2013年8月17日(土)
夕方、I君宅へ招待にあずかる。
本籍が愛媛といっても住んだことがないから、親戚以外の知り合いはほとんどいない。その松山に親しい知り合いができたのは、思いがけない出会いと再会の結果というもので。
一度目の大学でアイデンティティ拡散を起こして医学部へ行き直すことにし、まずは予備校に籍を置いた。そこで当然ながら出身高校の後輩達に出会うことになる。その一人がI君だった。少々やんちゃで人好きのするI君とは、漫画の貸し借りをしたり、勉強の合間に映画を見に行ったり、高校時代に戻ったようなつきあいをした。
その後I君は長野県の医科大学に進み、僕は東京なので会うこともなかった。卒業したI君が僕の母校の研修医となって6年ぶりに一瞬再会したが、お互い忙しい盛りで旧交を温めるゆとりがなかった。以来四半世紀余、I君が何と松山で開業していることを知ったのは、昨夏のことである。後輩グループの中でも随一の勉強家だったY君が看護大学の教授になり、放送大学の教材作成を担当していると知らせてくれた。やりとりの中で、I君のこともあわせて知れたのだ。
I君は東京生まれの東京育ちである。その彼が遠く伊予松山に居つくことになったのは・・・他の理由ではあり得ない、偉大なる愛の力 powor of love だ。松山出身の女性と縁を結び、彼女とともにこの地に移ったのである。
昨年来の申し出を忘れず招待してくれるのに甘え、一家5人で厚かましくも押しかけた。お料理自慢のI夫人が三日がかりでも食べきれないほどの御馳走を準備し、二人の御子息とともに皆で歓待してくださった。御長男は今春医学部を卒業し現在ローテート研修中、医学部三年の当方の長男と話が弾んでいる。
「でも、子どもは出て行くんですよね、最後は二人になっちゃうんですね」とI夫人。
「二人になれたら幸せですよ、一人じゃなくてね」
と即答してしまい、そこから日々の診療風景に話が広がった。
しっかりと二人で生きている、I君御夫妻が頼もしい。
*****
2013年8月18日(日)
朝、飛び地Kの草刈り。
夏草の勢いはすごいもので、こればかりは機械の力を借りなければ手にも足にも負えない。父と次男と三人で、たっぷり汗をかく。刈り残しがまだまだあるが、八月の太陽とまともに取っ組み合っては体を壊すばかりだ。
午後、県美術館へO君の御先祖の絵を見に行く。常設展の中に今日まで出ているらしい。
県美術館は松山城公園の一画にある。久しぶりにお城を正面から見上げ、ほう、と唸った。味わい深い、きれいな城だ。
標高134m、道後平野の中に浮かぶ島のような城山の頂に、城郭が控えめに連なっている。名古屋城・大阪城や姫路城といった多層の天守閣を「城」の原型とするなら、松山城の人為の薄さは物足りないようにも見える。それが不足でたいした誇りにも思わなかったが、緑豊かな山全体を天然の基層と見れば、この平山城はそれを見事に生かした傑作である。こちらが不明だった。
春や昔 十五万石の城下かな(子規)
それだけに駐車場のこの不備はいただけないと、父の口吻に納得しながら美術館へ。広い芝生では中学生のグループがいくつか、ダンスの練習に余念がない。
美術館、本日の目玉は「松本零士展」、そちらもさほど人は集まっていない。ひんやりした2階の常設展、入ってすぐ目当ての冠岳さんに出会う。
沖冠岳(?-1876)「浅草観音堂奉納の豊干禅師の額などで知られる、幕末の狩野派画家」とコトバンクにあるが、土佐出身というのはあからさまな誤りで実は今治の人、前にも記した通りO君と令兄の感受性はこの御先祖様に由来する。
合計7点、画題を順に列記する。
「梅狗」「旗幟図」「鶴・虎・獅子図」「四季花鳥図 双幅」「百猩々図」「菊池武光像」「虎之図」
僕には絵を正しく表現する語彙がないが、勇を鼓して言葉にするなら、いずれも輪郭鮮明で美しく、少しも古さを感じさせない。
画像を掲載したいのはヤマヤマなれど、マテリアルがないので致し方ない。インターネット検索では最初の「梅狗」がひっかかってきた。梅の枝の下で親犬に子犬が数匹戯れている、ほっとするような絵である。
