ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

藤田嗣治 パリを歩く

2024-05-25 20:56:33 | パリの思い出

 

藤田嗣治 パリを歩く

清水敏男 著

東京書籍 発行

2021年9月9日 第一刷発行

 

藤田嗣治のフランスでの足跡を追っかけています。

文章と絵画と写真が、見事に調和とれています。

この本で扱っている絵画の中で自分が好きなのは『ホテル・エドガー・キネ』と『フレール河岸 ノートルダム大聖堂』です。

 

チューリヒにて 序にかえて

スイスが山岳の地と地と思うのは間違いで平地の国だ、と思う。

山岳が注目されるようになったのは啓蒙主義の時代に言語学者ソシュールの祖先が山岳の文化に関心を持って以来の事に過ぎない。

チューリヒもバーゼルもジュネーヴもヨーロッパと地続きだ。決して山岳の中の孤立した街ではない。

(バーゼルでドイツ国境まで簡単に歩いて行ったことを思い出します)

 

絵画が非物質の世界と物質的世界とのちょうつがいのような存在だとしたら、藤田が確実にいた場所、つまりこの世の側もできるだけ見ておくことは無意味ではないだろう。

 

藤田は1968年1月29日、チューリヒで亡くなった。

 

パリ篇

第1日 ホテル・エドガー・キネ 14区

ホテル・オデッサが藤田が1913年の夏、初めてパリに来た時に泊まったホテル

その道路の反対側にホテル・エドガー・キネ

ホテル・エドガー・キネを描いた絵(1950年)は藤田の二つの時期を象徴している。青春のパリと初老のパリ、しかも傷心で戻ってきたパリである。

その絵には赤い帽子の少女が描かれている。犬に挨拶する少女は新しい時代に挨拶している。

 

第2日 ヴィクトル・シェルシェ街 14区

ピカソは目に見える対象をバラバラに分解し、その後画面上で自由に再構成する、という絵、いわゆるキュビスムを推し進めたが、

ルソーの天性はそれをごく自然にやっている。

藤田の驚きは何層にも重なっている。

ピカソの描いた『アヴィニョンの娘たち』を見てピカソに驚き、ピカソがルソーを大切にしていることに驚き、そしてルソーに驚いた。

黒田清輝の教えとあまりにも違う。

 

第3日 税関吏ルソー緑地(マラコフ市)

ブルーデル美術館は昔は忘れられたような質素な美術館だったが、今は活発に活動している。

 

藤田の『パリ風景』

線路の向こう側はイッシー=レ=ムリノー市、線路のこちら側で画面の左側はマラコフ市。

(以前イッシー=レ=ムリノーのIT化についての原稿を書くために、当市を訪問したり会議に出席したことを思い出します)

 

マラコフ市でルソーが税関吏として働いていた。

 

ヴェルサンジェトリックス街はガリア人ウエルキンゲトリクスにちなむ。

なぜその名がついたのかというと、アレジアとジェルゴヴィという、彼とシーザー軍との主戦場の地名を冠した通りが近くにあったから。

 

第4日 パンテオン 5区

ピュヴィ・ド・シャヴァンヌがパンテオンに描いた壁画。

その草を同じように藤田と小杉未醒も描いていた。

 

第5日 ラ・ポエジー街 8区

 

第6日 グラン・パレ 1区

ド・ゴールの彫刻。都市景観と彫刻の関係がよい

 

第7日 パリ国際大学 14区

 

第8日 フレール河岸 4区

1950年、疲れ切った藤田をノートルダム大聖堂は受け入れた。その感謝の気持ちを絵にすることを考えた。しかし藤田は壮麗な大聖堂を描かなかった。フレール河岸から見た尖塔をもってしてノートルダム大聖堂とした。

戦争の傷は自分もパリも未だ癒すことのできない深手の傷だったに違いない。パリに戻ってきた喜びは抑えられ、深く内面に沈んでいた。ノートルダム大聖堂をわずかに拝む光景を選んだのはそうした藤田の心だったのではないだろうか。

 

第9日 カンパーニュ・プルミエール街23番地 14区

タルティーヌはバゲットを長めに切り、半分に割って内側にバターが塗ってある。そこにジャムをつけて食べる。フランス人はよくそれをカフェにつけて食べている。

(ランボーは『居酒屋みどり』でハムのタルティーヌをビールと一緒に食べていました)

