ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ドイツの家と町並み図鑑

2024-02-25 20:23:27 | ヨーロッパあれこれ

ドイツの家と町並み図鑑

久保田由希 チカ・キーツマン 著

エクスナレッジ 発行

2022年11月1日 初版第1刷発行

 

ドイツのきれいな町並みというか家並びを、豊富な写真とわかりやすい説明で楽しく観察できます。

 

1章 ドイツの家の基礎知識

ドイツにおける住宅の変遷

・木組みの家 13~20世紀 全国

・レンガの家 中世後期~現代 おもに北部ドイツ

・歴史主義建築 1871~1914 ベルリンなどおもに大都市

・ユーゲントシュティール 1900年前後 ダルムシュタットなど

・レフォルム建築 1900~50年頃 おもに小都市や郊外

・表現主義建築 1920年前後 ハンブルグ、ラインラント地方など

・モダニズム建築 1920年以降 ベルリン、フランクフルトなど大都市から全国へ

 

木組みの家

木材を水平、垂直あるいは斜めに組んで骨格を作り、その隙間をレンガや粘土などで埋めて壁をつくる

茅葺屋根の家

ヨシやアシ、その仲間や麦を利用する

ギーベルハウス

玄関が屋根の妻側(正面から屋根の三角形が見える側)にある妻入りが通りに面している家。ファサード上部の三角形部分をギーベルと呼ぶ

アルトバウ

19世紀後半、大都市に流入してきた労働者のための集合住宅

レフォルム建築と田園都市

装飾の少ない、落ち着いたシンプルな様式

モダニズムジードルンク

モダニズム建築とは直線的でシンプルな建築。ジードルンクとは集落や団地の意味

スターリン建築

壮大なスケール。高い天井や柱

プラッテンバウ

東ドイツでのプレハブ建築

 

第2章 一軒家

北ドイツのノイブランデンブルグのヴィークハウス

もともと市壁に付属していた防御施設だったが、武器の進化で戦い方がかわり、1650年以降は住居となる。

 

氷河期に氷河に覆われていた北ドイツ。氷河とともに北から運ばれてきた多くの石がある。それを市壁や石畳、そしてさらには住居にまで使われた。

 

ギーベルハウスは特に中世のハンザ都市で多く見られる。

ハンザ都市のギーベルハウスは商人の仕事場兼住居だった。

 

第3章 集合住宅

グロースジードルンク・ブリッツ(ベルリン)

馬蹄形の建物を中心とした、斬新な労働者用住宅

 

ジードルンク・ブルフフェルトシュトラーセ(フランクフルト・アム・マイン)

ジグザグ型で、日光が入りやすくする

 

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アストロラーベ 光り輝く中世科学の結実

2024-02-23 20:58:35 | ヨーロッパあれこれ

 

アストロラーベ

光り輝く中世科学の結実

セブ・フォーク 著

松浦俊輔 訳

柏書房 発行

2023年4月6日第1刷発行

 

中世のイングランドの修道士の一生を通して、観測や計算用の器具を中心に、中世の科学の成果を丹念に追っている、大変興味深い本です。

 

序章 謎の稿本

現実の中世は、科学的関心と探求による「光の時代」だった。

 

英語のscienceの元になった中世のラテン語scientiaは、一般的な意味での知識とか学問、あるいは思考の方法といった意味にもなりえた。あるいは数学や神学も含め、組織された知識の部門なら何でも指すことができた。

 

『カンタベリー物語』のチョーサーらしき署名がある、アストロラーベ解説書と完璧に一致する稿本を見つける。

それは寄贈者にして書き手はイングランドのウェストウィックのジョンという修道士だった。

彼は14世紀後期に生きた、普通の修道士で、地方の荘園に生まれ、イングランド最大の大修道院で教育を受け、崖の上の修道分院に追われ、十字軍にも参加し、発明家であり、占星術師だった。

 

天文学は最初の数理科学だった。それなしに現代科学のモデルも公式も存在しえなかった。天体の規則正しい運行が神の完全さを明らかにするからと、天文学に関心を抱くのは当然だった。

実用的な意味も大きく、計時にも暦にも、地図や建築、航海や医療にも影響した。

 

第1章 WestwykとWestwick

当時の修道士の苗字と同様、ウェストウィックは地名であり、出身地を示している。

 

