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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ドラゴン・タトゥーの女(2011/デヴィッド・フィンチャー)

2012-02-23 22:55:45 | 映画 タ行

 

「タトゥー(tattoo)」は日本語で何と言う?

そりゃぁ当然「入れ墨」だよね。Vシネっぽくは「刺青」ね。

ところが、「我慢」という呼称もあるらしい。

説明不要なそのもの感たっぷりな別名ですが、

その「我慢」という語にも更には二面性があるわけで。

通用的には耐え忍ぶって意味がスタンダードになってるものの、

そもそも仏教用語的には字義通りに「慢ずる我」を意味します。

つまり、相反する(というか相容れないというか対極的な)側面を、

一個の内に秘めてる言葉、「我慢」。そんな「我慢」の女の物語。

 

(これ以降、結末等を容赦なく引用して書きます。)

 

リスベット(ルーニー・マーラ)はハリエットよろしく、

鬼畜な父親に「我慢」の日々を重ね、ついには自らの手で葬ろうとしたわけですが、

少女ハリエットの写真があまりにもリスベット似だったのも、

そうした示唆を意図したものに思えてしまいます。

彼女たちの「我慢」はどこに向かっていったのか。

リスベットは《男性》への嫌悪をつのらせる一方で、

《父性》への渇望を秘めて(時に実現させて)きたように思われます。

父親のごとく信頼していた後見人(ベント・C・W・カールソン)という支柱を失い、

彼女が庇護を求めた相手こそミカエル(ダニエル・クレイグ)だったのでしょう。

マッチョな男性には暴力的支配の予感がよぎってしまう故なのか、

知性と純粋な正義感を宿した男でなければらない《対象》。

センシティブな彼女のセンシティヴな調査の結果でも、

埃の出なかった誇り高きジャーナリスト、ミカエル。

このネーミングは、大天使ミカエルを想起させる仕掛けを兼ねていそうだが、そう考えると、

リスベットはさしずめ(大天使ミカエルが神の啓示を与えた)ジャンヌ・ダルク?

父親を火あぶりにしようとしたのも、(ジャンヌの)仕返しか!?

と、ちょっと妄想が過ぎました。(ちなみに、原作の第二部は「火と戯れる女」)

 

本作には極端なまでに母性が排除されてもいる。

ミカエルの妻(=娘の母)は登場しないし(たしか)、

マルティンやハリエットの母親に母性だって、完全無欠のネグレクト。

ミカエルと愛人関係にあるエリカ(ロビン・ライト)だって、まるで独身かのような振舞。

(ちなみに、「ペン」がとれた「ロビン・ライト」ゆえに余計そんな感じもしたり・・・)

それは、父権の絶対的支配という旧弊のおぞましさを引き立てている一方で、

リスベットのなかに《母性》を凝縮し、彼女が作品を支配できる構図にも。

「ピエタ」寸前の救出劇、《息子》の宿敵ヴェンネルストレムへの徹底的復讐、

挙句の果てには《息子》の大好きな革ジャンまで極上オーダーメイドしたにも関わらず、

《息子》は母の想いを露知らず、クリスマスに女とイチャついて、

それを目撃する母リスベット。妄想劇場ア・ラ・カルト。

 

母性を何処となく秘めつつも、姫を救う王子のようにも見えるリスベット。

それはヴィジュアル含め(スウェーデン版のノオミ・ラパスはより顕著)

両性具有的印象がそれを助長する。

しかし、それは性的な側面に限らずに、

光(正義感)と影(不正アクセス・不法侵入)の共存や、

無垢(父親の愛情を求める)と汚れ(父親に性愛を求める)の融合や、

切望する忘却(トラウマ)と不幸な記憶力(瞬時保存)の葛藤などに顕れる。

そして、前述の「我慢」の二面性。つまり、究極の忍耐の向こうに見える我の暴走。

しかし、それは単なる傲慢などではなく、他人を信じられず、まとわりつかれたくないから。

所謂「頼れるのは自分だけ」状態。しかし、《前父親》に「友だちができた」と報告し、

「幸せだ」とまで吐露するリスベット。その直後に沈吟する孤独の深淵。

フレンド申請後にリフレッシュしまくるマーク(ジェシー・アイゼンバーグ)とは対照的に、

静かにその場を去る(身を引く)リスベット。

しかし、心のなかでは・・・Is your love strong enough?

男声に変わった Is your love strong enoug? は、ミカエルからの返答か。

そして、彼女と彼の物語は続くのか。

 

 

◆オープニングの映像が、

   楽曲に負けじと尋常でない奮発具合で最高なのは万人了解事項ながら、

   実はそれが(『ファイト・クラブ』とは違って)モロOPじゃないってところに、

   フィンチャーの余裕を感じてしまう。

   正真正銘の冒頭には、

   不気味な自由の女神(コロンビア・ピクチャーズ)とサイレント吠えなライオン(MGM)、

   サスペンスものにありがちなベタベタ不穏シークエンスの儀礼的挿入後に始まる、

   リスベットの悪夢。極上のファンタジック・サスペンスの饗宴に、ようこそ。

 

◆フィンチャーが『ミレニアム』シリーズをリメイク(というより再映画化?)する

   と聞いたときには、ワクワクするも退行するのか?という不安も過ぎったものだが、

   観てみりゃ後退どころか飛躍。それも、『ソーシャル・ネットワーク』を踏み台にして。

   セルフ・カヴァー(パロディ?)ばりに前作想起な会話の応酬や音楽、

   遠近法的語りを瓦解させたクライマックス不在の多中心で高速維持な語り口。

   『ソーシャル・ネットワーク』が青年ばかりが大挙していたのとは裏腹に、

   本作では青年不在で中高年の男女と若い女だけで展開。

   フェミニンさに欠けるところは、最後の変装で帳尻合わせ?

   しかし、ジャンルも場所も登場人物たちもまるで異なる二つの物語を、

   ここまで同じ手法で描く面白さ。前作になかった暴力性とアクションが加わるも、

   それを抑制するかのように決してテンポアップをはからぬスコアの妙。

   そして、正しいエンヤの使い方。ツェッペリンよりも卑猥で陰惨なエンヤの響き。

 

◆『ソーシャル・ネットワーク』のサントラは、昨年の最優秀作業効率アップBGM賞。

   本作のサントラも事前入手で聴き込み参戦図ろうとしたものの、

   音楽単体で聴いててもいまいちピンとこない。前作ではスコア単体でも聴き込めた。

   しかし、そここそがトレント・レズナー&アッティカス・ロスの成長をあらわしていた。

   前作では自己実現的要素が「楽曲的完成度」に貢献していたものの、

   本作のスコアは明らかに劇伴に徹しようとした姿勢が垣間見られ(聞こえ?)る。

   それゆえに、映像観ながら、そこに塗された音たちの完璧さにハイボルテージ。

   しかも、音の立体感や圧力が細部まで計算し尽くされており、

   画や編集と並び、「隙」が完全消滅のパーフェクト・デザイン仕様。

 

