散日拾遺

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2月8日 メンデル 遺伝の法則を発表(1865年)

2024-02-08 03:20:20 | 日記
2024年2月8日(木)

> 1865年2月8日と3月8日、チェコのブルノの聖アウグスティノ修道会の修道士グレゴール・ヨハン・メンデル は、エンドウ豆の遺伝の実験結果を、ブルノ自然科学会で 発表した。現在、「メンデルの法則」として知られているものである。
 この法則を導き出すためにメンデルは七年の歳月をかけ、三万本ものエンドウ豆を栽培したという。けれどもこの発表は、当時は出席者に注目されなかった。
 メンデル以前にも形質の遺伝に法則性を見つけようという試みはあったが、 はっきりした法則性は見つからなかった。彼の成功の原因は、はっきり対立した二つの形質をもつエンドウ豆を実験対象に選んだことと、純系と呼ばれる一つの形質しかもたない系統を、何代も交配してつくり出したことにある。
 メンデルの研究は、彼が生きている間は注目されなかったが、死後16年たった1900年、ド・フリース、チェルマク、コレンスという三人の研究者のそれぞれ独立した研究 によって再発見された。彼らはこの分野の研究について過去の記録を調べた結果、35年も前に遺伝の法則が発見されていた事実を見出したのだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.44



 グレゴール・ヨハン・メンデル(独: Gregor Johann Mendel、1822 - 1884)、オーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭、生物学者。

 メンデルは不遇の人、と長らく思い込んでいたが、どうやら大きな勘違いだったようである。修道士としては修道院長の要職に挙げられ、天文・気象・生物など多面にわたる自然科学者として十分評価されていた。なるほど遺伝法則こそ生前に知られることがなかったが、没後に発見・再評価され不朽の名声を遺したこと、人としてこれに勝る栄誉はない。
 せっかくの発見が数学的な表現ゆえに敬遠されたというあたりも、時代を先取りしたものと言えそうだ。今日では数学的センスなくして生物学を語れない。それで思い出すのは木村資生(きむらもとお、1924-94)の分子進化の中立説である。僕の理解が間違っていなければ、たとえば「退化」という現象はこの説によって良く説明される。暗黒環境で暮らすメクラウオにとって目は不要かもしれないが、「目がない方が生存に有利」とまではいえない。それにも関わらずメクラウオが目を失っているのは、適応に無関係な器官において変異が急速に進むことの証左であると。
 これはすごい、日本人でただ一人のダーウィン・メダル受賞者というのもむべなるかなと御著を買い込んでみたが、数学的表現になかなか付いていけないのである。十分わからぬまま、これはノーベル賞に優に値することと密かに期待するところがあった。惜しいかな木村博士、ALSの病魔につかまり満70歳の誕生日に転倒、逝去なさったとある。
 洋ランの一種パフィオペディラム Paphiopedilum の育種家としても知られたそうだから、メンデルとはさぞ話が弾むことだろう。

    


 以下、メンデルについて補足:
> 当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを覆し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。
 メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは、1847年司祭として修道院の生活を始めた時である。1862年にはブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。 有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した。そしてエンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかないかというように対立形質が区別しやすく、さらに、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し花弁のうちで自家受粉するので、他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用した。
 次に交配実験に先立って、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを2年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代の用語では純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。
 その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても理解していたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである。
 この結果の口頭での発表は1865年にブリュン自然協会で、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは “Versuche über Pflanzen-Hybriden”(植物雑種に関する実験)であった。さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されず、メンデルの考えは「反生物学的」と見なされてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく、結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。
 1868年には人々に推されブルノ修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、毎日の仕事に忙殺され1870年頃には交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB
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