goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

猫、聖職者、奴隷(2009/アラン・ドゥラ・ネグラ、木下香)

2012-02-04 23:57:43 | 2011 特集上映

 

日仏学院にて開催中の「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」。

いつもながら日本語字幕付は僅かながらも、貴重な作品をスクリーンで、

なかにはフィルムによって観ることもできる、相変わらずありがたい(在り難い)企画。

「現在、フランスで最も先鋭的な作品を製作・配給している」というカプリッチ・フィルムズ。

代表のティエリー・ルナス自らが来日し、本作の初上映では、

共同監督の一人である木下香とトークショーにも登壇。

成田から直行してかけつけたティエリー・ルナスの語りは淀みなく、

カプリッチ・フィルムズの先鋭性は決して「ファッション」ではないのだろうと確信。

既存にただ背を向けるのではなく、新たな可能性を求めては逸れてしまう映画たち。

確実な結果としての《成果》や《達成》に固執せず、創ることの価値を認める姿勢。

安っぽいシニシズムで従来を皮肉るよりも、新たな地平へ踏み出す覚悟。

そこにこそ創作による批評精神が宿るだろう。と、私は解釈したが、どうだろう。

 

ところが、本作に限って言えば、

私自身に望外な興奮瞬間が訪れることはなく、

今回の特集上映のタイトルである「先鋭的であること」の片鱗に触れられぬまま終了。

上映後のトークショーでは、ティエリー氏の製作ヴィジョンのみならず、

木下監督から細かな制作背景やプロセスなどのメイキング話を聴くことができ、

なかなか興味深いものだった。が、そうした映画何本分にも匹敵しそうな《物語》が、

本作においては全く割愛されている。というより、遠景にすら配されておらず残念。

とはいえ、シノプシスを読んでからというもの、観賞前に随分と脳内模擬観賞

というか自分版脳内上映をしてしまったが為に、余計な「期待」が高まって、

それらとの齟齬によってもたらされる戸惑いがスクリーンとの乖離を引き起こしたのかも。

仕事切り上げ駆け込み観賞したのも(疲労&睡魔)好くなかったのかもしれない故に、

批評ともいえぬ不平な不評なのかもしれないが。

 

本作は「セカンド・ライフ」というサイト内で

アバターとしてアナザー・ライフを満喫する人たちの日常を収めたドキュメンタリー。

とはいえ、監督も語っていたように、《記録》というよりは《物語》として見せる印象。

しかし、「いま、ここ」に拘り過ぎたからか、眼前の時間のみで迫ってくる映像は、

ストイシズムより説明不足感が上回る。それこそが、虚実のボーダーレス化を促す、

とも言えなくはないのだろうが、曖昧模糊なまま「あわい」に放り込まれた感覚だ。

確かに、二項対立を凌駕する地平がそこに浮かんでくるのかもしれない。

しかし、まずはそうした対立や分裂や乖離を相対化するところから始めて欲しくもある。

問題提起のないまま、問題だけを回収していく印象だ。主観を排した手記のよう。

言葉だろうが色や形だろうが音だろうが、表現する主体が存在する以上、

《説明》のなかには必ず《解釈》が含まれる。だから、《説明》を削ぐという選択は、

重要な覚悟を回避する姿勢にも思えてしまう。ダイレクトシネマや観察映画に近そうで、

全く異なる次元で収めれ繋がれていく映像。やはり、他者へと送り「届け」られる以上、

そこに何らかの《答え》を持つ(持とうとする)決意があって欲しい。

 

私が映画および監督の言葉を解釈する力不足だったかもしれぬが、

「現状認識」に留まっているような印象に終始した80分だったため、

《作品》としての享受にやや物足りなさを感じたのが正直なところだったりする。

監督の話は正直かつ誠実な語り口で、極めて明瞭な意図がわかりやすく伝わるのだが、

《興味》で始まり《興味》のまま終わってしまったという印象を私は受けた。

 

