goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ディクテーター 身元不明でニューヨーク(2012/ラリー・チャールズ)

2012-09-20 01:15:29 | 映画 タ行

 

本作の冒頭、独裁者アラジーン将軍の暴君っぷりを示すため、

「よい」も「わるい」も「アラジーン」という一語に統一したというエピソードが紹介される。

そして、これこそが本作に通底するシニカルながら真剣ニヒルの宣言だ。

 

「独裁者」という語は、アラジーン将軍にとっては甘美な善の体現者なのに、

国連(というかデモクラシーな国家の面々)にとっては極悪卑劣な未開の産物。

本作ラストの演説(最高!)も全く同様の、光と影のダブル・ミーニング。

「影」の現実にゾッとした聴衆(大衆)が、ほんの一筋の「光」を語られた途端、

闇を忘れて透かさず啓蒙されてしまうという見事なアイロニー。

刺される棘は戯画バイト。笑う門の人のふり。見つめて直そう我が大義。

 

◆フェミニストの活動家(アンナ・ファリス)の「情熱的」な抗議が

   ファシストの演説に見えたりするっていう紙一重。

   懊悩の果てに橋から身投げしようとする暴君に重なる、

   ヒーローの苦悩。

   髭が消えただけで悪の権化を認識できない市民の眼差し、

   髭が消えようが忘れもしない我が最愛の敵。

   国民の不自由が国家の自由を絶対的に保証するのが独裁国家なら、

   民主国家は国民の自由を保証するために自らの不自由に耐えている?

   あれ?でも、民主主義は国民が国家でもあるわけで、

   それなら僕らは自由なの?不自由なの?

 

◆「我等の自由を!」の結果として独裁者は打倒され、

   国民は自由を手にするという革命の前日譚には当然、

   自由を謳歌しまくる独裁者の楽園が刻まれているだろう。

   そうした立場から放擲されたアラジーンが初めて味わう不自由。

   それは国民のそれなのか、国家のそれなのか。

   いずれにしても、 そうした不自由さに積極的な意義や価値を見出す

   などという安易な幻想を混入させない「リアリズム」には感心しきり。

   独裁者が愛でる自由は、実は国民が慈しむ自由であり、国家が厭う自由でもある。

 

◆下品さが(実は大真面目な)テーマを確実に笑い飛ばしてくれるので、

   そうした落差による「麻痺」は痛快で、

   本格的劇映画スタイルもジャンル映画を些か諷刺。

   言い訳がましく理由をでっち上げないラブコメの魔法でねじ伏せる。

   結局すべては「胸キュン」解決ハッピーさ!は、

   『鍵泥棒のメソッド』に奇しくも通じててニヤリ。

 

◇キャストとか未チェックで観に行ったものだから、

   サシャ・バロン・コーエン演じる独裁者の側近タミルを

   ベン・キングズレーが演じてるのに楽しい驚愕!

   『ヒューゴの不思議な発明』でメリエス演じてたベンが、

   戦争で脚に傷を負った公安官を同作で演じてたサシャの側近!?

   スコセッシとの栄光仕事すら「踏み台」に使おうっていう正しき魂胆に感嘆。

   『アベンジャーズ』蹴って、こっちにカメオ出演かますエドワード・ノートン・・・。

   サシャばりの強かさで渡っていけるだろうか。

 

◇エンドロールで最も笑ったのは、

   サントラ盤の発売レーベルが、「Aladeen Records」だったとこ。

 

◇確かな劇映画っぷりを見せてくれている本作は、スタッフが盤石。

   例えば、シネスコで安定かつ躍動の撮影で適度な画力を発揮させているのは、

   『ハングオーバー』シリーズや『宇宙人ポール』等のローレンス・シャー。

   編集は、『ブルーノ』にも参加していたエリック・キサックに加え、

   『ミート・ザ・ペアレンツ』シリーズや『トロピック・サンダー』等のグレッグ・ヘイデンも担当。

   ドラマによる語りの確かさを保証するための適材適所。

   プロデューサー陣にスコット・ルーディンの名前を見つけて意外に思うも、

   なんだかんだで堅実さも見せてる本作なら納得だ。

 


ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(2)

2012-09-16 12:02:49 | 2012 特集上映

 

今回の特集上映の「フィクションの実験室」というタイトル。

一見、特殊な意味をまとっているようにも思えぬそのタイトル。

しかし、ラウル・ルイスの作品を見れば見るほど、得心がゆくばかり。

映画作家として彼は、フィクションであることの目的を徹底的に探求しているし、

フィクションであるための手段をあらゆる試行で実験し尽くそうとしているかのよう。

 

ラウル・ルイスの実験室では、彼が一人、自己探求と自己実現に没頭するのではない。

彼による実験(experiment)によって観客の体験(experience)もがそこにある。

それでこそ、簡潔を頑なに拒むラウルの思惑が一瞬、完結をみる。

 

作家主義的立場からの明瞭な擁護を勝ち取ることも困難にすら思える彼の想像と創造。

しかし、だからこそ、観客にはどこまでも開かれており、誰かだけに向けられてなどいない。

誰かが掴み掌ろうなどすれば、彼の想像力は溌剌と指の間へと流れ落ちるだろう。

だからこそ、ラウル・ルイス・ラボラトリーの被験者は、とにかく身を委ねれば好い。

頭も心も二の次だ。とにかくシートに身体を埋めれば好い。

何処かへ、何処へでも、連れてく準備があるリールたち。

手の鳴る方へ心を任せ、巻き込まれるだけで好い。

 

 

その日(2003/ラウル・ルイス) Ce jour-là

日本初上映となる本作。勿論(?)日本語字幕はないが、英語字幕はある。

しかし、以前にも実感したように、ラウル・ルイスの作品においては、

言語という「些細」な手がかりに依存していては、十分味わえない。

いや、もしかしたら言語こそ十全な享受の妨げになるのかもしれない。

当然、映画内で言葉が発せられる以上、その断片一つ一つに含意はあるはずだし、

そこには「予め込められたもの」と「各々に受け取るもの」という拮抗の膨張もある。

しかし、ラウル・ルイスの実験においては、言語を駆使した一貫性に依存するよりも、

眼前の一瞬一瞬を一つ一つの試練として、交流として、思い思いに抱かれれば好い。

などというのは、英語字幕に追いつかない己の言い訳に過ぎぬ気もするが

(それ以外の何物でもないのも事実だが)、

とにかく「見てるだけ」で驚くほど溢れ出る映像言語の奔放さを前にしては、

眼や脳は必至で字幕を追うことを止め、眼の前を流れる映像に「乗る」しかない。

そうすれば、「解る/解らない」などという世界の二分化から解放される。

だからこそ、矮小化から免れた世界の両面、世界の相反を直接感応できる。

 

言い訳がましい前口上が過ぎてしまったが、

本作は底抜けに面白い!不可笑はずなのに可笑しくて仕方がない!

ブラックなユーモアではなく、ユーモアあふるるブラック!

ユーモアをブラックでコーティングしたのではなく、ブラックがユーモアに包まれて、

それゆえに観賞中にはひたすら笑えるのに、観賞後に迫りくる深奥の闇。

夢に出てくるとすれば、ユーモアの部分ではなく、それによって匿われてる魅惑の毒だ。

 

『その日(英題:THAT DAY)』というタイトルや、

キー・ヴィジュアルなどからは到底思いもよらない、

突き抜けまくった摩訶不思議な一本。

映画芸術読者と映画秘宝読者、どちらもが必見と思える一本。

(というのは、余りにも低俗で乱暴な惹句かもしれませんが)

