ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ジョイスが滞在していた頃の塔(アイルランド)

2023-12-30 20:47:57 | ヨーロッパ旅行記

 

ジョイス博物館を出て、外から開館時の写真を撮ります。

日本語パンフレットに掲載されていた、「ジョイスが滞在していた頃のタワー」について転載しておきます。

 

オリバー・シンジン・ゴガティが住んでいた1904年8月に、彼は、22歳の若き新鋭作家、ジョイスをタワーに招いています。当時、ジョイスは詩集”The Holy Office"に専念しており、この詩集によって、当時のダブリンの文人らの思想と全く異なった世界を築き上げます。ゴガティは、ジョイスの詩集の中で自分が批判されていることに気付いたことから、9月9日にはジョイスはあまり歓迎されません。しかし、彼が滞在を承諾したのも、そうでなければ自分への批判が更に本に書かれると恐れていたからでしょう。数日後、二人はゴガティの友人で、アングロ・アイリッシュのサミュエル・シュニヴィックス・トレンチに会います。トレンチはオックスフォード訛りのアイルランド語を始終話したため、タワー内の緊張が更に深まることになりました。

 

ジョイスの滞在6日目の事、トレンチは黒豹の悪夢を見、叫び声を上げた上、銃を取り出し、暖炉に向かって銃を発射しました。しかし、その直後、何事もなかったように再び眠りにおちました。一方、ゴガティは「あいつのことは俺にまかせておけ!」と叫びながら、ジョイスの枕越しの棚にあった調理鍋を銃で撃ち落としました。これをきっかけにジョイスはタワーを離れ、その後決して戻ることはありませんでした。それから一月後、彼自身、ノーラ・バークナルと大陸へ駆け落ちをしました。

 

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歴史読本 民俗学のふるさと 辻川

2023-12-29 21:03:11 | 小説

 

歴史読本『民俗学のふるさと 辻川』

辻川史編集委員会 編集

辻川区自治会 発行

令和5年(2023年)3月1日 発行

 

兵庫県神崎郡福崎町の辻川区の自治会によって発行された本です。

自治会でこれほどレベルの高い本を発行できるなんて、さすが柳田(松岡)國男の出身地ですね。

 

はじめに

柳田國男は心のよすがとなった辻川について、「辻川というような非常に旧い道路の十文字になったところに育ったことが、幼い私にいろいろの知識を与えてくれたように思う。その道路の上を通った者のことが記憶に残っていたり、自分でも様々な見聞をしたりしたので、外部のものの一つ一つに対してこんなに関心を寄せながら成長するようになったのであろう。もしも横丁か何かの隅っこにいたのだったら、私もこんな風な人間にならなかったかもしれない」(故郷七十年)と記す。

また「辻川は全国中にも珍しき好山河なり。殊に岡(辻川山や桃山)の上からの眺望は絵にも写し難き感じ也。家の屋根の形と勾配、ともに他の地方に優るかと思ふ」(北国紀行)とも記している。

 

第1章 辻川のはじまりと自然

柳田國男が「諸国の旅を重ねた後に始めて心づいて見ると、我村は日本にも珍しい好い處であった。水に随う南北の風透しと日当り、左右(東西)の丘陵の遠さと高さ、稲田に宜しき緩やかな傾斜面、仮に瀬戸内海の豊かなる供給が無かったとしても、古人の愛し来り住むべき土地柄であった」(妹の力)と記述する辻川の風景は、辻川山から眺めるとよく分かる。

 

第2章 江戸時代の辻川

「辻川を東西に貫いて前之庄を通り、佐用の方へ延びる古い街道に、十字路に交叉して、古く開けた港の飾磨津より北上して達する道のあることがその由来であると気づくようになった」(故郷七十年)

 

市川流域の高瀬舟による舟運は1626年に仁豊野に始まり、盛時でも北限は現市川町浅野か、せいぜい屋形までであった。

川を遡るときは両岸から牛か人が舟を引いて上がった。

 

第3章 明治時代の辻川

「私(國男少年)はまだ幼年時代に、三々九度のお酌をする役を二度させられた。男の子は五つ、女の子の方は七つに限るわけで、男蝶・女蝶になるのだが、女の子はただお酌をしていればいいのに、男の子の方にはちゃんというべき言葉が決まっている」(故郷七十年)

 

第4章 大正時代~太平洋戦争終結までの辻川

 