ティエリー氏が語っていたように、本作の構想・撮影段階から完成の間においてさえ、

こうしたリアル・ライフとネット・ライフという2つの世界の関係性は劇的に変化した。

Facebook や Twitter などを例に挙げるまでもなく(それらを使用しておらずとも)、

既に多くのネットユーザーが「別人格」を意識無意識関わらず手にしているし、

それが故にこうしたテーマはもはや先鋭的ではなくなってしまったのだと思う。

だからこそ、情況報告的なままでは全くラディカルに映らないのだろう。

いやむしろ、ネット上でのリアルを日常に持ち込んだり融和させたりしている方が、

実は正常であり、健全であるともいえるのだ。

なぜなら、ネット上における直接性の排除や徹底的形而上的世界観による

究極の抽象的存在としての新たな自己は、日常との隔絶においてより新奇な革新だ。

そうした意味では、本作に登場する人々はアナログ時代の人格の持ち主であり、

ネット上に別の生活を求めようとも、結局は《直接》と《形》を求める「見える」人格。

だから、彼等にとってはまさに「セカンド」ライフで好いのだろう。

確かに「セカンド」が「ファースト(現実の生活)」を凌駕しようとしている様に

見えなくもない。しかし、「セカンド」が「ファースト」に昇格するということは、

「セカンド」がもはや「セカンド」であることを止めているように私には思える。

いや、彼らのなかでは既に「ファースト」であることを認識した上で、

その実験台としての場を「セカンド」に間借りしているだけな気がしてならない。(

だから、本作がバーニングマンに辿り着いて終わろうとするのは、正しい。

夢の生活を、現実の日常をこじ開けて「実現」させる欲望の結実集合体。

しかし、それは現代人のアイデンティティに《革命》をもたらしたデジタルワールドと

完全に異次元な従来の営みだ。フェスティバル、つまり祭り。人類原初の儀式スタイル。

 

といった私の穿ち視線は、本作の企図にはそもそもそぐわぬのかも。

ティエリー氏は本作を、社会学的考察に向かわずに人間存在を語る作品だと説明した。

従って、本作に新たな視座や論理展開、趨勢への懐疑と分析などは不要だったのだろう。

制作における最重要作業がキャスティングだという返答も、そうしたことの証左となろう。

ただ、だとするならば、登場する個人の掘り下げ方は、

《人間》の核心に到達するにはあっさりし過ぎな気がしないでもない。

上映後に監督が語っていた、撮影前のやり取りから撮影時の様子までがもう少し

伝わるような部分が欲しかった。コンテクストの排除を試みたとは思うのだけど、

やはり《時間》の芸術である「映画」には、コンテクストが何より魅力。

実際に映さなくても、映っていればいいのだが。(私が見落としてただけかもしれぬが)

 

とはいえ、カプリッチ・フィルムズという《RADICAL》にはやはり

何処か惹かれてしまうものがある。もう何作か観てみたい。

 

※木下監督がしきりに、事前にチャットで触れた人格と実際に会った人物の印象は、

   どの人たちも「同じだった」と語っていたことこそが、セカンド=ファースト説を立証?

 

◇トークショーの終わりに、次回上映(2/12(日)16:00)にも

   木下監督が駆けつけるような話をほのめかしていた。

   「とある日本の有名な監督さん」も来るので是非対談を!

   なんて振り(?)もされてた坂本安見さん。タイムテーブル的にはきつそうだけど・・・

 

 


ピアノマニア(2009/ロベルト・シビス、リリアン・フランク)

2012-02-03 23:21:05 | 映画 ナ・ハ行

 

スタインウェイ社を代表するドイツ人ピアノ調律師シュテファン・クニュップファー。

彼の仕事を記録したドキュメンタリーでありながら、

眼差しは技巧それ自体より職人気質を見つめていたい。

Every Sound You Make -シュテファン自身にステイ・チューン。

調律師という仕事を一般化しようとはせず、調律の仕事に入魂する一個人の姿を見せる。

 

そこにもう一人のマニアが絡んでくる。

完璧な響きを求める旅の先導者、ピアニストのピエール=ロラン・エマール。

飽くなき探求を始めた二人。果たして彼等に納得や満足は訪れるのか。

 

