2019年5月9日(木)
『太平記』の中にそういう場面が出てくる。
鎌倉方に対する後醍醐帝一派の謀議が露見し、首謀者の日野資朝は紆余曲折の末、配流先の佐渡で処刑されることになる。資朝の一子邦光はこの時、阿新殿(くまわかどの)と呼ばれる13歳の幼年ながら、父に一目会わんとはるばる佐渡へ赴くが、預り役・本間山城入道の狭量に阻まれ、再会叶わぬまま父は斬られてしまう。怨みを抱いた阿新殿は、父に手を下した本間の息子・三郎の寝込みを襲って復讐を遂げ、追っ手を交わしつつ船着き場へ向かう。途中で知り合った山伏は、仔細を察して阿新殿を肩に担ぎ港へ向かうものの、折悪しく順風で舟皆出払い、一艘だけ残った大船がまさに檣挙げて出港するところ。
そこで山伏、法力を奮って船を呼び戻すのであるが、この場面どこかで読んだ憶えあり。少し考えて思い当たったのが『宇治拾遺物語』である。転記する。
【山ぶし舟祈返事】 宇治拾遺物語 36 岩波文庫版(上)P.100-102
これもいまはむかし、越前国かぶらぎのわたりといふ所に、わたりせんとて、ものどもあつまりたるに、山ぶしあり。けいたう坊といふ僧なりけり。くまの、みたけはいふに及ばず、しらやま、伯耆の大山、出雲のわにぶち、大かた修行し残したる所なかりけり。それにこのかぶらぎの渡にゆきて、わたらんとするに、わたりせむとする者、雲霞のごとし。をのをの物をとりてわたす。このけいたう坊「わたせ」といふに、わたし守、ききもいれでこぎいづ。
その時にこの山ぶし「いかにかくは無下にはあるぞ」といへども、大方みみにもききいれずしてこぎ出ず。その時にけいたう坊、歯をくひあはせて、念ずをもみちぎる。このわたし守みかへりて、をこの事と思いたるけしきにて、三四町ばかりゆくを、けいたう坊みやりて、あしを砂ごに脛のなからばかり踏み入れて、目も赤く睨みなして、ずずをくだけぬと、もみちぎりて、「めし返せ、めし返せ」と叫ぶ。なお行き過ぎる時に、けいたう坊、袈裟と念珠とをとりあはせて、汀ちかく歩み寄りて、「護法、めし返せ、召しかへさずば、ながく三寶に別れ奉らん」と叫びて、この袈裟を海に投げ入れんとす。それをみて、このつどひゐたるものども、色を失いて立てり。
かくいふほどに、風も吹かぬに、このゆく舟のこなたへ寄り来。それを見てけいたう坊、「寄るめるは、寄るめるは、はやういてをはせ、はやういてをはせ」とすはなちをして、みる者色を違へたり。かくいふほどに、一町がうちに寄り来たり。その時けいたう坊、「さて今はうちかへせ、うちかへせ」と叫ぶ。そのときに集ひてみる者ども一声に「むざうの申しやうかな、ゆゆしき罪にも候、さておはしゃませ、おはしゃませ」といふ時、けいたう坊いますこし気色かはりて、「はや打ちかへし給へ」と叫ぶ時に、この渡し舟に二十余人の渡る者、づぶりとなげ返しぬ。
その時けいたう坊、あせを押しのごいて「あな、いたのやつばらや、まだしらぬか」といひて立ち帰りにけり。世の末なれども、三寶おはしましけりとなん。
【阿新殿の事】 太平記 第二巻 6
・・・児を肩に乗せて、程なく港に着く。
船を尋ぬるに、この順風に皆出でて、一艘(も)なし。いかがせんと走り廻りける程に、大船一艘、順風に檣を立てけるあり。「優曇花」と喜びて、山伏、手を挙げて、「その船寄せてたべ。便船申さん」と呼ばはりけり。大船の出船、もとより澳(おき)にありけるが、「定こそ遙かなる磯へ寄せ(よ)てふ。耳にな聞き入れそ」とて、帆を引いて漕ぎ出だす。山伏、大きに怒って、「その儀ならば、いで思ひ知らせん」とて、三匝(そう)半の大いらたかの数珠を、さらさらと押し揉んで、「南無軍陀利夜叉明王、南無金剛夜叉明王、南無金剛蔵王明王、南無大威徳明王、南無中央大聖不動明王、行者加護猶如簿伽梵、況んや、大峯に入ること七度、三僧祇の苦行を契満し、那智の滝に打たれること三度、二世の悉地成就して、金伽羅、誓多伽両童子、摩頂印可を蒙ったる勤行、薫習、行業の功空しからんや。諸大明王の本誓誤らんや。権現、金剛童子、天、龍、夜叉、八大龍王、猛風にてこなたへ吹きもどし給へ。行者の願行、忽ち水中に入り、毒龍となって怨(あだ)をなさん」と肝胆を砕き、黒煙を立てて、はね跳りけるを、舟人、これを見て、「あれは何事する山伏ぞ。軽骨(きょうこつ)なる者かな」とて、どっと笑ひける処に、俄に悪風向かって、船を吹きもどさんとするに、帆つきかねて、この船、忽ちに覆へらんとす。