先週観た『無邪気さの喜劇』にしても本作にしても、一筋縄でいかないどころか、

幾筋の縄があっても編み上がらないほどの、無垢すぎるほどの作為。

「実験室」を冠した特集のラインナップに不可欠かつ恰好の一本。

こんなにも奇天烈で在り得ないほどの在り難さを感じる一本も珍しい。

日仏で(アンスティチュか)隣の客と笑いで感じる奇妙な連帯こそが奇妙。

場内がどっと笑ったりしないのも「らしい」気がするが、

あちこちで去来している「引きずる笑い」や「思い出し笑い」は充満し、

そのバラバラな一体感は終始こだまする。

 

『無邪気さの喜劇』も「家」が重要な登場人物であるかのように語られるが、

本作も見事なまでの存在感を放つ「家」。というより、ラウルは《空間》の魔術師。

それも、今までの経験を超えるアングルや距離や浮遊を味わわせるため、ニヤニヤ。

卑小な私見に過ぎぬかもしれぬが、彼がフレームのなかに構築する「世界」には、

人間が無意識に図っている序列化や優先順位を転倒させる試みが充ちている気がする。

明らかに「人間中心」的ではなく、人間も時に極めて物質的であるかと思えば、

物(例えば家、もしくは調度品の一つ一つ)が異様な生命力を放っていたりもする。

 

本作を観ながらようやく認識したラウルのお好み構図

(手前の「巨大」な物と、地(背景)かのように「遠く」にある人間たち)は、

自分の手ばかりみつめ、その「自分の手」越しに世界を眺める幼少期の眼差しを思わせる。

そうした無邪気の企みには、世界を白紙から描こうとする無垢と強固な主観が宿ってる。

だからこそ、そうして切り取られ繋がれた世界を前に、その主観に私たちは装填される。

 

前述の「解る/解らない」の二分化同様、「正常/異常」というナンセンス。

本作は、それこそが至極メイク・センス。

その二分化を曖昧にするのではなく、むしろ確実なボーダーを前面化することで、

それが余りにも近すぎていつの間にか見えなくなってしまうような遠近法瓦解の序曲。

「異常」が排斥される論理は、「異常」が「正常」に立ち向かう論理を正当化する。

異を唱えることは、正を認めてしまうことでもある。

だから、「同じ」ようにするだけさ。ただ、やり方は違うけど。

でも、どちらが残酷か。どちらが笑えない?

ラウル・ルイスの被験者(観客)は、常に宿題を渡される。

 

 

 

見出された時~「失われた時を求めて」より~(1999/ラウル・ルイス)

Le temps retrouvé, d'après l'oeuvre de Marcel Proust

 

プルーストの『失われた時を求めて』の世界を求めて・・・いや、借りて、

ラウル・ルイスは自らの世界を止揚しようとしたのだろうか。

プルーストをまともに読んだことのない教養不足の私に判断する資格はないが、

これは紛れもないラウル・ルイスの語りに満ちている。そして、それに充たされる。

 

作家として(作品群をまとめて)カテゴライズするのは困難なラウル・ルイスだが、

彼の作風をいくつかに(実際は、「いくつも」だけど)カテゴライズすることはできるかも。

とはいえ、そのどれもが越境しようと常にウズウズしてるのを軽く宥めながらになるけれど。

本作はまさに、来月公開となる『ミステリーズ 運命のリスボン』に通ずる(へ通じる)、

ポスト・クロニクル・ヒストリー。時空の飛躍が描き出す、謎という究極の美。

大河もロマンも時間に抱かれて、漂う空間のゆらぎに目を閉じる。

 

光と影、鏡と絵画。

ラウル・ルイスの作品にいつも現れる世界の実像と虚像の饗宴。

それらは在と不在の対立を超えて、魂の連綿に魅せられる。

少年と壮年は共存する。語り合う。時計の刻む時を超えて。

眼差しは浮遊する。しかしまた、対象も廻り出す。

世界を(x,y,z)だけで語り尽くさぬことに耽溺すれば、

時空もたまには味方する。不可解から付加解へ。

 

