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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ギリシャ人ピュテアスの大航海(後半)

2023-07-18 20:12:06 | ヨーロッパ旅行記

 

第五章 プレタニの島

ピュテアスのブリテン島の大きさの数字は正確である。

距離を測る方法は毎日どれくらい航海したかを推計する以外になかった。

潮流と風を計算に入れて、航海時間を導き、航海した距離に北、南などさまざまな点を考慮し、至点における真昼の太陽高度を基礎にして導き出した。

経験豊富な船乗りとはいえ、信じがたいほど正確である。p124

 

ピュテアスがどんな船で航行したかは想像するしかない。

大西洋沿岸を舟航する船については、丈夫な樫でつくられ、獣皮を帆にした船が普通だったと考えられる。

 

第六章 極北の島

アイスランドにアイルランド修道士たちが住んでいたことは確かな事実である。

860年頃にノルウェーからヴァイキングの一団がアイスランドに移り住んだ時、修道士らが残していった本と鐘、司教杖などが発見されているからだ。p150

 

世界中で船乗りが注目していたのは、渡り鳥が飛ぶ方角だった。渡り鳥が海を渡る方向についていけば、新しい大陸が発見できると考えたことは頷ける。p151

 

ピュテアスが伝えた二つの天文学的基本的観察

・一日の長さ

・北極圏について

 

ピュテアスによる極北の島を「海の肺」と呼ぶ。

凍結した海か透明な巨大クラゲのような動きか?

(火山活動でマグマの表面の塊が、肺のような動きにも思えてくる)

 

第七章 琥珀の魔力

琥珀には二大産地がある

・ジュート琥珀。ユトランド半島西岸一帯など

・バルト海琥珀。バルト海南側および東側p179

 

琥珀の産地に関するピュテアスの報告がプリニウスの博物誌に使用されている。p182

 

第八章 忘却へ

ピュテアスの探検の動機には商業的動機があったはずだが、他方で、何よりも科学者として、慎重なヘロドトスなど先人が提起した疑問や不確かな点に対する答えを求めて世界の果てまで赴いた。p194

 

『大洋について』とはどんな本だったんだろう。残存している断片から判断すると、主に天文学と海洋、大西洋に面したヨーロッパ北西部に関する一般的な科学書だった。p195

 

ストラポンはエラトステネスが六か所でピュテアスを資料にしていると書いている。

極北とブリタニケー、アルモリカ半島の西の領域、イベリア半島についてである。p204

 

ピュテアスを辛辣に批判したポリュビオスやストラボン

 

ピュテアスの『大洋について』から直接長文を引用したロードス島のゲミノス

プリニウスは『博物誌』三十七巻のうち三巻にピュテアスの観測結果を使用している。

 

訳者あとがき

2001年の著作を訳したが、出版は断られ続けた。

しかし高級ブティック・エルメス社のスカーフ「ピュテアスの航海」が人気で完売した、とのニュースに接し、再度訳稿を引っ張り出し、刊行にこぎつけた。

 


ギリシャ人ピュテアスの大航海 史上初めて北極へ旅した男(前半)

2023-07-17 21:14:02 | ヨーロッパ旅行記

 

ギリシャ人ピュテアスの大航海

史上初めて北極へ旅した男

バリー・カンリフ 著

小林政子 訳

青土社 発行

2023年6月10日 第1刷発行

 

2300年以上昔、マッサリア(現マルセイユ)のギリシャ人ピュテアスがヨーロッパ大陸を経由して、ブリテン島を通り、極北の地まで行った旅について述べています。

紀元前320年頃彼が書いた「大洋について」が公にされましたが、それは2000年前に失われてしまいました。そのわずかに残る断片を利用し、数々の考古学上の発掘も精査して、彼の足跡を追っています。

なお原題は The extraordinary voyage of Pytheasです。

 

第一章 マッサリアの人ピュテアス

古代の英雄ピュテアスとエウテュメネスの像が、マルセイユ証券取引所正面の神殿のような壁龕に飾られている。p13

 

「大洋について」が書かれてから900年間に少なくとも18人の学者に引用された。p14

 

ストラポンには、ピュテアスはガディル(現在のカディス)からタマイス(黒海の北岸)までヨーロッパ世界を航海したというぼんやりとした記述がある。p38

 

第二章 われらの海の彼方の世界

マッサリア植民市創設とほぼ同時期にエジプト王ネコ二世(エジプト第二十六王朝の王)はフェニキア人の船をアラビア湾の先端に集めて船団を組み、アフリカを就航させたことをヘロドトスは伝えている。p53-54

 