そして、違いが分かる男たちの孤高の営みに、果たして他人はついていけるのか。

しかし、そんな心配無用なようだ。

なぜなら、本作が描きたいのはピアノ狂ではなくピアノ熱。

クレイジー・フォー・ピアノな男の生態を暴くより、

クレイジーそのものの純粋一途を傍でそっと見守る気持。

マニアックになればなるほど、その情動がイタイほどわかる気がする不思議。

しかも、本作においては至って直向ポジティブな「こだわり」光景で埋め尽くされて、

暗く陰鬱拘泥気質な自分のマニア生活すら肯定してくれそうな寛容にあふれてる。

マニアだろうがオタクだろうが、明るく爽やかに生きろという教訓(曲解)。

 

◆本作のタイトル(原題も"PIANOMANIA")が、お仕事の記録ではない表明を。

   「mania」は、熱中や熱狂することやその心を表し、

   「maniac」こそが、そうした状態にある人を表す言葉。

   つまり、本作に備わっているポピュラリティはそこなんだろうと思う。

   安っぽい言い方をすると、「好きでたまらない」気持それ自体を追体験。

   「身に覚え」のある人間なら共有できる感覚の連続。マニアックな普遍性。

   そんな矛盾をサラッとかわせる人間の想像力を刺激されるのが心地好い。

 

◆《映画》としては、それほど巧かったりもしなければ、

   オリジナリティに溢れているわけでもない。

   テレビ的パッチワーク感や説明過多な傾向もある。

   序盤は(撮られることに慣れていないからだろうが)シュテファンの語りも

   些か演技がかっていたりもする。しかし、それらに躓くことない観賞を保証する、

   被写体から放たれる「まっすぐ」さ。それさえあれば、むしろ巧さは必要ない。

   識らぬうちにシュテファンの熱と同化している自分に気づくのは、

   彼の入魂反響版があっけなくボツとなる瞬間。

   傍観者でしかない自分の心が、どこまでも沈みゆく。

   「何て励ませば好いのだろうか・・・」なんて余計なお世話で脳内埋め尽くす観客。

   彼の周囲も気持ちは同じ?  しかし、そんな沈殿を一蹴してしまうチーズケーキ。

   ほんの一瞬だけ映ってたシュテファンの妻が、最大の精神の危機を救う場面。

   画面には結果としてのチーズケーキしか映っていないのに、背後のドラマの焙り出し。

   マニア(熱)を冷まそうとしたり、抑えようとするのではなく、温め続けるサポーター。

   外方を向きながら黙って傍らに腹這う愛犬もまた然り。

   彼の熱を冷ましたりしない、興醒め強いぬ「愛すべき」「愛してくれる」存在たち。

   そして共に熱にうなされる享楽を共有できる同志たち。

   相手にするのはピアノという器械。録音にはあらゆる機械を駆使して臨む。

   しかし、それらを産み出し、操り、享受するのはあくまで人間たちなわけで。

   奏でるのも、聴くのも人間だからこそ、その営みに極みを探る。

   そうしたとき、道具は本当に人間の延長となり、音は声となる。

 

◆本作の冒頭で、ラン・ランの演奏会に向けての調律シーンが映るのだが、

   そのときの印象的な注文は、演奏時に座る椅子。

   彼の要望に応えるべく探し出したる椅子は、地下の倉庫に無造作に置かれてたもの。

   その椅子に満足して演奏会に臨むラン・ラン。

   つまり、各人の求める《完璧》とは、一般的な価値とは別次元。

   「求める」ものは、内に「浮かんだ」ものであり、それは個人の「感じる」由来。

   だから、本来は多元的で多様で無限な感覚のカオスな磁場のはず。

   それがコミュニケーションやカンバセーションを幾重に経ることで、

   《完璧》というシンクロニシティに結実する興奮。

   個々に異なる軌道を辿りつつも、感動という体験を共有できる《芸術》。

   それは、演奏会だろうがCDだろうが、文学だろうが映画だろうが、

   マニアック(個人)を超越したマニア(熱)の結合からのフィードバック。

   そうした肥大化する宇宙を感じていたく、《完璧》を追求するのかも。

   一音が広げる宇宙。そこに生まれる世界の有り様。創造主のこだわり。

   そうか、これは人間が《神》を感じる、《神》になれる営みなのか。

   現実とは異なった「世界」をつくる想像力は、人間の証たる最上の体験なのだ。

   享けるばかりでなく、創ることをあきらめない。読むばかりでなく、書き続ける。

   《自然》の音を加工する。そこに新たな《自然》が生まれる。

   旧市街を走るトラムのように。

 

