2024年2月22日(木)
1585年(天正13年)2月22日、日本からやってきた四人の少年使節が、教皇グレゴリウス十三世に謁見した。彼らは九州のキリシタン大名大友宗麟、 大村純忠、有馬晴信の名代として1582年(天正10年)2月に長崎を出航した。
この少年使節団は、当時のイエズス会の東インド巡察士ヴァリニャーノ神父の計画したものだった。彼は、長旅に耐えてヨーロッパに到着した少年を見れば、教皇並びに教会の人々がイエズス会の働きに感銘を受け、多くの資金を調達できるだろうと考えた。また、文明の進んだヨーロッパの様子を、帰国後に少年たちが伝えれば、日本での布教がやりやすくなると思ったのだ。ヴァリニャーノは、イエズス会の学校でキリスト教を学んでいた少年の中から、見目がよく領主と血縁のあるものを選んで、使節団に仕立て上げたのである。
ヴァリニャーノの思惑は予想以上に功を奏し、使節団は日本の王子として各地で歓待を受けた。教皇も大きな感動をもって彼らを迎えたが、ひと月もたたずに亡くなったため、引き続き新教皇シスト五世の歓待を受けることになった。少年使節団の四人は、教皇を選出するコンクラーベに居合わせた史上初の日本人ということになるだろう。
出航時十四、五歳であった彼らが無事大任を果たして帰国したのは八年後であった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.58
この項の書き方には少々違和感がある。
四人の少年は「見目がよく領主と血縁のある」という理由だけで選ばれ、分不相応な使節団に「仕立て上げ」られたわけではない。ヴァリニャーノは日本人の能力を高く評価しており、セミナリヨに集まる秀才たちの中から信仰理解においても学芸においても優れたものを選んで使節団を構成した。四人のうち原マルチノはとりわけラテン語に堪能で、道中でたびたび見事な弁舌を披露したほか、洋書の翻訳・出版にも携わっている。名士の家系ではあるが領主の血縁ではない。
彼らであれば本場ヨーロッパのどこへ出しても誇るに足り、出会ったヨーロッパ人たちが瞠目して日本と日本人の価値を知るに違いないことを、ヴァリニャーノは確信していたのである。果たしてその通りになった。
彼らの唯一最大の誤算は、使節団の派遣を全面的に支援し、ローマ教皇との使節交換によって国際社会に名乗りを挙げることを目ざしていた織田信長が、使節団出発の4か月後に本能寺で討たれたことであった。
1587年(天正15年)には秀吉の伴天連追放令が布告され、出発時とは比すべくもない寒々とした逆風の中、1590年(天正18年)四人は長崎へ戻ってきた。
伊東マンショとグレゴリウス13世の謁見の場面
1586年にアウグスブルグで印刷された天正遣欧使節の肖像画。
タイトル「日本島からのニュース」(京都大学図書館蔵)
左上・中浦ジュリアン、中央・メスキータ神父、右上・伊東マンショ
左上・中浦ジュリアン、中央・メスキータ神父、右上・伊東マンショ
左下・原マルチノ、右下・千々石ミゲル
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