散日拾遺

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二十四節気 立春

2024-02-04 09:20:44 | 日記
2024年2月4日(日)

 立春 旧暦一月節気(新暦2月4日頃)
 立春は旧暦一月の節気で、冬から春に季節がかわる時期、一年のはじまりの日でもありました。
 新暦では節分の翌日にあたり、寒さは感じるものの、だんだんと気温も上がりはじめ、木々の芽吹きも感じる頃です。
 立春は雑節の基準日にもなっています。八十八夜、二百十日、二百二十日などは、この日から数えていきます。
(『和の暦手帖』P.30‐31)

 残念ながら、今年はこれから今冬初の本格的な寒波がやってくる。明日・明後日と関東地方でも大雪の恐れあり。とはいえ「寒さは感じるものの、だんだんと気温も上がりはじめ、木々の芽吹きも感じる頃」とあるのは誠にその通りで、東京の住宅街では梅が咲き誇り、田舎の庭では水仙が満開。

七十二候
 立春初候 東風解凍(はるかぜこおりをとく)新暦2月4日 ~  8日
 立春次候 黄鶯睍睆(こうおうけんかんす) 新暦2月9日 ~ 13日
 立春末候 魚上氷 (うおこおりをいずる) 新暦2月14日~18日

 今さらながら、なぜ「東風」を「こち」と読むか?
 これは話のもっていき方で、漢語の「東風」を「こち」と読むというよりも、和語の「こち」があったところへ、同義の漢語「東風」を充てたと考えた方がわかりやすい。
 そもそもなぜ「こち」かといえば、「ひむかち(ひがし)> かち > こち」との変化を経て「東=こち」となり、「東風(こちかぜ)」がさらに省略されて「東風(こち)」になったのだと。
 「ひむか」は「日に向かう」の意だから、「ひむかち=東」は理解しやすい。旧国名の「日向(ひゅうが)」はもともと「日向(ひむか)」と読んだ。

 では「南風(はえ)」はどうか?
 「ひむかち ⇒ こち」式の説明は検索では出てこず、ただ沖縄では南の方位を「はえ」ということ、主として西日本で南寄りの風を「はえ」または「はい」と呼ぶことなどが記されている。
 こちらも既に存在した「はえ」の語に、漢語の「南風」を充てたのだ。

 「こち」「はえ」ほど知られていないが、「西風」は「ならい」、「北風」は「あなじ」の読みがあるという。
 「西風」は仙台の地名に用例があり、西風蕃山という山の名や、仙台市宮城野区内の字(あざ)の名が Wikipedia に紹介されている。
 「北風」の方は岩手の地名に用いられているというのだが、面白いことにその読みは「西風」と同じく「ならい」である。
 宮城から岩手、つまり東北地方の太平洋側に住む人々にとって、奥羽山系から吹き降ろす山風(=ならい)は時によって北にも寄り西にも寄り、西と北を峻別する意味が薄かったということがあるだろうか。

 「あなじ」について、どこかの物知りさんの回答が知恵袋にあり。専門家かな。
 「乾燥した北西風を指す言葉で、乾風と書いて「あなじ」と読む場合もあります。」
 一方、手許の古語辞典は「西北の風」とあっさり記す。源俊頼(1055-1129)にとっても「あなし」の語は耳新しかったのだ。
 「あなし吹く灘の潮路に雲消えて」(千五百番歌合)
 「あなしといへる風あり、いぬゐ(=西北)の風とかや」(俊頼髄脳)

 ぐるっと回って、同じ古語辞典で「ならひ」を見ると…
 ● ならひかぜ:江戸方言。北東から吹く風。漁師の語から一般語となった。略して「ならひ」とも。
 「ならひかぜはげしく、師走の空、雲の足さへ早く」(好色五人女)

 頭が痛くなってきたので、このあたりでいったん置く。

Ω


2月4日 ジョージ・ワシントン、アメリカ初代大統領となる(1789年)

2024-02-04 06:58:51 | 日記
2024年2月4日(日)

