ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

プラハの憂鬱 佐藤優 著

2021-12-31 13:03:32 | ヨーロッパあれこれ


プラハの憂鬱
佐藤優 著
新潮社 発行
2015年3月30日 発行

佐藤優さんの本は、「十五の夏」上・下に引き続き三冊目です。
この本の題名はプラハの憂鬱となっていますが、舞台はプラハではなくイギリスとなっています。
1986年から1987年8月まで、イギリスでの外務省の研修時期に出会ったチェコ人との遭遇がメインストーリーです。

あたかもバルコニーの上で
フロマートカというチェコスロバキアの神学者の研究を志す筆者。チェコスロバキアに留学するために外務省に入るという道を選ぶ。しかし研修語はロシア語となり、更に研修先はモスクワではなくロンドン郊外の英国陸軍語学学校となる。

インタープレス 
フロマートカの本を探す過程でインタープレスという古本屋にたどり着き、店主でチェコスロバキアからの亡命者であるマストニーク氏に出会う。

チェコ人の存在論
ナチス・ドイツによる占領、スターリン主義体制、『プラハの春』の鎮圧という三重の挫折が、チェコ人の存在論に影響を与えた。結局、人間性というものを信用することができないという実感。p74

チェコスロバキア・クラブ 
亡命チェコ人のクラブ。パブとレストランがある。
カレル・チャペックの『山椒魚戦争』

インコグニト
ドストエフスキーに関するフロマートカの記述 

神父(ファーザー)
チェコ出身のイエズス会の神父とマストニーク夫妻との夕食

召命
パウロがユダヤ人共同体に対して覚えたのと同じような不満を将来、筆者が外務省に対して抱くようになる予感

ジョージ・ホテル
海軍中尉のテリーとの夕食。北アイルランドについて

ダンスパーティーの夜
テリーの彼女のクリス。アメリカ・インディアンのナバホ族の血が流れている。

「ミッション」 
映画を観た後、日本料理店へ

亡命ロシア人
外務省を辞職する同期の英語研修生
研修所のブラシュコ先生は亡命ロシア人

ブラシュコ先生 
レフチェンコ事件
日本を舞台とした戦後最大規模のスパイ事件
旧ソ連から日本社会党へ資金が流入していた

最終講義
カウンターパート
マストニーク氏、同期のキャリアの武藤君との最後の会話

あとがき
鈴木宗男疑惑における、佐藤優の役割を調査する外務省の内部委員会の責任者が、武藤氏だった。
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欧州航路の文化誌 寄港地を読み解く

2021-12-30 06:24:45 | ヨーロッパあれこれ


欧州航路の文化史
寄港地を読み解く
橋本順光 鈴木禎宏 編著
青弓社 発行
2017年1月27日 第1刷

幕末から1960年前後まで、日本から欧州への旅路として利用された欧州航路。
本書では、欧州航路によって生みだされた膨大な旅行記を海洋文学として再評価し、航路が形成したメンタルマップを寄港地の順に取り上げ、同時に和辻哲郎の洋行と『風土』とを再評価しようとしています。

序章 欧州航路の文学 
船の自国化と紀行の自国語化
1 欧州航路前史 イギリス東洋航路の逆転と領土化

2 欧州航路の発展 自国化と自国語化

3 大学助教授の洋行 義務としての欧州漫遊

第1章 欧州航路の起点と原点 横浜と富士山
1 航路と横浜

2 横浜の成立

3 欧州航路からみた横浜と富士山

第2章 シンガポール
1 漂流民音吉と娘子軍

2 欧州航路の文学

3 和辻哲郎のシンガポール認識

4 シンガポール上陸観光

第3章 日本人が見た/見なかったペナン 和辻哲郎『故国の妻へ』『風土』を中心に
1 大英帝国の海峡植民地ペナン

2 名所と街並みと 多民族都市ジョージタウン

3 海峡華人

第4章 インドの代名詞コロンボ デッキパッセンジャーとハシーム商会

1 船中のインド 蛇使いとデッキパッセンジャー
デッキパッセンジャーは主にコロンボからシンガポールの間を出稼ぎで移動するインド人労働者たちとその家族。甲板でテントを張り、自炊して過ごした。

