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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

人生はビギナーズ(2010/マイク・ミルズ)

2012-02-15 21:46:42 | 映画 サ行

 

記憶には必ず主がいて、

その主が踏み入れることのできぬ場所(視点)から記録されることはない。

過去をふりかえる時、

写真や映像といった物質に客観的(機械的)に刻み込まれた記録には、

その当時に「気づか(け)なかった」ものを確認することができるが、

人間の脳に広がる記憶の海に浮かんでいるのは、

当時気づけたものしかないのが常だったりするのだろう。

かつては未来に過ぎなかった現在が、

記憶のなかで過去を自由にコレクト(collect/correct)することは不可能だ。

そこにあるものが、そこにおさめられたまま在るだけなのだから。

 

本作の主人公はしばしば、過去の記憶が頭を過ぎるが、

そのたびに回想する情景は同じもの。

そこに映っているものを別の観点から捉え直そうとしても、

撮影(記録)されたアングル(観点)を現在において変更することなど叶わない。

それでも、同じ光景が再生されるなかで、

そこに「再生」の余地が浮かみ出すこともある。

 

作中において、記憶の断片は断片なだけに、その照準は偏っている。

例えば、記憶のなかの母親はいつも幼き日の自分が知ってる母親だし、

父親の場合は自由になった「彼」ばかりが鮮明に甦る。

そして、かつての父が常に背中しか見せぬのは、

主人公の幼き日に伸し掛かる《不在》の表れであると同時に、

今の「彼」とは別人の残像だからかもしれない。

「正面」を向くことのできぬまま歩んできた父親の人生を、

改めて思い知らされるかのような記憶の光景。

父親にいつも背を向けられていたと感じていた幼き日の主人公。

その背きの理由を知ったうえで思い出す、父の背中。

母や自分に背を向けて、

何処かに安らぎを求め愛を注ぎしているであろうと思っていた父親は、

何処でも背を向けて生きるしかなかった「彼」だったのだ。

しかし、そんな「彼」を慈しみで包むもうとしたのが、「彼女」(母親)だった。

母親にはなることは自然でも、

「彼女」の望む眼差しで「彼」が自分を見つめることは不自然でしかなかったことを、

彼女は理解しながらも受け容れることができなかったのだろう。

愛の不在でも、愛の離反でもなく、ねじれの位置で往き交う愛。

それは嘆くべきことなのか、悔いるべきことなのか、

それともそこにも希望の萌芽を見出して、慈しめればよかったか。

 

過去への畏敬も未来への畏怖も、

記憶の主である自己の変容がその土台になっている気がしてならない。

いま記憶すべきものが、将来の自己が期待するものであるかどうかを、

いまの自分は知ることができない。

かつての記憶が、いまの自分に新たな価値を与えうるように浮かび上がるとは限らない。

大人になった自己は当然、子供でしかなかった自分が記憶したものに不足を感じる。

父親や母親が、「彼」や「彼女」でもあったという事実を大人になって知ったとき、

しかもそんな彼らの経験を自らがこれから追体験できるものではないと気づいたとき、

「わからなかったこと」はこれからも「わからない」ままであり、

絶対的な不可知の領域があることを知りながら、

それを窺うこともできずに対峙し続けねばならぬ日々が始まった。

 

遺品整理から始まる本作で、主人公が最初にとる行動は「捨てる」ということ。

今の自分の選択を、将来の自分が後悔しない保証はない。

しかし、私たちの記憶が常にその時の主観によって取捨選択された結果でしかないように、

その人の生とはあらゆる瞬間が《起点》であり、

それ以外の起点を捨てた結果であり続けるしかない。

「今の自分」を経験する自分は常に初心者で、

未来が明瞭でないことは当然であり、過去は「判例」として同じ結果を提供するだけだ。

勿論、そこに意志をはたらかせ、「描く」ことも「読む」ことも可能だが、

《記憶》にないものを生み出したり、あるものを消したりはできない。

しかし、単なるスタートではなく、そこから継続するビギンとは、

無数の起点から広がり続ける世界の物語。

だからこそ、「はじまり」に早いも遅いもない。

それは、所謂《歴史》の時間とは異なるものだ。

無数の主によって記録(記憶)される《歴史》とは、

一つの尺度(時間)を持つことで共有に耐えうるものとなる。

本作にしばしば挿入される社会的事象や流行、大統領などはその好例か。

しかし、必ず始まりと終わりをもった一個の人間の「生」なる時間では、

終始「いま、ここ」しかないのかも。

世界に刻まれた個人(いわゆる偉人)であったとしても、

彼等自身の時間はあくまで、「そのときどき」の瞬間が生起消滅を繰り返すのみだろう。

 

すべての瞬間が「はじめて」で、すべての瞬間は「はじまり」だ。

「ビギナーズ・ラック」の正しい翻訳は、「初心忘るべからず」であり、

初心が謙虚でいられるのは、きっと「とまどい」と「ときめき」の同居によるものだろう。

間違っても、「初志貫徹」などという不自由な拘泥の奴隷にはなってはならない。

なぜなら人生は常に、初志の集合体。

 

 

◆『50/50』の犬に続き、超絶魅惑な犬が本作の肝であることだけは、

   異論がないだろう。日本における真のCM王は白戸家の「お父さん」だったりするし、

   人間と犬の蜜月が《従順》賛美へ向かう社会の兆候などと穿ってはなるまいな(笑)

   しかし、『ドラゴン・タトゥーの女』での気まぐれ猫の残酷な最期と対照的で、

   やはり現代社会では「犬として生きる」べきなのか?