 

第10日 カンパーニュ・プルミエール街17番地bis 14区

 

第11日 蚤の市 18区

『日曜日の蚤の市』の成立の連鎖

ピカソ→アンリ・ルソー→市壁→ラ・ゾーヌ→スラム街→蚤の市→(骨董・ブロカント趣味)→スラム街の撤去→野原

 

第12区 ガリエラ美術館 16区

藤田が出展した『誰と戦いますか』という絵。格闘家の面々を描く。若い時にパリの舞踏会で柔道のパフォーマンスをした藤田。

 

パリ市立近代美術館が国立近代美術館だった時に、展示室の窓からエッフェル塔を見た著者。いまだに心の網膜に残っているとのこと。

(ひょっとした自分がそこから見たエッフェル塔と同じだったかも?)

 

遠足編 第1日 ヴィリエ=ル=バークル

藤田の住居兼アトリエがある

 

遠足編 第2日 アヴィニョン

1918年アヴィニョンにいた藤田。1920年代のパリの成功をもたらした白い下地の技法をほぼ完成させたのはアヴィニョン滞在中だったと著者はみている。

 

藤田のいた場所はアヴィニョン新町(ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン)

ダラディエ橋を渡り切り左に折れる。

(コローがアヴィニョン教皇庁を描いた場所と同じ角度ではないだろうか?)

 

遠足編 第3日 ランス

藤田と君代夫人の墓があるシャペル(礼拝堂)

 

ランスの大聖堂を集中的に爆撃したドイツ軍。歴代フランス国王の戴冠式を行った大切な場所だからだろうか。

 

 

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パリ時間旅行 鹿島茂 著 (後半)

2024-02-03 21:05:25 | パリの思い出

Ⅲ 写真、スポーツ

マルヴィルのパリ

現在のパリの街並みは1853年頃から約20年ほどのあいだに、旧来の街並みを人為的にすべて破壊したうえで、綿密な設計図に基づいて建設されたもの。

カルチェ・ラタンやマレ地区に一部過去の街並みが残っているだけ。

 

失われたパリを写した写真家、ウジューヌ・アジェ

彼の作品は大改造後の世紀末からベル・エポックにかけての二十世紀のパリ

 

シャルル・マルヴィルの作品がバルザックやユゴーのパリ、つまり大改造以前の失われたパリを残している。

 

パリ民衆の反抗精神に対してナポレオンⅢ世のとった方法

・中心部と東部の人口密集地区を街区ごと破壊し、ここに大砲を通すことのできるような広い真っすぐな道路を通す

・街はずれに健康的で清潔な低家賃の労働者住宅を建設し、ここに労働者を送る。

 

マルヴィルは、当局の指示に従って、取り壊しの決まっている通りを両端から、工事前、工事中、工事後というように、三段階にわけて撮影している。

当局は工事後の写真を強調したかったが、後世は工事前の写真を賞賛した。

 

オスマンの言う通り、もし、パリが改造されずに、現在も中世そのままの姿で残っていたら、ヴェネツィアのように旧市街は観光客専用として自動車乗り入れ禁止に出もしない限り、都市としては機能しなかっただろう。

しかしマルヴィルに写真を撮らせたことは、オスマンの失策ではなかったか。

 

写真の感動的な点は、しんと静まり返った光景の中に、ぽつんと見える人影である。

 

著者の完全な推量では、もしかすると、マルヴィルはバルザックの《人間喜劇》の熱心な読者ではなかろうか。

バルザックが様々な小説の中で取り上げている路地が、マルヴィルの撮影しているそれとあまりに見事に符合している。

 

 

フランスのスポーツ

普仏戦争の敗北で、フランスも近代的な身体訓練つまり体操を軍隊や学校に積極的に導入しようとした。

 

スポーツを巡る19世紀末の言説

・フランスの軍隊式体育をイギリス風の自由なスポーツ精神によって打破しようとする左派(自由派)

・自我、克己心、民族、祖国などの価値を高めるためにスポーツを利用しようとする右派(国粋派)

 