第三章 地中海からの脱出

ピュテアスの最大の目的が北ヨーロッパの大西洋沿岸を探検して、錫や琥珀などの資源を発見することだったとすれば、陸路オード川とガロンヌ川を経由してジロンド川の河口まで出、そこから船に乗った可能性がある。

このルートはすでに北方の錫が運ばれる主要交易路だったので、ルートを逆にたどってもおかしくない。p76

 

ピュテアスは天文学に強い関心を持つ自然科学者として古代社会に知れ渡っていた。

紀元前二世紀後半にロードス島で活躍していた天文学者ヒッパルコスの書を通じてピュテアスの天文学の貢献がわかった。p83

 

ブルターニュ半島の鉄器時代の住居の特色は地下室だった。宗教的理由から地下に穀物を置いたのか?p87-88

 

ケルト文化とかラ・テーヌ文化とか呼ばれる時代から、ブールジュはロアール川支流のシェール川の上流と結ぶ陸路上にあり、このルートは効率よくローヌ地方、従って地中海に出られる。p90

 

ブリテンへ向かうのには、ピュテアスがケルト語の基礎さえ理解していれば、諸方言に通じている地元民が手配してくれたのでは?

船に乗せてもらう礼として金貨や銀貨、上等の衣服、色ガラス、珍しい顔料、香水などの贈り物をしたのでは?p93

 

第四章 錫の魅惑

ピュテアスがイギリス本土のどこに上陸しても、まずランズ・エンド半島を目指しただろう。

ランズ・エンドが錫の一大産地であり、そのことをアルモリカの住民から聞いていたはずである。p95

 

ピュテアスの探検記は書かれてから三十年、四十年にティマイオスにより資料として広範に利用され、およそ三百年後にディオドロスやプリニウスによって、時にはクレジットが付され、また時には付されずに引用された。p98

 

 


中世を旅する人びと ヨーロッパ庶民生活点描(前半)

2023-07-03 20:09:06 | ヨーロッパ旅行記

中世を旅する人びと ヨーロッパ庶民生活点描

阿部謹也 著

ちくま学芸文庫

2008年7月10日 第一刷発行

 

Ⅰ 道・川・橋

1 村の道と街道

道の霊をめぐる信仰や慣行は十字路に最も際立った形で集中していた。十字路は良き霊と悪しき霊が集まるところとして、いろいろな迷信の対象となっていた。p20

 

2 川と橋

12、3世紀には河川が重要な交通手段として浮かび上がってきた。各種の平底船や引き綱船が開発され、大量の商品の輸送が可能になってきた。引き綱船のための堤防には家などを建てることは禁じられてきた。p34

 

橋梁建設技術が未熟で財政も不十分であったため、中世の橋は今日のわれわれが現代の橋について感じているように堅固で恒久的なものではなく、一人一人が支えなければ維持しえないものと考えられていた。

財政面での助力はいうまでもなく、河の霊や水の精をなだめたり、橋のたもとに小聖堂を建てて神に祈ることによって、辛うじて橋を維持しうると考えられていたのである。p43

 

Ⅱ 旅と定住の間に

3 渡し守

街道や河川、橋と違って、渡し守は常に人間(渡し守)によって運営されねばならなかった点で、前述の三つの交通手段とは異なった性格を持っていた。つまり最初から「法的制度」として発展してきたのである。

公的な街道においては渡し場を設ける権利も国王の大権に属していた。しかし渡し舟の実際の運用は、この大権を手に入れた修道院や都市、諸侯から臣下などに委ねられていた。p46

 

4 居酒屋・旅籠

エラスムスの『対話集』(1523年版)に収録されている「旅籠についての対話」でドイツの宿について述べられている。

 

この男は黙って皆を見渡して頭数を数える。数が多ければ、その分だけ暖炉に火をくべる。たとえ温度が高くてもそうするのだ。連中には皆が汗をぐっしょりかけば、厚くもてなしたことになるのさ。

(柳田國男の「清光館哀史」で、旅籠に到着した時、夏にもかかわらず火を起こして客をもてなしたという一節がありました)

 

いずれにせよ旅をすみかとしたようなエラスムスが、ドイツのどこかの宿で腹を減らして食事を今か今かと不機嫌な顔をして待っていた様子を想像すると、ホルバインの描く謹厳なエラスムス像などと重ね合わせてなんとも親しみがわいてくる。それがドイツ人論までゆきかねないのだから、やはり食物の恨みはおそろしいというべきか。p72

 

Ⅲ 定住者の世界

5 農民

 

6 共同浴場

農民戦争の敗北と前後して都市の共同浴場は急速に姿を消していった。

その原因については、木材(燃料)の価格が騰貴したこと、梅毒の流行、浴場が堕落頽廃したこと、浴場での治療が禁じられたこと、浴場が教会と国家に対する反体制派の溜まり場になったこと、などの原因が絡み合ったためといわれる。p116