フィルムならではの光に溢れ続ける158分。

いま、まさに、眼のまえに射し込んでいるかのような陽光と、

いま、まさに、眼のまえで揺らめいているかのような灯火。

世界を媒介するフィルムの最も美しい「やり方」がそこにはある。

しかし、と同時に想起してしまうのは、『ミステリーズ 運命のリスボン』で見せられた、

世界を媒介するデジタルの美しい「やり方」だ。

そして、両者が描く「世界」の違いは、優劣などとは無関係に各々魅惑する。

最後の最後まで実験をやめなかったラウル・ルイスの先鋭に、改めて感服するしかない。

 

 

今回の特集もいよいよ残り僅かとなってきた。

遺作となった『向かいにある夜 La Nuit d'en face』も上映される。

本特集のチラシには赤坂太輔氏が「彼の大規模な回顧上映をいつか日本で実現」

させたいという思いが綴られている。まさに、それが叶えば最高だ。

そして、願わくば、「ラウル・ルイスの館」なるものが造設され、

望めばいつでも夢幻の世界を彷徨える、そんなオアシスが都会に出現して欲しい。

という夢想に耽っても、ラウル語りには許されそう。

 


踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望(2012/本広克行)

2012-09-11 23:58:08 | 映画 ア行

 

あの『少林少女』『曲がれ!スプーン』の本広克行監督最新作!

制作は『SPACE BATTLESHIP ヤマト』のROBOT!

プロデューサーに『アマルフィ 女神の報酬』の亀山千広、

同じく『アマルフィ~』からは主演の織田裕二、音楽の菅野祐悟も参加!

脚本は勿論、『恋人はスナイパー』の君塚良一。

 

ま、そう考えれば、

「踊る」シリーズにはいかに魔法がかかっているかが判るというもの。

TVシリーズもTVスペシャルドラマも映画版も、実はほとんど観てたりする。

が、映画版の3作目(ヤツらを解放せよ!)は観に行かず、

そして未だ観ておらず。という、マイ「踊る」プロフィール。

 

映画版の1作目は劇場では観ていないんだけど、

バイト先の高校生が「マジ面白かった!観た方が好いっすよ!俺もまた観たい!」

みたいに熱く語っていたのをよく憶えてる。テレビシリーズ未見の彼が。

それだけ開かれながらも熱狂する要素に満ちていた黄金時代!?

シネコンでバイトしてた時も、「踊る」映画1作目の動員力は語り草になってたな。

(俺がバイトする前の話なので聞いただけだけど。

  勢い的には『もののけ姫』や『タイタニック』に劣らぬ凄さがあったらしい。)

そして、101億円という超サプライズ特大ヒットという結果を残し、

映画版の第2作が173.5億円の日本映画(実写)の歴代1位という記録を樹立。

質は低下を始めるも、もはや事件は日本全国で起こってるレベルにまで。

動員が1250万人って・・・。日本じゃ、『アバター』より稼いでるんだよ。でも・・・

「国民的」級に浸透した結果、従来の魅力であったマニア誘因オーラは減退。

シリーズの精神的支柱「和久さん」役いかりや長介がこの世を去り、

柏木雪乃役の水野美紀はバーニングを去り、「踊る」メンバーの集結は不可能に。

そんな事情もあってか(作品自体も凄まじい酷評の嵐だったけど)、

前作の半分も稼げないというシャレにならん惨敗ぶりだった映画の3作目。

こうなると、「死ぬまで(勿論、「踊る」の方が)お供します」的殊勝なファンか、

「昔は好かったんだけどねぇ」的遠い眼の懐古趣味ファンくらいしか見向きもしない!?

4作目になる本作は、一応「ファイナル」を謳ってはいるけれど、それで釣れるだろうか!?

ま、ここに釣れたのが1匹いますから、そこそこ釣れそうな気もします。

 

ただねぇ。

何でちゃんと「完結!」って感じで結ばないのだろう・・・。

勿論、シリーズファンが「思い思いにあれこれ想像できる」楽しみを残したのか?