ジョン・ウェストウィックは20歳頃のセント・オールバンズ修道院入所までウェストウィックの荘園で育った。

 

紀元後1世紀に書かれたウェルギリウスによる『農耕詩』は中世イングランドではよく知られていた。

 

ローマ数字とインド・アラビア数字の決定的な違いは、後者には桁の値が組み込まれていたところだ。各桁の数字の意味は、紙面上やその数字の位置で決まる。

 

ノーサンブリアの修道士ベーダが八世紀に書いた、両指で9999までの数字を表す方法

 

第2章 時を数える

アストロラーベの使い方

夏でも冬でも、一日の本当の各時間を、疑問の余地のない方法で知ることができる

11世紀初頭、このイスラム科学の受容において、スイス・ドイツ国境のボーデン湖のライヒェナウ修道院のヘルマンと呼ばれる修道士が重要な役割を演じる。

 

太陽は常に、星座による周回コースを正確にたどり、一年で一周する。この道は「黄道」と呼ばれる。

 

二人のフランス人天文学者によって教皇のためにしつらえられた「新黄金数」方式というある案は『ベリー候のいとも豪華な時禱書』に残っている。

この豪華な絵入り時禱書については、美術性については正当に称えられるものの、天文学的内容については無視されることが多いのだが。

 

ウェストウィック修道士が大学で勉強する機会を得たかどうかはわからないが、後に本人が示した専門知識からすると、得られたとしか思えない。

 

第3章 組合(ウニウェルシタス)

大学は忽然と現れたのではなく、12世紀にアラビア語やギリシャ語の哲学・科学の著作が大量に翻訳されたのに触媒されて、修道院学校や聖堂学校の時代に、何世紀もかけて徐々に発達してきた。

 

リベラルアーツ(学芸科目)

「リベラル」というのは、奴隷でない自由な身分あるいは貴族にふさわしいとされたからであり

「アート」というのは今日のような美的活動という狭い意味を表すのではなく、学ぶに値する技能のことだった。

 

今日では、中世の学者は世界は平らだと信じていたと広く思われているが、それはおおむね19世紀に作られた伝説だ。

ワシントン・アーヴィングがコロンブスを描いた作品の中で、無知な教会人に対しコロンブスが西へ航海するとインドに行けると論じたように描いた。あたかも科学と宗教が対立するように。

コロンブスの地理学的想定はウェストウィックの時代の人物、ピエール・ダイイの成果に基づいている。

 

セント・オールバンズの代々の院長が学生を大学に派遣することを止めなかった。この投資は修道院に学問の権威をもたらすという間接的な利益だけでなく、直接的にも修道士の教育水準を高めることになった。

修道院は学問の世界を巨大なネットワークにつながり、世界中の思想と本を持ち帰った。

ヨーロッパ共通語であるラテン語によって、パリでもパドヴァでもケルンでもケンブリッジでも仕事ができた。

今日、多国籍企業が社員をニューヨークから上海へ移動させるようなものだ。

 

第4章 アストロラーベとアルビオン

アストロラーベは、これが持ち運べる装置だということ

 

アルビオンの重要な機能は、それ以前からある器具の属性をひとまとめにし、精巧にすることだった。

 

セント・オールバンズの最も辺鄙な分院は、イングランド北東端の地、タインマスにあった。

そこは代々の大修道院長が最も反抗的な修道士を送るところだったが、他方、頭抜けて野心的な修道士にとっては、ものすごくやりがいのある課題を提供する地位でもあった。

 

第5章 土星一室

タインマスは初期のイングランドのキリスト教の中心として、この地域が重要だった。また修道士仲間の海との危うい関係だ。

ウェストウィックが北極方向、このタインマスへ向かって進む一歩一歩とともに、自分が丁寧に写した天文表の一つが少しずつ正確でなくなっていることを認識した。

 

第6章 司教の十字軍

1383年、ジョン・ウェストウィックは十字軍の旗を追って進んでいた。その頃はもう十字軍は古い制度になっていた。すでに300年経っていた。

 

中世の地図は、ちょっと見ただけでは恐ろしく不正確に見えるだろう。

地図はつねに何らかの問いに対する回答であり、一連の優先順位に対する応答だ。明瞭であることが大事か、それとも完全であることか。

通勤する人びとは、地面の形を歪めても簡潔になっている地下鉄の路線図を難なく利用している。

 