◆ピアニストと調律師の関係性とは、どのようなものとして捉えるべきか。

   調律師が注文を「受ける」立場だとすると、そこに主従関係を見出したくもなる。

   しかし、ピアニストが望むものを得られるか否かは調律師にかかっている。

   ピアノ職人>ピアノ調律師>ピアニスト>ピアノの音色>ピアノの音を聴く人。

   順番的には、そんな序列も成り立つか。そうすると、やはり実際に「創る」人こそが、

   世界の土台を築いてる?  そして、それを提供する世界《自然》こそが最上位。

   などと飛躍にも程がある思考はさておき、観客が本作を味わえる秘訣もそこにあるかと。

   つまり、ピアノという謂わば「機械」を使うピアニストが直接ピアノを征服できぬ事態は、

   自らが使っている機械を直接把握も管理もできぬ身近な現実と地続きですらある。

   それで自分とピアニストを重ね合わせることができる云々とかではなくて、

   機械に直接働きかけ、調節し、望みどおりにカスタマイズしていく過程には、

   昨今の私たちから失われゆく《自由》の可能性を垣間見たりできるのでは?

   人間は、働きかけて加工する力を持っていて、そこには無限の《自由》が潜んでる。

 

◆ただ、調律師という仕事の印象は、元来《近代》的でもあった。

   音律の統一、平均律の誕生など、統御と管理が進む社会と軌を一とした楽器の宿命。

   そこに誕生した職業としての、調律師。そうしたイメージから管理者的に思えてた。

   しかし、本作が描き出す職人芸は、既定への収斂請負人などでは決してなく、

   無限から能動的に選択する矜持。ピッチという客観指標には把捉不能な、

   音色という表情。そこにこそ、expression の魂は宿るもの。

 

◇監督を務める二人はどうやら夫婦らしい。(映画学校時代に出会ったとか)

   どうりで職人矜持よりも人間模様に軸足があるわけだ。

   とはいえ、プライベートな側面をやたらと絡ませてこないのは好いな。

   犬とか妻とかチーズケーキとか唐突ながらさりげない閑話が無用な緊迫を緩和する。

   ストローブ=ユイレとは趣異とした編集の光景だったりするのだろうか。

   でも、『あの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001/ペドロ・コスタ)観てると、

   彼らだって映画的美学とは別の個人の内面が反響し合ったりしているわけで、

   そう考えると、あの作品は創作の教科書(といっても随分変わり種だが)としてより

   映像作家の「人間」性こそが強調されたドキュメントとして捉え直してみたくなる。

 

◇ロベルト(監督)は兄がピアニストをしているらしく、

   シュテファンとは彼を通して知り合ったとか。

   彼らの両親宅にある古いグランドピアノを調律する際、

   最初にやってきた調律師の仕事に納得のいかなかった兄の元へ派遣されたのが、

   シュテファンだったという。その後もその両親宅へ定期的に訪問したらしい彼と、

   夫婦(ロベルト&リリアン)揃って知り合いとなり、本作の制作につながったという。

   だからこそ、人間シュテファンの魅力を丁寧に物語れもしたのだろう。

 

※私はシネマート新宿の初回で観た為、まともなスクリーン1で観賞できたが、

   それ以外の回は伝説の新ピカ4級のショボショボ小箱(スクリーン2)で上映してた。

   が、連日の盛況ぶりからか、いよいよ明日(2/4)よりスクリーン1で2回上映に。

   但し、スクリーン2の上映回もあるので、観に行かれる際には要注意!

   ちなみに、クラシック好きや楽器経験者でなくとも十分に楽しめる作品ではあるが、

   シネマニアには物足りないかもしれない危惧(笑)  しかし、

   ピアノ経験者だったりピアノの音が無条件に好きだったりする人(自分です)や、

   マニアであれば何マニアでも同志と思えて親近感わいちゃう人(これも自分)は、

   一度観ると愛でたくて仕方がなくなる作品かも。

   勿論、ごく普通の音楽好きでも十分楽しめるとは思います。(公式サイト

 

 


無料観賞体験記(後篇)

2012-02-01 23:06:00 | コラム

 