とも考えられるけど、これまでの往生際の悪さを考えると、

「あわよくば調子乗って続けるつもりもある」的な気配を感じてしまう観客は

少なくないと思う。いや、たとえ続編が想定されている作品だったとしても、

あの空中分解のままLove Somebodyなエンドロールはね・・・

ま、最も感慨深かったのは、

これまでのLove Somebodyダイジェストを聞きながら眺める、

「踊る、思い出のアルバム」だったりしたのも事実だけど。

とはいえ、無駄に上映時間が長くなってきていた2・3作目に比べれば、

今回は何とか120分台に留まって、ややタイトに引き締まってる気もする。

少なくとも『るろうに剣心』に比べれば超素晴らしいRHYTHM AND TEMPO。

前半の空回り過ぎるドヤ顔小劇場な停滞空気は先日放送されたスペシャルと同種。

後半はちょっと「古き良き」な踊る空気が漂っていた気もするけれど、

バディ感が異様に不足。ま、そもそも「3」からの参加組が活躍しても、

オールドファンはあまり面白くないだろうし、かといって昔の仲間は「再現」できないし、

そうなると《青島&室井+恩田》くらいで何とかまとめるしかなかったのも事実かな。

でも、そういう事情が常に透けて見え始めた時点で、本シリーズの夢は覚め始め、

観ている方もすっかり冷めた目で興醒め自嘲気味な享受しかなくなっていったのかも。

とはいえ、十年以上の時間の経過を実人生と重ね合わせながら享受できるのも、

どんなに凋落や迷走に陥ろうとも、「継続」による蓄積の賜物でもあるだろう。

同じ役を演じ続けるのが明らかに辛そうな深津絵里や柳葉敏郎に比べて、

本当に心底「青島俊作」を愛している織田裕二のプライベート・プロ意識の暑苦しさは、

それはそれで何処か尊敬しちゃう説得力から免れ難い。

 

素直に清々しく「おしまい」って気分になれぬのは残念だけど、

まぁ憎めない小品に仕上がってるし、区切りつけるには適当な節目になった気もします。

 

◆冒頭の『ALWAYS お台場の夕日』は、ちょっと懐かしくも新鮮なシークエンス。

   ROBOT制作だけにセルフ・パロディ的要素と、かつてのリミックス的なノリが交錯し、

   適度な悪ふざけはそんなに悪くなかった。けど、演出のキレの悪さは最後まで・・・

   『サマータイムマシンブルース』とか『曲がれ!スプーン』とかの演劇翻案映画

   にハマってる本広監督が、「踊る」からダイナミズムをすっかり削ぎ落としちゃった気も。

 

◆あと、「踊る」は基本コメディ要素をふんだんに入れながら、

   適度な批判精神と友情物語が全体を貫いているのが魅力。

   だったんだけど、いつしか「泣き」の展開があまりにも直接的すぎたり、

   色分けされ過ぎたりして、「笑い」の要素との好い塩梅の融合がなくなっていった。

   間接的なアプローチにジーンと来る、みたいな瞬間が消えていったのは寂しい。

 

◆でも、終盤に青島が口にする言葉、

   「正義なんて胸にしまっとく位が好いんだよ」(だったかな)にはグッときた。

   そう、この感じこそが「踊る」シリーズ唯一無二の加減なんだよな。

   うん、好い言葉じゃねぇか。これ、聴けただけでも好いかな。

 


ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(1)

2012-09-09 23:58:25 | 2012 特集上映

 

今年のフランス映画祭にはメルヴィル・プポーが来日し、

彼の特集がユーロスペースと東京日仏学院で大々的に催されたが、

その際にも一部で熱狂的な支持を集めたラウル・ルイス監督作品。

ほとんどの作品を観ることが叶わなかった私にとって、

本特集は全作品見逃し厳禁な今月の最重要プログラム。

 

フランス映画祭で観た『ミステリーズ 運命のリスボン』も今秋公開されるラウル・ルイス。

その『ミステリーズ~』は観ている間中、魅了されっぱなしながら、

結局何処に連れて行かれるのか、連れて行かれたのだか、

わからないままの彷徨が何だか妙に心地好い。

新感覚派的な論理的超現実主義。

 

 

無邪気さの喜劇(2000/ラウル・ルイス) Comédie de l'innocence

 

イザベル・ユペール、ジャンヌ・バリバール、シャルル・ベルリングといった豪華な顔ぶれ。

それにも関わらず、劇場公開はおろかフランス映画祭でも紹介されてないなんて。

「ラウル・ルイス」の作風が明らかに特殊というレッテルを貼られてきたかの証明!?