   などと犬の方が好きで、犬に雰囲気似てるくせに、完全に猫メンタルな自分の焦燥。

 

◆犬といえば、愛しき人と離れると吠えまくるところは、何ともいじらしいが、

   ギンズバーグの「吠える」に何度か触れられたりしていたので、

   HOWLつながりなのかな、なんてね。(あの犬の吠え方はHOWLじゃないかな)

 

◆監督の実体験に基づいているというだけでなく、

   恐ろしく「パーソナル」な映画になっていて、その潔さには感嘆するも、

   これは受け手(観客)の価値観なり人生観に依存しながら完成する作品な気もする。

   したがって、評価とか好悪とは別の次元で語られそうだ。

   強いて言うなら、浸透するか否かといった印象。

   ひたすら懊悩し続けるオリヴァー(ユアン・マクレガー)の内面になれるか否か。

   決してオリヴァーと向き合ったり、ましてやオリヴァーに問うてはならない。

   なぜなら彼の沈思黙考に自問自答は時期尚早。「問い」すら未だみつからず。

   しかし、「問い」を立てることで「答え」に到達しようとしていたこと自体が誤りで、

   「問い」を立てずに「答え」を探すことにしたオリヴァー。

   その静寂の葛藤は、『50/50』の主人公とも重なった。

   普通や平凡を「しっかり演じられる」役者としては、

   ジョゼフ・ゴードン=レヴィットは、ユアン・マクレガーの後継者な気もするし。

 

◆オリヴァーの母が、“ I fix that ” と言って父親にプロポーズしたという切なさ。

   彼女はおそらく、自らのアイデンティティ・クライシスとダブらせていたのかもしれないが、

   ユダヤ人というアイデンティティは、選択の余地もなければ自然として前提にあるもの。

   しかし、ゲイというアイデンティティは自覚と告白の間に絶え間ない葛藤と選択があり、

   社会にとっての「FIX」は、自らの「自然」を欠陥として隠蔽する不自然を意味する。

   その苦しさは、『サラの鍵』におけるサラの晩年の苦悶には通ずるかもしれないが、

   やはり社会の変容によって救われも助長されもするだろう。

   しかし、社会は必ずしも自分だけを囲んでいるものではない。

   自分と関わる人間との関係性にも社会の眼は常に向いている。

   社会の眼に包囲されて生きる人間である以上、自己責任だけでは済まされぬ。

   『ミルク』で語られたクローゼットのリアリティ(ジェームズ・フランコの役だったかな)

   に通ずる真実を、本作は丹念に語ろうとしているように思えた。

 

◆父親(クリストファー・プラマー)がずっと妻子に愛を注げなかったのは、

   せめてもの「均衡」を保っていたからなのかもしれない。

   おそらく、彼が妻子に隠れてゲイライフでも送っていたならば、

   臆面もなく善き夫や善き父親を演じられもしただろう。

   外で発散している分、内では思いっきり偽れる。

   しかし、発散の場をもてぬ父親に、積極的に偽る余裕も甲斐性もなかっただろう。

   いや、もしかしたら、あれがせめてもの、最大限の誠実だったのかもしれぬ。

   記憶のなかの光景を改変できずとも、光景のもつ意味は変わったのかもしれない。

 

◇アナ役のメラニー・ロランが必要以上に美しく、執拗に魅力を放出し続けるのは、

   観客がオリヴァーと共に「惚れる立場」になってくれることを期待してかもしれないが、

   あそこまでの女性を前にして然程舞い上がっていないのはややリアリティ不足かも(笑)

   彼女なら、父親だって「FIX」されてたかも(冗談)

 

◇クリストファー・プラマーが『ドラゴン・タトゥーの女』に出てるのは周知だが、

   本作で恋人役(アンディ)のゴラン・ヴィシュニックも出ているとは気づかなかった・・・

   リスベットを雇っていたセキュリティ会社のCEOが彼だったのだ。

   気づけたら勝手に独り盛り上がれてたのに、という敗北感(笑)

 

 


トーキョーノーザンライツフェスティバル2012 (1)

2012-02-14 00:45:44 | 2012 映画祭(その他)

 

ユーロスペースにて昨年に引き続き開催されている「北欧映画の1週間」。

初日および二日目と満席お立見続出のようで、相当な盛況ぶり。

作品も多様なラインナップだし、この寒い冬に北欧って響きは馨しく、今年も参加。

 

映画祭(って表現が見当たらないのは、意識的なのかな?)の

オープニングを飾った『シンプル・シモン』は、

昨年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で観てかなり気に入ったので

(輸入盤[ブルーレイ]まで買ってしまった・・・)

今回の映画祭でも観に行きたかったものの、悉く予定が合わず断念。

しかし、興味をそそられる(そして、これを逃すと銀幕観賞困難そうな)作品多数だし、

時間のある限り足を運んでみたいとは思ってます。

 

まずは、今回の目玉特集でもあるフリドリック・トール・フリドリクソン特集から2本。

マンマ・ゴーゴーは、監督自身の母がアルツハイマーを発症したという経験に基づく。

安易な「劇」的要素は排し、淡々と「壊れゆく」姿を見守る眼差しが、余計につらい。

全体のトーンは決して重くないため、どこかファンタジーであるような錯覚も過ぎる。

しかし、その感覚こそが、(とりわけ男が)そうした状況下で求める現実逃避なのかも。

だからこそ、トイレで母親にオムツを履かせる光景が放つ現実感は途方もない。

しかし、その直前に息子が吐露した母への感謝。

それを聞いていた観客の目には、その姿が苦痛や苦悩だけに映るまい。

無償の愛の円環。

それは時に残酷だが、どんな苛酷も超克しうる母の愛こそが、

残酷さに目もくれずに慈愛を全うすることだけに心を注いでいたことを、

息子は微かに感じとったかもしれない、聖しこの夜。

 