 

7 粉ひき・水車小屋

水車が一般に普及したのはまさに中世になってからである。豊かな奴隷労働力を持っていた古代世界においては人力を節約する必要は全くなく、むしろ飢えた大衆に仕事を与えなければらなかったから、せっかくの(水車の発明も)実用化の社会的需要を持っていなかったのである。p125

 

水車使用強制権という悪法に対して、ヨーロッパの庶民はいたるところで自家用の手回し碾臼を使って抵抗した。p133

 

8 パンの世界

キリスト教がヨーロッパに普及していく以前から穀物とパンとは、われわれにとっての米と餅のような、あるいはそれ以上の役割をヨーロッパの人々の生活の中で果たしていた。

 

 


都市風景画を読む 19世紀ヨーロッパ印象派の都市景観

2023-06-28 20:17:00 | ヨーロッパ旅行記

 

都市風景画を読む

19世紀ヨーロッパ印象派の都市景観

萩島 哲 著

九州大学出版会 発行

2002年11月25日 初版発行

 

この本では、都市的風景画の実景の専門的な調査で得られた結果を書き記したものです。都市景観という観点から絵画の読み方を提起しています。

コローやユトリロ、ピサロやシスレーなどの絵画とその場所を紹介しています。

このブログの中でも、過去印象派の描かれた場所を訪問した記事を書いたり、写真に撮った場所を改めて調べたりしています。最近ではグーグルマップを参考にすることが多いです。

シスレーのモレ・スール・ロワンでは、ちらしやパンフレットで、実際に描かれたあちこちの場所を紹介していました。

 

ヨーロッパの風景画71点を分析した結果

・まちの全貌を見渡す景観

・シンボリックな建造物の景観

・道路と建築のパースペクティブな景観

・道路と河川のパースペクティブな景観

・河川とまちなみの景観

・港湾の景観

の六つの典型的構図に分類することができる。

 

この後の記事で、この本で取り扱った二、三の絵画について紹介してみます。

 


シベリア鉄道 三度目の正直

2023-06-25 20:50:10 | ヨーロッパ旅行記

 

シベリア鉄道 三度目の正直 ロシアは退屈を知らない

中野吉宏 著

2022年12月17日 第1刷発行

17出版 発行

 

シベリア鉄道に三度乗った著者による紀行文です。

一度目は1982年、大学生の時

二度目は2000年、1週間ほど徹夜して仕事を片付けての出発

三度目は2016年、妻に反対されながらの旅行でした。

 

一度目のルートは

横浜から船に乗ってナホトカに行き、ハバロフスクからウランウデ、そしてモスクワ、サンクトペテルベルグ(当時レニングラード)を経て、ヘルシンキからスウェーデン、そしてノルウェイの北極圏まで到達。

二度目のルートは

神戸在住の著者は大阪から船に乗って太平洋側を通り上海、蘇州からウランバートルを通過して、ウランウデからシベリア鉄道を利用

三度目のルートは

大阪から今度は瀬戸内海を船でとおり同じく上海に上陸し二度目とほぼ同じルートを通っています。

 

表紙裏にわかりやすい行程地図があり、位置を捉えやすいです。

また見開きの右側に文章、左側にその関連写真を配置するという、極めて分かりやすい構成になっています。

三度の旅行で訪問した場所、そして出会った人々との時の流れを比較しながら、話を展開していきます。

鉄道内や訪問先で様々な人と人懐っこく付き合って、その付き合いが後の人生まで続いていくのはさすがです。

たまたま出会ったロシア女性が日本まで遊びに来て、さらには結婚式の招待状が届き、律儀にサンクトペテルベルグまで行って結婚式に出席したのは凄いですね。

 

モンゴルでは以前と同じく、恐ろしく荒っぽい運転の車が目立つこと。

前に車があると追い越す必要がなくても追い越そうとする。

対向車線にはみ出して並走状態になる時間が長い。

モンゴル人はハンドルを握ると馬を操っている感覚に陥るそうだ。p59

 

イルクーツクの19時。

車道を飛びわたるバレリーナの写真を撮る

(すごくシュール、超現実的な画像でしたね)p82

 

ヘルシンキからフィンエアで関西国際空港まで片道19万円もするが、サンクトペテルベルグからヘルシンキに飛び、同じフィンエアに乗り替えるとたった4万円になる。p165

 

ヘルシンキの「生神女就寝大聖堂」

何のことはない、東方正教会の「ウスペンスキー大聖堂」のこと

神戸にも同名の聖堂がある。p169