このお寺、「大本山・本圀寺」の地は京都山科の御陵に有ります。この”御陵”と書き”みささぎ”と読める方は大したものです。以下、このお寺の第一印象から、好き勝手に思うままに記載。
色々な寺社仏閣を参拝・参詣しているとおもいもかけないお寺が有ります。山科の細い道を行き、この朱色の橋を渡ると「本圀寺」があります。朱塗りの橋の「擬宝珠」(ぎぼし)は金ぴかです。
この朱塗りの門をくぐると、・・・・・・・何・何山門の「仁王様」は金ぴかです。
扁額は金ぴかです。
金ぴかの「仁王様」です。
こっちの「仁王様」も金ぴかです。
灯籠も金ぴか。
釣鐘までも金ぴか。
「九頭龍水洗弁天」の龍 も金ぴかです。
なんと、寺内の鳥居までも金ぴかです。(加藤清正公廟)
しかし、このお寺は「大本山・日蓮宗」の由緒正しい寺院です。「本圀寺」はここは新しく昭和46年(1971年)にこの山科御陵の山腹に移転して来ました。以前は「西本願寺」北あたりに有りました。「以前のお寺の境内はひじょうに広く、北は松原通より南は花屋敷通、東は堀川通西は黒門町通に至る東西200m、南北700mにわたる地を寺領として、本堂以下祖師堂・釈迦堂・鬼子母神・三十番神堂など日蓮宗独特の建物が有りました。また多くの塔頭子院も有していました。
しかし何故、この様な大寺がこの山科の地に打ったのかは審らかでは有りません。
「本圀寺」は建長5年(1345年)日蓮が鎌倉の松葉ヶ谷に設けた「草庵法華堂」に始まります。その後、布教の根本道場との勅命をえて京都に移りました。「足利尊氏」「豊臣秀吉」「加藤清正」らの援助を受け、貴族の子弟が代々住持となり、おおいに隆盛しました。
江戸時代には、「水戸光圀」の帰依があつく、その為「本国寺」の名前を「本圀寺」と改めました。しかし、天文5年(1536年)に比叡山僧徒18万人が市中の法華宗徒を襲撃しました。これが世に言う「天文法華の乱」(天文法難・これはかなり政治的な陰謀が絡んでいました、決して政教戦争では有りません、政治の陰謀です。仏教徒は戦争はしません)、これにより、他の日蓮宗20寺とともに焼き払われ、後の天明8年(1788年)の「天明の大火」でも再び焼亡し、諸堂を失いました。
その後、再興され山科の地に移るまで、堂々とした伽藍がありました。
次に、ここに再興された金ぴかだらけの、珍しい「その訳」は次記に・・・・・・・・。
山科区御陵(みささぎ)大岩6
(たわごと)
日揮の社員のアルジェリアでの犠牲が9人と判明しました。日本の政府ではどうする事も出来ません。これだけ、世界各国に日本人が、ODAや開発途上国にNGO等で援助し、また企業戦士が多く世界に展開しているのにも関わらず。今度の事で、憲法9条の改正に加速が付くかもしれません(とりあえず96条からが先決です)。何も担保もない、危険情報も無い所に、この9条が邪魔して、緊急に自衛隊が出動出来ない歯がゆさ。この綱は渡り状態で、裸一貫で活躍している日本人です。犠牲になった方に哀悼の意を。とこれからの日本国政府詳細な情報の取得方法の対応を考えます。
以前は、内閣秘密対策調査室が有ったみたいです。国家秘密で詳しい事は分かりませんが。アメリカのCIAとはケタ違いですが。