「鶴・虎・獅子図」の前では数人のグループが、美術館員の司会のもとで感想を語り合っていたが、これは美術館の企画としてはどんなものだろうか。新しみのない平凡な感想が異口同音に繰り返されるのも耳ざわりなうえ、ずっとそこを動かないので僕らはこの絵を近くから見ることができない。
その代り、「百猩々図」が面白かった。
「猩々」は中国の伝説上の動物で、大猿様のものであるが人語を解し、かつ酒を好むという。(「酒」は日本で付け加えられた特徴らしいともある。)顔が真っ赤で「猩々緋」という言葉もそこから起きた。
その真っ赤な猩々が百匹あるいは百頭、「匹/頭」というにはあまりにも人間らしい様子で、山間から行列を為して降りてくる。中の何人かは彼らの体色と同じ緋色の大杯を頭上にかつぎ、前面に描かれた大甕に先着した二、三人は、甕から汲みだされた酒を大杯で飲み干して酔いつぶれている。春風駘蕩というか、芳香爛漫といおうか、愉快な哄笑が画幅から響いてくるようである。
この絵を含め、明治4年前後に描かれ今治藩の所蔵にかかるものが多いようだ。
明治4年は廃藩置県・秩禄処分の年である。武家の周辺はめでたく酔いつぶれる陽気ではなかったろう。
その中でこれを描いた冠岳さんという人に、大いに関心をそそられる。
***
先にも書いたように個性雑多な8つの藩を糾合して作りだされた愛媛県は、そもそも全県一体といった盛り上がりの素地が乏しい。そのせいもあろうか政治的には影が薄く、四国四県中で唯一、総理大臣を出していない。しかし芸術家・作家の類には事欠かず、正岡子規から大江健三郎に至るまで売るほど輩出している。
ここにもひとり、美味しそうな伊予人が見つかった。
夕方、I君宅へ招待にあずかる。
本籍が愛媛といっても住んだことがないから、親戚以外の知り合いはほとんどいない。その松山に親しい知り合いができたのは、思いがけない出会いと再会の結果というもので。
一度目の大学でアイデンティティ拡散を起こして医学部へ行き直すことにし、まずは予備校に籍を置いた。そこで当然ながら出身高校の後輩達に出会うことになる。その一人がI君だった。少々やんちゃで人好きのするI君とは、漫画の貸し借りをしたり、勉強の合間に映画を見に行ったり、高校時代に戻ったようなつきあいをした。
その後I君は長野県の医科大学に進み、僕は東京なので会うこともなかった。卒業したI君が僕の母校の研修医となって6年ぶりに一瞬再会したが、お互い忙しい盛りで旧交を温めるゆとりがなかった。以来四半世紀余、I君が何と松山で開業していることを知ったのは、昨夏のことである。後輩グループの中でも随一の勉強家だったY君が看護大学の教授になり、放送大学の教材作成を担当していると知らせてくれた。やりとりの中で、I君のこともあわせて知れたのだ。
I君は東京生まれの東京育ちである。その彼が遠く伊予松山に居つくことになったのは・・・他の理由ではあり得ない、偉大なる愛の力 powor of love だ。松山出身の女性と縁を結び、彼女とともにこの地に移ったのである。
昨年来の申し出を忘れず招待してくれるのに甘え、一家5人で厚かましくも押しかけた。お料理自慢のI夫人が三日がかりでも食べきれないほどの御馳走を準備し、二人の御子息とともに皆で歓待してくださった。御長男は今春医学部を卒業し現在ローテート研修中、医学部三年の当方の長男と話が弾んでいる。
「でも、子どもは出て行くんですよね、最後は二人になっちゃうんですね」とI夫人。
「二人になれたら幸せですよ、一人じゃなくてね」
と即答してしまい、そこから日々の診療風景に話が広がった。
しっかりと二人で生きている、I君御夫妻が頼もしい。
*****
2013年8月18日(日)
朝、飛び地Kの草刈り。
夏草の勢いはすごいもので、こればかりは機械の力を借りなければ手にも足にも負えない。父と次男と三人で、たっぷり汗をかく。刈り残しがまだまだあるが、八月の太陽とまともに取っ組み合っては体を壊すばかりだ。
午後、県美術館へO君の御先祖の絵を見に行く。常設展の中に今日まで出ているらしい。