◆昨年は『ソーシャル・ネットワーク』を三度も観に行ってしまった私だが、

   本作も二週連続で二度目の観賞に赴いた。

   そうすると、二度目ゆえに細部に俗っぽい満足感を感じる場面も。

   例えば、ヘンリック(クリストファー・プラマー)がミカエルに

   一族のメンバー紹介をする際に、マルティンの話をすると聞える銃声とか。

   ミカエルがロンドンのアニタを(最初に)訪ねて行ったとき、

   「ハリエットについて教えて」とお願いした時のアニタことハリエットの動揺っぷりとか。

   リスベットがミカエルとベッドインしようとしてベルト抜く仕草、レイピストっぽくもあり。

   宗教に懐疑的なミカエルが、額の傷にアルコールをかけられ「ジーザス!」とか。

   May I kill him? が、「ねぇお父さん、殺して来ても好い?」に聞えたり。

 

◆ちょっとしたユーモア場面もお気に入り。

   病院のロビーで喫煙を注意されて、思いっきり憎らしい顔をするババア。

   資料室の主として君臨してきたはずのババアとリスベットの対決も滑稽だ。

   そんな二大ババアも真っ青の「タトゥー除去サイトとか見てんじゃねぇーよっ!」

   いや、待てよ。ババアはネットとかやってないから、逆に更に強かったり!?

 

◆「知りすぎた女」リスベットとしては、

   なかなか信頼できる人間に巡り会えぬのも当然だ。

   だからこそ、不貞は多少はたらきながらも、正義感に裏はなく、

   情熱も純粋なミカエルは極めて稀有な信頼に「値する」存在だったのだろう。

   一見《不正》(リスベット)の勝利に見える物語において、

   そうした《不正》すらも魅了する《正義》(ミカエル)の最終勝利は、

   ジャーナリスト出身の原作者にとっては譲れぬ構造だったのだろう。

 

◇作品自体には至極満足してしまった私だが、日本配給においては不満が二点ほど。

   誰もが指摘するだろう「笑っちゃうモザイク」。あれ、フィンチャー知ってるの?

   最初、フィンチャーのいきすぎた悪戯かと思っちゃったよ・・・。

   それから、字幕のフォント(字体)。あの丸ゴシック(?)のデカいサイズは、

   WOWOW観てるような感じがして風情が削がれ、映像へのノイズ感あり過ぎだ。

   それに、デジタル上映の場合、字幕の「白」が余りにも発光しすぎてしまうので、

   あの太さと大きさでは(特に暗めのシーンなんかでは)浮きすぎだし邪魔すぎ。

   ソフト化の際は好いとしても、折角劇場で観る身にとって、あのフォントは無粋。

   でも、「あの方が見やすくていい」派が多数なのかもしれないし、趣味の問題かも。

 

◇ちなみに、実は私、原作もだいぶ前に読んでたりする。

   といっても、スウェーデン版の映画公開に当たり、予習のために読んだのだ。

   小さい頃、ほんの一瞬サスペンスにはまったことがある身としては、

   久々に読み耽った年末の二日間だった。ジャーナリスト出身だけあって、

   社会的な視座があちこちに埋め込まれている原作は確かに独特の魅力にあふれ・・・

   でも、第一部しか読んでない。文庫化されてるし、続きも読んでみようかな・・・

   と思いきや、実はスウェーデン版(映画)は一応三作とも観ていたりする。

   から、いまいち読む気起きず。

   今回のフィンチャー版公開にあたり意外だったのは、

   スウェーデン版(映画)のファン(というか高評価な人)が多かったという事実。

   それ以前に、「そんなに観られてたんだ・・・」という。

   映画公開時は(原作含め)思ったほど話題になってなかったようだったのに。

   ちなみに、『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』を観に行ったとき、

   予告篇でリスベット(ノオミ・ラパス)を見かけた後(『シャーロック・ホームズ~』で)、

   本篇でミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)が出てくるという不思議体験が面白かった。

   ちなみに、原作を自分なりにハマりまくって読んだ直後の観賞ということもあってか、

   スウェーデン版の映画(特に一作目)は正直イマイチはまれなかった。

   だから、本作観賞は結構フラットに観られた気がする。

   どう考えても「初見でスムーズにリアルタイム理解」が困難そうな本作なので、

   粗筋は頭に入っている状態で観られたことも好条件だったかも。

 

   本作を観ながら、

   「この静寂と閉塞の北欧感が貫かれてる感じ、好いなぁ~」と酔いしれていた反面、

   「でも、ラストでアメリカ行っちゃうんだよなぁ~」って思ってたから、

   ロンドンどまりの改変が加えられてたのは、正直嬉しかったりもした。

   更に、リスベットの変装詐欺旅行でも画面が「寒い」ままで通されており、

   北欧で冬に始まり冬に終わるクリスマス映画としての正しさとしても、クール。

   冷蔵庫から落ちたペットボトルをキャッチするミカエルもクール。

   ミカエルの見せ場がそこだけっていうのも、クール(笑)

 

 


マルグリット・デュラスの《生きてるものはいないのか》

2012-02-22 00:38:54 | 映画 ア行

 

石井(元聰亙)岳龍による『生きてるものはいないのか』が先日封切となった。

そして、アテネ・フランセ文化センターでその前日から始まった

「特集:映画作家マルグリット・デュラス」。

 

M・デュラス特集は昨日までで制覇しようという無謀な計画を立ててみるも、

初日から崩れた計画は「むしろ今回は完全スルーでいいや」といった、

いつもの《全か無か》な自分に・・・という悪癖を何とか乗り越え、本日(私的)初日。

 

そのまえに『生きてるものはいないのか』を観たわけだけど、

作品自体の感想としてはイマイチの一言で一蹴終了な印象だったのだが、

そのなかで「ちょっと気になったこと」が、その後に観たデュラスの作品

(『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』)と結びつき、

そのどの作品も(理由は違えど)深く語れぬ不向きと未熟を一遍に解決・・・

とまではいかないが、いつもの「こじつけ」(Imaginary Possibilities?)で

むすんで(無理矢理つなげて)ひらいて(勝手に展開)。

 

『生きてるものはいないのか』は、

シュールなのかヒニルなのか私には判然とせぬ《笑い》の要素がふんだんなようだが、

まぁそれにクスリとも出来なかったのは相性が悪かっただけだろうし、

期せずして同タイミングで公開の『ニーチェの馬』やら『メランコリア』やらで

抜群な終末観を映像物語として享受してしまった以上、

完全に別腹感覚を割り切るのも難しく(そういう狭量カッコ悪いけど)、

恐ろしさは欠片もなく、虚無感は微塵も駆り立てられず、

結局は学生の「映画道場」に過ぎないとしか思えぬ意義不明物件。

同じく映画を志す師弟による作品『大いなる幻影』もユーロスペースで観たことを想起。

こちらは、黒沢清が映画美学校の生徒と撮った作品だが、

この作品では明らかに師弟の共同作業故のケミストリーが感じられ、

監督の作家性による牽引が十全になり得ぬ不完全さを作品の強度として反転させていた。

しかし、『生きてるものはいないのか』では石井監督の「支配」が勝ちすぎてる印象。

つまり、学生映画っぽいのに、学生の息遣いは感じられない。

こんな漠然とした印象批評で否定的な感想を述べるのはフェアじゃないが、

具体的な気がかりとしては、「必然性を感じないアフレコ」の違和感がある。

それは台詞のズレのみならず、(台詞以外の)音全体の不自然さも含めて。

その「不自然さ」が演出ならともかく、手を抜いてるとしか思えぬ音だったので。

音楽やら音響やらにはこだわっているようだが(バウスの爆音上映は盛況みたいだし、

ユーロスペースでもかなりの爆音で上映してた)、そこが悪いほうに今風で・・・。

それって、ノリで全てをチャラにしようって戦法で、確かに石井聰亙って監督は

そういう気質で撮ってきた人なのかもしれないが、名前も変えたし年もとったし

立場も変わったし違う撮り方でつくったし・・・

第一、トーンもテンポもその手のものとは違うわけだから、

抜きどころが違うのではないだろか?というのが私的な不満だったりしたわけだ。

 

