2024年2月17日(土)
> 1863年2月17日、スイス人アンリ・デュナンの「国際的な救護団体を設立しよう」という呼びかけに応えて、「五人委員会」が発足した。これは現在では赤十字国際委員会と呼ばれ、この日が国際赤十字発足の日とされている。
デュナンは1828年にジュネーブに生まれた。両親は福祉活動に熱心で、彼も若い時にYMCAの世界同盟作りに参加した。1859年、彼は事業の請願のため、ナポレオン三世に会いに北イタリアのソルフェリーノに行く。当時ナポレオン三世は、イタリア統一戦争に介入してオーストリアと戦闘中であった。デュナンは戦場に放置された死傷者の悲惨な姿を見て、自ら救護活動に参加し、三年後その時の体験を綴った『ソルフェリーノの思い出』を刊行した。
ソルフェリーノの戦いは、一日で約4万人の死傷者が出たと言われる19世紀最大の激戦で、その様子を書いた『ソルフェリーノの思い出』は大きな反響を呼んだ。その中に書かれた二つの提案、国際的な救護団体と国際的な戦争の協定の必要性が、後に赤十字設立と国際人道法の成立につながったのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.53
ジャン=アンリ・デュナン Jean-Henri Dunant
(1828年5月8日 - 1910年10月30日)
デュナンは1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞した。上記の記す通り、「五人委員会」が発足した2月17日を国際赤十字発足の日とするのは道理であるが、「国際赤十字デー」と呼ばれるのは5月8日、つまり赤十字生みの親であるデュナンの生まれた日の方である。デュナン個人の貢献がいかに大きかったかが窺われる。
カルヴァンが宗教改革を行ったジュネーヴ、そこに生い立ったデュナンはカルヴァン派の伝統の中で育てられた。その生涯は「福祉活動に熱心なプロテスタント実業家」という類型の傑出した代表である一方、類型では語れない不思議と不可解を抱えている。
たとえば幼年期、地元名家の長男であったジャン=アンリは、ジュネーブの名門校カルヴァン学校に入学したものの、学業不振により3年で退学し、その後は家庭教師について教養を身につけたとある。ちゃんと身についたのだから、学習能力の問題ではない。エジソンなどと同じく、学校教育に適応できない何かが彼の資質の中にあったのだろう。
21歳からは銀行員として熱心に仕事をこなす傍ら、キリスト教活動に尽力し、西ヨーロッパ諸国の若い福音運動家たちと交流を図るようになっていった。英国人ジョージ・ウィリアムズ(1821-1905)の創設したキリスト教青年会(YMCA)に共鳴し、YMCAの国際組織化を夢見つつ「ジュネーブYMCA」を設立したのは1852年、デュナン24歳の時である。
翌1853年、銀行から仏植民地であるアルジェリアへの出張を命じられ、そこで差別と貧困に苦しむアラブ人やベルベル人の姿を見て衝撃を受けた。思い立つとすぐ行動に移す、直情性と実行力が身上だったらしい。1854年に銀行を退職し、1858年にはアルジェリアで現地人の生活を助けるため、農場と製粉会社の事業を始めた。しかし水利権の許可が下りなかったため事業が上手く行かず、借金が嵩む。1959年にナポレオン3世に会うため、イタリアの戦陣まで出かけていったのは、まさにこの事業への支援を得るためだった。
ソルフェリーノの戦場で地元女性にまじって救援活動に参加し、その際になぜ敵も味方も分け隔てなく助けるのかと尋ねられ、「人類はみな兄弟」と答えた言葉が後世に記憶されている。
1862年に『ソルフェリーノの思い出』を出版、1863年にジュネーヴで「国際負傷軍人救護常置委員会(通称5人委員会)」が結成されたのは上述の通り。その後、赤十字の活動は年ごとに成長していく一方で、デュナンの人生は転落に向かう。理事を務めていたジュネーブ信託銀行が1865年に倒産したのをきっかけに、アルジェリアでの事業が決定的な打撃を受け、株主らから裁判所へ訴えられたことで5人委員会からは辞職を求められる。辞職後、裁判所からは破産宣告を受けた。
1867年、39歳のデュナンは故郷のジュネーブを去り、そのまま消息を絶った。赤十字の活動範囲は戦争捕虜に対する人道的救援や、一般的な災害被災者に対する救援へと拡大していったが、当のデュナンはこの活動から身を引いたばかりか、社会そのものから姿を消し、世間からも忘れられていったのである。
その後、デュナンの姿はパリ、ロンドン、ストラスブールなどで見かけられたが、駅舎で寝泊まりするなど浮浪者同然の生活であった。1876年にシュトゥットガルトの避難所に現れ、牧師宅の2階の屋根裏部屋を貸し与えられたという。
1887年、健康を損なったデュナンは、スイス東北部のハイデンに現れた。失踪から20年、既に59歳になっていた。ハイデンの赤十字社創設に深く関わり、1892年から死去するまでハイデンの公立病院の一室に居住した。
1895年、スイス東部の新聞「オスト・シュヴァイツ」の編集者がデュナンを訪ね、彼の書いた記事がシュトゥットガルトの週刊新聞に大きく掲載されると、長い間忘れ去られていたデュナンの功績が再び脚光を浴び、シュツットガルト時代に知遇を得たルドルフ・ミュラー教授の推薦を得て、1901年の第1回ノーベル平和賞受賞につながっていく。
その後も82歳の死に至るまで、デュナンは質素な生活を貫いた。ほとんど手付かずだった賞金は、遺言によりスイスとノルウェーの赤十字社に寄付された。田中正造がすべてを投げうって鉱毒と戦ったように、デュナンはすべてを投げうって赤十字活動を生み育てたといえる。分からないのは20年間の放浪である。ロンドンからシュツットガルトまで、その移動範囲はほとんど西欧の全域を横断している。なぜそうせねばならなかったのか、何を避け何を求めたのか、またなぜ戻ってきたのか。
自伝があるらしい。邦訳されているなら読んでみたい。
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