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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ケールの「母なるキンツィヒ」像の足の甲

2023-02-05 15:53:11 | ヨーロッパ旅行記


最後にこの像を間近から写した画像を掲載します。
像はブロンズ(青銅)ではなく、それを覆っている色が示唆するように、鋳鉄でできています。
制作者はヒューフィンゲン出身の彫刻家フランツ・クサーヴァー・ライヒ(Franz Xaver Reich)です。
よく見ると、足の甲が少し変色しているように見えます。
このような像での「あるある」は、どこか一定部所を触ると幸福になる、のような謳い文句です。変色はそのせいでしょうか?
彼女の場合はどうかわかりません。
ただ、一番下部なので、手の届きやすい箇所なのは確かです。
貴重な記念碑ですので、美しい姿がいつまでも残るよう願っています。

(画像は英語版のwikiからです)

 


ケールの「母なるキンツィヒ」像の平和メッセージ

2023-02-04 07:49:58 | ヨーロッパ旅行記

 

画像は最近の「母なるキンツィヒ」の記念碑です。
前回の画像は2000年に撮影したものです。それと微妙に違いますが、どこかわかりますでしょうか。
下部の地面の部分にプレートが新たに設置されているのが、その違いです。
このプレートは、2015年、ケール市がモニュメントの周りに12枚のガラス板を地面に埋め込んで設置し、仏独関係の発展を人目をひくような方法でマザーキンツィヒの歴史を説明する光る碑文です。
各面三枚ずつで、合計12枚です。
その内容が独仏語で書かれているHPを発見したので、訳してみました。
前回の記事に参照している部分も多いですが、あえて全て掲載します。
現在のウクライナ情勢などみても、大切なメッセージだと思えるからです。

 

A l’origine, la statue Mère Kinzig décorait le pont de chemin de fer construit en 1861 entre Strasbourg et Kehl, par la France et la Confédération germanique.
もともと、マザー キンツィヒ像は、フランスとドイツ連邦によって1861年ストラスブールとケールの間に建設された鉄道橋に飾られました。

Comme pendant au Père Rhin, la statue de la Mère Kinzig se trouvait dans une niche du portail néogothique, sur le pilier est du pont.
ファーザーラインと対をなすものとして、マザー キンツィヒの像は、橋の東の支柱にあるネオゴシック様式の正面のくぼみにありました。

 

Le 22 juillet 1870, les troupes allemandes ont fait sauter la partie ouest du pont, pour empêcher une invasion de Kehl par les troupes françaises.
1870年7月22日にドイツ軍は橋の西側部分を爆破し、フランス軍によるケールへの侵攻を防ぎました。

La statue de la Mère Kinzig ainsi que celle du Père Rhin furent immergées dans le fleuve, lors de la destruction du pont, au début de la guerre franco-allemande.
独仏戦争の開始時に橋が破壊されたとき、マザー キンツィヒの像とファーザーラインの像は川底に沈みました。

Le pont de chemin de fer a été reconstruit à la fin de la guerre et une nouvelle statue de la Mère Kinzig orne désormais sa porte d’entrée, du côté de Kehl.
鉄道橋は戦争の終わりに再建され、マザー キンツィヒの新しい像が以後、ケール側の正面を飾っています。

 

Vers 1900, les travaux de creusement du port du Rhin ont permis de retrouver la figure originelle de la Mère Kinzig que l’on pensait disparue.
1900年頃、ライン港の浚渫(しゅんせつ)により、行方不明になったと思われていたマザー キンツィヒのオリジナルの像が発見されました。

A l’époque, les élus de Kehl ont décidé d’en faire la figure principale du mémorial pour la guerre de 1870/71, érigé en 1905.
当時、ケールの議員は、1905年に建てられた 1870/71 年の戦争の記念碑の主役をその像にすることを決定しました。

Ce monument se trouvait devant la mairie construite en 1828. Elle perdit ses fonctions en 1910, lors de l’unification de la ville et du village de Kehl et fut ensuite détruite en 1953.
このモニュメントは、1828年に建てられた役場の前にありました。その役場は市とケールの村が合併された1910年にその機能を失い、1953年に解体されました。

 

Comme tous les mémoriaux allemands de cette époque, son but n’était pas de condamner la guerre en elle-même ou de rappeler la souffrance qu’elle procure aux hommes.
この時代のすべてのドイツの記念碑と同様に、その目的は戦争そのものを非難したり、それが人々にもたらした苦しみを思い出すことではありませんでした。