決して乾いているわけではないが、

湿度をすべて飛ばしたかのような最新作とは対照的に、

奥行ある感傷が全篇を覆っているかのような、春にして君を想う

その存在を(オザケンのシングルで(笑))知って以来、14年越し悲願の観賞。

 

原題(英題)は、『Children of Nature』というらしい。観てみれば、大納得。

《自然》から感受したあらゆる記憶を胸に、《自然》へと還ってゆく「子供」たち。

老年の美しさとは、《自然》を忘れて《社会》を知り、汚れた後に来る《無垢》なのだろう。

 

冒頭、どこまでも続きそうな沈黙を破るのは、タクシードライバー。

言葉を弄するよりも、沈黙の背後から浮かび上がってくる記憶による会話。

沈黙に映える自然のグラデーションと、違和が融和に転ずる80年代的シンセなスコア。

確かに唯一無二な世界が展開する不思議な旅路。

ラストの天使など、現実の幻想が幻想の現実にスライドしてくるミクスチャー。

そしてやはり、どんなに傷だらけでもフィルムで観る画の豊かさに、

人はまだまだ惹きつけられるものだという実感。

いや、むしろ、その「傷」にこそ刻まれる《時間》が映画にとっては一つの記憶。

 

そして、そんな地道に地味滋味をしみじみ味わって、

ほんわかしっとりな一日を終えれば好かったものの、

勢いで選択したラストの作品が、見事に余韻を無化してしまう・・・

 

 

ラップランド・オデッセイは、何でも2010年のフィンランド映画最大のヒット作だとか。

基本的にコメディなので、これはもう笑えるか笑えないかの二者択一というか、

感覚とか趣味とかの問題でしかないのかもしれません。

 

ただ、映画祭ウケの好い作品とか、ユニヴァーサル仕様な感情喚起作などとは異なり、

今回のような地域限定映画祭ならではのチョイスとしては、有意義な本作。

昨年、角川シネマ有楽町で開催された「フィンランド映画祭2011」でも上映され、

そのときには監督も来日しており、当時も食指は一旦動くも即失念。気づけば終了。

監督のインタビューは興味深く、そういった内容踏まえると少しは見方変わるかも。

だが・・・

 

個人的には全く笑えず、画面に映り続ける雪景色並に寒々とした心境に終始。

どこの国でもハリウッド映画の亜流(劣化版)が国内ヒットにつながるのだなぁ~とか、

『ハングオーバー』って本当よく出来てたんだなぁ~とか(何度目かの)確認してみたり、

ってことは無暗に裸をつかって笑わせようとしても「寒い」だけだよなぁ~って痛感したり、

タランティーノっぽい音楽の載せ方ってもはや一つの文化なんだなぁ~って認識したり、

とにかく余計なところばかりに思考の行方が・・・

 

監督のインタビューを読むと違った解釈に基づくみたいなんだけど、俺としては、

デジタルチューナーを求め、それを手に入れるハッピーエンドを目指す本作は、

どう考えても「映画の敵」(笑)。テレビに魂、売るんじゃねぇっ!とか頑固オヤジ気分。

ただ、日本(映画)と同じような宿命は万国共通なのかもね。

フランス映画におけるテレビ業界の幅利かせ様もハンパないみたいだし。

 

地デジ化がもっと裏テーマ的にあったりするのかと思いきや、

そのあたりは全くスルーだし、そこらへんに開眼必至な斬新展開が望めたら、

単なるドタバタだけじゃない味わいも得られたような気がするけれど、

まぁいくら北欧だからってコメディくらいドリフで終わりたい!?

 

でも、チラシの紹介文のように「成長する男たち」なんてどこにも見当たらず、

かといって「成長しねぇ~なぁ~」って爽快な諦念が吹き抜けるわけでもないし、

だもんだから、ロードムービーなのに《移動》や《経過》の醍醐味が皆無。

 

ただね。

コメディを字幕で(しかも、音的にも全く知らない言語で)観るっていうのは、

ハードル高すぎだわ、やっぱり。

フィンランド語の響きに《笑い》エッセンス見出すの、

自分にはまだまだ無理そうで。

おまけに、最低最悪な字幕。あれ、昨年のフィンランド映画祭からの流用なのか?

誤字だらけ(気づいただけでも5つ程あった)な上に、

言葉遣いにしたって自動翻訳に毛が生えた程度。

まぁ、字幕のフォントが「スタジオ・カナル・コレクション(例えばコレ)」のそれに

似てた(同じ?)から余計そう感じたっていうのもあるかもしれないけど、

映画館で観た劣悪字幕では、昨年のラテンビートで観たアルモドバル新作並。

ちなみに、(本当細かく五月蝿い奴でごめんなさいだが)

『マンマ・ゴーゴー』の字幕は内容よりもレイアウト(?)にやや難ありだった。

二行になるときの行間が狭すぎるのに、字間は余裕があったりするので、

二行になっている時には読みづらい。

これは制作時の設定でいくらでも変えられただろうから、

次回からは改善(というか、試写段階とかで確認・修正)して欲しいかな。

 

  ※ちなみに、前述の「スタジオ・カナル・コレクション」のブルーレイ・シリーズが、

      廉価版(実売1500円程度)で再発される!!(字幕があのままなら糠喜びだが)

 