しかし、少なくともアフレコ音声と映像の(滅多にお目にかかれないレベルの)ズレは、

音声と映像の関係なんかを改めて考察すべき欲求というか必要性を駆り立て、

その矢先に観たマルグリット・デュラスがまさに格好のテキストだったという偶然。

そもそも、デュラスの映像作品におけるその二者の関係は、

全作品に渡って主要なテーマのようでもある。

 

『インディア・ソング』では、

映像の内容と関連するが必ずしもシンクロしない音声が終始「外から」流れている。

同録では当然なく、単純なアフレコでもない。

役者たちに別途「朗読」させた台詞や語りなのだ。

映像における役者が無言でも、そこには音声(台詞や語り)は流れ続ける。

画における沈黙にダイアローグやモノローグの音が重ね合わされることもある。

 

そこに何が生まれるかというと、そうしたズレが《時間》を生む気がする。

眼前の世界(映像)とは別の時間に存在していると思われる世界(音声)。

その狭間には絶えず《時間》を意識させられる。

それは、「回顧」による《記憶》と《現在》との隔たりであったり、

「内省」による《想念》と《実践》の誤差だったりする。

そして、そうした居心地の悪さによって、作品は取り付き端のない流動性を帯び、

世界を《所有》できる感覚を味わうはずの映像から、そうした快楽を奪い取る。

 

更に、『ヴェネツィア時代の彼女の名前』では、

『インディア・ソング』の音声トラックをほぼそのまま用い、

廃墟となった撮影場所の光景を緩慢にひたすら映し出す。

想い出の場所に立つと、「あの時」の声や音が聞こえてくる・・・

といった手法を2時間ずっと続けているようなもの。(そんな単純ではないが)

そうすると、今度は時間の重層性は更に増幅し、観客が「見るもの」も重層化。

つまり、スクリーンに映し出された現在を両の眼がとらえると同時に、

音声によって喚起される過去(『インディア・ソング』)の光景が脳内で重なり、

更には過去から現在へ至る過程の補完が想像力によって始まるだろう。

二重+アルファ( or 無限大)な映像を見ることになる観客は、

120分という客観的な数量的時間のなかで、

計り知れぬ主観的時間のなかを彷徨い続けることになってしまう。

 

何が生きていて(現在)、何が死んでいる(過去)のか。

見つめる光景に生きてるものがいないなか、

見つめている者のなかには生きてたものが生きている。

 

私はよく、映画を見ているときでも作品とは全く関係ないことを考えてしまったりする

集中力不足なところに時折悩まされてしまうが、そのときの感覚は非常に妙で、

眼と耳でとらえた世界と脳で描いた世界が交わらないのに同時並行的に存続してる。

眼でとらえた部分は記憶からはみ出てしまう(残っていない)こともしばしば起こるが、

耳でとらえた部分は脳に描いた世界と融合してしまうようなことがある。

音楽が一瞬にして脳に《記憶》を拡げる力を有しているのは、そのせいかもしれない。

 

『生きてるものはいないのか』で感じた違和感は、

単純なズレという誤差によるものだけでなく、映像と音声の時間が重層化することで、

映像において起こっている《終末》とは別の時間(後の時制として認識してしまう)を

感じて起こる弛緩(緊迫とは真逆)のせいだろう。

単なる閉塞とは異なる《ユルイ終末》の演出としてそうした効果を用いていたとしたら、

(そうやって構築された「世界観」は全く好みではないが)お見事!完敗である。

 

基本的に女流作家というものに苦手意識のある自分としては、

世界を広げるためにも何とか機会をみつけてはそうした意識を払拭したいと常々思い、

小説よりは映画の方が入り易い気もして(現に好きな女性監督なら結構いるし)、

今回の企画はもってこいな気がしていたが、

予習がてら読んだデュラスの中篇と戯曲は正直好みではなかった・・・

しかし、こうして映像作品から入ってみるとやっぱり得るものが大きい。

彼女の映像作品では、文学者だけあって言葉や音声が大きな意味をもつようだ。

それゆえに、原語(フランス語)のまま感覚的にも享受できたらどれ程の享楽か。

そんな叶わぬ自分とのズレも想像の余地として《奥行》化を図りつつ、

今週はデュラスの世界に心酔してみたい。

 

 


トーキョーノーザンライツフェスティバル2012(3)

2012-02-20 12:28:52 | 2012 映画祭(その他)

 

大盛況のうちに終了したtnlf2012。

実はこの「北欧映画の1週間」、スカルスガルド祭りでもあったことに今更気づく。

まずはtnlf2012前夜祭として公開された(違います)『ドラゴン・タトゥーの女』で、

ハリエットの兄役としてステラン・スカルスガルドを拝んだ直後には、

幻の珍作『友達』で二十年以上前の彼に遭遇してしまう。

そして、tnlf201のオープニングにしてクロージング作品『シンプル・シモン』で

シモンを演じたのは、ステランの息子であるビル・スカルスガルドだったのだ!

おまけにtnlf2012前夜祭に出演したステランは、後夜祭『メランコリア』にも出演。

しかも、息子のアレクサンダー・スカルスガルドも新郎役で出演してる!

他にも何処かで出没していそうな気がする、スカルスガルドな1週間。

おそるべし、スカルスガルド包囲網。

 

さて、今回の上映作品のなかでも極私的待望作として裏最重要だったのが、

『セレブレーション』(1998)。

昨年公開された『光のほうへ』も素晴らしかったトマス・ヴィンターベアの出世作。

初見は1999年。それも、旧ユーロスペース(現シアターN)にて!

