散日拾遺

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ヨナ書讃仰/シメイとスクイ/N先生

2014-03-30 22:11:49 | 日記
2014年3月30日(日)

 小学科の礼拝で、ヨナの話をする。
 ヨナ書は大好きだ。
 成立年代はいつ頃か、何しろ破壊の権化のようなアッシリアの脅威に現実に曝されていたイスラエルで、「神がヨナにニネヴェへの宣教を命じる」という幻がどういう精神の働きで構想されたものか、それがそもそも破天荒だ。
 当然、ヨナは拒絶する。イヤがる。あたりまえだ。
 道中の安全すら保証されず、ましてミッションが達成された暁には、にっくきアッシリアが神の裁きをうまうまと免れることになる。
 まさに「何が悲しうて」だ。
 それでヨナが逃げ出すというのが、また可笑しいのである。東のニネヴェに行けというなら、逆の西に逃げましょうとばかり、地中海岸のヤッファから船に乗る。船で神から逃げられるなら苦労はしない。別の困難につかまるだけだ。実際、ヨナは嵐の責めを負うて海に投げ込まれることになる。
 それまで船底でフテ寝しているのも面白いところで、「嵐にもまれる船の中で、騒ぎをよそにのんびり寝ている」という構図は、聖書の読者にはただちにガリラヤ湖上のイエスを思い起こさせる。ベクトルは反対向きでも、神に絶対の信頼を置いている点は両者に共通だ。
 実際、巨大な魚の腹の中の三日三晩は、「ヨナのしるし」としてイエス自身が言及するところで、ここには深い象徴性が働いている。
 魚から吐き出されたヨナが不承不承ニネヴェに向かい、悔い改めを呼びかけたところ、案に相違して(あるいは憤懣と共に予測したとおり)、ニネヴェは驚くべき素直さで神の声に聞き従うことになる。
 もちろんヨナは大不満、おまけに涼しい木陰を作ってくれるトウゴマまで枯らされ、「殺してくれ!」と大の字になって天に悪態をつく。それをなだめては諭(さと)す神の言葉まで。

 敵味方を越えた世界大の宣教と救済の幻(これはこの時代に、真に驚くべきものだ)、それが短いストーリーの中に見事に凝縮されていること、全編を貫く骨太なユーモア、実にヨナ書は、旧約聖書中、随一の奇書であり傑作なのだ。
 そしてこのあたりから、神御自身の変容が際だってくる。
 イサク捧げ、苦難の僕、そしてヨナ。キリストが着々と準備されていく。

****

 三つのことを君たちに伝えよう、と小学科で。

一つ、神は僕たちだけの神でなく、彼らの/皆の神であること
二つ、神のミッションからは決して逃げ切れないこと
三つ、神は救いの神であること

***

 準備をしていたら、日本語変換システムが気の利いた間違いを続けて犯した。

「神のシメイからは逃れられない」
 シメイ=使命/指名

 使命とは、指名されることだ。calling の謂である。

「神はスクイの神である」
 スクイ=救い/掬い

 水の中から掬いとるように、神は人を救う。
 モーセの名は、ヘブル語のマーシャー(水の中から私が掬いあげた)に由来する。

 なかなかやるね。

***

 N先生御夫妻が、N教会18年間の御奉仕を本日で終えられる。
 御挨拶に伺った。

「私の計画では、これで隠退、悠々自適で孫の相手のはずだったんですが。」
と奥様。
「思うに任せないことですね、ヨナのように。」
「そうそう、ヨナみたいにね。」

 四月から、また新たな任地へ遣わされる。
 祝福が豊かにありますように。

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