第5章 戦後、昭和時代の終わりまでの辻川

田原町、八千種村、旧福崎町の合併が動き出したが、昭和29年9月末、合併協議自体が中断する。

30年、瀬加村、八千種村、田原村が合併し、辻川町とする話もあったが、認められなかった。

結局、31年に町名を福崎、役場を田原が、そして初代町長が八千種という形で新福崎町が誕生した。

 

柳田國男の最後の帰郷は昭和27年10月であった。

 

第6章 辻川の社寺と祭礼行事

 

第7章 辻川の生活

國男は長兄鼎が明治11年に19歳で昌文小学校校長になったこともあり、翌12年に数え5歳で入学し飛び級を重ね、同17年11月に10歳で卒業した。

(岩波書店「柳田国男と折口信夫」の年譜では16年9歳で昌文小学校を卒業し加西郡北条町の高等小学校に入り、18年11歳で高等小学校を卒業、とある)

 

 

 

 

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天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯(後半)

2023-12-28 20:11:34 | ヨーロッパあれこれ

(大正13年(10年の誤りか?)3月30日、柳田国男の第1回渡欧を記念するために撮影したもの。前列向かって左から柳田国男、ネフスキー、金田一京助。後列左端が折口信夫)

 

第七章 大阪在住時代

一 宮古島民俗の研究

ネフスキーは宮古群島へ1922年と26年、28年と三度にわたって旅行し、その成果を雑誌『民族』などに発表した。

 

ネフスキーがまだ学生の頃、支那や日本の韻文を知りえた時、露西亜の韻文の特徴の一つである所の、生を讃美し、太陽を歌えるモチーフがほとんど完全に欠けていることに驚いた。物侘しげなところ、憂鬱な感傷的なところを具えている月のモチーフは日本および支那にあっては、極めて普通のものとなっている。

 

ネフスキーがいかなるいきさつから沖縄、しかもその先島である宮古群島に注目したかは正確には不明である。いずれにしても柳田国男や折口信夫、さらには沖縄出身者の影響によることは疑いないところであろう。

ただ問題は、当時の不便な交通機関をものともせず、そこに三度も旅行し、しかも表面的でなしに、言語的な側面から深く取り組み、その成果を中央の専門誌に発表したことである。

ネフスキーはその成果だけでなく、研究態度から見ても、宮古島研究のすぐれた先駆者というべきであろう。

 

二 台湾旅行と曹族(ツォウ)の言語調査

ネフスキーと浅井恵倫は当時台湾の「書かれざる言語」の研究を志し、なんらの予備知識を持たずに、原住民からじかに彼らの神話や伝説を聞き、その音声や文法を導き出すことをめざした。すなわち、言語的法則の探究と民話の紹介という一石二鳥をねらったものであった。

ネフスキーは抜群の音声学的能力をそなえていたので、この調査でもすぐれた成果を上げることができ、ロシア人のなかで南方語の研究に貢献した人としてはネフスキーをもって嚆矢とするのである。

 

第八章 西夏語の研究

「西夏」とは、11世紀から13世紀にかけて中国の北西部、今の寧夏を中心にして甘粛、オルドス地方などを領有した国家で、1227年、十代190年をもってチンギスハンに滅ぼされた。

 

一 ネフスキー以前の西夏語研究

 

二 コズロフによる西夏語文献の発掘

 

三 石浜純太郎との出会い。西夏語の研究

石浜は中国周辺諸地域の言語や文化に関心を示し、文献を集める一方、大阪外国語学校のモンゴル語聴講生だった。ネフスキーは西夏語を研究するにおいて、石浜の蔵書と学識に大いに助けられた。

 

四 大阪在住時代の日常生活

 

第九章 単身帰国とイソ母子のソ連渡航

一 ネフスキーの帰国

ネフスキーはなぜ帰国を決意したか?