県美術館は松山城公園の一画にある。久しぶりにお城を正面から見上げ、ほう、と唸った。味わい深い、きれいな城だ。
標高134m、道後平野の中に浮かぶ島のような城山の頂に、城郭が控えめに連なっている。名古屋城・大阪城や姫路城といった多層の天守閣を「城」の原型とするなら、松山城の人為の薄さは物足りないようにも見える。それが不足でたいした誇りにも思わなかったが、緑豊かな山全体を天然の基層と見れば、この平山城はそれを見事に生かした傑作である。こちらが不明だった。
春や昔 十五万石の城下かな(子規)
それだけに駐車場のこの不備はいただけないと、父の口吻に納得しながら美術館へ。広い芝生では中学生のグループがいくつか、ダンスの練習に余念がない。
美術館、本日の目玉は「松本零士展」、そちらもさほど人は集まっていない。ひんやりした2階の常設展、入ってすぐ目当ての冠岳さんに出会う。
沖冠岳(?-1876)「浅草観音堂奉納の豊干禅師の額などで知られる、幕末の狩野派画家」とコトバンクにあるが、土佐出身というのはあからさまな誤りで実は今治の人、前にも記した通りO君と令兄の感受性はこの御先祖様に由来する。
合計7点、画題を順に列記する。
「梅狗」「旗幟図」「鶴・虎・獅子図」「四季花鳥図 双幅」「百猩々図」「菊池武光像」「虎之図」
僕には絵を正しく表現する語彙がないが、勇を鼓して言葉にするなら、いずれも輪郭鮮明で美しく、少しも古さを感じさせない。
画像を掲載したいのはヤマヤマなれど、マテリアルがないので致し方ない。インターネット検索では最初の「梅狗」がひっかかってきた。梅の枝の下で親犬に子犬が数匹戯れている、ほっとするような絵である。
「鶴・虎・獅子図」の前では数人のグループが、美術館員の司会のもとで感想を語り合っていたが、これは美術館の企画としてはどんなものだろうか。新しみのない平凡な感想が異口同音に繰り返されるのも耳ざわりなうえ、ずっとそこを動かないので僕らはこの絵を近くから見ることができない。
その代り、「百猩々図」が面白かった。
「猩々」は中国の伝説上の動物で、大猿様のものであるが人語を解し、かつ酒を好むという。(「酒」は日本で付け加えられた特徴らしいともある。)顔が真っ赤で「猩々緋」という言葉もそこから起きた。
その真っ赤な猩々が百匹あるいは百頭、「匹/頭」というにはあまりにも人間らしい様子で、山間から行列を為して降りてくる。中の何人かは彼らの体色と同じ緋色の大杯を頭上にかつぎ、前面に描かれた大甕に先着した二、三人は、甕から汲みだされた酒を大杯で飲み干して酔いつぶれている。春風駘蕩というか、芳香爛漫といおうか、愉快な哄笑が画幅から響いてくるようである。
この絵を含め、明治4年前後に描かれ今治藩の所蔵にかかるものが多いようだ。
明治4年は廃藩置県・秩禄処分の年である。武家の周辺はめでたく酔いつぶれる陽気ではなかったろう。
その中でこれを描いた冠岳さんという人に、大いに関心をそそられる。
***
先にも書いたように個性雑多な8つの藩を糾合して作りだされた愛媛県は、そもそも全県一体といった盛り上がりの素地が乏しい。そのせいもあろうか政治的には影が薄く、四国四県中で唯一、総理大臣を出していない。しかし芸術家・作家の類には事欠かず、正岡子規から大江健三郎に至るまで売るほど輩出している。
ここにもひとり、美味しそうな伊予人が見つかった。
2013年8月17日(土)
朝、家族全員でお墓の掃除。
我が家の背後を上っていくと、丘の上が集落の墓地になっている。
田舎でもあり過疎地でもあって、この一帯の所有権や分画には曖昧なところがあったりする。
曾祖父に始まる一画と、その父にあたる人を祭った一画が、さしあたり僕らにかかわる墓所ということになる。
墓碑・墓標を前に家族の歴史をふりかえるのは、悪いものではない。
曾祖父自身と祖父母はクリスチャンだったが、曾祖母は仏教徒として亡くなった。特定の宗教に依らない単純な柱状の墓碑と、クリスチャンなら十字の下に俗名、仏教徒なら戒名を記した墓標の組み合わせは、父が人に相談しながら知恵を絞った結果である。
