日仏学院にて開催中の「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」。
いつもながら日本語字幕付は僅かながらも、貴重な作品をスクリーンで、
なかにはフィルムによって観ることもできる、相変わらずありがたい(在り難い)企画。
「現在、フランスで最も先鋭的な作品を製作・配給している」というカプリッチ・フィルムズ。
代表のティエリー・ルナス自らが来日し、本作の初上映では、
共同監督の一人である木下香とトークショーにも登壇。
成田から直行してかけつけたティエリー・ルナスの語りは淀みなく、
カプリッチ・フィルムズの先鋭性は決して「ファッション」ではないのだろうと確信。
既存にただ背を向けるのではなく、新たな可能性を求めては逸れてしまう映画たち。
確実な結果としての《成果》や《達成》に固執せず、創ることの価値を認める姿勢。
安っぽいシニシズムで従来を皮肉るよりも、新たな地平へ踏み出す覚悟。
そこにこそ創作による批評精神が宿るだろう。と、私は解釈したが、どうだろう。
ところが、本作に限って言えば、
私自身に望外な興奮瞬間が訪れることはなく、
今回の特集上映のタイトルである「先鋭的であること」の片鱗に触れられぬまま終了。
上映後のトークショーでは、ティエリー氏の製作ヴィジョンのみならず、
木下監督から細かな制作背景やプロセスなどのメイキング話を聴くことができ、
なかなか興味深いものだった。が、そうした映画何本分にも匹敵しそうな《物語》が、
本作においては全く割愛されている。というより、遠景にすら配されておらず残念。
とはいえ、シノプシスを読んでからというもの、観賞前に随分と脳内模擬観賞
というか自分版脳内上映をしてしまったが為に、余計な「期待」が高まって、
それらとの齟齬によってもたらされる戸惑いがスクリーンとの乖離を引き起こしたのかも。
仕事切り上げ駆け込み観賞したのも(疲労&睡魔)好くなかったのかもしれない故に、
批評ともいえぬ不平な不評なのかもしれないが。
本作は「セカンド・ライフ」というサイト内で
アバターとしてアナザー・ライフを満喫する人たちの日常を収めたドキュメンタリー。
とはいえ、監督も語っていたように、《記録》というよりは《物語》として見せる印象。
しかし、「いま、ここ」に拘り過ぎたからか、眼前の時間のみで迫ってくる映像は、
ストイシズムより説明不足感が上回る。それこそが、虚実のボーダーレス化を促す、
とも言えなくはないのだろうが、曖昧模糊なまま「あわい」に放り込まれた感覚だ。
確かに、二項対立を凌駕する地平がそこに浮かんでくるのかもしれない。
しかし、まずはそうした対立や分裂や乖離を相対化するところから始めて欲しくもある。
問題提起のないまま、問題だけを回収していく印象だ。主観を排した手記のよう。
言葉だろうが色や形だろうが音だろうが、表現する主体が存在する以上、
《説明》のなかには必ず《解釈》が含まれる。だから、《説明》を削ぐという選択は、
重要な覚悟を回避する姿勢にも思えてしまう。ダイレクトシネマや観察映画に近そうで、
全く異なる次元で収めれ繋がれていく映像。やはり、他者へと送り「届け」られる以上、
そこに何らかの《答え》を持つ(持とうとする)決意があって欲しい。
私が映画および監督の言葉を解釈する力不足だったかもしれぬが、
「現状認識」に留まっているような印象に終始した80分だったため、
《作品》としての享受にやや物足りなさを感じたのが正直なところだったりする。
監督の話は正直かつ誠実な語り口で、極めて明瞭な意図がわかりやすく伝わるのだが、
《興味》で始まり《興味》のまま終わってしまったという印象を私は受けた。
ティエリー氏が語っていたように、本作の構想・撮影段階から完成の間においてさえ、
こうしたリアル・ライフとネット・ライフという2つの世界の関係性は劇的に変化した。
Facebook や Twitter などを例に挙げるまでもなく(それらを使用しておらずとも)、
既に多くのネットユーザーが「別人格」を意識無意識関わらず手にしているし、
それが故にこうしたテーマはもはや先鋭的ではなくなってしまったのだと思う。
だからこそ、情況報告的なままでは全くラディカルに映らないのだろう。
いやむしろ、ネット上でのリアルを日常に持ち込んだり融和させたりしている方が、
実は正常であり、健全であるともいえるのだ。
なぜなら、ネット上における直接性の排除や徹底的形而上的世界観による
究極の抽象的存在としての新たな自己は、日常との隔絶においてより新奇な革新だ。
そうした意味では、本作に登場する人々はアナログ時代の人格の持ち主であり、
ネット上に別の生活を求めようとも、結局は《直接》と《形》を求める「見える」人格。
だから、彼等にとってはまさに「セカンド」ライフで好いのだろう。
確かに「セカンド」が「ファースト(現実の生活)」を凌駕しようとしている様に
見えなくもない。しかし、「セカンド」が「ファースト」に昇格するということは、
「セカンド」がもはや「セカンド」であることを止めているように私には思える。
いや、彼らのなかでは既に「ファースト」であることを認識した上で、
その実験台としての場を「セカンド」に間借りしているだけな気がしてならない。(※)
だから、本作がバーニングマンに辿り着いて終わろうとするのは、正しい。
夢の生活を、現実の日常をこじ開けて「実現」させる欲望の結実集合体。
しかし、それは現代人のアイデンティティに《革命》をもたらしたデジタルワールドと
完全に異次元な従来の営みだ。フェスティバル、つまり祭り。人類原初の儀式スタイル。
といった私の穿ち視線は、本作の企図にはそもそもそぐわぬのかも。
ティエリー氏は本作を、社会学的考察に向かわずに人間存在を語る作品だと説明した。
従って、本作に新たな視座や論理展開、趨勢への懐疑と分析などは不要だったのだろう。
制作における最重要作業がキャスティングだという返答も、そうしたことの証左となろう。
ただ、だとするならば、登場する個人の掘り下げ方は、
《人間》の核心に到達するにはあっさりし過ぎな気がしないでもない。
上映後に監督が語っていた、撮影前のやり取りから撮影時の様子までがもう少し
伝わるような部分が欲しかった。コンテクストの排除を試みたとは思うのだけど、
やはり《時間》の芸術である「映画」には、コンテクストが何より魅力。
実際に映さなくても、映っていればいいのだが。(私が見落としてただけかもしれぬが)
とはいえ、カプリッチ・フィルムズという《RADICAL》にはやはり
何処か惹かれてしまうものがある。もう何作か観てみたい。
※木下監督がしきりに、事前にチャットで触れた人格と実際に会った人物の印象は、
どの人たちも「同じだった」と語っていたことこそが、セカンド=ファースト説を立証?
◇トークショーの終わりに、次回上映(2/12(日)16:00)にも
木下監督が駆けつけるような話をほのめかしていた。
「とある日本の有名な監督さん」も来るので是非対談を!
なんて振り(?)もされてた坂本安見さん。タイムテーブル的にはきつそうだけど・・・