> 1789年2月4日、アメリカ初の大統領選が行われ、ジョージ・ワシントンが満場一致で大統領に選ばれた。ワシントンはこの年の4月30日から1797年3月4日まで二期を務め、三選目は固辞したという。
 ワシントンはアメリカ独立戦争を植民地軍の総司令官として勝利に導いた人物である。1775年総司令官を任ぜられると、苦戦を強いられながらも次第にイギリス軍を追い詰め、ついに1783年アメリカの独立を成し遂げた。
 彼は当時、陸軍最高司令官ワシントン将軍として絶大な権力を手にしており、このまま統治者にしようと考える熱烈な支持者も多くいた。しかしワシントンは、まず陸軍最高司令官の職を辞任する。この辞任により、選挙で選ばれた大統領がアメリカを統治するという原則が確立したと言えるだろう。その後ワシントンはアメリカ憲法制定会議の議長に選ばれ、二年後の新憲法発布とともに初代大統領に選ばれた。
 ワシントンの逸話として有名な「桜の木」のエピソードは、ジグは後に作られた創作である。しかし、その真面目で正直な人格は、彼の身の処し方の随所に現れている。アメリカ建国の父として、首都ワシントンDC にその名が残された。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.40


  George Washington(1732 - 1799)

 安直に1776年だけを記憶しているが、一連の詳細については1973年秋頃の教室で、吉田寅先生から丁寧に教えていただいたはずである。
 1775年4月のレキシントン・コードの戦闘で戦争が始まり、6月に大陸軍が創設され、7月3日にワシントンが司令官に就任した。彼自身は翌76年にトマス・ペインの『コモン・センス』を読むまでは、独立を支持していなかったというから面白い。独立宣言によって戦争が始まったのではなく、戦争の経過の中で独立の機運が急速に醸成されたのである。
 1776年7月4日の宣言後も戦況は困難をきわめた。ワシントンはイギリス軍と大きな戦闘を9回戦い、そのうち3回しか勝たなかったとも言われる。1777年から78年にかけての厳しい冬の戦いのさ中に、ワシントンが雪中で跪いて祈る姿を絵で見た記憶がある。
 難戦の末、陸上の戦闘は1781年9月にヨークタウンの包囲戦でイギリス軍が降伏することによって終止符を打った。9月初めにチェサピーク湾の海戦でイギリス海軍がフランス海軍に戦略的敗北を喫し、増援の途を絶たれたことが背景にある。当初は民兵の寄せ集めであった大陸軍は、プロイセンの軍人貴族による訓練などを経て次第に軍隊らしい姿を整えていく。当然ながら複雑な国際政治の力動が経過の至るところに顔を出している。
 サラに誘われてヴァージニアを旅行した際、ワシントンを記念するマウント・ヴァーノンを訪れたことがあり、トマス・ジェファソン(1743-1826)のモンティチェロと対照的な、質朴簡素な印象が記憶に残った。
 ワシントンとジェファソンは好対照いかにも好対照、それぞれ魅力的な人物であるが、いずれも先住民に対して一かけらの理解も憐れみももたなかったことは、歴史的限界の為せるところとはいえ残念極まりない。
 ワシントンの大統領就任は奇しくもフランス革命勃発と同年である。独立戦争は近代史学の立場からは、国家間の戦争としてよりも市民革命の一形態として位置づけられる。啓蒙主義の見出した人権の理念は、その当然の帰結として民族や人種の隔てを越えさせる力をもつのだったが、哀れや人には自分自身の仕える使命が見わたせないものである。
 以下、Wikipedia から:

> 1779年、ワシントンはジョン・A・サリバン少将に、ニューイングランドのイロコイ族への攻撃命令を下した。ワシントンはこう命じている。
 「村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。同族を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。」
> (1783年、パリ条約によって大英帝国がアメリカ合衆国の独立を承認した)この年、ワシントンはインディアンを狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。“Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.” 「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。」
> ワシントンが軍を指揮していた間、インディアンを絶滅させる方針は一貫していて、ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。ワシントンによる虐殺を生き延びたインディアンたちは、ワシントンを「町の破壊者(Town Destroyer)」と呼んだ。エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ワシントンの直接命令によって、5年足らずの間に28の町村が破壊し尽くされたのである。この中には、モホーク族、オノンダーガ族、カユーガ族のすべての町と集落が含まれていた。1792年に、ワシントンについてイロコイ族の一人が次のような言葉を残している。
 「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後じさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」
『American Holocaust: The Conquest of the New World』(David Stannard、Oxford University Press、1992年)

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