小一時間、三代七人で掃除に精を出した。
その間、足下の地面ではジガバチが一心不乱に作業中である。
真っ黒な身の丈は3㎝ほどもあろうか、若葉色のバッタを運んできたものの、大きすぎて用意の穴に入らないらしい。穴を掘り広げては、獲物を運び込もうとする作業を続けている。
その脚の使い方が見事なものだ。
砂粒を前肢で掴み、体の下を後方へ送る。アメフトのプレーヤーの要領だ。
一度でポンと行かないときは、中肢・後肢で押してやる。これを素早く繰り返して、かなりのスピードで土を掘っていく。
獲物は既に麻酔済みなのだろう、ピクリとも動かない。
これを運ぶときは後肢でがっちり把持し、前肢・中肢を使って前進する。
巧妙であり力強い。
この蜂には覚えがある。
確か二年前にも、一家でお墓掃除の日に同じようなジガバチが同じ場所に穴を掘っていた。むろん蜂は短命なのだろうから代替わりしているはずだが、よほど好条件の場所であるのか。この蜂はあの蜂の子か孫か、それともまったく別系統か。
二年前は、僕がハチ毒アレルギーと知っている長男が、蜂にいち早く気づいてフマキラーを取ってこようとした。「この蜂は刺さない」と制して、あの時も皆で見事な作業ぶりに見とれたのだ。
ふと、親近感。
ジガバチは「似我、似我」(我に似よ、我に似よ)と鳴くのでジガバチであり、その呼び声に応えて、似ても似つかぬ獲物の中から親そっくりの蜂が出てくるのだという。そのジガバチが代を重ねて居ついているとは、家族の墓所に似つかわしい仕合わせだ。
見事に獲物を引き入れるのを確認し、脱帽一礼。
***
帰り道で長男が、目の前の梢を指さした。
「初めて見た」という指先で、カマキリがセミを横抱きに抱えている。
セミはバタつくこともできない。
僕はたぶん三度目だ。最初に見たときは、捕まったセミがそれこそ「豚が塩辛食べたみたいに」大騒ぎするのを、カマキリはお構いなしに抱え込んでいた。
そういうことがあるのだと東京あたりで話すと、「へぇ、そうなんですか」と皆目を丸くするが、見ないものは信じないといった空気が目の周りに漂っている。それはそうだろう、これはちょっとした奇観であり、圧巻だもの。
***
屋敷に戻り、汗かきついでに庭を手入れしていて、蜂の巣を見つけた。
これは先ほどのジガバチとは違う。小ぶりだけれどスズメバチの係累と思われる黄色まだらのユニフォームが、サカキの葉陰に20匹ほども群れて貼りついている。作り始めたばかりの巣とおぼしきものが見える。放っておけば一ヶ月後には巨大なコロニーになるだろう。
何度刺されても蜂という生き物が嫌いになれず、今日もまた心が痛むのだがこれは放置しておけない。蜂の生態についてはあらためて書くけれど、秋口のキイロスズメバチみたいな凶暴な相手でない限り、蜂の巣を落とすのは難しくない。巣のかかっている枝をタカバサミで静かに根元から切りとり、そっと他所へ移してしまう、それだけだ。
ハチの高度な能力にはいくつか盲点がある。たとえば彼らは巣の位置を空間座標によって認知するから(別に教科書に書いてあるわけではない、僕の推論だが確信ある推論だ)、巣が真下に落とされてもそれを探索し発見することができない。ついさっきまで巣のあった空間を虚しく飛び回るだけで、憎むべき侵略者(僕のことだ)がパンツ一丁で横に立っていても、これに報復することも思いつかない。巣を落とすだけなら、フマキラーも不要なのはこのためだ。
***
一息入れて家に入るとN先生がメールをくださっていた。
「明治神宮の狸」以来、今日は何かなと開いてみる。
我が家に集まった孫達に蝉の脱皮を見せました。
と本文にあり、見事な写真をHPにアップしておられる。
ブログにリンクを張るおゆるしを求めると、すぐにお返事あり。
どうぞご自由になさって下さい。
今回のことは孫達への私の義務だと思っていました。
お孫さん達に、ジガバチやカマキリをお目にかけたかった。
僕の写真の腕では無理だ。今度N先生に教わりにいこう。
下記ごらんあれ、素晴らしい写真だからね!
