「タトゥー(tattoo)」は日本語で何と言う?
そりゃぁ当然「入れ墨」だよね。Vシネっぽくは「刺青」ね。
ところが、「我慢」という呼称もあるらしい。
説明不要なそのもの感たっぷりな別名ですが、
その「我慢」という語にも更には二面性があるわけで。
通用的には耐え忍ぶって意味がスタンダードになってるものの、
そもそも仏教用語的には字義通りに「慢ずる我」を意味します。
つまり、相反する(というか相容れないというか対極的な)側面を、
一個の内に秘めてる言葉、「我慢」。そんな「我慢」の女の物語。
(これ以降、結末等を容赦なく引用して書きます。)
リスベット(ルーニー・マーラ)はハリエットよろしく、
鬼畜な父親に「我慢」の日々を重ね、ついには自らの手で葬ろうとしたわけですが、
少女ハリエットの写真があまりにもリスベット似だったのも、
そうした示唆を意図したものに思えてしまいます。
彼女たちの「我慢」はどこに向かっていったのか。
リスベットは《男性》への嫌悪をつのらせる一方で、
《父性》への渇望を秘めて(時に実現させて)きたように思われます。
父親のごとく信頼していた後見人(ベント・C・W・カールソン)という支柱を失い、
彼女が庇護を求めた相手こそミカエル(ダニエル・クレイグ)だったのでしょう。
マッチョな男性には暴力的支配の予感がよぎってしまう故なのか、
知性と純粋な正義感を宿した男でなければらない《対象》。
センシティブな彼女のセンシティヴな調査の結果でも、
埃の出なかった誇り高きジャーナリスト、ミカエル。
このネーミングは、大天使ミカエルを想起させる仕掛けを兼ねていそうだが、そう考えると、
リスベットはさしずめ(大天使ミカエルが神の啓示を与えた)ジャンヌ・ダルク?
父親を火あぶりにしようとしたのも、(ジャンヌの)仕返しか!?
と、ちょっと妄想が過ぎました。(ちなみに、原作の第二部は「火と戯れる女」)
本作には極端なまでに母性が排除されてもいる。
ミカエルの妻(=娘の母)は登場しないし(たしか)、
マルティンやハリエットの母親に母性だって、完全無欠のネグレクト。
ミカエルと愛人関係にあるエリカ(ロビン・ライト)だって、まるで独身かのような振舞。
(ちなみに、「ペン」がとれた「ロビン・ライト」ゆえに余計そんな感じもしたり・・・)
それは、父権の絶対的支配という旧弊のおぞましさを引き立てている一方で、
リスベットのなかに《母性》を凝縮し、彼女が作品を支配できる構図にも。
「ピエタ」寸前の救出劇、《息子》の宿敵ヴェンネルストレムへの徹底的復讐、
挙句の果てには《息子》の大好きな革ジャンまで極上オーダーメイドしたにも関わらず、
《息子》は母の想いを露知らず、クリスマスに女とイチャついて、
それを目撃する母リスベット。妄想劇場ア・ラ・カルト。
母性を何処となく秘めつつも、姫を救う王子のようにも見えるリスベット。
それはヴィジュアル含め(スウェーデン版のノオミ・ラパスはより顕著)
両性具有的印象がそれを助長する。
しかし、それは性的な側面に限らずに、
光(正義感)と影(不正アクセス・不法侵入)の共存や、
無垢(父親の愛情を求める)と汚れ(父親に性愛を求める)の融合や、
切望する忘却(トラウマ)と不幸な記憶力(瞬時保存)の葛藤などに顕れる。
そして、前述の「我慢」の二面性。つまり、究極の忍耐の向こうに見える我の暴走。
しかし、それは単なる傲慢などではなく、他人を信じられず、まとわりつかれたくないから。
所謂「頼れるのは自分だけ」状態。しかし、《前父親》に「友だちができた」と報告し、
「幸せだ」とまで吐露するリスベット。その直後に沈吟する孤独の深淵。
フレンド申請後にリフレッシュしまくるマーク(ジェシー・アイゼンバーグ)とは対照的に、
静かにその場を去る(身を引く)リスベット。
しかし、心のなかでは・・・Is your love strong enough?
