「自分が道を開くのだ」というような一切の野心やはからいが消え去って、
わが身わが心の一切を、現在自分が当面しているつとめに向かって捧げ切る「誠」
によってのみ、開かれる。
精神がこもるとは、生命がこもるということであり、生命の全充実に至って、初めて
そこに、おのずからなる一道が開かれるというものです。
誠はまた綱渡りに喩えることも出来ます。そもそも綱渡りというものは、決して中途で
とどまることの出来ないものであります。つまり向こう側にたどり着くまでは、どう
しても常に進まねばならぬのです。同時に綱渡りで向こう側にたどり着いて「やれや
れ」とホッとするのは、これ現実の人生で申したら死ぬ時です。
すなわちわれわれが、この肉体の束縛から解放された時、それが綱渡りの終了した
時です。すなわち生きている間は、一瞬の油断もなく進みに進まねばならぬのです。
これが真実の生活というものであり、すなわちまた誠に外ならぬわけであります。
実際、誠と言うことほど、言うはやすくして、その実行の困難なことはないでしょう。
読書「終身教授録 森 信三 著 致知出版 第36講 誠 より
最後まで読んでくださいまして誠にありがとうございます。
わが身わが心の一切を、現在自分が当面しているつとめに向かって捧げ切る「誠」
によってのみ、開かれる。
精神がこもるとは、生命がこもるということであり、生命の全充実に至って、初めて
そこに、おのずからなる一道が開かれるというものです。
誠はまた綱渡りに喩えることも出来ます。そもそも綱渡りというものは、決して中途で
とどまることの出来ないものであります。つまり向こう側にたどり着くまでは、どう
しても常に進まねばならぬのです。同時に綱渡りで向こう側にたどり着いて「やれや
れ」とホッとするのは、これ現実の人生で申したら死ぬ時です。
すなわちわれわれが、この肉体の束縛から解放された時、それが綱渡りの終了した
時です。すなわち生きている間は、一瞬の油断もなく進みに進まねばならぬのです。
これが真実の生活というものであり、すなわちまた誠に外ならぬわけであります。
実際、誠と言うことほど、言うはやすくして、その実行の困難なことはないでしょう。
読書「終身教授録 森 信三 著 致知出版 第36講 誠 より
最後まで読んでくださいまして誠にありがとうございます。