「はち切れて落ちなんとする燕の子」(M先生『杭瀬川』より)
http://www10.ocn.ne.jp/~knomura/toppage.htm
http://www008.upp.so-net.ne.jp/nagahara-ch/
朝、家族全員でお墓の掃除。
我が家の背後を上っていくと、丘の上が集落の墓地になっている。
田舎でもあり過疎地でもあって、この一帯の所有権や分画には曖昧なところがあったりする。
曾祖父に始まる一画と、その父にあたる人を祭った一画が、さしあたり僕らにかかわる墓所ということになる。
墓碑・墓標を前に家族の歴史をふりかえるのは、悪いものではない。
曾祖父自身と祖父母はクリスチャンだったが、曾祖母は仏教徒として亡くなった。特定の宗教に依らない単純な柱状の墓碑と、クリスチャンなら十字の下に俗名、仏教徒なら戒名を記した墓標の組み合わせは、父が人に相談しながら知恵を絞った結果である。
小一時間、三代七人で掃除に精を出した。
その間、足下の地面ではジガバチが一心不乱に作業中である。
真っ黒な身の丈は3㎝ほどもあろうか、若葉色のバッタを運んできたものの、大きすぎて用意の穴に入らないらしい。穴を掘り広げては、獲物を運び込もうとする作業を続けている。
その脚の使い方が見事なものだ。
砂粒を前肢で掴み、体の下を後方へ送る。アメフトのプレーヤーの要領だ。
一度でポンと行かないときは、中肢・後肢で押してやる。これを素早く繰り返して、かなりのスピードで土を掘っていく。
獲物は既に麻酔済みなのだろう、ピクリとも動かない。
これを運ぶときは後肢でがっちり把持し、前肢・中肢を使って前進する。
巧妙であり力強い。
この蜂には覚えがある。
確か二年前にも、一家でお墓掃除の日に同じようなジガバチが同じ場所に穴を掘っていた。むろん蜂は短命なのだろうから代替わりしているはずだが、よほど好条件の場所であるのか。この蜂はあの蜂の子か孫か、それともまったく別系統か。
二年前は、僕がハチ毒アレルギーと知っている長男が、蜂にいち早く気づいてフマキラーを取ってこようとした。「この蜂は刺さない」と制して、あの時も皆で見事な作業ぶりに見とれたのだ。
ふと、親近感。
ジガバチは「似我、似我」(我に似よ、我に似よ)と鳴くのでジガバチであり、その呼び声に応えて、似ても似つかぬ獲物の中から親そっくりの蜂が出てくるのだという。そのジガバチが代を重ねて居ついているとは、家族の墓所に似つかわしい仕合わせだ。
見事に獲物を引き入れるのを確認し、脱帽一礼。
***
帰り道で長男が、目の前の梢を指さした。
「初めて見た」という指先で、カマキリがセミを横抱きに抱えている。
セミはバタつくこともできない。
僕はたぶん三度目だ。最初に見たときは、捕まったセミがそれこそ「豚が塩辛食べたみたいに」大騒ぎするのを、カマキリはお構いなしに抱え込んでいた。
そういうことがあるのだと東京あたりで話すと、「へぇ、そうなんですか」と皆目を丸くするが、見ないものは信じないといった空気が目の周りに漂っている。それはそうだろう、これはちょっとした奇観であり、圧巻だもの。
***
屋敷に戻り、汗かきついでに庭を手入れしていて、蜂の巣を見つけた。
これは先ほどのジガバチとは違う。小ぶりだけれどスズメバチの係累と思われる黄色まだらのユニフォームが、サカキの葉陰に20匹ほども群れて貼りついている。作り始めたばかりの巣とおぼしきものが見える。放っておけば一ヶ月後には巨大なコロニーになるだろう。
何度刺されても蜂という生き物が嫌いになれず、今日もまた心が痛むのだがこれは放置しておけない。蜂の生態についてはあらためて書くけれど、秋口のキイロスズメバチみたいな凶暴な相手でない限り、蜂の巣を落とすのは難しくない。巣のかかっている枝をタカバサミで静かに根元から切りとり、そっと他所へ移してしまう、それだけだ。
ハチの高度な能力にはいくつか盲点がある。たとえば彼らは巣の位置を空間座標によって認知するから(別に教科書に書いてあるわけではない、僕の推論だが確信ある推論だ)、巣が真下に落とされてもそれを探索し発見することができない。ついさっきまで巣のあった空間を虚しく飛び回るだけで、憎むべき侵略者(僕のことだ)がパンツ一丁で横に立っていても、これに報復することも思いつかない。巣を落とすだけなら、フマキラーも不要なのはこのためだ。
***
一息入れて家に入るとN先生がメールをくださっていた。
「明治神宮の狸」以来、今日は何かなと開いてみる。
我が家に集まった孫達に蝉の脱皮を見せました。
と本文にあり、見事な写真をHPにアップしておられる。
ブログにリンクを張るおゆるしを求めると、すぐにお返事あり。
どうぞご自由になさって下さい。
今回のことは孫達への私の義務だと思っていました。
お孫さん達に、ジガバチやカマキリをお目にかけたかった。
僕の写真の腕では無理だ。今度N先生に教わりにいこう。
下記ごらんあれ、素晴らしい写真だからね!