小規模な映画祭の場合、

字幕はボランティア・スタッフによって制作されることがしばしばなようで、

なかには「巧いなぁ」とか「自然だぁ」とか上から目線で高評価なものがある一方、

やっぱりプロにはプロの技術があるということを再認識させられることもある。

そういった意味では、一般公開作の「ありがたみ」まで噛みしめつつ、

当然、このような映画祭の醍醐味も堪能できるわけで、

やっぱり魅惑のインディペンデント映画祭。

 

まだ見ぬ運命の作品に、期待をふくらませ、

今週は渋谷へ通うかな。

 

 


J・エドガー(2011/クリント・イーストウッド)

2012-02-11 18:47:43 | 映画 サ行

 

開巻と同時に映し出される仮面。

それは、ジョン・デリンジャーのデスマスク。

FBIが彼に冠した名は、「Public Enemy No.1」。

しかし、その呼称には憧憬の倍音すらともなっていた時代。

パブリックの無力を歎じ、パブリックの脅威にこそ希望を見出そうとした時代。

それは、確かにアメリカ自身における《国民国家》の危機であり、

近代の機構が存続繁栄するか衰退滅却するかの分岐点に

さしかかっていたのだろうとも思う。

 

そうした関係の転覆を謀ったのが本作の主人公、ジョン・エドガー・フーヴァー。

FBI長官としての偉業を披露したり謀略を暴いたりする伝記映画とは異なる本作。

かといって、「人間」エドガーの内面をえぐるように掘り下げる感傷や干渉はない。

いや、そうした真相や実相に迫ることなどできない、するべきでない対象として描かれる。

オープニングの仮面はまさに、そうした表明であるように思われる。

 

英雄視された強盗たち。《義賊》というアンチノミーも、見方ごとでは一律オンリー。

つまり、民衆からみればヒーローで、国家にすればエネミーだ。

しかし、それでは民衆が《国民》になりはせず、二者の溝渠は増幅するばかり。

団結の手っ取り早い「鎹(かすがい)」は、共通の敵。排除と差別の暴力だ。

財貨の強奪のみならまだしも、大衆の心まで略奪しようとする「民衆の敵」。

彼らが名実共に民衆の敵となったなら、国民の敵として無差別に殲滅可能となるだろう。

マスメディアの成長と通信技術の進歩がもたらした、大衆社会の主導権争い。

科学の力(それ自身が内包する力のみならず、民衆を動かす確実性こそ重視)と

狂信的愛国心(成就が許されぬ自我の抑圧と、解放の捌け口としての昇華)で、

攻撃未遂のまま徹底的防御による不戦勝を続けてきたミスター・FBI。ミスターUSA?

冷戦時代の構造は、アメリカ国内でこそ培養された勢力均衡持続のメカニズム。

しかし、それは単に組織や国家のために醸成された「からくり」などでは決してない。

例えばそれは、フーヴァー長官という英雄が、J.エドガーという狂気を抑制し、

解放も暴発も回避するために必死だった悲劇的な喜劇に過ぎなかったのかもしれない。

 

本能のままに「常軌」を逸したデリンジャーは、大衆に許容され、賞賛すら浴びもした。

本能を拘束し「常軌」を死守したエドガーは、その異状が許せなかった。

同じ《異常》でも、賞賛に転化し得る強者への反抗と強奪といったヒロイズムと

徹頭徹尾共有の寄る辺なき個人の情動(やセクシュアリティ)では、

明瞭かつ絶対的な差異がある。

後者は暴力を伴わず、脅威をもたらすわけでもないのにだ。

それでも大衆にとってコモンセンスの逸脱は、受け皿がないという「正当」な理由から

《拒絶》のカテゴリーへと即刻放り込まれてしまって、終うだけ。

 

エドガーの輝かしい実績は、暗部を駆逐することで達成されただろう。

しかし、それは自らの「暗部」をも隠蔽し、「栄光」まみれになることだった。

外から見えなければ、内なる自己も見ずにすむ。それで事は済むのだろうか。

内なる衝動が理由なく向かう先に貼られた《異常》のレッテルを剥がそうとはせず、

貼られぬことにばかり躍起となった。そのかわり、自らの手で貼りまくる。

あるいは、貼ろうとしているレッテルをちらつかせ、脅迫による不戦勝。

そうやって「イメージ」の管理人として君臨し続けることをどんなに推し進めても、

自らの「イメージ」は《自我》を潤すことなく、脅かし続けるだけだった。

しかし、それはすべてフーバーが選んだ道だった。

J.エドガーが歩みたかった道とは合流することない、ルートUSA。

手をつなぐことなき孤独な旅人は、その掌を汚さない。

どんなに手を汚して「正義」を死守しても、求める「汚れ」は手に出来ない。

汚れちまった悲しみさえも、歎じることのできぬ人。

望まぬ汚れに身を纏い、望んだ汚れに包(くる)まれない。

星条旗との心中は、自由との添い寝じゃないだろう。

 

 

◆本作におけるエドガーとクライドの関係を

   「同性愛」といったカテゴリーの語彙で定義することには違和感をおぼえる。

   私は本作がそういう区別や分類の圧力に抗い続けているように思えるからだ。

   愛の対象を異性か同性かの二者択一に落し込み、

   情動を理性の管理下に置こうとする、《愛》を定義したい衝動への抵抗。

   二人の関係が「どのようなものだったのか」は作中であまり示されないが、

   それは行間を多分に残すのみならず、愛の形式から実質を定義する思考の回避では?