クーベルタンは第一回オリンピックを1900年のパリ万博に合わせてパリで開催しようと考えたが、間が空きすぎるということで第一回大会はオリンピック発祥の地アテネで行われ、大成功をおさめたが、パリでの第二回はほとんど話題を呼ばなかった。

当初の目論見どおり、第一回がパリで行われていたら、現在オリンピックは存在しなかったかもしれない。

 

日本と違ってフランスの自転車レースはトラックではなくツールドフランスなどのロードレースが主体となっている理由

・古くから長距離の乗合馬車が運航していたおかげで都市間の道路が舗装されていた

・国土が平坦で起伏が乏しい

・自転車は都市生活者が広々とした田園に出てきれいな空気を吸い込むための道具という考え方が根底にあったので、わざわざ狭い競輪場に閉じこもってレースをするという発想が生まれなかった

 

ラグビーは1890年頃イギリスから輸入、1910年創設の五か国対抗の人気の高まり同時にプロスポーツ化が進んだ。

 

サッカーも同じ頃イギリスから導入されたが、その手軽さから現在も国技といえるほどの人気と競技人口をもっている。

 

あとがき

パリという街は、過去と現在が理想的な形で混在している特権的な都市

ヴェネツィアのように過去がそのまま手つかずの状態で残っているわけでもなく、かといって東京のように過去が痕跡もとどめていないというのでもなく、いわば過去と現在が幸福に絡み合って、過去再構築の欲望を喚起してやまない時間のモザイク都市。

 

 

 

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パリ時間旅行 鹿島茂 著 (前半)

2024-02-02 20:53:44 | パリの思い出

パリ時間旅行

鹿島茂 著

筑摩書房 発行

1993年6月1日初版第1刷発行

 

この本では、パリの中に穿たれた、パサージュ、街灯、あるいは単に光、音、匂いなどというタイム・トンネルを通ってこの時間都市に旅をして、たっぷりと十九世紀の空気を吸い込んでいくことを目的としている、とのことです。

 

Ⅰ パリの時間旅行者

パリの時間隧道(パサージュ)

パリの建物は条例により高さが地域で一定している。そのせいか、屋根裏部屋の窓から眺めるとほとんど視界を妨げるものがない。

 

パサージュというのは、通りと通りを結ぶ一種のアーケードの商店街で、十八世紀の末から十九世紀の前半にかけて建設された鉄とガラスの建築

パリのパサージュはどれもいたって小規模で、しかも、例外なく寂れきっている。そして、その寂れ方が尋常ではないのである。それこそ、寂れ寂れて百五十年、というように、寂れ方にも年期が入っている。

 

パサージュは十九世紀の化石だが、左岸ではパサージュはすでに全滅している。

 

パレ・ロワイヤルの寂れ方は、パサージュ以上である。

パレ・ロワイヤルは十九世紀の古戦場である。とにかく、ここには人間の気配すら感じられない。

(この中庭で、のんびり昼休みを過ごしたのは懐かしい思い出です)

 

ボードレールの時代への旅

1853年はボードレールの時代のパリ

 

ベル・エポックの残響

1910年の初め、『失われた時を求めて』の執筆に全力を注ぐことを決意するプルースト

 

当時のガラクタ市を訪れた骨董好きが薄汚れたバイオリンを数フランで買ったが、のちにそれはストラディヴァリウスであることが判明した。

この噂が立って以来、パリ中の人間たちが、さながらゴールドラッシュのように、クリニャンクール門やモンスール門に立つ蚤の市に押し掛けた。

 

トラムウェイは、最初、二階建ての大型乗合馬車を軌道に乗せて、これを馬が牽引する鉄道馬車の形をとっていたが、やがて動力は蒸気や圧縮空気に、ついで電気に変わった。

 

Ⅱ パリの匂い、パリの光

香水の誕生あるいは芳香と悪臭の弁証法

 

清潔の心性史

 

パリの闇を開く光

固定した公共照明がパリに出現するのは、1667年、太陽王ルイ14世が、絶対王政の象徴として二千七百個のランテルヌ灯の街灯設置を命じたときのことである。

ランテルヌ灯はガラスをはめた角灯に一本の蝋燭がともされてるだけの照明

 

