による視察、ないし講演のための旅行だった。
彼の旅は、さまざまな意味で制限の多い旅だったが、彼は稀有の旅人だった。彼は、人の気づかなかった村の様々な生活の相や、見過ごされてきた土地の様々な陰翳や、思いがけない習俗や、顧みられなかった風景の美に対して、私たちの目を開かせてくれた。

第8章 竜土会
竜土会というものは、作家たちが暗黙のうちに抱いていた希望や念願が、国男という触媒の存在によって顕在化したものではないか?p162

花袋の「蒲団」などの閉ざされた方向とは違い、国男が欲したのは、もっと具体的な広さだった。日本の隅々に足を踏み入れなければやまなかった彼の旅も、和漢洋にわたるその膨大な読書も、広い交友も、さまざまなジャンルにわたる仕事も、その表れだった。さらには見えざる世界にまでその精神を広げようとした。

国男は終生、泉鏡花とアナトール・フランスを愛読し続けた。
キリスト教化されたヨーロッパ文明の奥に、ローマの、ギリシャの、東方の生活を垣間見ようとする、過去へ訴求するアナトール・フランスの、広い教養に支えられたいきいきとした想像力は、過去に対する無知の上に時代を築こうとする人々を眼前にした国男に深い共感を与えずにはいられなかったのだ。
国男の愛読したフランスの「白き石の上にて」

第9章 イブセン会
イプセンはフランスと違い、国男の後年の精神の軌跡に、なにひとつ関りを持たない。
彼にイプセンを選ばせたのは、彼の好みというより時代の好みだったといってよい。

明治41年に「後狩詞記」につながる国男の旅行。この旅がイブセン会の会員の熱意を覚まし、国男の関心を失わせ、会を中絶させたのではないか。

第10章 民俗学
国男が民俗学という新しい学問を形成していく過程は、芸術家が独創的な作品を創造する過程に似ている。
彼の中には、ある漠然とした、名づけようのない、しかしやみ難い欲求がある。彼はそれに形を与えたいと思うが、何一つ手掛かりがない。それは、既成のすべてのものに少しも似ていないからだ。もちろんいくつかのものは彼の関心を引き、時には深く捉えられるが、あるところまでついていくと、彼は決まって首を振り、引き返してしまう。彼の欲求に見合うものが周囲に全く存在しないため、時おり彼は自身、それが一種の夢想であり、はかない幻だと思い込もうとする。だが忘れるには、その欲求はあまりにも激しい。その欲求に背中を押されるようにして、彼はついに、ためらいながら闇へ向かって一歩を踏み出す。はじめは不器用な、つまづきがちな歩みだ。しかしやがて、心の中の衝迫につき動かされるまま、無我夢中で動き始める。彼には自分で自分のしていることがよくわからない。気づいた時には、いつの間にか自分の欲求に形を与えてしまっている。人々はそれを見て驚き、心を動かされるが、同時にとまどいも覚える。それは、これまでに存在しなかったものであり、名づけようにも、分類しようとも、位置づけようもないからである。p213

明治41年というのは、国男の一生において、ひとつの区切りがつくと同時に、新たなものがはじまった重要な年である。
区切りは国木田独歩の死である。単に一人の友人の死というだけではなく、独歩や花袋とともに生きた自分の青春の終わりを告げ知らせる象徴的な出来事だった。
新たなものは「後狩詞記」につながる椎葉村の体験。そして遠野物語の資料提供者となる佐々木喜善との出会いである。

第11章 南方熊楠と新渡戸稲造
柳田民俗学という一本の若木において、熊楠の影響が太陽や慈雨であると同時に、拮抗しなければ吹き倒されかねない嵐のごときだったものだった。
新渡戸稲造は、国男の学問に方向付けを与え、その歩む道をうべない、はげまし、助けるような、土壌のようなものだった。p255


柳田国男の青春(第1章~第6章)

2020-11-14 13:47:04 | ヨーロッパあれこれ
柳田国男の青春
岡谷公二 著
筑摩書房 発行
1991年2月28日 初版第1刷発行

柳田国男の幼少期から、39歳で「郷土研究」を発行し、民俗学の道に決定的に歩み寄るまでの様々な出来事や出会いを述べた好著です。

第1章 二つの故郷 辻川と布川
辻川から北条に移った時、長兄の夫婦別れ、次兄俊二の病死、先祖伝来の家屋敷の売却、神経衰弱の父、貧窮と、飢饉。
この時期は暗い材料ばかりが多い。p10

辻川と布川に住んだおかげで、関西と関東の農村を共に知ることが出来た。
その土地柄も、気風も、風俗習慣も、言葉も全く対照的だった。
一方共通点としては、ともに川に沿い、交通の要衝だった。

第2章 父母
国男が仏教を忌み、むしろ神道に関心を抱き、さらに神道を通じて日本古来の原始信仰の研究へと入っていったのは、明らかに父の思想の継承であり、その発展だった。

国男が民俗学において性を避けたのは、母に対する感情と結びついていたのではないか?

第3章 鷗外
鷗外は、国男がその一生において「特に熱烈たる崇敬」をささげた唯一の人物だった。
西欧の学芸に対して国男の眼をひらかせたのは鷗外だった。

積極的な意味に解されたディレッタンティズムとは、専門化、特殊化、個別化、職業化を拒否し、つねに全体を目指そうとするやり方である。
学問や文学からではなく、自己の生から発送する立場である。国男が鷗外の著作と人間を通して学んだのは、このようなあり方だった。p49

第4章 松浦辰男と紅葉会
鷗外とともに、国男の精神形成に大きな影響を与えた人物は、歌人の松浦辰男である。
歌の影響が最も顕著に出ているのは、国男の文体である。

昼の星を見たなど、国男がその存在を漠然と予感し、憧憬を抱いていたうつし世(現世)ならぬものに対し、辰男は幽冥という名を与え、その明確な内容を示した。
明治38年に、国男は「幽冥談」という一文を発表する。

第5章 『文学界』の人たち
第一高等中学校に入学する松岡国男。先生からは特に影響を受けなかったようだが、生涯の友を得た。
文学界と国男の共通点
・浪漫派的な気質
・西欧文学に対する憧憬
・恋愛におけるプラトニズム
・従来の文学に対する不満
・アマチュアリズム
逆にわけるものはキリスト教だった。国男はキリスト教の信者にはならなかった。

第6章 『抒情詩』
詩とは国男にとって、空想であり、夢であり、逃避である。
詩にとどまるとは、空想に耽り、夢に遊んで、「実際を軽く」見、周囲の現実に目をつぶることであった。
新体詩と後期の仕事のつながり
詩に現れている他界願望-『海上の海』のニライカナイに達する、日本人の他界観
見えざるものへの憧憬-『幽冥談』を経て、『遠野物語』や『山の人生』へと結晶
自然と一体化しようと希求-『雪国の春』『海南小記』などの紀行文や『野草雑記』『野鳥雑記』に存在
プラトニックな恋愛観-民俗学において性を扱わず