アレクサンダー・ネッカムは1157年、将来のリチャード一世王と同じ夜に生まれた。母は乳母で、右の胸で王子に乳を与え、自分の息子には左から与えたといわれた。

ネッカムはオックスフォードで教えていた。後にアウグスティノ会士となり、そしてイングランド西部の大修道院長になった。そこで1200年頃、最も重要な科学的著作「事物の性質について」を書いた。

ネッカムはラテン語の文法教科書に、初めて例として方位磁石を収録した。その本を書いたのはパリ留学中の事だった。

それから帰国し、ダンスタブルやセント・オールバンズのグラマースクールで教えたが、後にオックスフォードに移った。

著作の教科書の中に航海用具の節があったが、もしかすると、自身が英仏海峡を渡った船旅の記録に基づくのかもしれない。

悪天候で星が見えにくくなるといけないので、船にはふつう、「軸の上に載せた針」があり「それは回転して向きを変える・・・そうして船乗りはこぐま座(北極星がある)が見えなくてもどちらへ舵を切るか知る」と書いている。

となると明らかに、ドライ式の方位磁石は1180年代には当たり前に使われていたということだ。

 

中世の巡礼や貿易にとって、水上の移動は陸上よりもずっと楽であることが多かった。海は障害ではなく、街道と考えるべきだろう。

 

あるペルシャの碩学は、船酔いをこらえる旅行者は、ざくろ、マルメロ、すっぱい葡萄の果汁を試すとよいだろう。しかし最もよいのは、慣れるまで我慢するだけだ、と言っていた。

 

第7章 惑星計算器

惑星計算器、エクァトリウムで惑星の正確な位置を出せるようにする。つまり惑星の動きを再現し、位置を計算する。

 

ウェストウィックがアストロラーベの手引書にチョーサーの名を挙げたいと思った最も重要な理由は、それが早くから当たりをとっていたこと、チョーサーが世に先駆けて学問に英語をつかったことだと私(著者)は思う。

 

プトレイマイオスよりずっと前から、天文学者にとって差し迫った問題は、惑星運動を説明することだった。惑星はジグザグに進むだけでなく、逆行したりする。

今では、逆行運動が生じるのは、太陽に近い方の惑星が、遠い方の惑星を追い越す、つまり両者が近い側にあるときに追いついて、内側から抜き去るときのことだというのがわかっている。

 

ジョン・ウェストウィックの取扱説明書は、学問の国際語、ラテン語ではなく、職人が使う中英語で書かれていた。この時期は英語が急速に発達する時期で、ラテン語やフランス語と自由に入り混じっていた。

つねに百年戦争が爆発寸前で、ますます愛国的になる政治的階層が、庶民の世俗的英語を民俗的統一のシンボルとして奨励しておりラテン語やフランス語での読み書き能力は徐々に衰え始めた。

この稿本には、ジョン・ウェストウィックが書いたことで英語に初登場した語句が20以上あった。それは天文学用語か自作器具の部品名だった。

 

ストア派の哲学者、セネカの言葉「人は教えながら学んでいる」

 

印刷とは、ただ学術書を今までよりもはるかに多量に作り、読まれるようにすることなのではない。

それによって複雑な図の模写が正確になり、天文暦が安価に大量生産できるようになったということだ。

 

コペルニクスが太陽を中心に置くことだという結論に達したいきさつそのものは歴史家の間で議論されている。

そのような系が成り立つようにすることができたのは、中世天文学者、多くはイスラム世界の天文学者が注意深く組み立てた幾何学によっていた。

もっとも重要な人物は、ペルシャの碩学、ナスィールッディーン・アル=トゥースィーだった。

彼はイランの北の果て、マラーガに大規模な天文台を建設する資金を出させた。

コペルニクスが自身の太陽中心天文学の数理を明らかにしようとしたときには、「マラーガ学派」やその後継者たちの成果のおかげをこうむっていた。

 

