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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

しまった・・・

2019-05-23 15:07:13 | 日記
2019年5月23日(木)

 「御多忙の中の貴重な一日、どうかゆっくり命の選択をなさってください。」

 ほとんど、とりかえしがつかない。これだからワープロは・・・

Ω


太平記に懐かしい地名を見ること

2019-05-23 09:27:31 | 日記

2019年5月22日(水)

 「これのみならず、伊予国に、赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云ふ者ありて、立烏帽子峯に城を拵へ、四辺の庄園を押領す。」

※ 立烏帽子峯は、愛媛県松山市上難波(かみなんば)の恵良山(えりょうさん)
(『太平記』第12巻 3。文庫(2)P.248)

 難波は母方祖母の郷、恵良山の名は母の口からしょっちゅう聞かれたが、伊豫訛りで「え」を低く「りょう」を中国語二声の要領で引っ張り上げる発音のため、僕は長らく「襟尾山」かと思っていた。この山のこと、2016年9月末に当ブログで触れている。
 『祭りの記憶』 
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/053acbc1f5e9b6e7b3855c9a0b7b1768 
 
http://angelcymeeke.web.fc2.com/kosiore/ 

 写真右、標高302mの小さな山である。このサイトの記載(下記)からも歴史が偲ばれるが、『太平記』に出てくるとは思わなかった。

 「風早平野の北側にそびえる恵良山、腰折山は旧北条市民に親しまれているお山です。恵良山は烏帽子型、腰折山は文字通り腰が曲がったような姿でとてもかわいいお山です。
 恵良山山頂の恵良山神社には、白山権現が祀られ、古くから信仰対象のお山でもありました。山頂には河野氏が築いた恵良城跡があります。
 恵良城は、平安時代末期に伊予を支配した豪族河野氏が築いた城で、1181年、源平合戦にまつわる争い辺りから記録に登場します。しばらく河野氏諸将の居城となっていましたが、豊臣秀吉の四国平定後、来島氏の居城となりました。程なく、来島氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため移封され、恵良城は廃城となりました。」

 源平合戦から秀吉まで飛ばしちゃってるが、飛ばされた中世こそ『太平記』の豊かな世界である。赤橋駿河守こと北条宗時、最後の執権・北条盛時の兄弟とあるが、伊豫にどんな縁があって恵良山で挙兵したものか。

 「飯盛の城は正成に落とされ、立烏帽子の城は、土居・得能に攻め破られ、」
(前掲書、P.249) 

 土居・得能はいずれも河野の一族で、これはわかりやすい。風早は古来、河野水軍の根拠地であり本拠地である。だから戦前このあたりは「温泉郡河野村」だった。それが戦後なぜ「北条市」になったか。これが以前からの謎である。
 「宗昌寺の「寺領坪付文書」によると、律令制の時代に、条里制が当地に布かれた形跡がうかがわれ、「北条」の地名はこの条里制に由来するものといわれている。」
 などと Wiki にあるが、それなら全国に無数の北条市があってよい理屈である。そのうち役所にでも問い合わせてみようと思うが、果たして執権・北条氏と何か関わりのあるものか。というのも・・・

***

 北条氏と河野氏は『太平記』12巻の文脈ではこのように敵対関係に立つが、本来そうであったわけではない。
 鎌倉幕府滅亡に先立つこと半世紀余、元寇の国難にあたり伊豫・河野氏は水軍を率いて大活躍した。防塁の外に出て果敢に元軍と戦う不退転の敢闘ぶりは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、九州の猛将らも舌を巻いたとある。
 主将・河野通有(こうのみちあり)は、暴れ牛を素手で殴り殺したという大山倍達みたいな剛の者で、時の執権・北条時宗は通有の武勇を大いに喜び、通有また時宗を深く尊敬した。弘安7(1284)年、時宗が33歳で病没した際、通有は時宗の墓碑を抱きしめて男泣きに泣いたという。
 そもそも河野氏は源平合戦で頼朝を支持し、平氏の水軍が圧倒的優位の西日本で源氏の貴重な支えとなった。ところが承久の変で後鳥羽上皇方についたため、一時存亡が危うくなる。この時、執権・北条時政の娘が河野氏に嫁いでおり、そこに生まれた河野通久が鎌倉方についてからくも家名を繋いだ。通久の孫が通有だから、通有にとって時宗は祖父と一族の恩人の末裔でもあったのだ。赤橋駿河守の挙兵は、あるいはこうした縁故に期待したものか。
 やや時代が戻るが、踊り念仏で知られる時宗(じしゅう)の開祖・一遍は河野氏の出で通久の甥にあたる。