1760年頃、あらたにれレヴェルベール灯という灯油ランプによる街灯が発明される。街路をまたいで両側の建物の間に張られた綱の中央に吊るされてた。

 

パリの街路照明に革命をもたらしたのは、1830年頃から公共用街灯として用いられるようになったガス灯である。

 

灯柱はガス灯がレヴェルベール灯に取って代わった時に初めて登場した。

レヴェルベール灯は灯油だったので、ランピストと呼ばれる点灯夫が、毎日一定量を給油していたのだが、ガス灯では、ガス工場で製造したガスを地下のパイプを通して常時ランタンまで運んでいた。そのため灯柱が必要となった。

そして電気照明になっても灯柱が必要となるため、そのままパリ風景が残った。

そしてパリの夜が味気ない蛍光灯で照らされずにすんだ。

 

陰翳礼讃あるいは蛍光灯断罪

 

ミステリー「モーツァルトの馬車」

17世紀の中頃までは、都市交通に最も必要な二つのものが決定的に欠けていた。

・整備された舗装道路

・人間が安楽に乗ることのできる馬車

舗装道路は、17世紀においては、ローマ時代よりはるかに劣っていた。

 

18世紀、馬車もスプリングが改良された。

 

もし、モーツァルトが二十年早く、18世紀の前半に生まれていたら、あれだけの大旅行が物理的に可能だったかどうか。

また、モーツァルトが二十年遅く生まれていたら、石版印刷の出現で楽譜の出版による印税が可能だったから、モーツァルトほど旅行する必要がなかった。

 

モーツァルト親子が残した膨大な書簡は、18世紀後半のヨーロッパ社会を理解する上で、またとない一級の資料となっている。

 

18世紀後半の旅行手段として可能だったもの

・川船

・自家用馬車

・貸し馬車

・駅逓馬車(駅馬車)

・郵便馬車

 

馬車というと、御者と馬が自動的に付いているものと考えるが、これは駅逓馬車のような乗合馬車以外にはありえず、普通は自家用馬車でも貸し馬車でも、馬と御者のセットを宿駅ごとに雇わなければならなかった。

 

貸し馬車は寒さがひどかった。また、安全性もなかった。

 

駅馬車は乗り心地が最低だった。

 

郵便馬車は19世紀の前半には旅客輸送の一翼を担うことになるが、少なくともまだフランスでは、モーツァルトの時代には、郵便の配達が専門で旅客は乗せていなかったようだ。

したがって、モーツァルトの手紙によく登場する「終わりにしなくてはいけません。郵便馬車が出発します」という言葉は、郵便馬車に乗るのではなく、手紙を郵便馬車に託すという意味なのではないか。

 

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写真と地図でたどるパリ歴史散歩

2023-08-06 20:22:03 | パリの思い出

 

写真と地図でたどる

パリ歴史散歩

古さと新しさが交錯する街パリを発見する18の旅

PARIS PROMENADES

dans le centre historique

パスカル・ヴァレジカ 著

蔵持不三也 訳

ミュリエル・モンティニ 写真

 

パリ中心部、アンシャン・レジーム(旧体制)末期、いわゆる徴税総請負人の市壁内部の18通りの散策コースを紹介しています。

内容は高度でパリ上級者向けですが、写真が多いので、眺めているだけでも楽しめます。

あと各コースの小腹がすいた時の食事場所も紹介しています。

それにしても、様々な隠れた歴史が現代の街並みに残っているのには、さすがパリの街と感心させられます。

 

フォブール・サン=マルセル地区

当初は「死者たちの地」だった

 

フォブール・サン=ジャック地区からフォブール・サン=ヴィクトル地区へ

中世都市の古い東南端

ジャン=バティスト・カルボーの「世界の4地域の泉」

 

サン=メダール界隈から「大学」地区へ

中世的なセーヌ左岸の中心街

フワール通り

フワール(fouarre)とは、古フランス語で「麦藁」(feurre)、つまり学生たちが野外での講義を受講する際に履いた藁沓(わらぐつ)を意味する。

ダンテはその『神曲』の「天国編」でそれについて触れている。p51

 

サン=タンドレ=デ=ザール地区からサン=シュルピス地区へ

旧修道院領の緩やかな変貌

 