終章 謎の装置

中世から現代科学まで、破線でまっすぐではないが、一本の線が続いている。

中世において

・古典やアラビア語の文献を体系的に翻訳し、その研究拠点となる大学をもたらした

・天文学への、そして占星術への強い関心から、人々が外の天の世界を見て、予測を検証し、天文表を編纂し、最終的に宇宙を再編するような理論を繰り上げる

・修道士が機械式時計をしつらえ、暦の正当性に異議を唱える

・キリスト教徒がインド・アラビア数字を採用した。ヨーロッパ人が世界中の薬剤で実験。視覚と光のあれこれの理論を人間の知力を説明

・錬金術師が現代化学で今も用いられている実践的方法を開発

・欧州人が地図作りや羅針盤の新技術に助けられ、海の向こうを探検し始める

・神によって秩序を与えられた宇宙をモデル化する複合的な器具を組み立てる

ニュートンが謙虚を装って「巨人たちの肩の上に立っている」と書いたその言葉は、本人が認識している以上に正しかっただけでなく、中世から受け継いだメタファーだった。

 

宗教が科学の進歩に対する障害ではなかった。中世のキリスト教徒が、異教の学問を偏見なく尊重し、吸収してきた。

それらの対立に火をつけたのは、主として政治的因子、個人的因子だった。

 

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ダンテ その生涯(後半)

2024-02-18 20:37:32 | ヨーロッパあれこれ

(フィレンツェのダンテの家)

 

10  政治 豪族と平民

ダンテが商売をほとんどしなかったのは、勉学に懸命に取り組んだことに加えて、遅くとも30歳前後にはフィレンツェの政治に積極的に参加するようになっていたからである。

ただ、政府のポストはプロの政治家にゆだねるのではなく、非常に多くの人間が交代で担当していた。

 

ダンテが評議会に参加するにはいずれかの組合に登録していなければならなかった。

彼は医者・薬屋・雑貨商のアルテに所属していた。このアルテはあらゆる種類の専門家や起業家たちを幅広く受け入れる、間口の広い組合だった。

 

11 政治 白派と黒派

ダンテのプリオーリに任期直前の月日が、神曲というフィクションの中で、ダンテ自身が「暗い森」に迷い込んだと宣言した月日に一致することを思い起こすのは、的外れなことだろうか。

政治活動にどっぷり浸かり、ほどなく事実かどうかかはともかく、横領、犯罪幇助、汚職の罪で裁判にかけられ、判決を受ける羽目になる。

 

ダンテが生きた時代のフィレンツェは、大普請の真っ最中でもあった。

 

12 追放

 

13 亡命者の家族

追放時にダンテは妻子をフィレンツェに残してきた。子供らは年齢からして亡命生活をさせるに忍びなく、一方、妻の身は安全だった。彼女は敵の党派を率いる有力な家と宴席関係にあったからである。

 

ダンテの妻は貴重品やダンテの原稿をおさめた金庫を修道院に移した。貴重品を修道士に預けて保管するというのは、フィレンツェの富裕層が反射的に考える自衛策だった。

 

ダンテは、もう一人の娘にベアトリーチェという名前をつけていた。

 

14 資産の行方

ダンテの妻は嫁資の権利を行使した。そのおかげで自分と子供を養うことができた。

 

15 悪い仲間

 

16 ヴェローナの謎

ダンテは人生最後の20年間を亡命生活で過ごした。この期間についてわかっていることは少ない。

 

ダンテは政治的コミュニケーションの手練れであり、その手腕を買い、報酬を払うものがいてもおかしくなかった。

 

17 改悛

仮説として、ダンテが亡命初期の最も長く、最も重要な期間をボローニャで過ごした、というものがある。

またトレヴィーノにも滞在していた、という説もある。

 

18 「他人の家の階段」

ダンテがパリに滞在していたという説もあるが、疑念を抱く研究者も多い。

フランスに行ったとしても、アヴィニョンの教皇庁までと見る者が多い。

 

ボッカッチョはパドヴァ滞在にも言及している。

またルッカ滞在の可能性もある。

 

19 ハインリヒ7世

 

20 他人のパン

ハインリヒ7世死後の数年間は、ダンテの最も深い闇に深い闇に包まれている時期

 

宮廷人というのは、何よりもまず同席する客をもてなす術をわきまえ、他人の金で飲み食いする人間である。

 