   異性愛であろうが同性愛であろうが、《愛》の実質も形式も千差万別なはずであり、

   その証拠に、異性愛のラブストーリーは「異性愛モノ」などと呼ばれることはない。

   「J.エドガー」という素性が(大衆にとって)判然としない《個人》を扱うからこそ、

   色分けから入らず、単純な色分けを忌避する筆致で脚本は書かれ、演出がなされた。

   同性愛者の物語などでは決してなく、人間の物語であり、個人の物語である。

   「0」と「1」の間には無限の固有性が溢れ、現実の人間に「0」や「1」はありえない。

   エドガー本人ですら割り切れず、《整数》になれなかったであろう存在なのに、

   明白な解釈や判断を忍ばせた表現など誠実でない。だからこそ、本作は「正しい」。

   それなのに、その宙吊りを解消すべく無理矢理引きずりおろすのは無粋で横暴。

   ただ、《小数点》を最も偏執的に排除しようとした人物こそが、

   本作の主人公であるという皮肉。

   二律背反を微塵も許さぬ思考は、究極の純粋を求め続けるなかで、

   高潔を目指して高慢に身をやつす「仮面の男」。

 

◆本作を観るにあたって、少しばかり「予習」をして臨んだ。

   マルク・デュガン『FBIフーバー長官の呪い』(文春文庫)を一読してから本作を観た。

   他にも興味深いフーバー本は出ているようだが、この本もなかなか読み応えがあった。

   (何よりアメリカの現代史の好い勉強になった。個人の視点から語られる「歴史」なので、

    既知の情報に新たな視座が得られたり、再構築によって全体像がより鮮明になったり。)

   なかでもエドガー個人の内面について窺い知ることができるような場面が出てくる。

   エドガーが精神科医に相談しにいくところだ。女性に関する質問を受けエドガーは、

   「俺には理想の女性像があり、その理想の女性が

    俺の中で非常に高い位置を占めているのだ。

    だから、どうしても女性は清らかで高潔でなければならないと考えてしまう」と語る。

   そして、二度ほど「理想の女性」と巡り会ったが肉体関係には発展しなかった、と。

   それは、「あまりにも強かった清らかなイメージを汚したくなかった」からだという。

   数週間に渡るカウンセリングの末、精神科医は

   「内的衝動と堅固な道徳観とが衝突して、文理の苦痛を伴う或る種の二重人格化」

   という診断を下し、「女性の神聖化のすぐ隣に同性愛に向かう強い衝動」があると言う。

   それに強い反発を示したエドガーはカウンセリングを数週間中断するが、

   その後もカウンセリングは死の直前まで続けられたという。

   カウンセリング内容は、結論よりもそこに至るロジックにドラマがある。

   つまり、エドガーは自らの内面においても究極の警察者だったのだ。

   社会が「正常」とみなさぬ情動は徹底的に排除しようと努める、自己の理性。

   その行為は、自らの外部における行動指針(FBIの方針)とリンクする。

   そして、そうした行為が社会的に評価をされればされるほど、

   自らの内部における闘い(というよりも情動の抑圧)は正当化され得るのだろう。

   「二重人格化」の様相を呈して分裂へ向かうと同時に、

   重なり合う《外》の顔と《内》の顔。仮面なのか、素顔なのか。

 

◆最初に観たとき、反感に近い違和感でしか視られなかった三人の老けメイク。

   しかし、あれこそまさに「仮面」なのではないかという個人的見解から観直してみると、

   視覚的な違和感は見事に消え去って、むしろその奇怪さこそが、

   彼らの本心を蔽う哀しき矜持として胸を締めつける。

   エドガーもクライドもヘレンも、三者三様の仮面で世を渡る。

   しかし、演ずれば演ずるほど、抑えれば抑えるほど、面の皮は厚くなる・・・

   それは外から見れば不遜な自我の表出と捉えられるかもしれないが、

   内なる自我の十全な隠蔽のために不可欠な「壁」だったのだ。

   そして、誰よりも完璧な要塞を築き続けたエドガーはいつしか

   醜いまでに肉厚な身体に。肥大化する腹蔵が、惨めに晒される死の場面。

   最後まで「隠蔽」し続けた自我の存在を、期せずして最後の最後に愛する者に曝け出す。

   そして、それを受けとめたクライドは優しく、再び蔽ってあげる。

   エドガーを愛して止まぬ自分を認めつつも、フーバーとしても慕い尊敬するクライドだから。 

 

◆本作が「変な映画」であることに異論はないが(私もそう思う)、

   その奇妙な感触は、本作でイーストウッドが描きたかったであろうテーマに基づくだろう。

   私の解釈では、それは前述の通り、《仮面》で告白することから派生するのみならず、

   分裂と統御が拮抗維持され続けるエドガーの精神を象徴するかに思えてならない。

   時間の錯雑とした飛躍は、服装・調度(物質)などにいくら時代が刻印されようが

   同一平面で機械的にプレスされるような、どこまでもフラットな語り口。

   散乱するカオスが強力な一律によって強制収斂に遭う事象たち。

   ロジカルなバッハの旋律に躍動したエドガーは、

   リリカルなイーストウッドの調べに戦慄すら覚えだす。

   それでもいつでも現実をフラットに保とうとする。

   しかし、本作の画の主役であるのは間違いなく「闇」だと思う。

   底知れぬ深度をたたえる闇で埋め尽くされた黒い画は、

   懐疑や逡巡を吸い尽くすかのようなブラックホール、いやブラックスボックス。

   しかし、光の美しさを「見る」ことができるのも、闇のなか。

   徹底的に闇の画で迫る本作は、どこまでも光を求めた物語だとも言えるだろう。

 