柳田は地位の不安定さをあげ、中山太郎はその筋の眼がネフスキーの身の上に光るようになった、と述べている。

しかし最大の動機は、レニングラードにある世界で最も豊富な資料を使って、世界でまだほとんど未開拓の西夏語を徹底的に研究することであったのではないか。

 

二 残されたイソ母子の生活

 

第十章 帰国後の活動

一 西夏語の研究。石浜純太郎あての手紙

 

二 ネフスキーを通じて見た西夏文化

ネフスキーによれば、12世紀の西夏はチベットと中国という二つの文化の影響を受けた。

西夏の人々はチベット語訳を通じて仏教的占星術をよく知っていたが、同時に中国の占星術にも敬意を払っていた。

12世紀の西夏には占星術者をつかさどる特別の役所があった。

 

三 日本語と日本文化の研究

ネフスキーはロシア帰国後、日本語と日本文化について次のような論文を発表した。

「天の蛇としての虹の観念」

虹の語源が「天の蛇」であることを論証しようとした

「ムスクヴィヤからSSSRへ」

日本語の中に入ったロシア語の問題をあつかう

「古代日本の儀礼的詩歌(祝詞)」

「アイヌの民間伝承」

 

第十一章 学者ネフスキーの死

一 当時の日本とソ連の関係

ロシア革命後の日本とロシアの関係は事実上断絶し、シベリアに軍隊を派遣したりした。

 

二 ネフスキー夫妻の逮捕

 

第十二章 ネフスキーの「復活」

1960年、ネフスキーの西夏語に関する論文集『タングート言語学』がソ連科学アカデミーによって刊行された。

その巻頭のネフスキーの肖像写真の下に1892-1938と書かれている。没年がその当時まだ不明だったからか、学者としてのネフスキーの死を示すのか?

 

西夏の言語は、日本や朝鮮、モンゴル、契丹、女真、満州の場合とは違って、構造的に中国語と同じであり、したがって漢字を適用しても少しも差し支えなかったのに、あえてそれをしなかったことの意義をコンラドは強調している。

 

1962年、ネフスキーはソ連最高の国家賞であるレーニン賞を授与された。

 

付録一 回想のネフスキー

(一)柳田国男(1875-1962)

ネフスキーが日本のためにつくしてくれた仕事

・オシラ様の研究

・西夏の発掘事業のことなどを勉強

・沖縄の言語の研究

(二)折口信夫(1887-1953)

(三)中山太郎(1876-1947)

(四)石浜純太郎(1888-1968)

(五)オレスト・ド・プレトネル(1892-1970)

ネフスキーの部屋にはいつも柳田国男先生の写真がかけてあった。

(六)石田英一郎(1903-1968)

(七)高橋盛孝(1899-)

(八)九十九黄人(1894-)

 

付録二 エレナ・ネフスカヤ訪問記

「北極星はあれですか」

「いや、あの星ですよ」彼女はほとんど中天を指さした。そうだ、ここは北国のレニングラードだったんだ。

 

 

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天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯(前半)

2023-12-27 21:34:35 | ヨーロッパあれこれ

 

天の蛇

ニコライ・ネフスキーの生涯

加藤九祚 著

河出書房新社 発行

昭和54年10月15日 5版発行

 

柳田国男の文章にもよく出てくるロシア人ニコライ・ネフスキーの波乱の人生を叙述した本です。

悲劇的な最期を迎えますが、流暢な日本語で元気よくフィールドワークしていて、生を全うしたんだなということを知ることができ、救われたようなような気持ちになりました。

 

第一章 ヴォルガの岸辺で

1892年、ヤロスラヴリに生まれたネフスキー

一 家庭の幸福に恵まれなかった幼少年時代

 

二 東洋語に対する興味の目ざめ

日露戦争たけなわの1904年10月1日、約800人の日本人がヴォルガ川を船でさかのぼり、ルィビンスクに上陸した。

彼らはロシア領の沿海州や東部シベリアの居留して商売などを営んでいたが、引揚げが間に合わずにロシア領内に残留を余儀なくされた人々。女性が多いのは、シベリアでの売笑婦が多数含まれていたからである。

一行は開戦から八か月近く、ロシア各地でさまざまな辛酸をなめ、ウラルを西に越えてドイツのブレーメン港を経由して後、12月14日長崎港に帰着した。

 

第二章 ペテルブルグにて

一 アジア博物館

ロシア東洋学誕生の礎石

 

二 人類学・民族学博物館

 

三 支那学者V・アレクセエフ

中国語および中国文学、中国の考古学、民族学、歴史学など多方面にわたる優れた業績

 

四 アレクセエフの中国観

中国の民間信仰の最大の特徴として宗教的折衷主義をあげている。

 

五 民族学者L・シュテルンベルグ

ネフスキーにおけるシュテルンベルグの影響は、後年彼が行った民族学的研究の方法、とくに曹族言語の調査方法に明瞭に見られる。

 