配給もユーロスペースだった作品だ。

駆け出しの映画ファンだった当時、生意気にも私的年間ベスト10に入れた記憶あり。

「ドグマ95」作品にハマった(ということが格好好い気がした)自分は、

続々公開されてたドグマ95作品を律儀に観に行ってたものだった。

偶然か必然か、シネマライズでかかることが多かったりして、

『ミフネ』(1998/ソーレン・クラーク=ヤコブセン)

『ジュリアン』(1999/ハーモニー・コリン)

『キング・イズ・アライブ』(2000/クリスチャン・レヴリング)

なんかはいずれもライズの地下で観た気がする。どれもガラガラだったけど。

今や世界的にも注目を集めるデンマークの女性監督の二人、

『未来を生きる君たちへ』のスザンネ・ビア(『しあわせな孤独』)や

『17歳の肖像』のロネ・シェルフィグ(『幸せになるためのイタリア語講座』)も

参加していたりするから、実り多き通過儀礼であり修行だったのかも>ドグマ95

発起人のくせして「いち、抜けたっ!」な調子で

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』撮ったラース・フォン・トリアーだって、

いまだに(観客迷惑な)手持ちカメラ(手ブレカメラ)好きすぎてやめられないし。

昨今のインディペンデント日本映画なんかにも、影響が顕著な気がするし、

後半は失速してしまったとはいえ、やっぱり重要なムーブメントを生んだのかも。

 

で、そのドグマ95作品の記念すべき1作目という『セレブレーション』。

初見当時は、物珍しく感じた手法やフォーマットにばかり眼がいきがちだったが、

こうして再見してみると、物語の牽引力は途轍もないし、

複雑な内面の戯画化が見事に成功している傑作だ。

 

本作から受ける印象の特徴は、

新旧綯交ぜな「古典的前衛」といった趣。

それもそのはずで、ドグマ95の純潔の誓いとは

《回帰》と《解放》を求めた、回顧と自由のための契約だったから。

 

本作では6つの「戒律違反」をおかしているとして、

トマス・ヴィンターベアは懺悔の書を記している。

その内容は以下の通り。(本作のパンフに掲載)

 

私は、あるテイクで、黒い布を使って窓を覆いました。

   これは小道具の追加ではなく、証明の調節の範疇と見なされるべきだと考えます。

 

私は、トマス・ボー・ラーセンが映画で着るスーツを購入する埋め合わせとして、

    ギャラを上げたことを知っています。

 

同じく、トリーネ・ディアホルムとテレーセ・グラーンも似たようなやり方で、

    服を購入したことを知っています。

 

私は、屋敷の受付デスクがなかったので、それを作るよう手筈を整えました。

    しかし、そのデスクを作るための材料は全てロケ現場にあったものです。

 

クリスチャンの車と携帯電話は彼のものではありません。

    しかし、それはロケ現場にあったものです。

 

私は、あるテイクで、カメラをマイクのブームに固定しました。

   従ってそこでは部分的にしか手持ちの状態になっていません。

 

以上のような「告白」によって、「赦し(=ドグマ作品としての承認)」を求めている。

これを読んでもわかるように、彼(ら)は明らかに十戒を楽しんでいる。

トマス・ヴィンターベアはインタビューでも、ドグマの「制約」を「解放」と捉えている。

それは従来の撮影スタイルという呪縛からの解放であると同時に、

創作意欲の源泉にもなり得るものだという。

 

「映画の中で音楽を使ってはいけない、と規則にあるとします。

僕はどうするかといえば、映画の中に自然と歌をたくさん盛り込むようにします。

この種の制限によって多くのアイディアが生まれるのです。

ドグマ映画の特徴はすぐに群像劇になることです。

ペーソスにあふれた映画になります。

なぜなら、すべての微妙な感情を音楽を使って誇張することができないとしたら、

残ったものを使って表現するしかない。

つまり、それはキャストの俳優たちを最大限に利用するということになるからです。」

  (パンフ掲載のトマス・ヴィンターベア監督インタビューより)

 

ちなみに同インタビューでは、彼の大好きな映画ベスト3も語ってる。

それによると、『ファニーとアレクサンデル』(或るシーンを「盗用した」と述懐)と

『ゴッドファーザー』、三番目には10~15本の映画が並ぶと答えている。

ちなみに、『ゴッドファーザー』からも山ほど引用していると述べた上で、

プロットには多分の影響があったとして、本作のクリスチャンとミケルの役柄は、

『ゴッドファーザー』のジェームズ・カーンとアル・パチーノから発想を得たものだとも。

しかし加えて、「言うまでもなく、比較しようなんて気は毛頭ありません」と恐縮。

私としては、比較には相応しくないが、その対照性(壮大とミニマムな作風)は

継承と更新による理想の換骨奪胎を見る気がした。

 

また、群像劇となると関係性から個人を浮き彫りにするアプローチがとられがちだが、

本作においてはあくまで個人を起点とし、個性の衝突や交錯によって関係がうまれ、

変容が一つずつ重ねられている印象。キャラクターが全体に収斂されることなく、

キャラクターが思い思いに奔走しながら総体の醸成を拒むかのようなリアリズム。

人間の、人間関係の核心に肉迫しようと凝視を止めぬ監督の執拗な眼差し。

その一方で、真剣や深刻が最高の滑稽になりうるブレンドの達人でもある。

意外と場内はそれほど笑いに包まれなかったものの、

近くに座っていた北欧人と思しき観客と一緒に(?)盛り上がって観てました。

ワイズマン作品で時折襲われる笑いの不意打ち、不謹慎な笑いという極上の滑稽。

そもそも、セレブレーション(儀式)というものはナンセンス要素の宝庫だし、

そんなナンセンスな空気に包まれて、異界のようでいて現実そのものの空間は、

機微をデフォルメ顕在化。演劇的になるのも当然で、儀式や宴がそもそも「演じる」場。

裏の裏が表のように、演じる人物が「演じる」時、そこに生まれるリアリティ。

演者と役の境界は消され、現実と虚構の整理は心地よく歪み出す。

作品を創る場合でなくとも、カメラを向けられると人は自動的に

演技せねばという強迫観念にかられてしまう気がする。

それは他者の眼というカメラも同様で、

そうすると、やはり私たちは常に「演じて」いるわけだろう。

そして、「演じている」ことまでを捉えてこそのリアリティなのかもしれない・・・

などと考えてしまうほど、《自然》を人工的に生み出そうとした誇張のドラマのなかに、

唯一無二な人間模様が浮かび上がってきた本作。

極めてローカルで、極めてパーソナルなドラマであるにもかかわらず、

日本における「一族モノ」とも通底しそうな普遍性がみなぎる、偉大なる小品だ。

 

ちなみに、作中で長女の黒人の恋人を乗せてくるタクシーのドライバーは、

トマス・ヴィンターベア監督自身が演じて(?)いる。

ヒッチコックと一味違うカメオ出演。

バッチリ顔を写して自己顕示欲。

それも納得のハンサムぶり。

 

トマス・ヴィンターベアはその後、世界的に(というか、メジャー的に?)

飛躍すべく『It's All About Love』という劇場未公開作 in Japan を撮っているのだが、

この作品のキャストは豪華。ホアキン・フェニックス、クレア・デインズ、

そしてショーン・ペンまで。それなのにDVDスルー。

何故なら、邦題が『アンビリーバル』。近未来ラブサスペンスなんだと。

IMDbでも5点台と怪しいが、Rottenなんて踏んだり蹴ったりだもんね・・・

自分も一度レンタルしながら、怖くて(嘘、単に時間なくて)未見で返却。

確実にトマス黒歴史。

 

それを払拭すべく、盟友ラース・フォンン・トリアー脚本の『ディア・ウェンディ』。

これはなかなか面白く観たんだけど、

公開劇場であるシネカノン有楽町はなくなり(今は角川シネマ有楽町に)、

日本で配給したワイズ・ポリシーも倒産。やや不吉な印象の作品だ。

 

そこで心機一転(?)、

地元に戻って楽しく撮ろうって感じだったと推測される、

その名も『A Man Comes Home(En mand kommer hjem)』。

批評的な成功は特に収めていないようながら、

ノルウェーの映画祭で観客賞獲ってるみたいだし、

何とかして観てみたい気も(・・・来年のノーザンライツでいかがでしょうかっ!?!?)

