ヨーロッパとゲルマン部族国家
マガリー・クメール ブリューノ・デュメジル 著
大月康弘 小澤雄太郎 訳
文庫クセジュ
2019年5月30日 発行
序論
啓蒙主義時代の末期、十九世紀初頭に、ローマ帝国の破壊者はうってかわってポジティブなイメージを取り戻した。
西ヨーロッパ諸国の誕生は、卑しい蛮族のおかげだと考えるようになった。
二十世紀初頭から蛮族の時代に関する新しい記述史料はほとんど見つからなくなったが、代わりに考古学が膨大な量のデータを提供した。
ラインとドナウの北側に住む古代の人たちが古代全体を通じてものを書くことができなかったのは、依然として認めざるを得ない事実である。
彼らは書物、碑文、貨幣など何一つ残さなかった。
第一章 帝国侵入以前の蛮族
蛮族の過去について書かれた初の真の歴史叙述は、「民族史」というジャンルである。
これらは六世紀と七世紀にラテン語で書かれ、西方の新しい王国のエリートに献呈された。
二十世紀後半まで、蛮族の出現は大移動モデルによって説明されていた。
それは西方社会の文化を形成する二つの著作が言及する民族形成のモデルと対応している。『アエネーイス』と旧約聖書である。
大移動モデルが大成功を収めたのは、ヨーロッパのナショナリズムがそのモデルを再利用したためである。
数百年にわたると考えられる移動が矢印で表現されることによって、それらの移動が起こった順番や史料への注意がことごとく無視される。
大移動のモデルへの全員一致の支持は、1960年代からの考古学の発展により失われた。
蛮族が一度ローマ帝国に侵入すると、特定のアイデンティティを主張することによって、自分自身を区別することが可能になった。
第二章 ローマとその周辺
ローマ世界の著述家たちは、リーメス(帝国と蛮族世界から分かつ軍事境界線)周辺での衝突について多くを語っている。
帝国は249年から三方向(ライン河方面、ドナウ河方面、東方)から攻撃を受け、帝国指導者はその攻撃に対処することができなかった。
三世紀の蛮族の短期的な攻撃の目的は、戦利品にあった。戦争というより襲撃、あるいは略奪というべきだ。
370年代から武装した蛮族集団が帝国内にとどまっていた。皇帝から莫大な収入を得ることを目指していた。
「大移動」という神話を捨てなければならない理由は、ローマ人と蛮族は対立こそしていたが、同じくらい頻繁に意思疎通もしていた。
蛮族との外交におけるローマ帝国の問題
・言語の問題
・蛮族の族長自身の自らの「民族」に対して実在する権威
・蛮族と取り決めを結ぶために、蛮族は文字を書かないため、ローマはさまざまな儀式に頼った
230年代、蛮族は帝国の境域において脅威とみなされていたが、その百年後になると、ローマ権力は彼らをリーメスの真の守護者とみなすようになった。
第三章 定住の形態
四世紀末から蛮族たちの帝国境界内への入植が強化され、また安定した。
第四章 五世紀における蛮族文化
蛮族の埋葬儀礼で最も注目に値する要素は、男性の墓にほぼ例外なく武具が埋葬されていることである。
自由人男性はまず戦士としての地位によって規定されていた。
裕福な死者の墓には豪華な食器があった。族長が取り巻きを扶養する役割を堅持しているのではないか。
蛮族の到来により、小麦、ワイン、オリーブを消費する地中海世界において、蛮族の好む畜産物と大麦ビールが入ってきた。
サルウィアヌスは蛮族の魂の純粋さにのみ焦点を当てているため、彼らによる権力乱用を看過している。
たとえば、彼はヴァンダル族がカルタゴの売春宿を閉鎖したことに注目しているが、地元の聖職者はその施設を黙認していたどころか頻繁に利用していた。
第五章 蛮族王国の建国
帝国の直接の後継者・・・西ゴート族、ブルグンド族、東ゴート族、ヴァンダル族
蛮族王国の第二派・・・フランク族、アラマン族、スエビ族
第六章 蛮族王国の改宗
結論
ローマ世界は消滅したのではなく、蛮族軍の圧力の下で変容した。
このプロセスは新しい民族的アイデンティティの形成をもたらした。
このアイデンティティを中心として新しい民族がゆっくりと形成された。