21 ラヴェンナ

当時のラヴェンナは、イタリアで最も裕福な大司教の住み、大修道院がある、強大な宗教都市だった。また商業の中心地としても栄えていた。

 

ダンテの死因は、一般的には、沼地を旅している間に感染した急性マラリアと考えられている。

 

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ダンテ その生涯(前半)

2024-02-17 20:49:18 | ヨーロッパあれこれ

ダンテ その生涯

アレッサンドロ・バルベーロ 著

鈴木昭裕 訳

亜紀書房 発行

2024年2月3日 第1版第1刷発行

 

ダンテの謎に満ちた人生を、様々な説を挙げながら、詳しく述べています。

このブログでも紹介している清水廣一郎先生の本を読んでいたおかげもあり、公証人文書の大切さが改めて理解できました。

 

1 聖バルナバの日

1289年6月11日、土曜日、聖バルナバの日、カセンティーノ地方を行軍し、アレッツォ領に入ったフィレンツェ軍

この中に騎士、もっと正確にいえば、最前列に並んだフェディトーリ(斬り込み隊)の中に、詩人ダンテの姿があった。

 

2 ダンテと高貴さ

ダンテが貴族が否か、という問いに答えるのは容易ではない。なにしろ貴族という概念自体に正確な定義がないからだ。

 

3 カッチャグイーダとその他の人々

 1 アダーモの息子カッチャグイーダ

カッチャグイーダはダンテの高祖父

 2 曾祖父 アラギエーリ

 3 祖父ベッリンチョーネと息子たち

ダンテの父や祖父、叔父たちは高利貸だった。

 4「アリギエーリ一族」

 

4 ダンテ一族

 1 家紋

 2 アリギエーロの家族

 やたら男性の名前だけが出てくるのは、商取引や政治に関する資料から取られたから。

 嫁資の設定の手続きの経済的契約のおかげで、父親の結婚や妻の名がわかった。

 3 冒険人生 ベッロ弟脈の従兄弟たち 

 

5 子供時代と隣人たち

 1 誕生日と名前

 誕生日は1265年の5月という計算になる

 ダンテという名前はフィレンツェでは珍しい名前ではなかった

 2 「ターナとフランチェスコ」

 姉妹の名前

 3 家とご近所

 ダンテが倒れた家、そしておそらく彼の生家だった家は、現在、ダンテの家と呼ばれる博物館がある場所がほぼそれに該当する

 

6 愛と友人

ベアトリーチェについて

 

7 教育

ダンテの時代、学校の先生たちは子供たちにあまり好かれていなかった。

 

当時の言語において「文法」といえば、それはラテン語を意味した。

 

ダンテの時代においても、男色が道徳的な非難を受けることがあっても、市当局や教会によって激しく迫害されることはなかった。

ブルネット・ラティーニ先生に神曲の地獄篇で会っている時の、ダンテの驚きと親しみ。

ブルネットが地獄の責めを受ける理由を弟子であったときには知らなかった可能性が高い。

(最近のジャニーズの創始者とそこのタレントみたいな関係か?)

 

ダンテが受けた教育のあゆみ

・家族が雇った学童教師。読み書きを教え、ラテン語の初歩を教えた

・文法教師が中級ラテン語や、他の自由学芸の基本を教えた

・青年期にブルネットから手紙や演説原稿の知識を得て、キケロと出会う

・20歳前後でボローニャで自由学芸の学部で修辞学を学ぶ

しかしボローニャでダンテが神曲の中で思い起こしているのは、ガリセンダの塔が傾いている側に立って空を見上げると、雲が通り過ぎるたびに、塔がこちらに向かって倒れこんでくるように感じられるという、観光客的な体験

 

8 結婚をめぐる謎

ダンテの結婚の事実を知ることができるのは、ダンテの死後、未亡人に彼の財産の所有権が移ったが、その権利を証明するために嫁資証書を提出しなければならず、そのデータが公証人によって書き写された。

 

嫁資の額は少なかったが、これは女性が自分よりも社会的地位の低い男性と結婚する場合、夫は慎ましい嫁資で満足するのが常だった。夫が手に入れる名誉は、それを補って余りある。

 

9 ダンテと事業

ダンテの父親は実業家だったが、彼がまだ十代のときに亡くなっているため、長男であるダンテが事業の処理を行わなければならなかった。

 

ダンテはそれなりの財産を持っており、一族の中では初めて不労所得で生活でき、貴族的な活動に従事する余裕があった。

 

 

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柳田国男と民俗の旅

2024-02-06 20:16:21 | ヨーロッパあれこれ

柳田国男と民俗の旅

松本三喜夫 著

吉川弘文館 発行

平成四年九月二十日 第一刷発行

 

Ⅰ 柳田国男の小さな旅

一 野火止・清戸への旅

野火止は現在の埼玉県新座市、清戸は東京都清瀬市

 

野火止では次の三つのテーマに話が及んだのでは?

