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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

漱石先生の手紙が教えてくれたこと

2024-07-05 20:48:01 | 小説

漱石先生の手紙が教えてくれたこと

小山慶太 著

岩波ジュニア新書

2017年8月22日 第1刷発行

 

夏目漱石はおそるべき手紙魔であった。

確認されているだけでも、22歳から没する49歳までの間に書かれた手紙は、優に2500通を超える。

 

序章 吾輩は手紙好き人間である

 

1章 孤独と向き合う

顧みるもの一人も無

 

松山と熊本時代の漱石について特筆すべきことは俳句である。

 

漱石のロンドンでにおける孤独な生活の、ただ一人例外となった人物であるシェイクスピア研究家のクレイグ先生。

愛蘭土の人で言葉が頗る分らない。

少し隻き込んでくると、東京人が薩摩人と喧嘩をした時位に難しくなる。

シェイクスピア字引を編纂するため、ウェールズの大学の地位を捨て、毎日大英博物館の図書室に通う時間を作った。

 

2章 人生の決断に迷ったとき

死ぬまで進歩するつもりでやればいい

 

3章 決めた道で困難に出会ったとき

自分は自分流にするのが義務

 

4章 戦うよりも許すこと

それが人間の修養

 

終章 吾輩は自己の天分を尽くすのである

 

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姫路港(飾磨港)のシスレーのバラとにゃんこ

2024-06-10 20:17:55 | 小説

姫路港(飾磨港)のシスレーのバラ、今や花盛りという感じです。

うちのにゃんこです。

久しぶりの出番ですね。

「アタシも女ざかりなのにゃ!」

シスレーのバラをライバル視しています(笑)

 

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新古今集 後鳥羽院と定家の時代(後半)

2024-03-21 20:09:01 | 小説

第七章 帝王が支配する宮廷と文化

一 聖代を描く『源家長』日記 事務局長が見た新古今時代

 

二 遊興の空間 水無瀬殿の後鳥羽院と近臣たち

水無瀬殿は後鳥羽院の離宮の一つであり、水無瀬川が淀川に合流する地にあった。後鳥羽院はここで近臣と遊ぶのを非常に好んだ。

狩猟、蹴鞠、笠懸、小弓、競馬(くらべうま)、騎射、管弦、囲碁、将棋、双六、連歌など、遊びの限りを尽くし、遊女・白拍子による郢曲・歌舞、更には猿楽などを楽しんだ。

 

三 上皇による文化支配 諸道の興隆

 

四 『新古今和歌集』完成の後 狂騒の連歌会、変質する和歌所

 

第八章 歌壇からはじかれた人々の開花

一 鴨長明の見た新風和歌 衝撃と失踪

 

二 和歌試以後の顕兼 『古事談』の成立

説話集『古事談』の編者(作者)として知られる源顕兼

 

三 晩熟の歌人信実 『今物語』の達成へ

後年歌人として大成した藤原信実

 

四 嘲弄される人々 旧風歌人たちの悲哀

 

五 建礼門院右京大夫の晩年 仄見える姿

 

第九章 新古今歌壇の夕映

一 順徳天皇の歌壇 後鳥羽院鍾愛の皇子

 

二 避けられぬ破綻 定家への院勘

後鳥羽院御口伝の定家評

詠歌は巧緻で、歌道を極めている様は殊勝であり、和歌への評価眼は素晴らしいが、他人は眼中になく、時も場も配慮せず発言し、己の価値観に絶対の自信を持ち、狷介な定家像。『明月記』に現れている定家と小気味よいほどに一致する。

 

三 承久の乱の衝撃 敗北した上皇

 

四 さまざまな運命 北面武士秀能など

 

第十章 流謫の上皇

一 我こそは新島守よ 隠岐の後鳥羽院

 

二 往来する人と和歌 隠岐と都の交錯

 

三 再び和歌を編む 『隠岐本新古今集』など

 