2 ハシーム商会 日本語と日本円が通用する宝石店

第5章 スエズの商人・南部憲一
1 戦間期のスエズ運河

2 南部憲一の生涯

3 旅行記に登場する南部

第6章 日本人のマルセイユ体験 幕末遣欧使節団から和辻哲郎まで
1854年に鎖国の歴史が幕を閉じて以来、飛行機の普及以前の渡欧ルート
・横浜から香港やシンガポール、スエズなどを経由して入欧する欧州航路
・太平洋を渡ってアメリカに上陸し、陸路で西海岸から東海岸に至り、そこから大西洋航路で入欧するルート
・1916年に完成したシベリア鉄道を経由するルート

1 近代以降のマルセイユの発展
フランスで鉄道が開通するのは1834年。アヴィニョンからマルセイユのまで延伸されたのは48年
1853年ジョリエット停泊区が完成。59年に完成したラザール停泊区には埠頭駅が隣接し、船客はここから列車でパリに直行する。
1869年スエズ運河が完成
1887年(明治20年)乗り換えなしで日本(横浜)とヨーロッパ(マルセイユ)が結ばれる。
1896年日本郵船の欧州航路が開設される。

2 幕末・明治前半の渡航者たち
近代日本で最初に欧州航路で渡欧したのは、1862年(文久2年)の竹内下野守保徳を正史とする遣欧使節団

3 日本郵船の欧州航路開設以後
1896年(明治29年)以降、日本人が日本郵船で、乗り継ぎなしで渡欧することが可能となった。

4 和辻哲郎『故国の妻へ』と風土

第7章 和辻哲郎『風土』成立の時空と欧州航路 歴史的偶然と地理的必然との交差において
1 洋行の濫觴と変質

2 「洋行不要論」の先駆者としての和辻哲郎

3 「国民性研究」としての人間学

4 先行世代・同世代
伊藤吉之助・九鬼周造・大西克禮

5 『存在と時間』から『風土』へ 同時代性の刻印

6 「風土性」から「国民道徳論」へ
日本と中国との「国民性」の対比が、ユダヤ人とギリシャ人との対比に重ねあわされている。
中国・ユダヤ 国家という紐帯への信頼とは無縁に商業活動を営む移動集団
日本・ギリシャ 祖先祭祀を軸とする複数の遅延共同体を総覧することで成立する国家理念p199

7 後続する世代との位相差

8 古代への憧憬

9 細部観察の直観力

おわりに
「西回り」の人々は、イギリスなどの列強によって支配されるアジアの植民地の過酷な現実を見聞してから欧米という先進国に入った。そのため、「近代・文明」を両手放しで受容したわけでなく、どこかで欧米が掲げる「文明」の独善性を冷ややかに見ていた。
「東回り」の人々はアメリカという先進国を見てからヨーロッパを見、それからアジア各国を経て帰国した。
このような人々は「文明」の精華を最初に見聞きしてそれを良いものとして素直に受け入れ、アジア各地を通過するときにその素晴らしさを確認する傾向がある。
岩倉使節団、高村光太郎、永井荷風などp222
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箱入り娘にゃんこ その3 餅になったにゃんこ

2021-12-29 06:41:28 | 小説


にゃんこは箱の中で、すっかりくつろいでしまいました。
白くて真ん丸な体がお餅のようです。
小柄なアフリカ系少年(原題は不適切らしいので‥)で、虎がぐるぐる走り回ってバターになってしまいましたとさ、という話がありましたが、白にゃんこも走り回って餅になってしまったのでしょうか?
まあ、もうすぐお正月なので、鏡餅になってくれたらありがたいのですが。
もーいーくつ寝ると、お正月♪
にゃんこはお昼寝ばかりしているので、いくつ寝たらお正月になるのでしょうか?



