川ちゃん農園だより 樹齢700年といわれる黄大銀杏と坂東十番札所岩殿観音本堂

農家の遊休土地をお借りしてはじめたものです。カメラも趣味ですので四季の移り変わりを記録して行きたいと思います。
  

伊能忠敬&川嶌定六<エッセイ風>

2021-02-23 15:12:50 | エッセイ風

東京は門前仲町、深川不動堂ととなりに八幡さまがある!この八幡さまは、江戸三大祭りの一つ「深川八幡祭り」で有名な富岡八幡宮<1627年(寛永4)創建>です!二百余年前、この八幡さまに縁の深い方、近くに住居を構えた伊能忠敬<1795年(寛政7)から1814年(文化11)まで>住んだのです! この伊能忠敬さんは、日本国中を測量して廻り、初めて実測による日本地図「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を完成させた人<1745~1818>です。1800年(寛政12)蝦夷地測量(第1次)に出発し、歩測しながらの過酷な旅は、数カ月から時には約2年にも及び、忠敬自身の全旅行距離は計3万5千キロ、しかし全図の完成を見ぬまま、73歳の生涯を終えた。3年後の1821年(文政4)門人の手によって全図は完成、幕府に献上されたのです。<2月22日付朝日夕刊・まちの記憶より参照>

 それと同時期、寛政・文化・文政の時代<1800年前後>私の祖先も新田開発の重責を担って活躍していたことが、実家の蔵の中から古文書が発見されました。老人大学時代古文書を習う機会が得られたので、これらの解読をして、「わが祖先への想い・・川嶌家の成り立ち・・」としてA4版26ページにまとめました。

 川嶌定六開拓の時代、寛政・文化・文政<1792年~1819年>約30年間です!この時代は忍藩の領地下です、<忍藩主阿部家藩政と遺宝より>石高10万石、江戸幕府は徳川11代将軍家斉が文明7年から天保8年(1837年)50年間もの長い間将軍の座にありました(子沢山でも有名)。

 〇定六最初に出て来る古文書、①<1792年>寛政4年亥12月、定六は畑9畝4歩を通用銀2両2分2朱で譲り受け、受取申金子として受取証を取ってある、

   畑譲渡人 忠兵衛

   証人 四郎兵衛 孫八 喜左衛門

   組頭 七兵衛

 春か(すか)村 定六 殿

 <古文書説明> 請取申金子之事 

        合せ金 弐両弐分弐朱 也 但通用銀 也

        右は我ら所持の畑9畝4歩譲渡の為祝金請取申候

        右本書に記す候通り毛頭違乱無御座候

        為後日可判乃而如件

         寛政四年亥十二月」<1792>

 〇②譲渡シ申畑証文之事 文化四年丁卯年十二月(1807)定六 殿

 〇③同上請取証 他5例あり拡大して行く過程が分る。

*伊能忠敬と同時代に生きた私の祖先の墓碑、寛政1年巳酉(1789年)

 刻運禅定尼他2墓碑に施主川嶌定六とある 当時百姓でも姓名があったのである。

 古文書を数例披露したのですが、古文書に名が見える定六開拓史です!没したのは不詳ですが、その後留吉・末吉・和三郎・紋左衛門・八郎と続いて私で7代です。

 <いわどの山荘主人>

〇きょう庭の水仙です!、<7:55>