六 黒野義文

ペテルブルグ大学でネフスキーらに日本語を教える。

ウラジオストクでは女郎屋の用心棒に雇われたという話もある

 

七 日本学者スパルヴィン

日本論『横眼で見た日本』で日本とソ連との文化的関係の歴史に一つの道標を残した。

スパルヴィンの教えを受け、ネフスキーの先生だったドーリャという日本語講師のエピソード

授業の中でみんなが眠くなったとき「君ら、×××という日本語を知っているか。ちょうど目のような形をしているので、そういうのだ。あっ、もう時間が来たから、今日はこれで失敬するよ」という調子だった。

 

第三章 日本留学と学友たち。ロシア革命

一 日本留学

 

二 日本文学研究家S・エリセエフ

後にハーバード大学の教授としてアメリカにおける日本文学研究の祖となる。

 

三 エリセエフの見たロシア革命

 

四 ソ連における日本学の父N・コンラド

ソ連では、コンラド氏のことを知らない日本学者、また彼の教え子、あるいは教え子の教え子であることを誇りと感じていないような日本学者は一人もいない

 

ネフスキーとコンラドは中国文学と中国語のまれに見る大家高橋天民について三年間漢学を学んだ。

 

五 仏教学者ローゼンベルグ

夜遅くまで話し合い、日本研究を分け合うことに決めた。

ローゼンベルグは仏教哲学を、ネフスキーは神道を”手に入れ”、私(コンラド)は日本における中国文化、漢文を”ものに”しました。

日本はこの夜ふけに眠っていて知らないんだが、三人のロシア人の少壮学者がいま日本を分割したってわけだね。

 

六 プレトネル兄弟

近藤富江著『本郷菊富士ホテル』に出てくる

 

第四章 東京在住時代

一 中山太郎らとの出会い

中山太郎は民衆史の立場から歴史的な文献を多く用いて多方面の民俗史を書く。

 

茨城県の安寺・持方を旅するネフスキーと中山

閉口したことは

・子供が大勢してネフスキーについてくる

・歩きながらネフスキーから質問責にされる

 

ネフスキーが持方だけに通用する言葉は「盲目帳」という租税徴収簿のことらしい

 

日本のオドリの語原については、女子が舞踊を以て男子の注意を惹いたオトリ(男取り)の意、と語ったネフスキー

 

二 柳田国男・折口信夫に師事

 

第五章 帰国の延期

一 病に倒る。友人からの来信

 

二 日本滞在を決意

ネフスキーの論文「農業に関する血液の土俗」は柳田国男宅で播磨風土記を読んだ時の着想がもとになっている。

 

第六章 小樽在住時代

一 若きネフスキーのロマンティシズム

 

二 オシラ神の研究

柳田国男から、佐々木喜善と共同でオシラ神の研究をしたらどうかとすすめられた。

 

三 東北地方縦断の旅

オシラ神の本場というべき東北地方への縦断旅行を思い立つ。

 

四 アイヌ語と宮古方言の研究

 

五 萬谷イソとの出会い。結婚

 

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ジェイムス・ジョイス・タワー内博物館に展示されたマティスの挿絵

2023-12-23 20:32:36 | ヨーロッパ旅行記

 

開館時間の二十分後くらいにやっと、ジョイス博物館の職員が車でやってきました。

待っていたみんながぞろぞろ中に入っていきます。

画像はジェイムス・ジョイスタワー内部で唯一撮った写真です。

あまり上手く撮れていませんが、マティス(マチス)によって描かれた、ジョイスの本の挿絵です。

彼が挿絵という分野にまで作品を残していたことは意外でした。

展示品について、当地でもらった日本語パンフレットより引用します。

 

展示ホールには、ミルトン・ヘバルドによって製作されたジョイスの胸像などがあります。また、壁に展示された作品、写真などから、ジョイスの一生を振り返ることもできます。1922年にシェークスピア&㏇によって出版されたユリシーズの初版本を始め、ジョイスの全作品の初版本が展示されています。また、マチスの挿絵のユリシーズの豪華本も含まれており、"Finnegans Wake"の手書き現行もあります。

弾薬庫にあるケースにはジョイスの祖母が刺繍を施した狩猟用のウエストコート、愛用のギター、サミュエル・ベケットに贈ったネクタイなど、ジョイスの個人的な持ち物が展示されています。また、1941年にジョイスが亡くなった日に、彫刻家ポール・スペックによって製作されたデス・マスクや銅の鋳型も展示してあります。

 

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