こりゃ、にゃにつまらないことばかり書いているのにゃ
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柳田國男の恋 岡谷公二 著

2021-12-25 21:01:54 | 小説

柳田國男の恋
岡谷公二 著 
平凡社 発行
2012年6月25日 初版第1刷発行

松岡國男の恋
田山花袋はその初期において、明らかに國男をモデルとする、美貌の大学生の恋をテーマにした沢山の恋愛小説を書いた。

花袋は、或る一時期、松岡國男という存在に呪縛されていた。
この呪縛が解けたとき、つまりもはや美貌の大学生を主人公にして、他人の恋愛を及び腰でなぞるのではなく、「前歯のひどく突き出た醜男」の自分自身を主人公に据えたとき、花袋の自然主義がはじまった。p21

國男は恋と詩の夢から覚めた。
その夢は現実より一層リアルな夢、さめた後もしばらくは、現実そのものが幻と見えかねない濃密な夢だった。

柳田國男は松岡國男を否定した。
しかし松岡は、完全に扼殺されなかった。
彼は柳田の心の深層に生きつつ、時折その深みから立ちあらわれる。p72

中川恭次郎という存在
中川恭次郎は明治元年生まれ
國男の故郷辻川に近い、播州神崎郡甘地村の生まれ

國男と恭次郎を結んでいたひそかな絆、その具体的な証拠は、國男が生涯にわたって恭次郎に送金を続けていた事実p95

花袋も藤村も独歩も、やがては若き日の新体詩から離れ、小説の方へ向かっていった。それはごく自然な関心の推移の結果であり、そこには、國男の場合に見られるような否定的契機や決心、といったものは見られない。國男の転換は、ランボーのそれに比すべきドラスティックなものであった。p100

柳田國男の学問は、おのれの欲するままの道を歩いた南方熊楠や折口信夫の学問とは性質を異にする。p102

殺された詩人
昭和3、4年ごろの柳田の危機。神経衰弱?

科学、それは、民俗学を趣味や道楽や好事家の学問から足を洗わせるため、柳田國男がどうしても掲げなければならない旗印であった。
昭和初期の学会において、科学とは実証主義だった。
柳田自身も足掛け三年のヨーロッパ生活で、本場の実証主義の学風を身をもって体験していた。p133

帰納にこだわらず、次々と刺激的な仮説を出す柳田國男の方が、その本来の姿だった。p138

昭和初期の彼の精神の不調は、少なくとも単なる過労や、家庭内の心労からだけできているのではない。
自分の欲求を抑え、或いはそれに逆らって働いた。
だから彼の神経衰弱は、あまりに「公」に執しすぎた彼の、忘れられた「私」によるしっぺ返しであり、科学を目指す民俗学者柳田國男によって殺された詩人松岡國男の復讐だったともいえる。p151

『海上の道』へ
この章では柳田國男が26歳の時に書いた紀行文「遊海島記」を柳田学の出発点として位置づけ、「遊海島記」から『海南小記』を経て『海上の道』に至る柳田学の南と海の側面を明らかにする一方で、遺著『海上の道』で、新体詩人松岡國男がもう一度よみがえることを確認している。p157

その4年前の明治31年夏の伊良湖岬滞在
伊良湖岬での海の発見
國男の少年時代、辻川は瀬戸内沿岸の「的形あたりを朝立ちすれば、10時頃までには鮮魚の届く所」p162
伊良湖岬滞在こそ、海について知り、海の持つ様々な面に彼の眼を開かせ、海についての彼のイメージの根本を形作った体験だった。p164
(瀬戸内海と太平洋では、同じ海でも違うと思います)

また椰子の実の漂着でもあるように、南の発見でもあった。
抒情と観察とが渾然とひとつに溶け合っているところに「遊南島記」の独特の趣がある。
この紀行文は、いわば松岡國男と柳田國男の分水嶺だ。p177

「海南小記」は可憐な花の咲ききそう、のどかな草原と見える地雷原にたとえることができる。
多くの人は何も気づかずに花の香りによって通り過ぎるが、敷設された地雷のひとつひとつは、驚くべき起爆力を秘めている。p192


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箱入り娘にゃんこ その2 白ねこ危機一髪

2021-12-24 20:35:14 | 小説


箱を立てて置いていたら、その中ににゃんこが入ってきました。(わざと入れたのではありません)
ゲームの「黒ひげ危機一髪」スタイルです。
ふにゃ、そんなに悪い感じではないのにゃ。



こら、そんなところかじったらダメですよ。
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