・産業組合の問題

・土地改良の問題

・土地と小作の問題

 

柳田が清戸の強清水伝説(泉の水が酒だった伝説)に関心を寄せていった理由

・武蔵野の歴史究明への関心

・伝説研究への関心

 

二 内郷村への旅

大正七年(1918)、柳田国男が中心となって郷土会の会員と実施した相州内郷村(神奈川県相模湖町)の調査

 

柳田の内郷村農村調査は、今日では民俗学創世期の先駆的調査として位置づけられるが、柳田の気持ちの上では、まだ民俗学を意識しておらず、むしろ依然として農政学の展開を考えていたといえる。

 

柳田は内郷村の正覚寺を離れるにあたって、「山寺や葱(ねぎ)と南瓜(かぼちゃ)の十日間」という句を詠んだ。

調査期間中の食事の内容を詠んだものだが、そこには現代文明に浸潤される山村姿があり、食糧問題があった。

 

三 対馬への旅 漂着の島

柳田の対馬に関する記述は、朝鮮人の往来、猪の泳力、方言の分布、漂着神、うつぼ伝説、巫女とその関心事のいずれもが海に関りを持ち、漂着、あるいは漂泊という視点から見据えている。

 

Ⅱ 柳田国男の大きな旅

一 椎葉村への旅と『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』の世界

柳田が実際に椎葉村の農業を見て、新たに関心を惹起されたのは、椎葉村は山間部にあるがゆえに平地が少ないにもかかわらず、水田耕作に力が入れられていることであった。

椎葉村が焼畑を主としながらも米作を志向している農民の姿は、平地的米作一辺倒への画一的農政や農政の自律的営みを無視していることへの疑問と不信を意味していた。

 

柳田は焼畑農業に関心をもって椎葉村を訪れたが、中瀬淳の影響もあって次第に椎葉村に伝わる狩猟の習俗に心を奪われていった。

 

柳田の椎葉村への旅は、新たな農政学への有り様に思いを巡らされるとともに、民俗学模索への始まりを意味していた。

 

二 附馬牛村への旅と『遠野物語』の風景

遠野物語では、主として上閉伊郡の村々が昔話の対象になっているが、この稿では、陸中の霊峰早池峰山の南面に広がる附馬牛村を対象とする。

 

『老媼夜譚』は佐々木喜善が辷石(はねいし)タニという老婆から聞いた話をとりまとめた作品である。

辷石タニはそこに書かれた昔話の他に、まだ沢山の話を知っていたが、「タニは近頃喋ることを嫌った。喜善が自分の話を取り纏めて金儲けをしていると噂する者がいた」からだった。

 

Ⅲ 柳田国男と今昔の人々

一 岡田武松と柳田国男 『北越雪譜』と『利根川図志』

『北越雪譜』は越後塩沢の商人鈴木牧之の手に成り、天保六年(1835)に初編発行

この中で、日常茶飯事的に繰り返される雪との戦い、雪の中の人々の生活を描く。

 

安政五年(1858)赤松宗旦が『利根川図志』を著す。

 

この二書がほぼ時を同じくして岩波書店から刊行される。

北越雪譜は昭和11年刊行で、校訂は気象学者の岡田武松が行う。柳田の大きな助力が想定される。

利根川図志は昭和13年刊行で、校訂は柳田国男が行う。岡田の北越雪譜が大きな影響を与えた。

 

二 早川孝太郎と柳田国男 『大蔵永常』考

早川孝太郎が大蔵永常をまとめあげる。

 

三 菅江真澄と柳田国男 高志路の旅

菅江真澄の旅の中で空白になっている高志路(今の新潟県)の動向について

 

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