Le monument a survécu à deux guerres mondiales. En 1945, alors que Kehl était une possession française, la statue de la Mère Kinzig est restée sur la place du Marché.
記念碑は2つの世界大戦を生き延びました。ケールがフランス領だった1945年、マザー キンツィヒの像は市場広場に残っていました。

 

En signant le traité de l‘Elysée, en 1963, Charles de Gaulle et Konrad Adenauer ont posé la première pierre à l’amitié franco-allemande.
1963年にエリゼ条約に調印することにより、シャルル・ド・ゴールとコンラート・アデナウアーは仏独友好の礎石を築きました。

La statue de la Mère Kinzig est aujourd’hui un point de rencontre apprécié des jeunes Français et Allemands.
マザー キンツィヒの像は、今日、フランス人とドイツ人の若者の待ち合わせ場所として人気があります。

 

(画像および文章は、les Archives départementales du Bas-RhinのHPからです)
 

回想録 ヨーロッパめぐり ジョージ・エリオット著

2022-12-29 21:40:28 | ヨーロッパ旅行記

 

回想録 ヨーロッパめぐり
ジョージ・エリオット 著
冨田成子 訳
彩流社 発行
2018年9月28日 発行

英国ヴィクトリア朝を代表する女性作家ジョージ・エリオット(本名メアリアン・エヴァンス 1819-80)による紀行文です。
彼女が体験した数多くの旅から六つの旅を選抜しています。
ジョージ・エリオットという名前はなんとなく知っていたのですが、作品を読むのは初めてです。紀行文自体は好きなので、彼女を知るよいきっかけとなりました。
また、この本は解説が懇切丁寧に入っているので、作家としての環境や旅行先の当時の状況の理解を容易に深めることが出来ました。

 

ワイマール 1854年
メアリアン・エヴァンズは『ゲーテ伝』の取材に赴くG・H・ルイスに同行して、ドイツに旅立つ。
「ワイマール」で取り上げられるのは
・ゲーテゆかりの地の取材体験
・ワイマールの風土と文化体験
・ワイマールとの別れ

ワイマールの第一印象は、期待していた典雅な「北のアテネ」とは違い「死んだように冴えない村」だったが、ベルヴェデーレ宮殿と公園を散策するうちに、たちまち豊かな自然に魅了される。
特に柵が無い公園を称えている。

 

ベルリン 1854-55
幅の広い単調な大通りが走る無味乾燥な近代都市と、誰もが口を揃えて言う街ベルリン
ワイマールに続いて『ゲーテ伝』取材のため訪問
美術・建築・演劇・音楽・オペラといった多彩なプロイセン文化と芸術を観賞し、その最前線で活躍する多くの芸術家や知識人たちと交流

 

イルフラクーム 1856年
5月8日から6月26日まで北デボンシャーの海辺の町イルフラクームに、その後8月9日まで南ウェールズのデンビーに滞在し、水生生物研究のフィールドワークに勤しむ。
この回想録のテーマは
・水生生物の採集
・山野の散策
・イルフラクームの人と文化

イルフラクームの密集する家々が大きな岩のそばに群棲するフジツボそっくりなのに気づく。p129

 

シリー諸島とジャージー 1857年
3月26日から5月11日までシリー諸島のセント・メアリーズ島に、その後5月15日から7月24日までジャージー島に滞在
更に水生生物、特に貝類の研究のためフィールドワークを行う。 

 

ミュンヘンからドレスデンへの旅 1858年
ミュンヘンからドレスデンへの移動の旅と、ドレスデン滞在に限定され、ミュンヘン滞在関連のものが省かれている。
ミュンヘン後半の心身不調によるスランプが原因か?

ミュンヘンからドレスデンまでは汽車で直行ではなく、汽車、蒸気船、馬車などを使って、ドイツ・アルプスやチロルの大自然に没入して温泉で英気を養い、ウィーン、プラハでは歴史と由緒ある美術館を巡っている。

 

イタリア 1860年
バチカンで味わった最大の醍醐味は、たいまつの灯りのもとで見た『アポロ像』をはじめとする二、三の彫像である。p233
(ゲーテの「イタリア紀行(下)」で、バチカンとカピトルとの博物館を松明の火で観賞しようとする試みについて書かれていました)



まるで羊の群れのように白い家々が丘に点在し、その後方には人気のない雄大な山々がひっそりと控え、右手にはアルノ平野が延々と広がっている。私はフィエゾレ(フィエーゾレ)からの展望が断然素晴らしいと思った。p258