◇本作を私は三日と空かずに二度観てしまった。

   一度目では圧倒されるばかりで、思考が全くままならず、

   掬っても掬っても何ら残らぬほどの戸惑いのなかで観続けた。

   しかし、帰途につくや広がる記憶の海に、回収しきれぬ情念の残骸が。

   慌てて二度目を観に行くと、そこには無愛想に変わらぬ表情をした本作が、

   全く異なる物語を展開してくれていた。これほど不思議な感覚も珍しい。

   そして、私のなかには「未だ本作を読めていない」感覚が巣食ってる。

 

◇一度目の観賞はデジタル上映。

   闇がおおう画の美しさに、どうしてもフィルムで観たくなり、二度目はフィルム上映。

   全く異なる印象。デジタルでの《拒絶》の画、フィルムにおける《吸引》の画。

   デジタル化が本格化したその年に、フィルムを信じる確信犯。

   そんなところにも、本作が擁護と否定の二極に引き裂かれる運命があったのかも。

 

 


東京プレイボーイクラブ(2011/奥田庸介)

2012-02-07 23:48:50 | 映画 タ行

 

とても乱暴な分け方をしてみる。

映画には小説的アプローチと漫画的アプローチがあるとする。

前者は、映像が具に内面(心情)を語らんとする映画だし、

後者は、映像における形象や運動といった外面性に内面が浮かび上がってくる。

モノローグ、口語表現が概念装置化したり文語的表現が混入する前者。

ダイアローグのリズムやテンポによって「世界」が出現する後者。

しかし、いずれの場合においても重要なのは《物語》なのではないかと私は思う。

確かなプロットや魅惑の展開を望む、というわけではない。

おおよそ筋らしきものの存在しないかにみえる映画にも存在しうる《物語》。

 

私が映画における《物語》に期待したい要素は二つ。

まずは、《時間》が在る/流れていること。

映画は時間と運命共同体であるというよりも、時間そのものともいえる。

従って、私たちの日常から切り取られたその時間が活きなければならない。

そのためには、成長するにしろ変化するにしろ展開するにしろ、

あるいは停滞するにしろ後退するにしろ、必然的な《時間》を期待したい。

 

それから、「物のあはれ」のようなものも不可欠に思う。

つまり、体感的な興奮とは別の精神的な躍動や刺激や葛藤だ。

「どきどき」や「わくわく」ばかりじゃなく、「しみじみ」や「じわじわ」だっていい。

当然、「そわそわ」や「はらはら」もあるだろうし、「いらいら」や「むらむら」だってある。

しかし、それは視覚的刺激に起因する盛り上がりとは別ルートでもたらされるべきで、

作品との抱擁であり衝突であり、ひたすらな対峙かもしれない。

 

私にとって映画を観るとは、

共に同じ《時間》を共有し、《闇》(心の奥)に分け入ることだ。

そして、劇場という空間でその行為がなされるとき、第三者(他の観客)も加わり、

《時間》 も 《闇》 も増幅してゆくだろう。しかし、まずは君(映画)と僕から始めなきゃ。

 

本作においては、そのような私の求める映画体験の要素が悉く抜け落ちていた。

そこに《時間》はなく、あるのは選曲によってお膳立てされた楽曲の長さであり、

それを埋めるための画の連なり。シークエンスの継起はなく、計算による順列。

優れたショートコントはそれ自体が短篇として完結した《物語》をもっている。

それを数珠つなぎしただけじゃ、糸が切れればバラけてしまう断絶潜在ファイナルカット。

映画の描写および編集がもたらす《省略》や《結合》は、「ないもの」を見せるため。

そして、徹頭徹尾「具体的」である映画の最大の弱点が「見える」ことである以上、

「見えないもの」を見せなければ、その弱みが強みに転化することもない。

 

本作の見えている部分に関しては、

確かに新人(しかも24歳という若さ)とは思えぬ手堅い巧さを感じさせてくれていた。

昨今の日本映画にありがちな独り善がり(あるいは楽屋落ち的)な興醒めもなく、

むしろ映画から学んだスキルがふんだんに盛り込まれていることには会心。

しかし、そこから「奥」に入っていけない。「奥」へと牽引するものがない。

感情を移入したり同調させずとも、殴りかかりたくなるようなものすらない。

未熟ならば、そうした不足が行間となって前のめりにさせもするだろうが、

如才なき気鋭の新星による統率は隈なく行き届き、十二分な「完成」度。

ただ、それはあくまで見えてる部分のお話。

「漫画」としての完璧さは確かにある。

 

ところが、実際の漫画の場合、抽象化された画と音声化されない台詞のために、

読者が補完することによって生まれる《行間》が確実に存在し、

《物語》に奥行きが生まれる。

(勿論、何ら企図なくそれが可能になる訳ではないが)

映画の場合は、見えるものも聞こえるものも既に具体そのもので、

翻案不要で改変しがたい現実が呈示され続けてる。

だからこそ、積極的に「見せない」ことが求められ、「見えない」ことが刺激を与える。

そこに(描いていないのに)描かれている《内面》が画面の背後につきまとう。

しかし、本作では登場人物の誰一人として形や音や動きの向こう側が見えてこない。

肝心なところは唐突に台詞で語らせてしまったりするくせにだ。

 

ダメな人間の可笑しみとは、連綿と続くダメさや肯定に落ち着くダメさには生まれ得ない。

まして、開き直ったダメさなどひたすら痛々しい。

監督が語るように、それも或る意味「正直」かもしれない。

しかし、人間の或る側面のみをカリカチュアライズしていけば、

二者択一なフローチャートが続くだけ。

《物語》をもたず記号的に布置された人物たちの暴走は、

ドラマチックではあれどドラマではない。

 