しかし本作は、彼の作品にしては物語の骨格が随分としっかりしている気もする。

 

  (物語)

  9歳の少年カミーユは、両親とブルジョワ風アパルトマンで快適な暮らしをしている。

  小さなヴィデオ・カメラで自分が気に入ったものを撮影している。

  誕生日のお祝いの席で、カミーユは「ねぇ、僕が産まれたとき、ママはそこにいたの?」

  と質問し、両親や叔父を笑わせる。

  その質問は取るに足らない質問として笑いとともに忘れられるが、

  カミーユが母親に「ママ」とは呼ばず、

  彼女のファーストネームである「アリアンヌ」で呼びたいと言い出したとき、

  大人たちは笑っているだけではすまなくなる。

  しばらくして、カミーユは「自分の本当の母親」を紹介すると言い出す。

  その「本当の母親」はパリに住んでいて、住所も知っているので、

  アリアンヌを連れて行きたいと言うのだ。

  アリアンヌは息子に連れられ、見知らぬ女性のアパルトマンに行く。

  壁には幼い少年の写真が飾られている。

  どうやら、その写真は、このアパルトマンの持ち主の女性の息子、

  数年前に亡くなった息子の写真のようだ・・・。

   ※アンスティチュ・フランセ東京Webサイトより

 

ソロモンの審判(旧約聖書)をモチーフに(主人公の家にも絵が掛かっている)、

ラウル・ルイス仕込みの幻想と緊迫がいつまでも未完な不穏で突き進むエチュード。

イザベル・ユペールとジャンヌ・バリバールが独走を競う2つのコンチェルト。

それを指揮する絶対天使、息子のカミーユ。いや、ポール?

 

サスペンスの緊迫と豊潤を終始漂わせている本作は、

まるでクロード・シャブロルのような空気まで醸すことに成功している。

(イザベル・ユペール主演『Comedy of Power』という題名が頭を過ぎったからか?)

しかし、あらゆるエッヂは削ぎ落とされて、あらゆる間(あわい)が横溢し続ける。

不敵な貌はどこまでも、素敵に堕することはなく、いつでも無敵に始まる宴。

罪なき喜劇がうむ悲劇。悲劇の覚悟は、遊撃で。間隙隆起の静かな活劇。

 

貝殻が大写しになって始まる本作。

それは真実を隠す「蔽い」を意味するのか?

それとも真実を庇護する「母体」を意味するのか?

灰皿を求めている声がそこに重なるが、それは灰になった我が子の受け皿か?

 

何度か登場するカミーユが食事の際に皿を舐め回す姿。

その度に注意されるのに、彼はそれが止められない。

更についた赤いソースが血にも見え、一瞬ゾクリとさせたりもする。

もう一つ彼が止められないのが、カメラを手にしての世界との対峙。

大人たちが「当然」と処してしまう現実を、彼は自らの手と眼で再構築。

自明とは、「自」にとって本当に「明」らかか。

「他」が「明」らめたから、「自」は諦める。

ただそれだけのことかもしれない。

それを終わらせぬ、無邪気。

 

今日観た二作に共通して印象的な存在感を放つ《影》。

本作でも何度か、存在を表すために用いられる「影」があるが、

それは同時に不在の象徴かのようででもある。「光」の裏側として。

二人の母というオルタナティヴなモチーフの光明な陰影。

 

ベビーシッターのヘレンが3つの骰子をふる場面がある。

必ず「3」と「3」と「1」の目が出る。

どんな意味が隠されているのだろう。

「3」は二人の母と一人の父か?