ところで、絵画に関する限り、ピッティ宮殿の方がウフィツィ美術館を凌駕している。こちらの方が絵は厳選された逸品ぞろいたし、収蔵数もひけをとらない。p268-269

3月24日からパリ経由でイタリアへ向かう。3ヶ月の長旅である。
この旅行では知名度でも経済力の面でも圧倒的に優位に立ったエリオットが旅の主体になる。

この回想録にはボッティチェルリへの言及が全くない。ボッティチェルリは17世紀以降、次第に忘れられ、再び光が当てられるのは、ウォルター・ペーターをはじめとする唯美主義が注目される1870年代以降であり、「イタリア」執筆当時は評価が低かった。p299


山の旅 明治・大正篇

2022-12-03 06:36:07 | ヨーロッパ旅行記

 

山の旅 明治・大正篇
近藤信行 編
岩波文庫 緑170-2
2003年9月17日 第1刷発行

明治から大正にかけて、登山について書かれた文集です。
有名な作家も登場します。
今以上に厳しい、当時の様々な形の山登りの描写がこちらに迫ってきます。

乙西掌記(抄) 松浦武四郎

旅の旅の旅 正岡子規

寒中滞岳記(十月一日より十二月廿一日に至る八十二日間) 野中到
富士山の観測所における冬の自然の厳しさ
三歳のお子さんを郷里の父母に託して妻も登ってくるが、富士山頂の特有とも称すべき浮腫に冒されたりする。

 

知々夫(ちちぶ)紀行 幸田露伴

二百十日(抄) 夏目漱石
阿蘇山が舞台

西蔵旅行記(抄) 川口慧海(えかい)

尾瀬紀行 武田久吉

利尻山とその植物 牧野富太郎

木曾御嶽の両面 吉江喬松 

白峰の麓 大下藤次郎
甲斐の白峰を描こうとする画家

 

峠に関する二、三の考察 柳田国男
一 山の彼方
ビョルンソンのアルネの歌
諾威(ノルウェー)と日本の山の違い

二 たわ・たを・たをり
「たわ」「たをり」山の土の最も多く消磨した部分、鞍部

三 昔の峠と今の峠
昔の山越は深く入って急に越え、今の峠は浅い外山から緩く越える。

四 峠の衰亡
汽車は誠に縮地の術で、迂路とは思いながら時間ははるかに少なく費用は少しの余計で行く路があって見れば、山路に骨を折る人の少なくなるのは仕方ない。

五 峠の裏と表
表口は登りに開いた路。なるべく川筋の岸を行く
裏口は降りに開いた路。麓の平地に目標を付けておいて、それを見ながら下りる方が便。

六 峠の趣味
自分の空想は一つ峠会というものを組織し、山岳会の向こうを張り、夏季休暇には徽章か何かをつけて珍しい峠を越え、その報告をしゃれた文章で発表させることである。何峠の表七分の六の左側に雪が電車の屋根ほど残っていたなどというと、そりゃ愉快だったろうと仲間で喝采するのである。さぞかし人望のない入会希望者の少ない会になるであろう。冗談は抜きにして峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である。
(柳田らしからぬ、諧謔に富んだ文章ですね。タモリさんの坂道学会を思い出しました)

 

越中劍岳先登記 柴崎芳太郎

穂高岳槍ヶ岳縦走記 鵜殿正雄

槍ヶ岳に登った記 芥川竜之介

赤城にて或日 志賀直哉

平ヶ岳登攀記 高頭仁兵衛

皇海(すかい)山紀行 木暮理太郎

日本アルプス縦断記(抄) 長谷川如是閑
針木峠という名は、神経に一種の刺激を与える響きを持っている。

 

山恋ひ(抄) 宇野浩二

欧州アルプス越え(抄) 加賀正太郎

アルペン行(抄) 鹿子木員信
宿屋で頼んだ朝のコーヒーの勘定書での欺きや、宿屋の者の他の客人に対する不親切と無礼から瑞西人に対し怒る筆者

スウィス日記(抄) 辻村伊助

火と氷のシャスタ山 小島烏水
筆者にとっては、アメリカで最も多く心を惹かれる山がシャスタ山

 


世界遺産の鐘楼(ナミュール・ベルギー)

2007-09-09 23:17:41 | ヨーロッパ旅行記
ナミュールの城砦に登る前、何気なく街中の写真を撮っておいた。
普通の街並みのようだが、一番奥に見えるのが、どうやらナミュールの鐘楼のようだ。
この鐘楼は、「フランドル地方とワロン地方の鐘楼」ということで、世界遺産にも選ばれている。
といっても、多くの鐘楼の中の一つであって、「合わせ技一本」という感じである。
もっとちゃんとした写真を撮っていたらよかった。