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ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

私たちの東欧記 ソビエトからブルガリアへ

2023-03-18 13:13:55 | ヨーロッパ旅行記

 

私たちの東欧記 ソビエトからブルガリアへ
藤本ますみ 著
日本放送出版協会 発行
昭和56年3月20日 第1刷発行

35歳で勤めをやめた母と6歳の娘による、舫(もや)い旅を記録した本です。1974年の夏、日本からシベリア鉄道によってモスクワまで行き、そこからウクライナを通ってブルガリアまで行きます。そしてブルガリアでエスペラント語の語学講座に参加します。
著者のご夫婦で特徴的なことは、夫がエスペランティストだったことと、ご本人が梅棹忠夫先生のもとで八年間秘書をしていたことでしょうか。それらもこの旅を決行させる要因になったようです。
旅の中で交わされる、親子の会話が柔らかい関西弁(京都弁)なのが、読んでいてほっこりします。

 

Ⅰ シベリア鉄道の旅
当時のブルガリアは一般の人の外国流行はきびしく制限していた。そこでエスペランチストの文通友達に滞在費負担で「招待」してもらい、その代わり、友達にもブルガリアに来てもらって、そのときは自分が一切の面倒をみることにした。そうすれば、どちらも損得なしのお互い様だ。p5
エスペラントはいわば地球市民のもっている共通の鍵なのである。p6

1974年6月29日、横浜港からソ連船バイカル号に乗る。
船内のサロンでソ連入国の手続きが始まっている。バイカル号はすでにソ連国内なのだ。

バイカル号はナホトカに上陸し、そこから汽車に乗ってハバロフスクに出て、そこでウラジオストクからくる汽車に乗った。

 

Ⅱ モスクワからソフィアへ
ウクライナのキエフ(キーウ)のエスペラントクラブに出席する藤本さん。日本語の漢字について説明する。日本語はたいへん面白い、難しい、謎のような、神秘的な言葉だという感想。
それに対し、漢字は魔法の言葉で、それを発明したのは、魔法使いですと相槌をうつ著者。p127

ソ連国境の駅、ウンゲニで、本やノートや大切な手帳を検査官に取り上げられる藤本親子。
焦って混乱して、子どもを列車内に残して、駅構内をさ迷うお母さん。
しかしやはり思い直して列車内に戻ると、子どもは泣きじゃくっていた。「さみしかったの、わたし。おかあさんのばか、ばか、ばか」と、ところかまわず母の体を叩く子ども。
子どものいうとおり、わたしは馬鹿な母親であった。
十分もした頃、検査官が戻ってきて、取り上げたものをベッドの上に次々投げ出す。
結局、検査官は取り調べのために、いったん品物を持ち去っただけのことたった。
なんでこんなつまらんことをして、人の気持ちをひっかきまわさなならんのやろか、と怒る藤本さん。

 

駅名表示板のMOARA VLASIEI(最後のAは上に点)
モアラ・ヴラスィエイと読むのかな。
それにしても、とてもすっきりした看板だな、ともう一度ゆっくりながめる。そして、やっと気がついた。
「ここはルーマニアだ。キリル文字の国じゃないんだ」
この二週間、ソ連の看板やメニューばかり見てきたわたしの目には、ここの看板はたいそう、あっさりして見える。p155

 

Ⅲ 私たちの東欧記
四ヶ月から半年、子どもと二人だけで旅行することを不審がるブルガリアやポーランドの人々。夫婦が不仲か、女房のわがままかと疑う。
夫婦や恋人同士ならお客の前でも普通に寄り添っている人々。

ブルガリアの晴天続きの夏
六、七、八月は麦刈りがあるし、ひまわり、とうもろこし、ぶとうが熟するときだから、カッとお日さまに照ってもらわなければ困る。畑にはスプリンクラーがついていて水まきができるから、一ヵ月位雨が降らなくても大丈夫。それに夏は黒海に太陽をもとめてくる人が多いから、雨なんて降ってもらったら困る。p213

エスペラントの授業中で海水浴場の絵を見て藤本さんは海水浴がひらめくのに、ほかの人はいっせいに日光浴といった。日本人と北ヨーロッパの違いかと思ったが、太陽がふんだんにあるブルガリア人も同じく日光浴だった。p215

遠足の時にもらったお弁当
大きなサラミ一切れやきゅうりやトマト、そしてブルガリアパン
ルーマニアのモアラ駅でもおじいさんが同じような朝食を食べていた。
チェコスロバキアやポーランドの女性は不満そうだが、藤本さんはひどいものだと思えなかった。
あと塩と大きいカップを持っていけば、大丈夫だ。

 

なぜブルガリアがエスペラント語に力を入れ、普及をすすめるようになったのか?
第二次世界大戦でブルガリアが日独伊三国同盟に加わると、ソ連はブルガリアに宣戦布告し、ソ連赤軍が侵入してきた。政府軍はこれを迎えて戦ったが、国内の共産党を中心とするパルチザンたちはひそかにソ連軍側につき、ファシスト政権を敵にまわして戦った。その時のパルチザン軍の仲間にエスペランチストたちも加わり、勇敢に戦ってファシスト政権を倒し、パルチザンを勝利に導いた。これによってパルチザンたちは祖国戦線政府をうちたて、1946年9月、国民投票を行い王制廃止を決め、「ブルガリア人民共和国」を成立させた。
パルチザンとして戦ったエスペランチストの中にも新政府の要職につく者が出てきて、ブルガリア国内にエスペラントの普及をはかるよう努力した。p231

定住ジプシーの一角を訪問する藤本夫妻
黒ずんだ廃墟のようなたたずまいで、近寄りがたい雰囲気
ジプシーは夫妻が村に戻りかけると、ぞろぞろとついてきた。しかし、この先には村の人家があるというところまでくるとピタリと足をとめ、そこで自分たちの家のほうへ戻っていった。まるで村へは足をふみこまない、決めてあるみたいだった。

 

ポーランドはエスペラントの創始者ザメンホフの生まれた国である。1859年、ワルシャワの東北の町ビアウィストクで生まれたユダヤ人だった。この町は当時ロシア領で、人口の七割を占めるユダヤ人、そのほかポーランド人、ロシア人、ドイツ人、リトアニア人、タタール人などが住んでいた。人々はお互いに言葉が通じないために、誤解や行きちがいを起こし、争いが絶えず、ついには流血騒ぎになることもしばしばであった。
異なる民族が話し合うためには、どれかひとつの民族の言葉ではなく、どの民族にも属さない言葉にしなければならない。そう思ったザメンホフ少年は自分でその言葉の試案をつくり、学校友達や弟に教えたり、自分で翻訳してみたり、実際に使えるかどうかを何回も試してみた。
何年にもわたって修正を重ね、ついに1887年、彼は「国際語」を発表した。ただしそのときは創案者の名前としてザメンホフを名乗らず「エスペラント博士」という匿名を使った。それで後になってこの言葉は「エスペラントの言葉」といわれるようになり、やがて「エスペラント」と呼ばれるようになった。p255-256

ポーランドでは妊娠している女性や赤ちゃんを抱いている女性は特別扱いで、列に並ばなくてもいいことになっている。p261
(日本ても少子化対策のために、真似してみてはどうか)
 


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