記憶には必ず主がいて、
その主が踏み入れることのできぬ場所(視点)から記録されることはない。
過去をふりかえる時、
写真や映像といった物質に客観的(機械的)に刻み込まれた記録には、
その当時に「気づか(け)なかった」ものを確認することができるが、
人間の脳に広がる記憶の海に浮かんでいるのは、
当時気づけたものしかないのが常だったりするのだろう。
かつては未来に過ぎなかった現在が、
記憶のなかで過去を自由にコレクト(collect/correct)することは不可能だ。
そこにあるものが、そこにおさめられたまま在るだけなのだから。
本作の主人公はしばしば、過去の記憶が頭を過ぎるが、
そのたびに回想する情景は同じもの。
そこに映っているものを別の観点から捉え直そうとしても、
撮影(記録)されたアングル(観点)を現在において変更することなど叶わない。
それでも、同じ光景が再生されるなかで、
そこに「再生」の余地が浮かみ出すこともある。
作中において、記憶の断片は断片なだけに、その照準は偏っている。
例えば、記憶のなかの母親はいつも幼き日の自分が知ってる母親だし、
父親の場合は自由になった「彼」ばかりが鮮明に甦る。
そして、かつての父が常に背中しか見せぬのは、
主人公の幼き日に伸し掛かる《不在》の表れであると同時に、
今の「彼」とは別人の残像だからかもしれない。
「正面」を向くことのできぬまま歩んできた父親の人生を、
改めて思い知らされるかのような記憶の光景。
父親にいつも背を向けられていたと感じていた幼き日の主人公。
その背きの理由を知ったうえで思い出す、父の背中。
母や自分に背を向けて、
何処かに安らぎを求め愛を注ぎしているであろうと思っていた父親は、
何処でも背を向けて生きるしかなかった「彼」だったのだ。
しかし、そんな「彼」を慈しみで包むもうとしたのが、「彼女」(母親)だった。
母親にはなることは自然でも、
「彼女」の望む眼差しで「彼」が自分を見つめることは不自然でしかなかったことを、
彼女は理解しながらも受け容れることができなかったのだろう。
愛の不在でも、愛の離反でもなく、ねじれの位置で往き交う愛。
それは嘆くべきことなのか、悔いるべきことなのか、
それともそこにも希望の萌芽を見出して、慈しめればよかったか。
過去への畏敬も未来への畏怖も、
記憶の主である自己の変容がその土台になっている気がしてならない。
いま記憶すべきものが、将来の自己が期待するものであるかどうかを、
いまの自分は知ることができない。
かつての記憶が、いまの自分に新たな価値を与えうるように浮かび上がるとは限らない。
大人になった自己は当然、子供でしかなかった自分が記憶したものに不足を感じる。
父親や母親が、「彼」や「彼女」でもあったという事実を大人になって知ったとき、
しかもそんな彼らの経験を自らがこれから追体験できるものではないと気づいたとき、
「わからなかったこと」はこれからも「わからない」ままであり、
絶対的な不可知の領域があることを知りながら、
それを窺うこともできずに対峙し続けねばならぬ日々が始まった。
遺品整理から始まる本作で、主人公が最初にとる行動は「捨てる」ということ。
今の自分の選択を、将来の自分が後悔しない保証はない。
しかし、私たちの記憶が常にその時の主観によって取捨選択された結果でしかないように、
その人の生とはあらゆる瞬間が《起点》であり、
それ以外の起点を捨てた結果であり続けるしかない。
「今の自分」を経験する自分は常に初心者で、
未来が明瞭でないことは当然であり、過去は「判例」として同じ結果を提供するだけだ。
勿論、そこに意志をはたらかせ、「描く」ことも「読む」ことも可能だが、
《記憶》にないものを生み出したり、あるものを消したりはできない。
しかし、単なるスタートではなく、そこから継続するビギンとは、
無数の起点から広がり続ける世界の物語。
だからこそ、「はじまり」に早いも遅いもない。
それは、所謂《歴史》の時間とは異なるものだ。
無数の主によって記録(記憶)される《歴史》とは、
一つの尺度(時間)を持つことで共有に耐えうるものとなる。
本作にしばしば挿入される社会的事象や流行、大統領などはその好例か。
しかし、必ず始まりと終わりをもった一個の人間の「生」なる時間では、
終始「いま、ここ」しかないのかも。
世界に刻まれた個人(いわゆる偉人)であったとしても、
彼等自身の時間はあくまで、「そのときどき」の瞬間が生起消滅を繰り返すのみだろう。
すべての瞬間が「はじめて」で、すべての瞬間は「はじまり」だ。
「ビギナーズ・ラック」の正しい翻訳は、「初心忘るべからず」であり、
初心が謙虚でいられるのは、きっと「とまどい」と「ときめき」の同居によるものだろう。
間違っても、「初志貫徹」などという不自由な拘泥の奴隷にはなってはならない。
なぜなら人生は常に、初志の集合体。
◆『50/50』の犬に続き、超絶魅惑な犬が本作の肝であることだけは、
異論がないだろう。日本における真のCM王は白戸家の「お父さん」だったりするし、
人間と犬の蜜月が《従順》賛美へ向かう社会の兆候などと穿ってはなるまいな(笑)
しかし、『ドラゴン・タトゥーの女』での気まぐれ猫の残酷な最期と対照的で、
やはり現代社会では「犬として生きる」べきなのか?
