ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

椿井文書 日本最大級の偽文書

2022-01-30 17:24:37 | 小説

椿井文書
日本最大級の偽文書
馬部隆弘 著
2020年6月5日 3版
中公新書 2584

椿井文書
山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助。1770~1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書の総称。
中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、見た目には新しいが、内容は中世のものだと信じ込まれてしまう。

第一章 椿井文書とは何か
現在の歴史学は、時代ごとの棲み分けがかなりはっきりしている。p3
近世や近代にその地域で起こっていたことを気にしないまま、古代や中世を直視してしまう。あるいは、地域に残された文書群を見ることなく、古代や中世の活字史料に頼ってしまう。P4

 

第2章 どのように作成されたか
未来年号
絵図に明応元年(1492)四月の作とされるが、明応改元は七月のことなので、四月はまだ延徳四年である。
偽文書と判断する際の一つの目安
椿井文書では未来年号となっている例が極めて多い。
椿井はあえて偽文書を完璧なものとしないようにしている。
戯れで作ったと言い逃れできるように予防しているのか?p40-41

 

第3章 どのように流布したか
椿井はなぜ都市部を避けたのか
知識人層の厚い都市部を避けることで、偽作の露見を極力回避したのではないか。

椿井が偽文書を譲るにあたって、金銭の授受をしていたことはおよそ想像がつくが、確実な証拠が残るのは現在のところ一例のみ。
その代金は五両なので、現在の金額に換算して五十万強といったところであろうかp104

椿井文書が広く定着した原因
質入れ先の今井家という、いわば第三者が販売することにより、椿井政隆の集めた古文書が地元に戻ってきたという扱いを受けた。
椿井政隆自身が頒布する場合とは異なり、ある程度の信憑性を帯びながら流布した。p110

 

第4章 受け入れられた思想的背景
大量の椿井文書が椿井家に残された状況に鑑みると、即売を前提としていないものも多く存在したよう。
一般に受け入れやすい筋書を創る一方で、見る人が見ればわかる虚偽も含ませるという二面性を有するのも椿井文書の特徴。
椿井の偽文書創作は趣味と実益を兼ねたものであったが、彼個人は前者に重きを置いていたのでは?p129

並河誠所により編纂された『五畿内志』
その虚飾を批判する三浦蘭阪
しかしながら真っ当な批判に対して社会はあまり聞く耳を持たないという構図
『五畿内志』の擁護が名所づくりと一体になっている一方、いかに合理的に批判しても、何ら利益が生まれない。

 

第5章 椿井文書がもたらした影響
並河誠所にその価値を見出だされた伝王仁墓
現在も王仁墓の史跡指定は解除されていない
並河誠所による『五畿内志』の安易な一文と、それを補完しようとする椿井文書が相互に補完することで成立した極めて危うい説ではあるものの、真正な古文書として一度利用されてしまったがために、払拭することができない。p175

 

第6章 椿井文書に対する研究者の視線
古文書学の鍛練を多少積んでいれば、椿井文書の現物を見れば偽文書とだいたい気づく。
しかし、これがいったん活字になると、偽文書の醸し出す雰囲気が大きく損なわれてしまう。
しかも、自治体史というかたちで公的機関の刊行物に掲載されると、なおさら疑う余地がなくなっていく。p194

椿井文書が偽文書だと指摘されると、なぜ並々ならぬ努力を費やしてまでそれを否定しなければならないのかということである。
椿井が最も力を注いだ京田辺市ではそういう人々が多い。
椿井文書を否定することは、その地域のアイデンティティーを否定することになってしまっている。

 

終章 偽史との向き合いかた
怪しげな偽りの「伝承」が定着する過程
・定着した偽史は町おこしに使われる
・素人目にもわかりやすい、それらしい根拠がある
・大半の研究者は黙殺するが、一部の研究者が拾いあげる
・後戻りしがたい道程を突き進む

 

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窓際のにゃんことお花

2022-01-29 08:13:36 | 小説

 

うちのにゃんこは窓際が大好きです。

一階二階問わず、あちこちの窓際の狭いスペースでくつろいで、外見たりしています。

画像の場所には鉢植えを沢山置いています。

うまく鉢植えを越えて、窓際で悦に入ってます。

ふにゃ、やっぱり可愛いにゃんこにはキレイなお花が似合うのにゃ。

 

 