 

そして、皆さんご存知の『光のほうへ』に至るわけ。

こちらは、久々にドグマ95っぽさも漂いつつ、

人間の真実を剔るように凝視する面目躍如な秀作で、

『セレブレーション』で惚れ込んだ彼の完全復帰を心底喜んだ。

 

次回作は、今や国際的に活躍するデンマーク俳優マッツ・ミケルセン主演の

Jagten』という作品で、トマス作品常連のトマス・ボー・ラーセン(※)も出演する。

タイトルは、デンマーク語で「追う」とか「狩る」とかの意味っぽいので(たぶん)、

これはまた、『光のほうへ』(原題は水攻め拷問を表したりする『Submarino』)

に引き続き、なかなかシビアな作品が届けられそうで大いに期待です。

 

  ※トマス・ボー・ラーセンのIMDb掲載写真が変・・・

     これ、『セレブレーション』の一場面だけど、二人とも別人だし。

     たまにこういうのがあるからIMDbはなぁ・・・面白い(笑)

 

 

そんな十年以上ぶりの再会に胸躍った『セレブレーション』に続き観賞したのが、

生演奏付のサイレント映画『魔女』(1921/ベンヤミン・クリステンセン)。

当初は日曜の回でのみ予定されていた柳下美穂さんの生演奏付き上映が、

彼女の厚意により2回目の上映でも実現!!これは観ないわけにはいかない!!!

そう意気込んでワクワクドキドキ・・・そしてウトウト、ちょっぴりスヤスヤ・・・。

昼下がりという睡魔暗躍タイムもあって、あの美しくも妖艶なピアノの音色が、

瞼にかかる重力を増幅増幅増進増進、子守唄・・・。

でもでも!あの職人技には感歎の嵐!(じゃぁ、寝てんじゃねぇーよ。)

ライブ感は言わずもがなだけど、

スクリーンと演奏者、そして観客という三者で語らうトライアングル・スパイラルは、

新しい(古い、のか?)観賞スタイルとして、確かに超絶魅力で迫ってきました。

『アーティスト』公開という奇遇なタイミングも手伝って、

昨今大盛況のこの観賞スタイルは、映画文化の新たな救世主になるかもしれない。

昔ながらに還る新しさ。そういった意味では、ドグマ95とも通ずるところがあるな。

(無理矢理こじつけんでも・・・)

 

この日は、次の回は休んで(というか他の映画観て)、

オラファー・エリアソンのドキュメンタリー(『Olafur Eliasson : Space is Process』)も

観たんだけど、これが個人的にはtnlf2012の最大の収穫級に面白かったので、

機会があれば別途まとめてみたい。

 

本当、ジャンルも時代も多様な作品群や趣向を凝らした企画やイベントで、

規模に走らず質の向上にむかう姿勢に好感だったトーキョーノーザンライツフェスティバル2012。

来年も開催されそうだし、上映してほしい作品を今からチェックしておこっと。

(爆音映画祭みたいにアンケートとかとったりしないのかな?)

映画ファンにとっての2月の風物詩。寒さが好きになる(?)一週間。

(今更ながらですが)インディペンデント精神旺盛かつ歓待感心なスタッフの皆様、

本当におつかれさまでした&ありがとうございました。

 

 


最高の人生をあなたと(2011/ジュリー・ガヴラス)

2012-02-19 16:33:05 | 映画 サ行

 

時代はウィズ・エイジング。

 

美しく年齢を重ねたい全ての女性に贈る、ビタースィートな応援歌。

 

  とか、

 

花も実もある、女の生き方

 

  とか、

 

Bunkamura ル・シネマ ほか 全国順次ロードショー!

 

  とか、

 

どう考えても中高年女性(いわゆるF2F3)狙い撃ち

F1でも人によっては反応するでしょうが)な宣伝を見る限り、

明らかにM1なんておよびでない・・・場内は見事に綾小路きみまろ客層。

ノーザンライツフェスティバルの合間に訪れた平日夕方のル・シネマでのこと。

マダムな館へは足の向かない私としては、ル・シネマなど忌避必定劇場ナンバー1。

しかし、注目女性監督の中でもイチオシ格なジュリー・ガヴラスの新作は早く観たい!

ということで、「え?どこ改装したの?」(正解はトイレとか?)なル・シネマに。

「1」よりはまだ「2」の方がマシ(俺のなかでね)なので丁度好かった。

 

にしても、ハコとしての苦手意識とは裏腹に、

今後のラインナップの無双っぷりはハイパー優良な傑作づくしではないですか。

恵比寿ガーデンシネマもなくなり、ウディ・アレンやダルデンヌ兄弟などの旗艦劇場化?

本作の監督であるジュリー・ガヴラスの前作(佳作!『ぜんぶ、フィデルのせい』)も

恵比寿ガーデンシネマで上映だった。恵比寿GCもシネセゾン渋谷も好きだったのに。

「劇場」らしいハコ(スクリーンの大きさや天井の高さ、段差のある客席)がつぶれ、

視聴覚室レベルの劇場に優良作品が集中していくミニシアター事情は切ない。

まぁ、ル・シネマはハコ的にはそんなに嫌いじゃないんだけど、客層や雰囲気が・・・

あとシアター・コクーンからの音漏れが最悪で・・・改装で解消されたことを祈る。

 

さてさて。

そんなマダム御用達劇場で(事実上)中高年限定公開で終わるのはもったいない、

老いも若きも楽しく考えられる「老い」の話。

ということは、「死」も「生」も哲学する話。

原題は『Late Bloomers』。つまり、「遅咲き(晩成型)の人」たちである。

なかなか示唆に富んだタイトルではないか。観終えて改めて思ったりする。

 

思春期など大昔。思秋期を経て、残すは長く仄暗い冬ばかり。

そう考えて人生の「終え方」に向けて準備するばかり?

それとも、「同じ」春を求めてアンチ・エイジング?

いいや、冬とはその先にある春を待つ季節でなかったか?

雪の下で凍えそうになりながらも春の開花を夢見る蕾たちがじっと待っているはずだ。

人生に春は一度しか来ないのか?  春は毎年巡って来るというのに。

花は一度咲けば萎むだけ?  人生は一年草?

確かに、「同じ花」を咲かせることはできないだろう。

でも、多年草だって「同じ花」を毎年咲かせているわけではない。

その時その時の根や茎からしか生み出され得ぬ花が咲くのだろう。

二十歳に咲いた花も、六十歳で咲かせる花も、そのときにしか咲かせられぬ花だから、

それなりの魅力や愛で方あるだろう。新築にはない築数十年の家の風格だ。

「late」は想定された基準から「遅れてる」こと。

基準を若年に設定すれば、老年は「late」であり続けるしかない。

しかし、なぜ今生きている自分の基準を現在に設定できぬのか。

そうすれば、今は決して「late」じゃない。

「late」は常に「future」で、未来に咲く花の蕾を内包し続ける今がある。

一人の一生は、一つの花の一生ではありえない。

一人の一生には、無数の花の一生が常にどこかで咲き誇る。

早咲きも、遅咲きも、今咲き(?)も。かつて咲いた花への羨望同様に、

いま咲いてる花を鑑賞できる心の潤いを、これから咲く花を憧憬できる転回を。

そんなフリー・スピリットがありさえすれば、It's never too late !!!

