2019年5月22日(水)
河上の五百筒(ゆつ)磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて [巻1・22] 吹黄刀自
「十市皇女(とおちのひめみこ)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自(ふきのとじ)が波多横山の巌(いわお)を見て詠んだ歌、一首の意は「この河のほとりの多くの巌には少しも草の生えることがなく、綺麗で滑らかである。そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変わりにならないでおいでになることを念願いたします」というのである。」
「「常少女」という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感歎せねばならぬものである。今ならば「永遠処女」などというところだが、到底この古語には及ばない。作者はおそらく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ荘厳の気に打たれるほどである。」
「十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王の間に生まれた皇女である。大友皇子(弘文天皇)御妃として葛野王(かどのおおきみ)を生んだが、壬申乱後は大和に帰って居られた。皇女は天武天皇七年夏、天皇伊勢斎宮に行幸せられんとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく四年春二月参宮の時でもあろうか。さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもわねばならぬ。」
(P.29-30)
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壬申の乱は十市皇女の立場から見れば、父と夫が争った末、敗れた夫が自害に至ったという悲劇の極みである。この時、皇女が「鮒の包み焼きに密書を隠して父・大海人皇子に情報を伝えた」との逸話が『扶桑略記』『水鏡』さらにわが愛読の『宇治拾遺物語』に見られる(巻15-1、186『清見原天皇と大友王子とかつせんの事』)。お市の方が夫・浅井長政らの企みを兄・信長に、両端を縛った小豆袋を送ることで知らせたという逸話を想起させるが、いずれも後世の創作の可能性が高いという。
十市皇女は653(白雉4)年(一説には648(大化4)年)生、678(天武天皇7)年没。天武帝行幸の当日に急逝し、行幸も斎宮での祭りも中止された。葬りの際、父・天武帝が声をあげて泣いたという。30歳そこそこの急な他界に、自殺説・暗殺説もあるらしい。万葉集・巻2で高市皇子(たけちのみこ、天武帝の第一皇子つまり皇女の異母弟)が挽歌三首を捧げ、後世の涙を誘っている。
その一つを茂吉先生もとりあげておられるので、いずれ見るが予告的に。
・十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首
三諸の神の神杉巳具耳矣自得見監乍共いねぬ夜ぞ多き [巻2・156]
神山の山辺まそゆふ短(みじか)ゆふかくのみ故(から)に長くと思ひき [同・157]
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく [同・158]
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