などと犬の方が好きで、犬に雰囲気似てるくせに、完全に猫メンタルな自分の焦燥。
◆犬といえば、愛しき人と離れると吠えまくるところは、何ともいじらしいが、
ギンズバーグの「吠える」に何度か触れられたりしていたので、
HOWLつながりなのかな、なんてね。(あの犬の吠え方はHOWLじゃないかな)
◆監督の実体験に基づいているというだけでなく、
恐ろしく「パーソナル」な映画になっていて、その潔さには感嘆するも、
これは受け手(観客)の価値観なり人生観に依存しながら完成する作品な気もする。
したがって、評価とか好悪とは別の次元で語られそうだ。
強いて言うなら、浸透するか否かといった印象。
ひたすら懊悩し続けるオリヴァー(ユアン・マクレガー)の内面になれるか否か。
決してオリヴァーと向き合ったり、ましてやオリヴァーに問うてはならない。
なぜなら彼の沈思黙考に自問自答は時期尚早。「問い」すら未だみつからず。
しかし、「問い」を立てることで「答え」に到達しようとしていたこと自体が誤りで、
「問い」を立てずに「答え」を探すことにしたオリヴァー。
その静寂の葛藤は、『50/50』の主人公とも重なった。
普通や平凡を「しっかり演じられる」役者としては、
ジョゼフ・ゴードン=レヴィットは、ユアン・マクレガーの後継者な気もするし。
◆オリヴァーの母が、“ I fix that ” と言って父親にプロポーズしたという切なさ。
彼女はおそらく、自らのアイデンティティ・クライシスとダブらせていたのかもしれないが、
ユダヤ人というアイデンティティは、選択の余地もなければ自然として前提にあるもの。
しかし、ゲイというアイデンティティは自覚と告白の間に絶え間ない葛藤と選択があり、
社会にとっての「FIX」は、自らの「自然」を欠陥として隠蔽する不自然を意味する。
その苦しさは、『サラの鍵』におけるサラの晩年の苦悶には通ずるかもしれないが、
やはり社会の変容によって救われも助長されもするだろう。
しかし、社会は必ずしも自分だけを囲んでいるものではない。
自分と関わる人間との関係性にも社会の眼は常に向いている。
社会の眼に包囲されて生きる人間である以上、自己責任だけでは済まされぬ。
『ミルク』で語られたクローゼットのリアリティ(ジェームズ・フランコの役だったかな)
に通ずる真実を、本作は丹念に語ろうとしているように思えた。
◆父親(クリストファー・プラマー)がずっと妻子に愛を注げなかったのは、
せめてもの「均衡」を保っていたからなのかもしれない。
おそらく、彼が妻子に隠れてゲイライフでも送っていたならば、
臆面もなく善き夫や善き父親を演じられもしただろう。
外で発散している分、内では思いっきり偽れる。
しかし、発散の場をもてぬ父親に、積極的に偽る余裕も甲斐性もなかっただろう。
いや、もしかしたら、あれがせめてもの、最大限の誠実だったのかもしれぬ。
記憶のなかの光景を改変できずとも、光景のもつ意味は変わったのかもしれない。
◇アナ役のメラニー・ロランが必要以上に美しく、執拗に魅力を放出し続けるのは、
観客がオリヴァーと共に「惚れる立場」になってくれることを期待してかもしれないが、
あそこまでの女性を前にして然程舞い上がっていないのはややリアリティ不足かも(笑)
彼女なら、父親だって「FIX」されてたかも(冗談)
◇クリストファー・プラマーが『ドラゴン・タトゥーの女』に出てるのは周知だが、
本作で恋人役(アンディ)のゴラン・ヴィシュニックも出ているとは気づかなかった・・・
リスベットを雇っていたセキュリティ会社のCEOが彼だったのだ。
気づけたら勝手に独り盛り上がれてたのに、という敗北感(笑)