老いて尚生まれ変わる「テクニシャン」。

 

 

◆世界的な建築家として活躍してきたアダム(ウィリアム・ハート)。

   本作の冒頭でも、名誉ある建築賞で表彰を受けてのスピーチを始めるアダム。

   長々と自らの半生を語る彼に辟易し、妻のメアリーは会場から出てきては

   ロビーの椅子に腰掛ける。「私の人生なら5分で話せるわ」。

   メアリーの母は言う、「アダムは退屈なプロセスを楽しんでいるのよ」。

   確かに男は、サクセス(結果)よりもサクセスストーリー(過程)の語りに陶酔する。

   だから、苦労話だとか失敗談も大好きだ。

   女性にしてみれば、「でも結局ダメだったんでしょ?」な話に過ぎなかったとしても。

   男にはどうやら元来、《後ろ向き》なきらいがあるらしい。

   過去を「振り返る」のが好きなのだ。想い出の品々捨てられないメンタル。

   年々拡がる風呂敷いっぱいに詰め込まれた《過去》を時折広げて見ては、

   そこに未だ燦然と輝いて見える《栄光》に飛びつき、同じ感覚を今に求めてしまう。

   もしくは、そこにないコレクションに止まぬ欠乏感を抱え、叶わぬ補填に躍起になる。

   そこ(過去)にない「栄光」を、今が埋めることなどできぬのに。

   視点はいまだに若き日の自分に居座った、頑なな遠近法。

   眼は変わった(老眼)のに、眼はそこに留まるだけじゃ・・・

 

◆妻のメアリー(イザベラ・ロッセリーニ)も最初は、「老い」に抵抗しようとする。

   しかし、彼女は若年へ逆行して(若年を模倣して)《世界》を変えようとはしない。

   自分を変える不自然に走らず、他者(環境)を変えて自然なフィットを求める。

   社会が求めるスピードや秩序とは相容れなくなった自分の状態を受け容れて、

   それを受け容れようとしない社会の枠組に無理矢理はまろうとしたりしない。

   それは彼女の母であるノラも同様で、彼女は孫たちに人生の秘訣をさりげなく教授。

   「退屈ってのは、健康や想像力にいいものなんだよ」と。心を亡くす忙しさ。

   若ければ自分の身体を労わる間もなく、ハイスピードに進行する癌細胞。

   次から次に押し寄せる仕事を捌いているうちに、想像の余地なきナローな現実。

 

◆本作の冒頭で、つい最近のことの記憶すら欠落する感覚に見舞われて、

   アルツハイマーを疑って病院へ赴くメアリー。これは、《現在》の空洞化への危機感?

   一方、アダムは自ら《現在》を空洞化するような「若返り」を切望してしまう。

   幸福とは《現在》から生み出してこそ、体感実感できるものなのだろう。

   写真をみつめて感じる幸福は、《過去》の自分が感じてた幸福の再生でしかない。

   昔ながらの知己との再会は、《過去》を介すも《現在》の互いが交わす幸福。

   《過去》が失われることはない。「在ったこと」はなくならない。

   「ないものねだり」の実態は、「あったものねだり」に過ぎなくて、

   それは今でも「(記憶に)あるもの」だから、再現はどこまでいっても複製フェイク。

   それよか、過去は過去で慈しみ、今は今で活き活きと。未来はまだ見ぬ愛しい過去に。

 

◆本作における人生再考の優良テキストたる所以は、世代の縦断にありそうだ。

   しっかりと三世代の煩悶と世代間の交流が描かれる。

   「わたしたちのロールモデルはないのよ」と嘆くメアリーだが、

   すぐ傍に、学ぶに値する先輩(母であるノラ)がいたりする。

   結婚に失敗したメアリーの娘ジュリア(ケイト・アシュフィールド)は、

   母から長続きの秘訣を聞く。話す母も、自らの問題を自覚し、再考を始めたり。

   一方で、男は世代間の交流や理解に尻込みしがちだが、

   「他人」には打ち解けられる社交(?)性を兼ね備えていたりもする。

   (アダムと義母ノラの関係のように。所謂「嫁姑」問題とは対照的な関係?)

   監督のジュリー・ガヴラスは、自ら見てきた両親の姿を本作に反映させていると

   語っているが、それはメアリーの娘が「ジュリア」という名であることからもわかる。

   ジュリーの父は名匠コスタ=ガヴラス

   本作におけるアダムのリアリティのルーツが自ずと浮かんできたりもする。

   Costa-Gavrasは現役の映画監督だが、

   確かに「名誉」や「貢献」を冠された表彰を受ける身になりつつあって、

   今年のフランス映画業界誌の映画賞でも名誉賞を授与されている。

   ここ日本でも長らく新作が一般公開されぬ名匠の一人。

   数年前にフランス映画祭で上映された『西のエデン』は

   彼らしい風刺や告発も秘めつつ、瑞々しい魅力に満ち溢れた佳作だったのだが・・・

   昨年フィルセンで再映された『斧』(口惜しくも未見)も大好評だったようなのに。

 

   そんなジュリーは、その父やジャック・ノロの作品で助監督をしながら映画を学んだ。

   「父は、映画は重要な社会、政治問題を扱うべきだと私に教えました。

    映画には意味と信念が必要だと。ジャックからの影響は全く異なります。

    私が助監督として参加した彼の作品は、全員素人の役者で撮影されました。

    そして、ジャックと一緒に4ヶ月間のリハーサルに参加したのです。

    そこで得た貴重なレッスンとは、我慢強さ、心理学、演出、

    自分が欲しているものは何か明確にわかっていながら、

    それを直接伝えずに彼らに自ら発見させることなどです。」

    (Movie Walker ジュリー・ガヴラス インタビュー記事より)

 

◆バスルームに手すりを取り付けたメアリー。

   識らず識らず手すりを握ってしまったアダム。

   それが自然ということだ。自然こそが快適なはずではないか。

   「日本での事情はわかりませんが、フランスではとかく若さが称賛され、

    老いはネガティブにとらえられがちです。

    私にとってそれはとても興味深い事象でした。

    ただでさえ老いると様々な不都合が生じますが、

    さらに周囲から否定されていると感じるのはとても辛いことです。

    老いについての私個人の経験はこうです。

    もちろん、本作の登場人物よりずっと私は若いのですが、

    数ヶ月前に私は40歳になりました。

    そして、もう20歳の頃には決して戻ることはないのだということを考えた時、

    あらゆる意味で今までより心地良く感じたのです。

    60歳になる時も、より気分よく迎えることができたら良いと思っています。」

   「老いについては皆、同じ立場にいると思います。

    老いは死に近づきつつあることを意味しますから。

    だから私たちは皆、老いを恐れているのです。

    そして若さを軸にする我々の社会では、老いは状況の悪化を意味します。

    この映画のテーマは、老いや夫婦、家族関係に楽観的な視点を持つことにあります。

    そして、それはとても普遍的なテーマだと思います。

    日本の皆さんもこの普遍的なテーマを是非お楽しみください。」

    (Movie Walker ジュリー・ガヴラス インタビュー記事より)