TOHOシネマズの1ヶ月フリーパス有効期間が終了しました。

かねてからTOHOシネマズが特にお気に入りシネコンでもなかった私は、

「午前十時の映画祭」でもなければ、その悲願(笑)も叶わなかっただろうものの、

その「午前十時~」以外の作品を定期的にTOHO系で観るのはシャンテくらいだったし、

いざフリーパスを手にしてみると、これが結構「観賞生活」に支障を来す(笑)

 

例えば、拡大公開系の作品が封切られると、

大抵「いつもの」曜日や時間帯に、「いつもの(数候補のうちの)」映画館で、

まったりと観賞するのが日常だったのに、行き慣れない劇場での観賞となると、

そうしたルーティンを崩さねばならず、それはそれでちょっとした重荷@贅沢。

まぁ、タダ観にこだわらなければ好いのでしょうが、そこはやはり小市民な貧乏性。

中盤には早くも馴染みの劇場が恋しくなってきてもいる自分もいたりして、

結局最後の方は観たい劇場で観るようになってしまったので、

そこまでフル活用ってほどには至りませんでした。

 

只より高い物はない。

なんて言い回しがありますが、本来の意味とはズレるでしょうが、

そんな感覚がこみ上げたりしてきた後半戦(戦いなのか?)。

フリーパスというと、「いくらでも」観られるし、「無料で」観られる(つまり損失ゼロ)。

それは究極の《無限》観賞パスポートのようなのですが、実は逆なベクトルも孕んでる。

たとえ、《無限》に近い条件が与えられたところで、

結局一個の人間に与えられている時間も体力も変わりはしない。

おまけに、TOHOシネマズ以外の映画館もパラレルで営業してもいれば、

TOHOシネマズ以外でしかかかってない映画も続々公開されていくわけです。

つまり、結局は「無料で観られる」というメリットが与えられると同時に、

「そこで観ないと損してしまう」的感覚が足枷となるデメリットの裏表。

 

そもそも、映画に費やすお金は必要経費的位置づけ(もしくは生活費?)なので、

どんなに楽しめなかったり爆睡したりした映画だったとしても、金返せとは思わない。

映画を観るっていう「体験」が完遂できれば、そこには何らかの得るものが自分に残る。

(ただ、作り手が余りに不誠実だったり、映写に不備があったりするときは、

  「金返せ」って思う・・・というより、「金とってんじゃねぇーよ」って思う。)

それに、いくら身銭をきらずとも、自分の持ち時間は削られていくわけで、

そう考えたら、料金分がフリーになったところで、オールフリーじゃないんだよね。

むしろ、実際は金に糸目をつけぬほど完全フリーに近づくんだろうしね。

 

なんて所詮は贅沢な悩みというか、一人相撲(&セルフ行司)な日々のなか、

結局は「フリーパスならでは観賞」を思ったほど堪能できなかったのが現実でした。

 

意気込んでた前半(というより序盤)を過ぎると、

後半で「ならでは観賞」と言い切れる観賞は、3本程度。

『タンタン~』と『永遠の僕たち』の2回目観賞と、

『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』。

 

『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』は、2D字幕で観直して見直した(笑)

1回目とは比べ物にならぬほど心が始終動かされまくりで、

初見でイマイチって印象の感想書いたのを全面撤回したい気分に駆られ、

時間さえあればもう一度観たいと思ってしまったほどでした。

俺はヤヌス(・カミンスキー)派じゃないな、とか言い放ってしまった生意気かつ早計を

悔いに悔い、何処までも連れてって欲しくなる、光とカメラの狂想曲。

初見での「ここまで実写な(3D)アニメとか意義わからん」的印象は一気に霧消。

「実写でもアニメでもない第三の映像世界」的革新を確信。

新たな地平。まさしく、夢。夢世界。

 

ただ、やっぱりどうしてもジョン・ウィリアムズの音楽が苦手だった・・・。

あそこまで絶え間なく流麗な巧みスコアが延々続くのは、生理的に合わないらしい。

アカデミー会員から無暗な溺愛が生涯保証されてるほどだから、

その匠の技は一級品なんだろうけどね。

 