高貴なフォブール・サン=ジェルマン地区

18世紀の「トレンディな」界隈

ロダン美術館

 

「外国宣教会地区」

田舎風かつ文学的で、きわだってカトリック的な界隈

 

グロ=カイユ界隈

17世紀に生まれた村の存続

ジャン・ニコ(1530-1600)フランスにたばこを招来したとされる人物。ニコチンの語源

 

モンソー公園周辺

田舎の町の一部

 

旧ヴィル=レヴェック地区

司教の農場から栄光の聖堂まで

メトロ・マドレーヌ駅の2011年に閉鎖されたアール・ヌーヴォー調の見事な公衆トイレ

 

フォブール・ド・ラ・ヌーヴェル=フランス地区

失われた植民地とシュルレアリスム

 

フォブール・サン=マルタン地区

静かな運河の洪水とペスト禍

 

パレ=ロワイヤル地区からラ・ブールス地区へ

小路を通る時間の旅

レチフ・ド・ラ・ブルトンヌが『ムッシュー・ニコラ』でパレ=ロワイヤルの魅惑について多くを語っている。p183

パレ=ロワイヤル庭園

夏冬を問わず静かで快適な場所で、素晴らしい光が差し込んでくる。p187

 

サンティエ地区とボン=ヌーヴェル丘

長きにわたるパリの周縁

 

サン=ジャックの塔からサン=マルタン界隈

イシス、錬金術師たち、シュルレアリストたち

イシスはエジプト神話の豊穣の女神

 

ロンバール(ロンバルディア)通りの呼称は、イタリア出身の商人や銀行家、両替商たちが中世にここに集団で住み着いたことに由来する。p217

 

モンソー・サン=ジェルヴェ地区とサン=ポール界隈

セーヌ右岸の原点へ

 

フォブール・サン=タントワヌ地区

大修道院から職人へ

 

ポパンクール地区

「ヴィル・ヌーヴ・ダングレーム」

バタクラン劇場

 

ルイイ周辺

ダゴベール、ラ・ファイエット、植民地博覧会

 

 

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パリとセーヌ川 中公新書

2023-02-23 09:01:17 | パリの思い出

 

パリとセーヌ川
小倉孝誠 著
中公新書 1947
2008年5月25日発行

本書はパリを中心としながらも、その上流と下流にも目を配りつつ、セーヌ川を舞台に繰り広げられられた生活、習俗、文化を歴史的に跡づけ、ジャーナリスティックな言説、文学、絵画、版画などがセーヌ川をめぐってどのような表象を提示してきたかを探ろうとしています。p7

プロローグ
フランスには大河(フランス語で「フルーヴ」[fleuve])が五つある。セーヌ川、ロワール川、ローヌ川、ガロンヌ川、そしてライン川である。p4

フランス史の領域では、1789年のフランス革命勃発から1914年の第一次世界大戦までの120年余りを、巨視的に19世紀と捉える見方が一般的である。p9

 

近代パリを論じ、語った言説の範疇
・ジャーナリスティックな文章
この種の著作では、タイトルの中に「タブロー」(tableau)という語を含む例が多い。タブローとは絵、情景、光景といった意味
・当時「社会観察者」と呼ばれた人々によって書かれた調査記録
マクシム・デュ・カンの『パリ、その構造と機能と生活』がその代表作
・観光ガイドブック「ギード」[guide]と旅行記、すなわち旅行者のために、旅行者の視点で綴られた言説
・文学作品
・絵画、版画、写真など視覚的にパリを表現した芸術

なせパリは語られたか
・当時のパリが急速に変貌していた。首都が変わるからこそ首都について語らなければならない。
・19世紀においてパリがさまざまな価値の温床と見なされるようになった。

 

第1章 川を通過する
パリは19世紀にいたるまでフランス最大の港の一つだった。
かつては河川と運河により、水上交通が陸上交通よりもはるかに効率的だった。

日本の河川はヨーロッパの河川と比べて、細く急峻なだけでなく、川の最小流量に対する最大流量の比率「河況係数」が際立って高い。交通・運輸には適していない。p19 

可動堰の発明は、パリ市内のセーヌ川の航行を安定化したという意味で決定的だった。川の流量に関係なく水位を上げて一定の高さに保ち、恒常的な水深を確保できたので、かなり大型の船舶でも季節を問わず市内に乗り入れ可能になった。p24