 

   世界有数のハイスピードかつ逆三角形年齢分布な高齢化社会、日本。

   お金の問題(年金・医療など)は頻繁に絶望と失望と無謀を繰り返し報道するも、

   誰もが経験しゆく「老い」について広く語られることはほとんどないのも日本の現況。

   「老い」は老年だけのものではない。むしろ、これから老いる身の我々が考えてこそ、

   適切かつ豊かな準備が可能になるのだろう。

   「老い」が《後ろ向き》であるはずはない。むしろ、究極の《前向き》ではないか。

 

◇と書きながら、当記事冒頭ならびにしばしば書いている自らのジジババ批判を省みる。

   そうした老年との間に絶対的な距離をとろうとする姿勢はやはりアンチ・エイジング。

   よくないな、とは思いつつ、やはりここには「世代間交流」の不足があるように思う。

   勿論、若年からの積極的な「問い」が必要だとも思うけれど、

   年長者は敬われることを待っているだけで好いのだろうか。

   儒教(というか『論語』)ですら、そんなことは言っていない。

   世間の儒教への誤解は甚だしいことが、『論語』を読むと痛感するが、

   そんな『論語』ブームのなかで親しんでいるはずの老年こそが、

   誤解を存続させてやないかい?

   儒教の説く「孝悌」(親など年長者を敬う徳)は、

   年少者に《尊敬》の念を無条件に強要しない。

   年長者が敬われるに値する人格を有することを前提としている。

   つまり、双方向の交流によって敬う精神をやり取りしているイメージだ。

   そう考えるならば、やはり年長者(老年)の美しき姿こそが第一歩にある気がする。

   若年と老年の狭間に差し掛かろうとしている三十代。

   而立と不惑の間。老年と若年の「かすがい」になるべく努めつつ、

   後輩(若年)に慕われる先輩(老年)になれるよう、

   遅きに咲かせる花も夢見る気持、今から持てたら好いかもしれない。

 

◇下(若さ)を見れば自分が「最果て」な気がして茫然とするかもしれないし、

   相対的な先の短さに気が滅入ったりもするだろう。

   しかし、下に比べれば上(老い)の際限なさは比較にならない。

   現に存在している老年のみならず、姿を消そうが《存在》し続ける無数の故人。

   そんな彼らが語ってくれた人生や、彼らが綴った精神を、私たちは「読める」のだ。

   時には何百年前の、未踏どころが見たことすらない土地で生活していた人物の

   《経験》に触れることができるのだ。映画にしろ、音楽にしろ、絵画でも、文学でも。

 

◇メアリーを演じたイザベラ・ロッセリーニの父は、巨匠ロベルト・ロッセリーニ。

   「二世」と見られる点では、ジュリー・ガヴラスと共感できる部分も多かったかも。

 

◇アダム(ウィリアム・ハート)を誘惑(?)する若い女マヤを演じるのは、

   アルタ・ドブロシ。どこかで観たことあると思ったら、『ロルナの祈り』のロルナ!

 

◇末っ子のベンジャミンを演じるルーク・トレッダウェイは、注目の若手俳優のようだ。

   ちなみに、彼の実際の父親も建築家だし、実際の母親も教師って、本作と全く同じ。

   双子の兄弟ハリー・トレッダウェイと主演した『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』は

   日本でも公開されそこそこ注目されたりもした。

   (観てたのに全然気づかなかった・・・)

   ルークは、昨年には本作以外にも

   デヴィッド・マッケンジー(『パーフェクト・センス』)監督作

   『You Instead』に主演したり、

   大好評作『Attack the Block』にも出演してたりする。

   今年公開作も多数あり、かなり売れっ子になりつつあるのだろうか。

 

◇ウィリアム・ハートは次回作で、サンドリーヌ・ボネール監督作に主演。

   ("焼け木杭" ?)

   つくづく「アダム」と正反対な夫婦生活だよな(笑)

 

 


トーキョーノーザンライツフェスティバル2012(2)

2012-02-16 23:28:46 | 2012 映画祭(その他)

 

TNLF2012でも極私的最重要作品である『友達』を観賞。

語れるレベルには遠く及ばぬが、安部公房は好きで、本作の原作も随分前に読んだが、

原作戯曲よりも、その元となった小説『闖入者』を先に読んだ私にとっては、

そこに隅々まで刻み込まれた近代社会の宿命(とりわけ日本における)が

鮮烈かつ痛烈で、社会科学などは一瞬にして矮小化するほどの「教科書」だった。

『闖入者』では、民主主義の存立基盤である(と曲解されている)多数決原理を、

シニカルながら笑えぬリアリティを刻印しつつ、「ありえない」話が「ありうる」どころか

既に身近で起こり続けていることの底恐ろしさを喚起し続ける。

傑出した批判精神が、単なる《不条理》を軽く凌駕し、日常の現実へと舞い戻る。

 

その物語から生まれた、もう一つの現代日本の「世間」論たる『友達』。

数や論理の暴力性が「闖入」との認識を「友愛」コーティングでソフィストケイテッド。

もはや数や論理によって打倒しようとするまでもなく、やさしく懐柔すればよい。

曖昧模糊が魑魅魍魎する日本社会(というより世間)がモダンという晴れ着を纏い、

いよいよ「洗練」されて来て、歪で不格好な己などいくらでも隠せようぞと言わんばかり。

 

そもそも私は「友達」という言葉が大嫌いだ。

それは「友」一人を指すはずなのに、複数形(~達)だから。

(日本語には、「私達」という「私」の複数形という恐ろしい表現まである・・・)

まぁ、言語学的には曲解も甚だしい認識かもしれないが、

その認識が現状と然程かけ離れていない悲劇も散見。

必ずしも、西洋流の確固たる「個人」観こそが日本でも不可欠な理想とも思わぬが、

西洋由来の思想でつくられたシステムを採用している限り、

日本人の認識を西洋流に合わせるにしろ合わせないにしろ、

形式的運用レベルなら支障ないなんてことはない。

システムが心を蝕んで、その心がシステムを濫用してる現実がある。

「a friend of mine」も「my friends」も「友達」な社会において、

《個人》であることは難しい。「友達」に加わるか、加わらず社会不適合に身を処すか。

際限なき流動化によって企図や意図を軽く追い越すネットワーク社会においては、

そのような古くさい問題意識も意義なき遺産となろうもの。

しかし、いくらメンタリティが誘導されようが、身体がそれに追いつくとは限らない。

現に、脳社会と実社会の乖離は進行し、

私のようにそれを巧く埋められぬ不器用な者だって少なくないはずだ。

とはいえ、そうした「不具合」はいつの時代も、どこの社会にも発生するもの。

そのような不備こそを見つめ、時に糾弾しながらも一方で愛でてしまう、

そんな矛盾を受容する強靭さこそがポストモダンとかいうやつ?