監督は、「生きるとは理屈ではないと思う」と語っている。

確かに、「生きている」という事実は必ずしも理屈に拠らず、理屈で語り尽くせない。

しかし、それはあらゆる生命体にあてはまる現象に過ぎず、

そうした事実に《言い訳》を求めては無力にうちひしがれる営みこそが、

《真実》に迫ろうとする(決して到達はせずとも/しても瞬く間に去ろうとも)自負だ。

 

本作に出てくる人物たちの葛藤は、

いずれも「悩んでるフリ」もしくは「悩んでるごっこ」といった印象を受けてしまう。

苦しみや哀しみまでもがファッション化する時代なのだろうか。

漫画にだって真に迫る苦悩や葛藤が描かれる。小説とは異なる手法によって。

徹底的な表層化に走る作家ほど、感情に還ることを忘れない。

カメラの動きや構図そのもののに意味を担わせる訳ではない。

すべてはエモーションから始まっているからなんだろう。

本作の画モーションはなかなかだ。言葉を持たぬ画だけれど。

 

 

◆冒頭の寸劇は面白く観た。

   ストレスフルで寛容を欠いた偏狭な現代人を風刺するかのような一幕で、

   それをかわして受容する矛盾が現状の持続しか意味しない滑稽を爽快に・・・

   と思った矢先に、一撃。放置。そっか、「面白い」ための道具なんだね、感情は。

 

◆いわゆる「サンプリング」的な要素が散見できる本作。

   しかし、サンプリングというよりもむしろ、ザッピングといった印象に終始した後半。

   ただ、それが退屈回避な時間の過ごし方として機能はしている。

   そうした感覚が新世代ってやつなのだろうか。

 

◆電車に対する偏愛には賛同する(笑)

   電車待ちして撮ったであろう数々のシーンは観ていて楽しい。

   そういう「こだわり」は新人ながら天晴と素直に思う。

   自作を俯瞰してとらえる観点もあるのではないかと思う。

   (見事に《娯楽》として成立している種々のシークエンスが物語る。)

   ただし、それが故に筋が一本通っていない気がしないでもない。

   その筋とは「映像」だとか「笑い」だとかに生まれるものではなく、

   やっぱり「語りたいこと」に自ずと宿るものだと思う。

 

◇ユーロスペースで今まで経験したことないような爆音上映。

   これは監督からの注文だったりするのだろうか。ユーロだから些か違和感。

   しかも、私の観た回では半数強が中高年。彼らは大丈夫だったのだろうか?(笑)

   まぁ、要所要所で会話もかましてくださりながら、楽しんでいらっしゃったようだし・・・

   ちなみに、私の近くに座った若者(20代前半と思しき男子)は、

   上映中クスクスし通しだったので(別にウザイ感じではない)、

   その横でほとんどクスリともできない自分が申し訳なかったりもした。

   というわけで、人によってはハマりまくる映画なんだろうとも思う。

   確かに、ラストのエレカシかかるタイミングや楽曲パワーはハンパない・・・んだろう。

   ただ、余りにも精緻なエピゴーネンの連続の後では、既視感が軽く上回る。

   でも、予告編はなかなか秀逸だったと思う。

   ラストの光石研による「Hey!! 東京プレイボーイクラブッ!」は本当耳に残る。

   確かな技量(撮ったり演出したりする力)はありそうだし、

   次は自作の脚本にこだわらずにいった方が好いのでは。

   そうすれば、凡「庸」な話にも、「奥」が存在するかもよ。

 

・・・これ見てたら、映画観てなかったな、多分。


アルベルト・セラ Albert Serra

2012-02-06 00:44:32 | 2011 特集上映

 

2012年最初の《再発見》がモンテ・ヘルマンだとしたら、

2012年最初の《発見》はこの人、アルベルト・セラかもしれない。

奇しくも、セラ作品を手がけるカプリッチが『果てなき路』も仏配給していたりする。

(その配給前から対談集の出版準備はカプリッチで進められていたらしい。)

今回、日仏学院でのカプリッチ・フィルム・ベストセレクションでは、

アルベルト・セラの長篇1作目および2作目を上映する。

IMDbによると、そのまえの作品もフィルモ入りしているが、

まぁ特異な制作スタイルを貫いている作家だけに、色々あるのだろう。)

 

なに経由だかは判然としないが、

極私的要チェック作家リストに入っていたアルベルト・セラだったのに、

その記憶と今回の上映が、つい昨日まで結びつかずにいて、本日慌てて参戦。

このインタビュー記事を読んでもわかるように、普遍性を追求する作家というよりは、

強烈な自我の直截な発現を貫き通す作風であろうことは予想していたが、

これぞまさにカプリッチのRADICALとも言えそうな、孤高の美学を透徹敢行。

ブリュノ・デュモンから色気を排し、アピチャッポンより右脳が肥大。

ティエリー・ルナス氏の言葉を借りれば、まさに「ショット」より「シークエンス」の作家。

つまり、「収める」とか「呈する」とかではなく、「流れる」とか「乱れる」なわけ。

だから、そこに身を委ねられるか否かによって評価は大いに二分されもしそう。

しかし、映画の脱構築と再構築を真摯に果たそうと勤しむ姿が見え隠れするかのように、

生ぬるいオマージュごっことは別次元。粉骨砕身な換骨奪胎の次世代の古典。

クラシカル・ネクスト・ジェネレーション。温故知新が神出鬼没。

 

 