そこから出る時に、鉢植え倒さないように気をつけてね。

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放浪学生のヨーロッパ中世

2022-01-22 08:36:56 | ヨーロッパあれこれ

 

放浪学生(ヴァガンテース)のヨーロッパ中世
堀越孝一 著
悠書館 発行
2018年3月16日 初版発行

ヨーロッパ中世史を専門とする、堀越氏による著作です。このブログでは以前「パリの住人の日記」という氏の著書を扱っていました。
中世の秋やフランソワ・ヴィヨンなど、ヨーロッパ中世史の探索の経過を描いています。著者の大学時代から四年間の空白を経て大学院、そして教壇での思い出と共に、日本からフランスのパリを中心とするフランスやブルゴーニュなどでの現地調査など、放浪学生のごとく時空を彷徨続けています。
 
第1部 いま、中世の秋
Ⅰ いま、中世の秋
ディジョン近郊シャンモルの修道院跡にスリューテルの大作「モーゼの井戸」の残存部分「預言者群像」をおさめた六角堂を訪ねた著者。
薄明の濃霧のなか、ようやく探しあてたが、正直、なんの感動も湧かなかった。これは死んだモニュマンだ、灰色の死骸だ。そんな想いに気が滅入った。
それが、どうだろう、その数ヵ月後、ホラントのデン・ハーグにマウリッツハイス美術館を訪ねた折、その背筋の冷えがようやくにしてゆるんだ。
この気分の変調の触媒となったのは、二点の彩色木彫であった。p9

Ⅱ ある日の講義

Ⅲ 青春燔祭

Ⅳ 歴史家の仕事
 
第2部 わがヴィヨン
1992年夏、マロ本を見る
パリのフランス国立図書館で、クレマン・マロが1533年に刊行した『フランソワ・ヴィヨン全集』を閲覧する筆者

「ヴィヨン遺言詩」と名付けられる詩群は原本を持たない。いくつかの写本と印刷本が残っているだけ。
「ヴィヨン遺言詩」と呼んでいるのは、15世紀の末、1489年に、パリの出版人ピエール・ルヴェが出版した印刷本『テスタマン・ヴィヨン』の表題に従っているだけ。
ルヴェ本ののちマロ本が出版されるまでに、パリやリヨンなどで二十種を超す刊本がかぞえられた。p191
 
Ⅰ 放浪学生

Ⅱ 旅立ち
わたしは「フランソワ・ヴィヨン」が実在したとは信じていない。この名は「ヴィヨン遺言詩」として知られる詩文集の主人公の名である。p259

Ⅲ 歌の場
BHVはHV、つまりオテル・ド・ヴィルの前のバザール、市場という意味 p368
 
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父を語る 柳田国男と南方熊楠

2022-01-16 06:36:29 | ヨーロッパあれこれ

 

父を語る 柳田国男と南方熊楠
谷川健一 編
冨山房インターナショナル 発行
2010年5月21日 第1刷発行

第1部 柳田国男を語る
父を語る 語り手 柳田為正(国男の長男)・柳田冨美子(為正の妻)
(柳田為正『父柳田國男を想う』にも収録)

私から見た父・柳田国男 語り手 柳田冨美子
国男さんは「五行ならびくだる」と。一行ずつ読むんじゃなくて五行いっぺんに読む、すごい速さ。そして校正をしている。p90

絵はがきの心 柳田冨美子 
大正4年に為正が生まれてまもなく、父上は突然、貴族院書記官長を辞職してしまいました。将来を嘱望していた娘婿が大臣を目の前にして野に下りたことは、直平お祖父様にとっては驚きばかりではなく大きな落胆であり、精神的な打撃ばかりではなく経済的な心配もあったはずだと想像されます。p96
(民俗学の柳田国男誕生のためには必要な過程だったのかもしれませんが、一族には深刻な挫折だったのでしようね)

 

第2部 南方熊楠を語る
父・南方熊楠の生活と学問 語り手 南方文枝
キューバの曲馬団
イタリア人の曲馬団に日本人の象使いがいた縁で、そこにいた。
南方は象の乗る碁盤を運ぶ役だったが、標本の整理に夢中になって忘れて叱られ飯抜きになった。
曲馬団と一緒でも研究はしており、飯抜きになってもみんなが分けてくれた。
キューバの革命にあったという話はウソだと思われる。p165-166