セーヌ川の航行を整備、拡大し、最終的にはパリを大規模な海港と較べてても遜色ない港にすること、それは決して根拠のないユートピアではなかった。
「パリ、海港」という神話的構想は、長い間にわたってフランス人の脳裏に宿ってきた。

中世から近代にいたるまでパリのセーヌ川に架かる橋は少なく(18世紀末で九つ)人々はしばしば渡し船で両岸を往復した。p32

 

1830年代から40年代にかけてがセーヌ川の蒸気船の黄金時代だった。p40
1837年、パリ市内から、西郊サン=ジェルマン=アン=レーまで鉄道が開通した。旅行客はそこまで汽車で行き、近郊の村ル・ペックの桟橋から蒸気船に乗船することになっていた。
当時は蒸気船と鉄道が共存した平和な時代だった。p47

 

第2章 運河に生きる
イベリア半島を除いたヨーロッパ大陸は河川を運河化し、河川どうしを結ぶ運河を作ってきた。

児童文学の古典とされるエクトール・マロの『家なき子』(1878年)
ミリガン親子は大西洋から遠くない河口内港ボルドーを出発してガロンヌ川を遡り、トゥールーズ近郊でミディ運河に入った。そして地中海に出てからローヌ川に入り、リヨンまで北上してソーヌ川へと移り、再び運河を使ってロワール川、さらにはセーヌ川へと船旅を続ける。そしてセーヌ川の河口ルーアンに出て、イギリス海峡に抜ける。p64

首都パリも運河と縁の深い都市である。セーヌ川それ自体が運河化されただけではない。セーヌ川と他の川を、そしてセーヌ川の上流と下流を結ぶために、サン=マルタン運河、ウルク運河、サン=ドニ運河が設けられた。

 

第3章 川を楽しむ
セーヌ川を利用した王政期の祝祭、共和制時代の祭典、そして万国博覧会はいずれも中央政府が先導した国家的プロジェクトであった。
一方セーヌ川を舞台にした市民が誰でも実行できる活動、レジャーとして、釣り、水浴、船遊びがあげられる。

鉄道の開通と発展により、パリ西郊のセーヌ川沿いの町村は人気の高い行楽地になっていった。水辺がリゾート化した。
アルジャントゥイユ、シャトゥー、ブジヴァルなど、西部鉄道の沿線に位置する町。p121

 

第4章 川を描く
アルジャントゥイユ、シャトゥー、ブジヴァルは町自体に格別豊かな文化資源が残されているわけではない。
それにもかかわらずこれらの町の名が現代人に何がしらの郷愁を覚えさせるのは、モネやルノワールやシスレーが描き、モーパッサンが数多くの短編小説の舞台にしたからに他ならない。

印象派の誕生と発展がセーヌ川の情景を表象することと密接に繋がっていたことは、あらためて指摘するまでもないだろう。光と水と大気を表現しようとした印象派は、セーヌ川を必要としたのである。p148

第5章 川に死す

 

第6章 橋を架ける
2008年現在、パリのセーヌ川に架かる橋は全部で37。
しかし18世紀末の時点においてパリのセーヌ川に架かる橋の数は現在に較べてはるかに少なく、その多くは中心部に集中していた。p204

橋の三種のカテゴリー
・セーヌ川の中洲と両岸を南北に繋ぎ、いわば首都の主要な縦軸を形成していた橋
・都市交通のためというより、特定の用途にだけ当てられていた橋
・16世紀から18世紀の王政時代に建造された大規模な橋
首都の交通量を分散させるため、パリ市の予算ではなく王室の予算で造られた。

 

18世紀までのパリは中心部の橋の上には、住居兼店舗が軒を連ねていた。
しかし18世紀末、都市景観への好奇心が浸透し始めたと共に、大気や水が循環することが人体の健康と都市の衛生にとって有益であるという「大気循環論」が広く流布し、受け入れられるようになった。そうなれば、橋の上の建物は審美的にも衛生学的にも好ましからざる邪魔物にすぎなくなった。

 

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