 

一つの首に二つの頭部が載っている彫像が印象深く映される。

しばらくすると、一つの息子を二人の母が抱きしめる。

「生」きている息子を持つアリアンヌ(イザベル・ユペール)と

「死」んだ息子を持つイザベラ(ジャンンウ・バリバール)。

彼女たちは二人ではあるけれど、あり得る二つの可能性。

選択された結果として現実は一つだが、真実は常に一つではない。

「生」のみならず「死」をも引き受けようとしたイノセンス。

出産とは、生成の後に母の体内から消滅することだ。

 

◇最近では『夏時間の庭』でも僅かな出演ながら見事な存在感だったエディット・スコブ。

   本作でも僅かな時間で微かな余韻を作品に残し続けてくれている。

 

 

ファドの調べ(1993/ラウル・ルイス) Fado majeur et mineur

 

映画世界への耽溺が帰り道にまで優雅な浸食をみせることがある。

本作はまさに、そうした夢心地が現実の外界に乗り移ってしまうかのような魔力の世界。

だから或る意味「魔界」だが、それは天国でないかわり、地獄でもない別天地。

 

冒頭、橋の上の青年と少女。

こちらへ歩いてくる二人を追うカメラ。

フレームの外へ消える二人。

その道筋を引き返すカメラ。

そしてパノラマな眼差しに移行するカメラ。

淡いブルーが幾重にも編まれた不規則ストライプの地平と水平。

光と水とフィルムを知り尽くしたものだけが呈することのできる自然のデッサン。

このフィルムがフランスから届けられたことに感謝をしつつ、

このまま此処に留まっていて欲しい、そのフィルム。

 

説明不要、いや説明不可能。

夢幻と昏絶による迷宮は、心のままなマジカル・ロジカル・イロジカル。

マージナルならおまかせの、複眼主義的世界はシャッフル。

全身が溶解しては堕ちてゆくかのような禁断は美々しくも、

そのすべてが受容のもとに開かれている自由の闊達。

 

ファド(ポルトガルの民族歌謡)は、

「運命」や「宿命」を意味する語らしいのだが、

本作はまさに謡うように運命を謳う。朗らかに。

水辺から来たる運命は、水辺へ還ってゆく運命。

ラウル・ルイスに溺れる覚悟、出来ました。

 

◇本作のプロデューサーはパウロ・ブランコ。

   その名を観ただけで「安心」と「期待」と「興奮」が三つ巴。

   来週は6月の特集で見逃して涙ガブ?みの『夢の中の愛の闘い』がいよいよ観られる。

   楽しみすぎて今週寝不足になりそう・・・というのは大袈裟にも程があるが、

   そんな心配催すほど、『ファドの調べ』に魅了され過ぎた。

   まだ、心は日仏で映画を観てるかのよう。

 

 

今日観た2作はいずれも英語字幕入りのプリントだった。

勿論、完全に把握しきれていない自信はあるけど(笑)、

ラウル・ルイスの作品に関して言えば、英語字幕で観るくらいが丁度好いのかも。

だって、日本語字幕で観ても「完全に把握しきれない」のは同じな訳だし、

言語(表層)レベルで理解したとしても、深層の不可解さばかりが浮上してしまうかも。

それなら、英語字幕でエッセンシャル・キャッチングして微かな理解と戯れて、

不可解な行間に気持ちよく溺れてみるのも好いんじゃない?

『ファドの調べ』なんて途中から、何語で観てるんだか判然としなくなってきたしね。

目から英語、耳から仏語、脳は日本語・・・のはずなのに、

おそらく「僕だけのエスペラント」で捉えてた。

 

ラウル・ルイスの実験室で、エクスペリメントをエクスペリエンス。

すべての試みは、心見に通ず。頭で見ないで、心で見よう。

言葉を無化して始めよう。語ってくれる、映像が。

 


アベンジャーズ(2012/ジョス・ウィードン)

2012-09-08 22:52:20 | 映画 ア行

 

ようやく観ました。

実際、かなり楽しみでした。

『グリーン・ランタン』だけは観てないんだよなぁ・・・

なんてトボけた懸念が頭を過ぎる程度の微妙さはありながらも、

気づけば一応全作劇場観賞済ませてました、な殊勝さも。

なのに今週ようやく観ました。

これで夏が終われます。

 

ウレシー!タノシー!!ダイスキ!!!