四 隠岐での日々、そして死 最晩年の後鳥羽院を描く書状

この時代の資料では珍しく、将棋の記事が出てくる。清坊入道(清寂)は、将棋の腕前を大風呂敷を広げて自慢する。これは大将棋ではなく、小将棋を指すようだ。

 

五 その後の土御門院と順徳院 二つの日記の発見

 

第十一章 都に生きる定家

一 後堀河天皇の時代 清廉の天皇

 

二 『新勅撰和歌集』の撰進 見えざる後鳥羽院の影

 

三 好士たちの姿 定家周辺に群れ集まる人々

天福元年(1233)七十二歳の定家は、撰集作業で多忙を極める中、勅撰集に入集を望む人々、そのための詠草を提出する人びとが頻繁に訪れていた。

 

四 『新古今和歌集』への視線 定家と後鳥羽院の思念

 

第十二章 終焉と再生と

一 至りついた最晩年 定家の死

 

二 めぐりくるもの 後嵯峨院の時代

新古今時代、後鳥羽院は実に専制的な上皇であったが、定家の表現世界を束縛することなく、定家は和歌の中では自由に羽ばたいていた。

 

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新古今集 後鳥羽院と定家の時代(前半)

2024-03-20 20:39:10 | 小説

 

新古今集 後鳥羽院と定家の時代

田淵句美子 著

角川学芸出版 発行

角川選書 481

平成22年12月25日 初版発行

 

お名前からして「句」に人生を捧げておられるような著者による、後鳥羽院と藤原定家という熱い歌人を中心とした、和歌の黄金期の、映像を描き出しています。

 

第一章 新古今時代の前夜

一 後鳥羽天皇の誕生 新古今時代を作った帝王

 

二 和歌の家の親子 藤原俊成と定家

中世前期においては、宮廷の政治と文学・文化とは、人的にも空間的にも、同心円状にある。

勅撰集は、単なる秀歌のアンソロジーではなく、和歌を用いて、宮廷とその文化の過去・現在・未来を示そうとする集である。

 

三 前衛的試みのさまざま 『六百番歌合』など

建久4年(1193)披講された『六百番歌合』は建久期の九条家歌壇を代表する歌合である

 

四 九条良経の存在 パトロンとして、歌人として

 

第二章 後鳥羽院歌壇始まる

一 黄金時代への扉 後鳥羽院と定家の出会い

和歌の神が、ふと宮廷に舞い降りたのか。和歌の黄金時代である後鳥羽院歌壇は、正治二年(1200)のある日に、不意に始まったといってよい。

 

二 爆発的な歌壇形成 和歌にのめりこむ後鳥羽院

 

三 悲喜こもごもの和歌試 新人登用試験

 

四 上皇と天台座主 歌壇の慈円

 

第三章 女性歌人たちの活躍

一 老女房と新人女房と 発掘と円熟

 

二 俊成卿女 権門の妻から専門歌人へ

俊成卿女は『新古今集』を代表する女房歌人

 

三 宮内卿 夭折した女房歌人

 

四 異端の皇女 式子内親王を把え直す

 

第四章 『新古今和歌集』撰ばれる

一 和歌所を置く 文学空間への変貌

 

二 険阻な山路と祈り 熊野御幸

 

三 勅撰和歌集撰進 上皇親撰の『新古今和歌集』

 

第五章 後鳥羽院歌壇の隆盛

一 未曾有の歌合 『千五百番歌合』

 

二 歌合の時代 実力主義と専制と

 

三 王朝物語の和歌を編む 『物語二百番歌合』など

 

四 俊成の九十賀とその死 巨匠の最期の言葉

 

第六章 『新古今和歌集』の改訂と完成

一 和歌所の小宴 厳しい編纂の合間に

 

二 最初の完成 『新古今和歌集』竟宴(きょうえん)

竟宴とは、宮中で編纂などが終わった後に開かれる祝宴のこと

 

