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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ダンレアリーの三つの塔(アイルランド)

2023-08-27 20:06:24 | ヨーロッパ旅行記

 

ダンレアリー港のイースト・ピア(東桟橋)をてくてく歩いていき、振り返ってダンレアリーの街を眺めます。
三つの塔が普通の街並みの中にアクセントを与えてくれています。
アルルのローヌ川そばから、街並みに紛れていろいろな塔が見えたのを思い出しました。
Googlemapとかで、どんな建物か調べてみると、向かって右から
ダン・レアリー=ラスダウン市庁舎の時計台
セント・マイケル教会の塔
そしてアイルランド国立海事博物館の塔
のようです。
アイルランド国立海事博物館は、もともと教会だった建物を利用しています。
よって教会の塔もそのまま残しています。
この三つの塔は、船でダンレアリー、更にはアイルランドに帰ってきた人々、あるいは新たにアイルランドを訪問した人たち、を迎え、見守ってきたような気がします。

 


ダンレアリーの浜辺(アイルランド)

2023-08-23 20:04:49 | ヨーロッパ旅行記

 

ダブリンから電車で東に向かい、画像のような海岸に出ます。
この辺りはダンレアリーと呼ばれる、アイリッシュ海に面した街で、ダブリンの外港というべき場所でした。
19世紀から、アイルランドとイギリスのフェリーの旅客港で、自分が訪問した2001年も、ウェールズのホーリーヘッド行きのフェリーが1日に何回か就航しており、ちょっくら乗ってみたいなあと思ったものです。この時はさすがに時間などを考慮し断念しましたが。
しかし2008年には一日一便だけになり、2015年にはダブリン港に集中し、ダンレアリー便はなくなってしまいました。
今では大型クルーズ船停泊や、ダブリン湾だけの周航船だけになっているようです。
寂しい話ですが、これも時代の流れかなという気がします。
画像の向こうの陸地の先くらいに、ジェイムス・ジョイスの博物館のある塔が建っています。
そこまで海沿いを、てくてく歩いて行くことになります。

(wikiを参考にしました)

 


ダブリンのオコンネル像(アイルランド)

2023-08-19 20:07:30 | ヨーロッパ旅行記

 

画像はダブリンのオコンネル像です。
このダニエル・オコンネル(1775-1847)はアイルランドの解放者として尊敬されています。
アイリッシュ・カトリックの家に生まれたオコンネルは、富裕な叔父の遺産を相続し、フランスに留学しました。
その時期、ちょうどフランス革命が起こり、現場で革命を見て、強い影響を受ける一方、暴力行使には激しく嫌悪感を覚えます。
彼が25歳の時、イギリスはアイルランドを併合します。
併合には反対しましたが、暴力的手段を嫌い、「Repeal(撤回)!」という言葉を合言葉にし、リピール協会という運動団体まで作ります。
また1843年8月15日、オコンネルはタラの丘という、アイルランド人にとっての伝説の地で大集会を開きました。
非暴力の点がオコンネルの魅力でもありますが、その一方、非暴力ゆえに「青年アイルランド党」という過激な連中から突き上げられ、引退を余儀なくされました。
こうした立派な像が残っているのは、非暴力という面も大きいと思います。
もちろん世界には、独裁者や好戦的な人の像もたくさん残っていますが、かなりの年月を経て、暴力の印象が薄れている場合が多そうです。
多くの場合、政変の際、引き摺り倒されてしまっています。
そういう面でも、オコンネルさんの像は、今後永遠に残りそうです。
ダブリン訪問の際には、ちゃんと挨拶しておきたい像ですね。

(司馬遼太郎著、「街道をゆく 愛蘭土紀行」を参考にしました)

 


リフィー川のミレニアム橋とフィッツィモンズホテル(ダブリン・アイルランド)

2023-08-13 20:12:41 | ヨーロッパ旅行記

 

今まで「古の写真でめぐるフランス」シリーズを書いてきたのですが、自分が訪問したフランスのパリ以外の地方は一通り紹介できたので、これからは「古の写真でめぐるヨーロッパ」シリーズとなります。
そのうち、まずはアイルランドについて書いてみたいと思います。
訪問時期は2001年の8月でした。
まずは首都のダブリンから。
画像の手前の川が、ダブリンの中心を貫くリフィー川です。
そして架かっている橋はミレニアム橋と呼ばれる歩道橋です。
1999年に架橋されたため、そのような名前になったそうです。
橋の向こうは、テンプル・バーと呼ばれるエリアで、ダブリンで最先端をゆく文化発信基地、とのことです。
昼間の画像を見てもわかりにくいのですが、夜になるとこの歩道橋が盛り場につながる便利な通路になっているのでしょうね。
赤い建物はこの時、自分が宿泊したフィッツモンズ・ホテルです。
一階はバーになっているのですが、部屋に居ても夜遅くまで賑やかな音が聞こえてくる時もあり、困りました(笑)。

