2024年2月26日(月)
二・二六事件じゃないんですね…
> 1832年2月26日、ショパンはパリのプレイエルホールでデビューコンサートを開いた。それからほぼ16年後の1848年2月に、ショパンは同じホールでパリ最後のコンサートも開いている。
フレデリック・ショパンは1810年ポーランドに生まれた作曲家・ピアニストである。 20歳の時、演奏旅行中に革命が起こり、故国ポーランドに戻れなくなって各地を転々とした。 1832年のコンサートは、こうしてやってきたパリで、社交界デビューのために開いたものだ。貴族や富豪の子女のピアノ教師を務めるのは、当時の演奏家の大きな収入源だった。生活の安定を得たショパンは、望郷の思いを抱えつつ、この後の人生の大部分をパリで過ごすことになる。
数年後、ショパンは結核にかかる。彼はこの病に生涯苦しみ、そのためか大きなリサイタルは30回ほどしか開かなかった。作曲家リストの紹介で女流文学者ジョルジュ・サンドと出会ったのもパリだった。彼らは九年間にわたる交際を続け、その間にショパンは多くの美しい曲を残した。サンドは献身的にショパンを支えるが、やがて訪れた破局はショパンを打ちのめす。スポンサーも失い、貧窮してリサイタルを開かざるを得なくなったショパンの、パリでの最後のリサイタルが開かれたのは、 二月革命前夜のことだった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.62
フレデリック・フランソワ・ショパン
Frédéric François Chopin(仏) 、Fryderyk Franciszek Chopin(波)
生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり) - 1849年10月17日)
『別れの曲』という古い映画がある。
1934年にドイツ語で制作された "Abschiedswalzer" という作品だが、"La chanson de l'adieu” と題するフランス語版が続けて制作され、後者が1935年に日本で上映された。1980年代にNHKが「世界名画劇場」でドイツ語版を放映したところ、「昔見たもの(=フランス語版)と違う」との問い合わせが多数寄せられたとWikipediaが紹介している。
ドイツ語版とフランス語版といえば『わが青春のマリアンヌ』が思い出される。こちらは戦後の作品だが、どこか似た香りがする。『マリアンヌ』は1970年代にやはりNHKでフランス語版が放映された。その思い出があって数年前に購入したDVDがドイツ語版で、最初は事情が分からずキツネにつままれる思いをした。独仏両語で二重に作られるということが、昔はよくあったのだろうか。
『別れの曲』のドイツ語版はビデオ録画して何度か見直し、まだ捨てずどこかにある。作中でパリに出てきたショパンの才能をいち早くリストが見出し、若者を世に出すために一計を案じる場面がある。リストがコンサートを開催し、聴衆が会場を埋めた。演奏が始まってしばらくすると室内の灯りがすっかり落とされ、暗闇の中に響くピアノの音色が聴衆を魅了していく。やがて灯りが点いて見れば、いつの間にかリストと入れ替わってショパンが演奏しているのである。高名なリストに匹敵する天才ピアニストの登場を、一瞬にしてパリの社交界が知るという次第だが、これに類する事実があったのかどうか。
ジョルジュ・サンドは恋多き女性で、しかも大物食いだった。交遊歴の中には、詩人のド・ミュッセや他ならぬフランツ・リストの名が見えている。ショパンと別れた後は政治への傾斜を強め、マルクスやバクーニンとも交流があった由。二月革命後は隠棲して文学に没頭し、ユーゴ―、フローベール、ゴーティエ、ゴンクール兄弟らと友情を結んだとある。旺盛な生命力と多彩な才能を、形而上にも形而下にも生涯にわたって発揮し続けたのであろう。
ショパンは結局捨てられたというのだが、これほどの人物が女盛りの九年間を彼一人に捧げたとすれば、それ自体奇跡というべきかもしれない。
「もしショパンがG.S. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、ケルビーニの歳まで生きただろうに」という知人の言葉が知られているそうだが、その場合ショパンが同じ期間に同様の名曲群を遺せたかどうかはわからない話である。
盛大をきわめたショパンの葬儀に、ジョルジュ・サンドは姿を見せていない。死者に興味はなかったであろう。
(ルイージ・ケルビーニはイタリア出身のフランスの作曲家:1760-1842)
ジョルジュ・サンド George Sand
(1804年7月1日 – 1876年6月8日)
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