「はち切れて落ちなんとする燕の子」(M先生『杭瀬川』より)
http://www10.ocn.ne.jp/~knomura/toppage.htm
http://www008.upp.so-net.ne.jp/nagahara-ch/
2013年8月16日(金)
朝、庭仕事。
父は次男を連れ、薪炭林へ向かう道に積もった落ち葉の処理に精を出している。
昔、大量の落ち葉は貴重な燃料になった。今はただの邪魔者で、取りのけておかなければミカン畑への間道が通行不能になってしまう。
張り合いの乏しい作業だが、ついでに伸びすぎた竹を伐る音が、丁々と響いて清々しい。
僕は屋敷うちの雑草を刈り、伸びすぎた木の枝を払っている。
滝のような汗をかき、ようやく帰省の実感が湧く。
汗は町でもかくけれど、こういう快適さはない。
もう20年以上も、折々こうして汗をかきながら、いろんなことを庭から教わった。
うつ病の「鬱」の字が「鬱蒼と茂る」の「鬱」である理由も、庭仕事をしながら悟った。樹冠は間伐し、風通しをよくしておかなければいけない。空気がこもると虫がつき、樹木の健康が損なわれる。さまざまな思いが整序されずに茂り過ぎ、心の風通しの悪くなった状態が「鬱」なのだろう。
ここでも漢字は叡智を刻んでいる。
「気がふさぐ」といった日本語表現は、この仔細に対応する。
***
夕、海辺で遊ぶ。
これも十年ほど、海遊びは鹿島と決まっている。
先に書いたように両親の生い立った土地は、四国北西部の西向きの斜面に位置している。海岸線まで4㎞ほど、その向こうにはこんもりと二(ふた)こぶ姿の小さな島が浮かんでいる。これを鹿島と書いて「かしま」と呼ぶ。瀬戸内海国立公園の一部である。
鹿島もまた、島であると同時に山である。周囲1.5㎞、標高113m、上ればかなりの急坂だが、僕らはいつも南側の砂浜で遊んで帰ってくるだけだ。
1980年代に松食い虫が猛威を振るったときは、陸地と同じく見る影もない枯れ山になってしまったが、今はしたたるような緑が戻っている。
そして名前の通り、野性の鹿が住んでいる。
神功皇后が三韓征伐(この言葉、今は大丈夫かな?)の途上に立ち寄ったそうで、これにまつわる「御野立ちの巌(おのだちのいわお)」や「神洗磯(かみあらいいそ)」の跡もあり、西の沖合の夫婦岩には毎年四月に長さ30mの注連縄を張るので、「夕日の二見」などと呼ばれる。水軍の根拠地でもあったろうことは、想像に難くない。
400mほどの海域を二隻の小さな船が20分毎に往復するが、乗客はそんなに多くはない。のんびり出かけ、のんびり遊び、のんびり帰ってくる。
砂浜で、今年は息子たちにシュノーケルとフィンの使い方を教えてみた。20歳前後に悪友のMから教わって沖縄などでずいぶん楽しんだものだが、意外に使い方が知られていない。潜った後、浮上後に管の中の海水を吹き出すところにコツが要る。
長男はあれこれいじくり回してなかなか潜らない。次男はすぐにやってみるが使い方がズレている。三男は一、二度失敗した後、慣れたもののように使っている。特徴が見事に表れる。
浜辺で相撲もとった。
皆、強くなっているが、自分も思ったほど衰えてはいない。
戻る船の中で、三男が頭上を見上げてニヤリとする。
「定員48名、重量3,600㎏」と表示されているのを、「一人あたり何㎏か」と計算したくなるのは本能みたいなものだが、その昔これをまともに考えようとして「300÷4と同じだろ」と次男に一蹴されたことを、この船に乗ると思い出すらしいのである。
三男は就学前後、次男は小学校の高学年、そんな時分だったろうか。
この夏、三男は次男を抜いて家族中で最長身になった。
僕は浜辺の松を船から眺めていて、ふと古代の装束の女性が扇を使いながら歩いてくるような気がした。松の木には何か、時間をあっさりと超越させるものがある。
動き出した渡船の後尾をモーターボートが横切りざま、乗っている二、三人がこちらに手を振った。
こんなことは初めてだ。
朝、庭仕事。
父は次男を連れ、薪炭林へ向かう道に積もった落ち葉の処理に精を出している。
昔、大量の落ち葉は貴重な燃料になった。今はただの邪魔者で、取りのけておかなければミカン畑への間道が通行不能になってしまう。
張り合いの乏しい作業だが、ついでに伸びすぎた竹を伐る音が、丁々と響いて清々しい。
僕は屋敷うちの雑草を刈り、伸びすぎた木の枝を払っている。
滝のような汗をかき、ようやく帰省の実感が湧く。
汗は町でもかくけれど、こういう快適さはない。
もう20年以上も、折々こうして汗をかきながら、いろんなことを庭から教わった。