 


サンチアゴ巡礼の道4000km

2023-08-04 20:22:46 | ヨーロッパ旅行記

 

サンチアゴ巡礼の道 4000km

石田昇二 著

東京図書出版 発行

2017年12月24日 初版第1刷発行

 

サンチアゴ巡礼の道のうち、スペインとポルトガル国内の巡礼道の徒歩による踏破記です。

もともと海外登山の豊富な経験をお持ちの著者です。

 

巡礼の起点はヨーロッパ各地に見られ、遠くは北欧、東欧、イタリアをスタートしてフランスの代表的な四つのルートに合流する。

・アルル(サン・ジル)の道

・ル・ピュイの道

・ヴェズレーの道

・トゥール(パリ)の道

 

スペイン・ポルトガルを起点とする代表的なルート

・銀の道 ローマ遺跡

・北の道 素晴らしい海岸線

・ポルトガルの道

・サナブレスの道

・カタロニアの道

 

一般的に「サンチアゴ巡礼」イコール「フランス人の道」は80~90%の巡礼者が利用していると思われる。

 

1 銀の道

(2012年11月4日 セビージャ~11月22日 アルデアヌエバ・デル・カミーノ)

(2014年4月8日 アルデアヌエバ・デル・カミーノ~4月21日 アストルガ)

「銀の道」の名称は、紀元前にスペイン北部で採れた銀等の鉱物をローマに運ぶために造られた道、南部セビージャと北部ヒホンを結ぶローマ道から由来する。

 

サナブレス・モサラベの道

(2014年11月7日 グランハ・デ・モレルエラ~11月22日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

「サナブレスの道」は「モサラベの道」の別称であり、何ら異なる点はない。

 

途中で80歳の女性が自転車でドイツからサンチアゴに向かっていた、という話を聞く。p59

 

2 北の道

(2015年4月22日 イルン~5月11日 ヒホン)

(11月8日 ヒホン~11月24日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

サンチアゴが位置するガリシアの学校では、教育の一環としてポルトガル語と類似するガリシア語が取り入れられ、スペイン語と同様に公用語として利用されている。p75

 

到着したヘルニカ(ゲルニカ)の街はピカソの絵画で有名。ドイツ軍に空襲で破壊されて78年目、その時の模様を再現する記念行事が行われていた。p82

 

3 フランス人の道

アラゴンの道

(2013年5月10日 ソンポルト峠~5月16日 オバーノス)

 

ナバラのハビエル城でフランシスコ・ザビエルは城主であった父親の下生まれた。p129

 

フランス人の道

(2011年3月9日 サン・ジャン・ピエ・ド・ポー~3月20日 ブルゴス)

(2011年11月2日 ブルゴス~11月16日 サリア)

(2012年3月16日 サリア~3月20日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

3月11日、日本で大きな地震があったと知らされる。アルベルゲ(巡礼宿)にはテレビは無く、事情を説明してコンピュータの映像を見せてもらう。日本時間の深夜息子に電話。彼は電話が通じたことにびっくりしていた。p136

 

旅を続けて巡礼者との付き合いで感じるのは東洋系、有色人種、スペイン、イタリア人のラテン系が一つのグループを形成する。

そして白人系、フランス人(ラテン人なのになぜか)が別のグループを作る。

当初は主に英語、スペイン語、フランス語で会話が行われるためと思ったが、どうやらそれだけではないようだ。

暗黙のバリアーがあり仲間意識が出来上がっている。

世界は広いようで狭い気がした。p145

 

フィステーラへの道

(2012年3月21日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ~3月24日 フィステーラ)

地の果てフィステーラの岬へ

 

ムシーアへの道

(2012年3月25日 フィステーラ~3月26日 ムシーア)

もう一つの最果てムシーア

 

4 ポルトガルの道

(2016年3月15日 リスボン~4月1日 ポルト)

(11月16日 ポルト~11月28日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

 

5 カタロニアの道

(2017年3月17日 モンセラト~4月1日 サンタ・シリア・デ・ハーカ)

今回の巡礼地の特徴は、殆どすべての村や町が城塞を伴っていることである。