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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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この時代、どの時代?

2019-05-20 10:03:34 | 日記
2019年5月20日(月)
 「半世紀以上におよんだ動乱の時代は、この列島の社会のあり方を大きく変えてゆくことになる。たとえば、イエ(家族)やムラ(村)など、在来の血縁や地縁にもとづく共同体のしくみが変わり、また、一揆や一味同心など、地縁や血縁によらない人の結びつきが、日本社会における新たな社会編成の可能性をつくりだしてゆく。
 人や土地の支配と従属の関係、女性や社会的マイノリティの地位も、この時代をさかいに大きく変化したことがいわれている。」

 いつの時代についての話か、まるで現代のようではないか。これは「南北朝時代」について書かれたものである。兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書 1715)冒頭からの転記で、「この時代」と朱書した部分だけ原文の「南北朝期」を伏せたのだ。
 現代を南北朝期に重ねることに意味があるかどうか、いっそう楽しみな『太平記』であり『御伽草子』である。
 
 「日本語の世界では、この時代は、古典日本語から近世・近代の日本語へ移行してゆく時代である。また、文化史的には、能楽や茶の湯、活け花(立花)をはじめとして、こんにち「日本的」とされている諸芸・諸道の文化は、その多くが南北朝の動乱期に始発するといって過言ではない。」(前掲書 P.3)


Ω

万葉秀歌 008 みわやまを・しかもかくすか

2019-05-20 06:23:29 | 日記

2019年5月20日(月)

  三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなむ隠さふべしや (巻1・18)額田王

 作者不詳だが、額田王作として解することにする、と。下記長歌の反歌。

  味酒(うまざけ)三輪の山、青丹(あをに)よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の隈い積もるまでに、委(つばら)にも見つつ行かむを、しばしばも見放(さ)けむ山を、心なく雲の、隠さふべしや (巻1・17)

 「三輪山をばもっと見たいのに、雲が隠してしまった、そんなにも隠すのか、たとい雲でも情があってくれよ、こんなに隠すという法がないではないか」という意であるそうな。

 結句の「や」は強い反語。長句の結句にもある句が短歌の結句にも繰り返され、情感がこの結句に集中している。「隠さふ」は「隠す」をハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。(茂吉)

 「天然の現象に、恰も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、毫も嫌みを感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。これを試みに、在原業平の「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、さらにその特色が瞭然としてくるのである。」(P.24)

 そういうものか。「山の端逃げて入れずもあらなむ」はこれまた面白く感じられるが、こちらはより間接的・擬人的で少々嫌み、ということになるのかな。

 揚げ足を取るわけではない、「しかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや」という呼びかけの純粋朴訥は、なるほど清々しく胸を衝く。これが万葉ということか。

http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/02nature/01mountain/03east_area/miwayama/

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