『騎士の名誉/Honor de cavallería』(2006)は、

ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの人物像についての考察、監督独自の解釈。

しかし、フランス語字幕(話されているのはカタルーニャ語)で観たこともあり、

私自身がそれを更に解釈しようとする姿勢は端から放棄(笑)して観賞。

すると、この作品(おそらく次の『鳥の歌』も)、《解釈》のための作品とは別地平。

観察、ですらない。ひたすら随行する。同伴しながら見守る。それを求められる。

それでこそ完結するかのような撮り方、見せ方。(デジタル撮影)

 

会話の量は通常の映画より圧倒的に少ないこともあり

音にしろ字幕にしろ「理解」が不能だったとしても、「わかる」のだ。

というより、この作品における《言語》の優先順位は明らかにランク圏外だ。

順位が低い、というのとも違う。画だとか音だとか言葉だとかいった要素がバラバラに

序列化されたり整理されるのとは違う、総体として観客を包み込もうとする作品。

カタルーニャ語(出演する素人演者の使用言語)を選択(というより許容)するのも、

言語によって「伝えよう」とするよりも、ライフそのものが「伝わる」ことを重視するから?

 

時間や空間の制約を超越するために、デジタルでの撮影を積極的に選択したという。

確かに、容赦ない長回しではあるが、それは美の沈潜を促すそれとはやや異なる。

旅の疲れを植え付けるかのような、心地よい倦怠感をお見舞いしてくれる、連続時間。

長回しとは、実際の時間の流れに近づいていくプロセスを伴うものだと又もや実感。

110分が嘘のようにあっけなく去っていった。(ノレないと5時間くらいに感じそうだが)

 

いわゆる「綺麗な画」を撮ろうとしているわけではないが、

美しい光景を忌避しているわけでもないので、当然息を呑む瞬間は度々訪れる。

しかし、デジタル撮影によるランドスケープは、フィルムのそれに求心力は及ばない。

ところが、フィルムの深奥から浮かび上がる《普遍性》が望めぬかわりに、

デジタルのフラットに固着した《固有性》は、反ユニバーサルな世界を表出。

大自然のなか、自然の音につつまれ、陽光や緑にいだかれて、

なお《個人》として世界に身を処し続ける光景。

間違いなく刻まれる《近代》、そして現代。

 

古典としてのモチーフを、デジタルで個人がとらえる現代性。

終盤に突如聴こえてくるギターの音。

違和から芽生えた戸惑いが、

木洩れ陽の瞬きの凝視と共に安らぎをもたらせば、

神秘な慈愛に満たされる。

 

 

『鳥の歌/El cant dels ocells』(2008)は前作から一転、モノクロ。

こちらは同じデジタル撮影でもHDなので、より繊細な画の力でじっくりと迫ってくる。

登場人物に随伴していた前作のカメラとは異なり、偏愛される定点観測。

『騎士の名誉』の即興性が出演者と監督が対等に協同していた印象だったのに比べ、

本作における即興性は、監督がすべてを享け止めながらコーティングしている印象。

大地や砂漠を歩く三賢者の軌跡には、計算や指示とは無縁の流動がひたすら続く。

しかし、カメラのフレームにおさまり、そこに出入りする彼等の動きは、

すべてアルベルト・セラが「描いた」物語として提示されているかのよう。

あらかじめ求められていたかのような即興が結果的に収録される。

そんな多重な矛盾を味わいつくす、至高の俯瞰。無介入によって加工済。

 

そして、アルベルト・セラは闇をおそれない。

暗くなろうが、光が去ろうが、凝視を止めず、対象を眺める。

闇は音であふれてる。かすかに見えるシルエット。凝視はそれを顕在化。

薄れた輪郭の確かな実在感。微かな光の存在感。聴くように見つめる闇の奥。

 

『鳥の歌』は英語字幕での上映だったのだが、ほとんど読まずに観ていた気がする。

前作で勝手に結論付けたセラ作品における言語観を都合好く敷衍したりしてたから。

実際、台詞はほとんどないばかりでなく、言葉で物語を追うよりも、

徹頭徹尾、画面(=世界)と対峙することに全精神を傾けるべきだと思える作品。

むしろ無字幕で観ていたいほどの豊饒さで溢れかえっている神話。

 

 

今回の特集上映では、『鳥の歌』が2月5日(金)13:30、

『騎士の名誉』が2月24日(金)16:00の上映を残すのみ。

アルベルト・セラはお気に入りの映画作家としてソクーロフやタル・ベーラを挙げている。

彼らの作品を愛する映画愛好家ならば、観ておいて好い(観ておくべき)二作だろう。

但し、ちょっとでも睡眠不足や疲労困憊が感じられる際には爆睡まちがいなしなので、

その辺は要注意。確かな物語性や心酔必至な映像美が着実に展開するでもないので、

とにかく自由かつ柔軟な感受性で、開放的精神状況で臨むのがベストかと。

あと、他の観客のイビキ[というか、寝息?]にイラっと来ないこと(笑)

こういった沈黙と自然の音にあふれる作品は、場内の静寂と相俟って完成する。

そういった点では、『騎士の名誉』上映時の場内は素晴らしい静謐さが充満してた。

それに比して『鳥の歌』では、退屈さや落ち着きのなさを発散させる者が散在したりして、

ちょっと残念だったのも事実。静寂の砂漠を歩く賢者たちの姿に重なるフリスクの音。

誰かが咳込むと免罪符得たりと連鎖する咳払い。静寂に包まれて再見してみたい。

(まぁ、普通に静かなレベルでしたよ。ただ、本作がそれだけ静謐な作品なのです。)

 

日本でもようやく《発見》された、アルベルト・セラ。

新作と併せて特集上映が企画される日を切望する。

 

 

『騎士の名誉』の一場面

 

『鳥の歌』の冒頭