天皇のご進講の時、標本をキャラメルの箱に入れた話
ボール紙でできており、当時それが一番丈夫だった。
いくらも桐の箱を作らせたが気に入らず、キャラメルの箱が一番いいと言った。p169

天神崎海岸を保護地区にしなければゆくゆくは必ず別荘用地として不動産業者に買収されると憂えて呼びかけたが、一笑に付された。それから五十数年の歳月が流れ、当時の心配が現実となり、いま地元では天神崎買い戻しのため躍起になっている。南方は先見の明があった。五十数年早すぎた。p172-174

 

第3部 柳田国男と南方熊楠
二人の巨人南方熊楠と柳田国男 谷川健一 
 
『山の人生』における京都での大正天皇の即位の大嘗祭
柳田は貴族院書記官長の職分で、古代の服装で供奉していた。
その時山の向こうに煙が上がっているのに気づき、ははあ、山窩が話をしているな、と思う。
山林を放浪する山窩をながめる目と、宮中の厳粛な儀礼である大嘗祭をながめる目が、柳田国男の中においてまったく同じであった証拠になるのではないか。p202-203

柳田の民俗学も熊楠の人類学も、冬も夏も温度が一定な地下水のようなもの。
世間がどう動こうとも、変わらない世界というものがある。
柳田と熊楠は日本人の心の深層というか、一番深いところまで降りていき、彼らの知識を得ようとした。

 

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軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン 第4章~あとがき

2022-01-15 06:47:53 | ヨーロッパあれこれ

第4章 ビールと女給 オクトーバーフェストにて
オクトーバーフェストの発祥と展開
鴎外も訪れていたオクトーバーフェスト

オクトーバーフェストが収穫祭であると同時に、民族的な祝宴でもある。
起源は1810年10月12日に挙行された、皇太子ルートヴィヒとテレーゼの結婚式
バイエルン王国は1806年に王国に昇格。独立後まもなく行われるようになったオクトーバーフェストを祖国バイエルンをアピールする機会として利用

祭りの照明の設置業務を請け負っていたのは、物理学者アインシュタインの父親が兄弟と経営する会社。当時七歳であったアインシュタイン少年も、鴎外と同じく、照明を眺めていたのであろうか。p199

 

オクトーバーフェストと植民地主義
鴎外が留学中の1880年代以降、ドイツの対外政策は大きく方針を転換し、カメルーンやニューギニアなどの地域を保護国として組み入れ、帝国の拡張を図った。

オクトーバーフェストではアフリカ人が登場していた。

女給の存在と魅力
ビール関連の広告業
モデルはコレッタという、ミュンヘン市内で働いていた女給

ルートヴィヒとルイトポルト
ルートヴィヒ2世の罷免によるルイトポルトによる摂政権樹立
そのわずか三日後のルートヴィヒ2世の変死
オクトーバーフェストに背を向けていたルートヴィヒ2世と違い、ルイトポルトが民心を掌握するためには、オクトーバーフェストは貴重な機会だった。

 

結び 〈ルートヴィヒの時代〉の終焉
『うたかたの記』は一貫してルートヴィヒの物語だった。
ルートヴィヒ1世による凱旋門の上のバヴァリア像から始まり、ルートヴィヒ2世の死によって幕を閉じる。

1887年、鴎外はミュンヘンを離れる。去り際に訪れたのは、やはりシュタルンベルク湖だった。
湖上で鴎外の胸に去来するのは、この美しい土地に果てた国王と侍医に対する哀惜の念だけではなく、今まさに終わりを告げようとしている、ミュンヘンの青春への惜別の想いであったのである。p246

 

あとがき
六草いちか氏による鴎外の恋人、エリーゼ・ヴィーゲルトの調査
エリーゼは、ベルリンで帽子職人として身をたてる
ユダヤ人商人と結婚
1953年、ベルリンの老人ホームで86歳の生涯を閉じる。

鴎外の時代のドイツは、統一を果たして間もない時期
ライプチヒやドレスデンはザクセン王国
『文づかひ』はザクセン王国の貴族社会が舞台
ミュンヘンはバイエルン王国
『うたかたの記』は芸術の都ミュンヘンに花開いた画家とモデルの物語
ベルリンはプロイセン王国
『舞姫』はプロイセン流の官僚主義や、再開発が進む近代都市ベルリンを背景に成立

 

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