 

とってもとってもとってもとってもとってもとっても大好きよ!

 

確かに前半はダレる(けど、あれ2回目観たら絶対興味津々なはず)ものの、

一旦スイッチ入ったらもう完全幸福ですわ!

幸せって何だっけ何だっけ?アベンジャーズを観ることさっ!

ってなくらいに、もうニヤニヤブハブハドッカーンってなわけです。

 

噂通り、いちげんさんウェルカム!なユニバーサル・デザイン(?)は、

シリーズのファンが自分なりに楽しむことをも、思う存分可能にしてくれる。

それでいて、今まで彼らを追いかけてきたファンたちの目に映る、

馴染みと新鮮の絶妙なバランス、そしてブレンド。

これぞクロスオーバー、娯楽の極上交差点。

 

内容に関してちゃんと語るに足る能力は元々ないけれど、

とにかくそれ以前に「語ろうとする」左脳が見事なまでに完全停止で、

ひたすら体感的愉しさで爆走し続ける!なんで、こんなに燃えるんだ!?

 

いくらシリーズ初見の人でも十分楽しめるからって、

そうした人がどうしてこういった「世界」にすんなり入っていき、

更に魅せられては素直に興奮必至だったりするのだろう。

そこで又、私はくだらぬ妄想にいきつくわけです。

 

こ、こ、これはまさに「多神教」的世界だ!

だから、日本人もすんなりハマり、楽しめるのでは!?

そもそも、色んな神様(どれもが個性的であり、その関係の序列化も絶対的ではない)が

日本の、あるいは日本人が好む物語には実に多いような気がする。

日本古代の神話の世界はまさにそうだが、

かつて日本中の子供たちを魅了した「ビッックリマン」の世界も同様だ。

ドリフターズだって、聖闘士星矢だって、日本の戦国時代も中国の三国志も、

AKB48だって『桐島、部活やめるってよ』だって、みんなみんな多中心で流動的。

更に、本作にはコミカル要素がふんだんに盛り込まれているが、

日本にも神を「神格化」し過ぎぬ傾向が古来よりある。

江戸時代には、あらゆる神々が遊郭に出入りするなんて話がベストセラーになったとか。

つまり、親近感のあるヒーローが、誰か一人を絶対的な中心とせずにいっぱい登場!

日本人の心理に合いすぎる!

(おまけに、東映の戦隊ヒーローものにハマった幼少期を送った世代にとっては、

  更に何とも言えないバック・トゥ・童心が待っている!)

 

そう考えると、「絶対的存在」が突出した能力や存在感を発揮して、

ヒエラルキーの頂点に孤高にそびえ立ち続けることを醍醐味とする

本来のアメコミヒーローもののストーリーテリングには馴染みにくいが故、

日本では1人のヒーローを中心に据えた従来のアメコミ映画には惹かれにくいのかも。

私は、そういう世界観が好きというわけではないけれど、勿論両方好き。

こんな「全員集合」が夢のように楽しいなんて、いつか見た夢くらい完璧だ。

 

◇ちなみに、私のなかでこれまでのシリーズ作を好きな順に並べると、

   マイティ・ソー

   インクレディブル・ハルク

   アイアンマン

   キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー

   アイアンマン2

   といった感じかな。

   上3作はどれも最高に面白かった。

   下2作は・・・睡魔との格闘まで挿入されるバトル!

   にしても、本当どのキャラも見事なまでに活かされてたなぁ。

   これを劇場観賞1回に留めておくのはもったいない。

   もっと早く観ておれば(知っておれば・・・)。

   とにかく、あと1回は観たいっ!