散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

万葉秀歌 009 あかねさす・むらさきのゆき/むらさきの・にほへるいもを 

2019-05-21 10:08:54 | 日記

2019年5月21日(火)

  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る [巻1・20] 額田王

 「天智天皇が近江の蒲生野に遊猟(薬猟)したもうた時(天皇7年5月5日)、皇太子・諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である」(P. 25)

 皇太子とは皇太弟・大海人皇子、後の天武天皇である。額田王ははじめ大海人皇子に婚(みあ)い十市皇女を産んだが、後、天智天皇に召されて宮中に侍していた。「この歌は、そういう関係にある時のものである」と茂吉先生、「そういう関係」とは「どういう関係」か、どの時点のことかで話がまるで違ってくるだろうが、ここは額田王が既に天智帝のもとに侍している状況を指す。これ既にただごとではない。

  紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにあれ恋ひめやも [巻1・21] 天武天皇

 「「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからといって」というのでなく、「人妻に由って恋ふ」と「恋ふ」の原因をあらわすのである。」(P. 27)

 「恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえがりしながら、しかもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。」(P. 28)

 「この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌にはたとえ切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。」(P. 28)

***

 カインとアベルに始まる兄弟葛藤の人類史的伝統の中で、天智と天武の物語は激しさ・細やかさ・美しさにおいて古今東西屈指のものとしたい。この贈答歌が「どういう形式でなされたもの」か、井上靖『額田女王』は蒲生野遊猟をクライマックスに置いて謎解きを試み、これらの歌が詠まれる情景を迫真の筆致で描いている。

 「そしてまたあの宴席に列した人たちも、あの席では座興のたわむれの恋歌のやりとりとして受けとったとしても、時が経つと、その受けとり方はどう変わって行くかも知れなかった。一人の女性を挟んでの、兄天皇と弟皇子の確執がはしなくもあの席で露呈されたと見るかも知れぬ。
 ー そして。
 額田は思わず起き上がろうとしたほどの衝撃を受けた。流星がいくつも暗い部屋の中を飛んだ思いであった。すべてが、そう受けとられても少しも不自然ではなく、むしろその方が自然に思われたからである。天智天皇と大海人皇子の二人の貴人が対かい合って坐っている情景が、この時ほど、額田に不気味に怖ろしく思われたことはなかった。」

(新潮文庫旧版 P.406-7)

 蒲生野遊猟は天智天皇7年、西暦668年のことである。日本史上初の元号である大化(645-9)、これに続く白雉(650-4)の後、斉明・天智・弘文帝を経て天武天皇の最晩年(686)に至るまで元号は制定されなかった。続く持統帝の時代も元号はなく、建元が再開されたのは文武天皇の5年、すなわち701年の大宝からである。

 そういう次第で天智天皇の7年と称するのだが、斉明帝崩御(661)以後この年まで、天智帝は皇太子として天皇を補佐する形で政務を執っていた。正式に即位したのがこの668年というこみいった話である。

 西暦671年12月、天智天皇が46歳で崩ず。翌年が「みずのえさる」すなわち壬申大乱の年である。

Ω