 負ける側に付いては運を損ずることを繰り返しつつ、時として英雄傑物が躍り出す懐かしい郷土の海山である。
 
河野愛で北条立ちたり烏帽子山

Ω
 

あきれた

2019-05-22 23:27:02 | 日記
2019年5月22日(水)
 本日放映の「ガッテン」、まああきれた。
 取材対象に対する、人としてのリスペクトはどこにあるのか。相手が子どもだから下品が許されるとでも思うのか。話が逆でしょう。
 心ならずも受信料を完納しているが、つくづくもったいない、情けない。
 恥を知られよ。

Ω

死生学は最強の教養

2019-05-22 15:36:15 | 日記
2019年5月22日(水)
 カメラを向けられて科目の一口宣伝を求められ、「最強の教養」という言葉をひねり出したのは確かに記憶している。とっさの機転(=口から出まかせ)が、思いがけず一部の視聴者に強い印象を与えたことを今日知った。
 仲間は冷やかしまじりに褒めてくれるが、実はちくりと痛いものがある。この言葉をカメラに向けて語った丁度その時間帯に、松山で母が旅立ちつつあった。

 単なる出まかせか、図らずも言いあてた真実か、身をもって証してみせろと囁く声がある。

Ω

万葉秀歌 010 かはかみの・ゆついはむらに(吹黄刀自)

2019-05-22 06:42:44 | 日記

2019年5月22日(水)

  河上の五百筒(ゆつ)磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて [巻1・22] 吹黄刀自

 「十市皇女(とおちのひめみこ)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自(ふきのとじ)が波多横山の巌(いわお)を見て詠んだ歌、一首の意は「この河のほとりの多くの巌には少しも草の生えることがなく、綺麗で滑らかである。そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変わりにならないでおいでになることを念願いたします」というのである。」

 「「常少女」という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感歎せねばならぬものである。今ならば「永遠処女」などというところだが、到底この古語には及ばない。作者はおそらく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ荘厳の気に打たれるほどである。」

 「十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王の間に生まれた皇女である。大友皇子(弘文天皇)御妃として葛野王(かどのおおきみ)を生んだが、壬申乱後は大和に帰って居られた。皇女は天武天皇七年夏、天皇伊勢斎宮に行幸せられんとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく四年春二月参宮の時でもあろうか。さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもわねばならぬ。」

(P.29-30)

***

 壬申の乱は十市皇女の立場から見れば、父と夫が争った末、敗れた夫が自害に至ったという悲劇の極みである。この時、皇女が「鮒の包み焼きに密書を隠して父・大海人皇子に情報を伝えた」との逸話が『扶桑略記』『水鏡』さらにわが愛読の『宇治拾遺物語』に見られる(巻15-1、186『清見原天皇と大友王子とかつせんの事』)。お市の方が夫・浅井長政らの企みを兄・信長に、両端を縛った小豆袋を送ることで知らせたという逸話を想起させるが、いずれも後世の創作の可能性が高いという。

 十市皇女は653(白雉4)年(一説には648(大化4)年)生、678(天武天皇7)年没。天武帝行幸の当日に急逝し、行幸も斎宮での祭りも中止された。葬りの際、父・天武帝が声をあげて泣いたという。30歳そこそこの急な他界に、自殺説・暗殺説もあるらしい。万葉集・巻2で高市皇子(たけちのみこ、天武帝の第一皇子つまり皇女の異母弟)が挽歌三首を捧げ、後世の涙を誘っている。

 その一つを茂吉先生もとりあげておられるので、いずれ見るが予告的に。

  ・十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首

  三諸の神の神杉巳具耳矣自得見監乍共いねぬ夜ぞ多き [巻2・156]

  神山の山辺まそゆふ短(みじか)ゆふかくのみ故(から)に長くと思ひき [同・157]

  山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく [同・158]

 

Ω