三 徹底的な改訂 良経と定家の役割

 

四 従来説より遡る成立年 『新古今和歌集』の成立

家長本は、『新古今集』を書写した一つにすぎない

新古今和歌集の成立は、これまで推定されていた建保四年から六~七年遡って、承元三年、遅くとも四年に、全体が成立したという可能性が高い

 

 

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歴史読本 民俗学のふるさと 辻川

2023-12-29 21:03:11 | 小説

 

歴史読本『民俗学のふるさと 辻川』

辻川史編集委員会 編集

辻川区自治会 発行

令和5年(2023年)3月1日 発行

 

兵庫県神崎郡福崎町の辻川区の自治会によって発行された本です。

自治会でこれほどレベルの高い本を発行できるなんて、さすが柳田(松岡)國男の出身地ですね。

 

はじめに

柳田國男は心のよすがとなった辻川について、「辻川というような非常に旧い道路の十文字になったところに育ったことが、幼い私にいろいろの知識を与えてくれたように思う。その道路の上を通った者のことが記憶に残っていたり、自分でも様々な見聞をしたりしたので、外部のものの一つ一つに対してこんなに関心を寄せながら成長するようになったのであろう。もしも横丁か何かの隅っこにいたのだったら、私もこんな風な人間にならなかったかもしれない」(故郷七十年)と記す。

また「辻川は全国中にも珍しき好山河なり。殊に岡(辻川山や桃山)の上からの眺望は絵にも写し難き感じ也。家の屋根の形と勾配、ともに他の地方に優るかと思ふ」(北国紀行)とも記している。

 

第1章 辻川のはじまりと自然

柳田國男が「諸国の旅を重ねた後に始めて心づいて見ると、我村は日本にも珍しい好い處であった。水に随う南北の風透しと日当り、左右(東西)の丘陵の遠さと高さ、稲田に宜しき緩やかな傾斜面、仮に瀬戸内海の豊かなる供給が無かったとしても、古人の愛し来り住むべき土地柄であった」(妹の力)と記述する辻川の風景は、辻川山から眺めるとよく分かる。

 

第2章 江戸時代の辻川

「辻川を東西に貫いて前之庄を通り、佐用の方へ延びる古い街道に、十字路に交叉して、古く開けた港の飾磨津より北上して達する道のあることがその由来であると気づくようになった」(故郷七十年)

 

市川流域の高瀬舟による舟運は1626年に仁豊野に始まり、盛時でも北限は現市川町浅野か、せいぜい屋形までであった。

川を遡るときは両岸から牛か人が舟を引いて上がった。

 

第3章 明治時代の辻川

「私(國男少年)はまだ幼年時代に、三々九度のお酌をする役を二度させられた。男の子は五つ、女の子の方は七つに限るわけで、男蝶・女蝶になるのだが、女の子はただお酌をしていればいいのに、男の子の方にはちゃんというべき言葉が決まっている」(故郷七十年)

 

第4章 大正時代~太平洋戦争終結までの辻川

 

第5章 戦後、昭和時代の終わりまでの辻川

田原町、八千種村、旧福崎町の合併が動き出したが、昭和29年9月末、合併協議自体が中断する。

30年、瀬加村、八千種村、田原村が合併し、辻川町とする話もあったが、認められなかった。

結局、31年に町名を福崎、役場を田原が、そして初代町長が八千種という形で新福崎町が誕生した。

 

柳田國男の最後の帰郷は昭和27年10月であった。

 

第6章 辻川の社寺と祭礼行事

 

第7章 辻川の生活

國男は長兄鼎が明治11年に19歳で昌文小学校校長になったこともあり、翌12年に数え5歳で入学し飛び級を重ね、同17年11月に10歳で卒業した。

(岩波書店「柳田国男と折口信夫」の年譜では16年9歳で昌文小学校を卒業し加西郡北条町の高等小学校に入り、18年11歳で高等小学校を卒業、とある)

 

 

 

 

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