 

『友達』は数年前に岡田利規が演出した舞台をシアタートラムに観に行ったものの、

(私は演劇に関しては完全に門外漢なので、あくまで個人的感覚では)全く楽しめず、

物語における表層のドラマだけが展開。《不条理》は個々の演者の動きや発声に終始し、

舞台全体(人物たちが総体として浮かび上がらせる関係性)では何も語らず・・・

といった、安部公房の世界観(あくまで個人的な思い込みですが)とは甚だ懸隔。

そんなこともあってか、今回の映画版『友達』への期待も正直ややアンビバレント。

 

結論から言えば、原作に強い思い入れがある身としては極度の違和感を覚えるも、

安部公房とは別種の珍妙な歪さがユニークな不条理として成立している気もした。

ただ、それはおそらく、制作過程での不運な遅滞による苛立ちが画面に充満し、

ペンのみならずメガホンまで持つことになった監督の、

「初」なりの拘りの新鮮さとそのための拘泥ぶりが見事なまでにアンバランスで、

80年代という小っ恥ずかしさまでブレンドされて、深夜映画の王道イメージに帰着。

 

シェル-オーケ・アンデションに安部公房が直接脚本を以来したという逸話は聞くも、

完成した作品を安部自身がどのように観たかの弁は残っていないのだろうか。

あるいは、ここまで限定的にしか日の目をみなかったことが、それを物語ってる?

 

安部公房の作品の興味深さは、その不条理さ(そこから湧き上がる興奮含め)が

極めて普遍的な面白さを内包しながらも、

極めて日本の現実を浮き彫りにする点だと私は考える。

そういった点では、エキゾチシズムで国際的評価を得るようなタイプとは異なり、

社会の深部をえぐるような辛辣さのダイナミズムに打ちのめされる。

勅使河原宏による『砂の女』や『他人の顔』といった成功例があるものの、

極めて「映画向き」とも思える安部作品が今日まで

映像作品としての傑作にあまり結びついていないのは残念でならない。

確かに物語の強度は半端じゃないが、挑戦しがいのある作品群に思うのだが。

『第四間氷期』なんて、(映画化の話があったようだが)絶対傑作映画に化けそうなのに。

ただ、この手の作品を見事に捌いて再構築できるタイプの映画監督は、

日本には確かに稀有だろう。監督云々より、娯楽と文学と社会性の共存自体、

日本の映画界がもうだいぶ前に忘れてしまった世界観かもしれない。

だからこそ、安部公房は《他者》に望みを託したのかもしれない。

しかし、スウェーデン人によって読まれ、カナダで撮られた物語には、

安部作品のもっている閉塞感よりも、荒涼たる世界における孤立感が際立っていた。

「息がつまりそう」な過剰コミュニケーションよりも、

「息がとどかない」コミュニケーション不全。

前者に物語の肝を感じ続けていた自分としては、

映画の別物感をすんなり受け容れることのできぬまま、戸惑い続きで観賞終了。

 

時代が時代なだけに(日本ではバブル絶頂期?)、

拝金主義やリバタリアニズムなどへの警告が色濃く感じられもして、

主人公を戒めようとする向きが余りにも強すぎたように思う。

原作では、彼を肯定するでもなく否定するでもなしに、

等身大な小市民として感情移入を促すつくりだったように思う。

この映画では、「家族」たちと競うかのように策略家に徹して(実践で対抗して)おり、

理念や思想といった背景は極端に遠ざけられている気がしないでもない。

安部公房の作品におけるメタ化されたイデオロギー闘争のような醍醐味を、

映画版に垣間見られなかったのは残念だ。

 

てっきりマイナーな役者ばかり(しかも、スウェーデンの)が出演してるんだろう・・・

という勝手な思いこみを裏切り、スクリーンに最初に映し出される「Lena Olin」の文字。

すると、主人公を演じるのは『ヤング・ゼネレーション』主演のデニス・クリストファー。

おまけに、『ドラゴン・タトゥーの女』でハリエットの兄を演じた

スウェーデンを代表する俳優ステラン・スカルスガルドまで出てる。

おまけに、撮影はカナダのカルガリーで、使用言語は英語。

スウェーデンと日本の共同制作。

この珍妙さは確かに、不思議な魅力かも。

ただ、エンディングで流れる男女デュエットが

Almost Paradise(『フットルース』愛のテーマ)っぽさ全開で、

時代の宿命かもしれないが、「結局そういう映画なの?」的遺恨がのこる(笑)

ただ、秘かに好きな『マネキン』(1987)を勝手に想起したりもして、

奇天烈ワールドの展開は嫌いになれなかったりもした。

 

◇今年のTNLFでは、各作品の本篇上映前に

   オーレ・エクセルのショート・アニメーション(5分程度)が流れるのだが、

   これが上映作品毎に異なっていて、重複はないようだ。

   フェスティバルとしての統一感を出しつつ、本編までの適度なクッション&助走。

   基本的に「ほのぼの」系が多いみたいだが、

   『友達』上映前の短篇は数分の内に展開されるドラマチックな慈愛のドラマが切なくて、

   本篇前にジーンとし過ぎて「どうしてくれんだよぉ~」な気分になっちまった。

   自己犠牲にしんみり来た途端、他者犠牲を厭わぬ不条理劇を見せられる・・・

   意図した組み合わせなら、なかなか乙ながら鬼畜な所業(笑)

 

 

同日には、『ネクスト・ドア』(2005/ポール・シュレットアウネ)も観たんだけど、

小品ながらも味わいのある作品なのはわかるけど、それほどグッと来ず。

理由の一つとしては、北欧っぽさ(これはノルウェー映画かな)がやや漂うも、

どうしてもハリウッド風味というか「ユニヴァーサル」過ぎるつくりが気になった。

『ラップランド・オデッセイ』にしてもそうだったけど、日本の娯楽作品でもしばしばそうだが、

世界中で似たような構造や語り口、見せ方が氾濫しつつある気がして、

グローバリゼーションによる退屈な展開を寂しく思ったりして。

また、この映画祭は平日も8割超の入りが続いている感じだったものの、

基本的にはどの回も、落ち着きながらも適度な緊張感が漂う「好い場内」だったのに、

『ネクスト・ドア』では入りは半分超ながら、客層も異なれば、雰囲気もあまり好くない・・・

この手の映画って、作中の緊迫感と場内の空気が好い具合にシンクロしないと辛い。

冒頭から菓子袋バリバリ、終始ガムくちゃくちゃ、しばしばヒソヒソされたりな環境で、

どうも適切な観賞モードにメンタル追いつかず・・・だったかも。

あと、又もやいつもの細かすぎる愚痴ですが、

冒頭でいきなり字幕ミス(「役不足」という日本語の誤用)があったりして、

いきなり興醒めしちゃったのも痛かった。翻訳における日本語の力って本当重要だね。

あ、ただ途中で馴染みの顔(ミカエル・ニクヴィスト)が出てきたのは嬉しかった。

スウェーデン版ドラゴン・タトゥーのミカエル役で、MI4で敵ボス役の人。

そういえば、昨年のノーザンライツで上映された『エヴァとステファンとすてきな家族』にも

彼は出演していたので、tnlfには2年連続での参加だな(笑)