うつ病の「鬱」の字が「鬱蒼と茂る」の「鬱」である理由も、庭仕事をしながら悟った。樹冠は間伐し、風通しをよくしておかなければいけない。空気がこもると虫がつき、樹木の健康が損なわれる。さまざまな思いが整序されずに茂り過ぎ、心の風通しの悪くなった状態が「鬱」なのだろう。
ここでも漢字は叡智を刻んでいる。
「気がふさぐ」といった日本語表現は、この仔細に対応する。
***
夕、海辺で遊ぶ。
これも十年ほど、海遊びは鹿島と決まっている。
先に書いたように両親の生い立った土地は、四国北西部の西向きの斜面に位置している。海岸線まで4㎞ほど、その向こうにはこんもりと二(ふた)こぶ姿の小さな島が浮かんでいる。これを鹿島と書いて「かしま」と呼ぶ。瀬戸内海国立公園の一部である。
鹿島もまた、島であると同時に山である。周囲1.5㎞、標高113m、上ればかなりの急坂だが、僕らはいつも南側の砂浜で遊んで帰ってくるだけだ。
1980年代に松食い虫が猛威を振るったときは、陸地と同じく見る影もない枯れ山になってしまったが、今はしたたるような緑が戻っている。
そして名前の通り、野性の鹿が住んでいる。
神功皇后が三韓征伐(この言葉、今は大丈夫かな?)の途上に立ち寄ったそうで、これにまつわる「御野立ちの巌(おのだちのいわお)」や「神洗磯(かみあらいいそ)」の跡もあり、西の沖合の夫婦岩には毎年四月に長さ30mの注連縄を張るので、「夕日の二見」などと呼ばれる。水軍の根拠地でもあったろうことは、想像に難くない。
400mほどの海域を二隻の小さな船が20分毎に往復するが、乗客はそんなに多くはない。のんびり出かけ、のんびり遊び、のんびり帰ってくる。
砂浜で、今年は息子たちにシュノーケルとフィンの使い方を教えてみた。20歳前後に悪友のMから教わって沖縄などでずいぶん楽しんだものだが、意外に使い方が知られていない。潜った後、浮上後に管の中の海水を吹き出すところにコツが要る。
長男はあれこれいじくり回してなかなか潜らない。次男はすぐにやってみるが使い方がズレている。三男は一、二度失敗した後、慣れたもののように使っている。特徴が見事に表れる。
浜辺で相撲もとった。
皆、強くなっているが、自分も思ったほど衰えてはいない。
戻る船の中で、三男が頭上を見上げてニヤリとする。
「定員48名、重量3,600㎏」と表示されているのを、「一人あたり何㎏か」と計算したくなるのは本能みたいなものだが、その昔これをまともに考えようとして「300÷4と同じだろ」と次男に一蹴されたことを、この船に乗ると思い出すらしいのである。
三男は就学前後、次男は小学校の高学年、そんな時分だったろうか。
この夏、三男は次男を抜いて家族中で最長身になった。
僕は浜辺の松を船から眺めていて、ふと古代の装束の女性が扇を使いながら歩いてくるような気がした。松の木には何か、時間をあっさりと超越させるものがある。
動き出した渡船の後尾をモーターボートが横切りざま、乗っている二、三人がこちらに手を振った。
こんなことは初めてだ。
2013年8月16日(金)
芥川賞作『爪と目』について、文学ウォッチャーの友人の評。
昨夜、読みました。なかなか上手で面白かったですよ。
爪(マニキュア)も目(カラーコンタクト)も結局、女性だけのもの(というと怒られそうですが)で、少女とその継母になる若い女性と不審な死にかたをした少女のお母さん、3人の女性それぞれの、男とは違う、とても不思議で新鮮な生きる欲望が書かれていて、そういうものか と読みました。
出てくる男は全くだらしなくて、なんか女性から見るとこんなに男はどうでもいいものなのかと、ちょっとがっかりでした。
それより、賞の選評で3.11を題材にした「想像ラジオ」が多く取り上げられていて、今度機会があったら読みたいと思いました。
***
友人は照れ屋で、ブログに書いたらダメだというのを、「正体は明かさないから」と頼んで転記させてもらった。有名人なのだ。
多忙の中で芥川賞作品は毎回必ず読み、その寸評が面白いからいつも楽しみにしている。
ときどき半分ぐらい本気で思うのだが、男と女はもともと別種の生物で、それが共同生活に適応上の利益を見いだし、二次的に結合したものではあるまいか。そのぐらい違うし、そこに妙味があるようだ。
今は男の子が生きにくい時代に見えるが、長いこと女の子の生きにくい時代が続いたのだから、仕方ないね。世界的に見ればまだまだ女の子が大変であること、マララ・ユスフザイが身を以て示したとおりだ。
***
昨15日は歯医者へ行った。