その時、舟人ども、色を損じ、周章(あわ)て騒いで、山伏の方へ向かひ、舟人ども手を合はせ、腰をかがめて、「さりとては、われら御助け候へ。船を寄せて、乗せまゐらせ候ふべし」と、面々に手をすりけれども、山伏は、人の物云ふかとだに思ひげもなくて、外目つかって、そら知らずしてぞ立ったりける。舟人ども、陸へ上がって、山伏の柿の衣の裳に取りすがりて、「さりとては、早や御船に召され候へ。われらこそ愚痴にして、情けをも知らぬ者どもにて候へ。山伏の御事は、大智恵、慈悲も渡り給ひ候へばこそ、諸天、龍神の伽護あって、かやうに双(なら)びなく効験をも顕し給ひ候へば、見まゐらせ聞きまゐらせん衆生の、いかでか随喜申さぬ者候ふべき。この不思議の験徳も、われらが不得心の振る舞ひによってこそ、かかる威徳をも顕し給ひて候へ。われらは却って、御山伏の御ためには、忠の者にてこそ候はんずれ」と、口を噤(すく)めて申しければ、山伏、気を揚げて、「いやいや、それまでも候ふまじ。乗り候ふべし」とて、児と山伏、船に乗りければ、風また元の順風になって、遙かの澳に漕ぎ出しけり。
その後、追手また百四、五十騎、馳せ来たって、遠浅にひかへて、「あの船よ」と招きけれども、舟人、これを見ぬ由にて、順風に帆を揚げ、その日の暮程に、越後の府(註:直江津)にぞ着きにける。阿新は、山伏の勤験によって、鰐の口を遁れて、恙なく京都に上りけり。
(P.105-8)
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描写の酷似していることが、まずは面白い。「宇治拾遺物語」は西暦1213年から1221年頃、「太平記」は1370年頃までには成立したとされるから150年ほどの位相差があるが、山伏というものの扱われ方はこの間ほとんど変わっていないようである。
修験道は、伝説的には飛鳥時代の役行者(役小角・えんのおづぬ)に発する。平安時代に盛んになり、鎌倉時代後期から南北朝時代に独自の立場を確立したという。江戸時代には「修験道法度」によって幕府の統制下に置かれた ~ このあたりが、江戸レジームの日本史上に占める意義の大きさで、およそ日本の領土内に幕府の許可・統制なしにはいかなる活動も展開し得なくなる。不完全ながらこれが脱封建制・中央集権というもので、それを明治政府がそっくり継承し発展させる。その明治政府は明治5年に修験禁止令を発したが、これにやや先行する「廃仏毀釈」の中で修験道の信仰そのものが大打撃を受けていた。
実に長い歴史であり、とりわけこれに終止符を打った明治政府のイデオロギーに関して再確認するところがあるが、話を戻せば鎌倉から室町にかけてが修験道の確立期であり、「宇治拾遺物語」と「太平記」はその時期のものである。山伏は山に秘められたエネルギーを里へ携え来たり、世間秩序を逸脱するものとして疎外される一方、これを超越するものとして畏怖もされる。「鬼」「天狗」などというものと紙一重で、多分にアンビヴァレントな存在であったに違いない。
いずれの描写でも、舟人らは初め「をこの事」「軽骨なる者」と山伏を嘲り笑い、山伏の姿を見ただけでは軽蔑こそすれ何の敬意も払わない。しかし山伏が数珠を揉んで怪しげな祈祷を捧げるにつれ、文字通り風向きが変わってその力を認めざるを得なくなる。その際の山伏の言い条が面白い。『宇治拾遺物語』では「護法、めし返せ、召しかへさずば、ながく三寶に別れ奉らん」、つまり「舟を戻してくれないなら三宝を捨てる」と吠えて護法を恫喝している。『太平記』では「南無」の五連発に続いて「勤行、薫習、行業の功空しからんや。諸大明王の本誓誤らんや」とあり、恫喝こそ見えね「これだけ修行したんだからちゃんと効果を見せてくれ」というのは、まあ似たようなものであろう。宗教における荒っぽい「自力」の行き着く先の一典型を見る趣がある。
『太平記』では怯えあがった舟人たちの追従に気をよくして「まあ、それほどでもないよ」とか何とか言いながら乗船し、『宇治拾遺物語』では周囲の宥めも聞かずに舟を転覆させる違いがあるが、『太平記』のほうは阿新を追手から逃すという目的があり、『宇治拾遺物語』は山伏に一顧の敬意も払わぬ営利の渡し守を懲らすのが主眼だからで、本質的な差異ではない。
舟を呼び戻すことはできるが、舟を頼らずに海川を越えることまでは為しえない、強烈ながら限定的な「山伏」の力に不思議な親しみを感じるのでもある。
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