永遠の僕たち』は、当該記事でも付記したように、

1回目にシネコンのデジタル上映観たときから、フィルムで観直そうと思ってたから、

ちょうどシャンテで観られて好都合だった。以下、完全な余談。

シャンテ地下で観たんだけど、最近あそこで観るときに、

「姿勢のよい」方がすぐ前の列にいたりすることが続いて些かブルーな観賞デイズ。

『50/50』の時なんて、頭まるごとビヨンド背もたれ。のみならず・・・

妙な動きするんだよ・・・予告で銃をぶっぱなすシーンとかになると、

自分の手を拳銃の形にして(親指を上に立て、人差し指を前に)、

「バンバン!」とかやったり、リズミカルな音楽かかると指揮者になったり・・・

物理的にも精神的にも身に余るハイレベル修行ツアーゆえ、戦線離脱。

客のほとんどいない扉付近の席に大人しく避難させていただきました。

そんなことがあり、その次に観た『永遠の僕たち』でも、

両肩ビヨンド背もたれ級の背筋ピン子が眼前に立ち(?)はだかって・・・

こちらもガラガラだったので、速やかに横移動させて頂きました。

スクリーンが小さいくせにやや縦長なシャンテ地下では、

確かに前方じゃないと「映画観てる」感が出ないのはわかるし、

俺もそっちのタイプだけど、あのリクライニング背もたれに腰掛けて

背筋ピン子はないだろ・・・。ってか、疲れないのか?

まぁ、だから手拳銃バンバン男も、背筋ピン子(しつこい)も終始落ち着きなく、

それでなくともスクリーンを常に脅かしかねぬ存在感なのに、

そのモソモソぶりはなかなかの脅威でしたわ。

しかし、シャンテは地下に降りてきてからの方が客層は落ち着いてくるし、

場内の暗さも「1」(あそこ造りは好いんだけど)みたいに明るすぎないから、

雰囲気は地下が好きなんだけど。あの造りは指定席にすべきではないよな。

(改装後行ってないけど、指定席化したル・シネマも心配だなぁ・・・)

ま、そういうスリルも、(こうして語る分には)それはそれで面白かったりもするのだが。

(だからって、積極的に味わいたいものでは勿論ない。)

 

『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』の感想は唯一つ。

たのしかった!以上!!

これなんかは、パスがなければパスしてたかもしれない映画だったりしたし、

こういう「どーでもいい」映画を「劇場で観る」ことを逃さなかったのは貴重かも。

平日の昼間に観たので、かなり空いてはいたのだが、場内の雰囲気が好いのだよ。

何が好いって、皆が皆、自分に正直に笑ったり笑わなかったりしてる空気なの。

これ見よがしに笑ってみせたり、眉間に皺よせ「笑わせてごらん」だったり・・・

そんな空気は皆無。自分がはまったポイントで思い思いに笑える柔らか和やか劇場内。

後方に座ってる女性1名と男性1名は、随所で豪快な笑い声を響かせてくれていて、

その嫌味のない爽快な笑い声が場内に少しずつ熱気を注入。

今までムスッとした感じだった3席ほど向こうのおじさんがクスッとしだす、ほっこり感。

大の大人が平日の昼間っから、金も精力も真剣につぎこんだバカバカしさを見守るの図。

それをシュールに受け止めず、ばかサイコー!あほヤッホー!な感じでひたすら肯定。

日本にもまだ、こんなのどかさがあったのか!?これは明らかに、気休めなんかじゃない。

安らぎの報酬!寛ぎの応酬!!和らぎの観衆だぁ~!!!

 

ワーキング・タイトルの裾野は着実に広がってきていて、

ハリウッドでもインディペンデントでもない、むしろ双方のイイトコどりな賢さがある。

自分が映画観始めた頃に絶好調だったこともあり、何となく贔屓なプロダクション。

スタイリッシュと野暮なあいだを、豪勢と質素のあいだで、このまま歩んでいって欲しい。

 

というわけで、憧れの無料観賞生活を実際に味わってみてわかったことは、

自分の本当の憧れはそこじゃないんだなってことかな。

タダでいくらでも観られることよりも、

「あの作品をあそこで観られる!」の方が何倍も魅力的。

だから、これからはポイント厨に陥らず、ましてやマイル厨などに身を窶さずに、

感動体験を求めて心のままに好きな劇場に足を運びましょう!!

(まぁ、それはそれでただの劇場厨って気がせんでもないが。)