僕は4本の親知らずを全て抜かれた以外、歯医者というものに縁のない幸せな人生を送ってきたが、ここへ来て少々事情が違ってきた。「C1」という呪いの符牒を貼られ、これは自然に治ることはないので受診しなさいと、某所の歯科衛生士の託宣である。
それでも日延べを繰り返してきたが、ふと自分を納得させる口実を見つけた。近所で(というのはつまり、車で10分ほどのところで)従弟が歯科を開業している。もう長いこと会っていないので、帰省のついでに顔を見に行ってこよう。
従弟というのは、父の弟の息子である。彼の父つまり僕の叔父は、関西の大学を出て外科医になり松山で開業していたが、先年病没した。小さい頃の従弟はチョロチョロとすばしっこく、プラモデルなどを作らせると抜群に手先の器用な子だったが、そのあたりが見事に活きたらしい。人当たりがよくて地元では好評である。
その評の通り、丁寧に診て詳しく説明してくれた。マスクの上の小顔の目許は、亡くなった叔父よりは美人の叔母に似たようである。観念して、帰京後に治療を受けることにする。
夕方、車で40分の空港へ出かけて旅先の鹿児島から合流する長男を迎え、これで全員集合。
門前に涼しい日陰を落とす一対の銀杏は、20年あまり前の記念の植樹である。見上げると青いギンナンがたわわに実り、秋の収穫を約束している。臭いがきつくて処理が厄介だが、手間を厭わなければ美味は手の内にある。
手間をかけてこその美味か
芥川賞作『爪と目』について、文学ウォッチャーの友人の評。
昨夜、読みました。なかなか上手で面白かったですよ。
爪(マニキュア)も目(カラーコンタクト)も結局、女性だけのもの(というと怒られそうですが)で、少女とその継母になる若い女性と不審な死にかたをした少女のお母さん、3人の女性それぞれの、男とは違う、とても不思議で新鮮な生きる欲望が書かれていて、そういうものか と読みました。
出てくる男は全くだらしなくて、なんか女性から見るとこんなに男はどうでもいいものなのかと、ちょっとがっかりでした。
それより、賞の選評で3.11を題材にした「想像ラジオ」が多く取り上げられていて、今度機会があったら読みたいと思いました。
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友人は照れ屋で、ブログに書いたらダメだというのを、「正体は明かさないから」と頼んで転記させてもらった。有名人なのだ。
多忙の中で芥川賞作品は毎回必ず読み、その寸評が面白いからいつも楽しみにしている。
ときどき半分ぐらい本気で思うのだが、男と女はもともと別種の生物で、それが共同生活に適応上の利益を見いだし、二次的に結合したものではあるまいか。そのぐらい違うし、そこに妙味があるようだ。
今は男の子が生きにくい時代に見えるが、長いこと女の子の生きにくい時代が続いたのだから、仕方ないね。世界的に見ればまだまだ女の子が大変であること、マララ・ユスフザイが身を以て示したとおりだ。
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昨15日は歯医者へ行った。
僕は4本の親知らずを全て抜かれた以外、歯医者というものに縁のない幸せな人生を送ってきたが、ここへ来て少々事情が違ってきた。「C1」という呪いの符牒を貼られ、これは自然に治ることはないので受診しなさいと、某所の歯科衛生士の託宣である。
それでも日延べを繰り返してきたが、ふと自分を納得させる口実を見つけた。近所で(というのはつまり、車で10分ほどのところで)従弟が歯科を開業している。もう長いこと会っていないので、帰省のついでに顔を見に行ってこよう。
従弟というのは、父の弟の息子である。彼の父つまり僕の叔父は、関西の大学を出て外科医になり松山で開業していたが、先年病没した。小さい頃の従弟はチョロチョロとすばしっこく、プラモデルなどを作らせると抜群に手先の器用な子だったが、そのあたりが見事に活きたらしい。人当たりがよくて地元では好評である。
その評の通り、丁寧に診て詳しく説明してくれた。マスクの上の小顔の目許は、亡くなった叔父よりは美人の叔母に似たようである。観念して、帰京後に治療を受けることにする。
夕方、車で40分の空港へ出かけて旅先の鹿児島から合流する長男を迎え、これで全員集合。
門前に涼しい日陰を落とす一対の銀杏は、20年あまり前の記念の植樹である。見上げると青いギンナンがたわわに実り、秋の収穫を約束している。臭いがきつくて処理が厄介だが、手間を厭わなければ美味は手の内にある。
手間をかけてこその美味か