男声に変わった Is your love strong enoug? は、ミカエルからの返答か。
そして、彼女と彼の物語は続くのか。
◆オープニングの映像が、
楽曲に負けじと尋常でない奮発具合で最高なのは万人了解事項ながら、
実はそれが(『ファイト・クラブ』とは違って)モロOPじゃないってところに、
フィンチャーの余裕を感じてしまう。
正真正銘の冒頭には、
不気味な自由の女神(コロンビア・ピクチャーズ)とサイレント吠えなライオン(MGM)、
サスペンスものにありがちなベタベタ不穏シークエンスの儀礼的挿入後に始まる、
リスベットの悪夢。極上のファンタジック・サスペンスの饗宴に、ようこそ。
◆フィンチャーが『ミレニアム』シリーズをリメイク(というより再映画化?)する
と聞いたときには、ワクワクするも退行するのか?という不安も過ぎったものだが、
観てみりゃ後退どころか飛躍。それも、『ソーシャル・ネットワーク』を踏み台にして。
セルフ・カヴァー(パロディ?)ばりに前作想起な会話の応酬や音楽、
遠近法的語りを瓦解させたクライマックス不在の多中心で高速維持な語り口。
『ソーシャル・ネットワーク』が青年ばかりが大挙していたのとは裏腹に、
本作では青年不在で中高年の男女と若い女だけで展開。
フェミニンさに欠けるところは、最後の変装で帳尻合わせ?
しかし、ジャンルも場所も登場人物たちもまるで異なる二つの物語を、
ここまで同じ手法で描く面白さ。前作になかった暴力性とアクションが加わるも、
それを抑制するかのように決してテンポアップをはからぬスコアの妙。
そして、正しいエンヤの使い方。ツェッペリンよりも卑猥で陰惨なエンヤの響き。
◆『ソーシャル・ネットワーク』のサントラは、昨年の最優秀作業効率アップBGM賞。
本作のサントラも事前入手で聴き込み参戦図ろうとしたものの、
音楽単体で聴いててもいまいちピンとこない。前作ではスコア単体でも聴き込めた。
しかし、そここそがトレント・レズナー&アッティカス・ロスの成長をあらわしていた。
前作では自己実現的要素が「楽曲的完成度」に貢献していたものの、
本作のスコアは明らかに劇伴に徹しようとした姿勢が垣間見られ(聞こえ?)る。
それゆえに、映像観ながら、そこに塗された音たちの完璧さにハイボルテージ。
しかも、音の立体感や圧力が細部まで計算し尽くされており、
画や編集と並び、「隙」が完全消滅のパーフェクト・デザイン仕様。
◆昨年は『ソーシャル・ネットワーク』を三度も観に行ってしまった私だが、
本作も二週連続で二度目の観賞に赴いた。
そうすると、二度目ゆえに細部に俗っぽい満足感を感じる場面も。
例えば、ヘンリック(クリストファー・プラマー)がミカエルに
一族のメンバー紹介をする際に、マルティンの話をすると聞える銃声とか。
ミカエルがロンドンのアニタを(最初に)訪ねて行ったとき、
「ハリエットについて教えて」とお願いした時のアニタことハリエットの動揺っぷりとか。
リスベットがミカエルとベッドインしようとしてベルト抜く仕草、レイピストっぽくもあり。
宗教に懐疑的なミカエルが、額の傷にアルコールをかけられ「ジーザス!」とか。
May I kill him? が、「ねぇお父さん、殺して来ても好い?」に聞えたり。
◆ちょっとしたユーモア場面もお気に入り。
病院のロビーで喫煙を注意されて、思いっきり憎らしい顔をするババア。
資料室の主として君臨してきたはずのババアとリスベットの対決も滑稽だ。
そんな二大ババアも真っ青の「タトゥー除去サイトとか見てんじゃねぇーよっ!」
いや、待てよ。ババアはネットとかやってないから、逆に更に強かったり!?
◆「知りすぎた女」リスベットとしては、
なかなか信頼できる人間に巡り会えぬのも当然だ。
だからこそ、不貞は多少はたらきながらも、正義感に裏はなく、
情熱も純粋なミカエルは極めて稀有な信頼に「値する」存在だったのだろう。
一見《不正》(リスベット)の勝利に見える物語において、
そうした《不正》すらも魅了する《正義》(ミカエル)の最終勝利は、
ジャーナリスト出身の原作者にとっては譲れぬ構造だったのだろう。
◇作品自体には至極満足してしまった私だが、日本配給においては不満が二点ほど。
誰もが指摘するだろう「笑っちゃうモザイク」。あれ、フィンチャー知ってるの?
最初、フィンチャーのいきすぎた悪戯かと思っちゃったよ・・・。
それから、字幕のフォント(字体)。あの丸ゴシック(?)のデカいサイズは、
WOWOW観てるような感じがして風情が削がれ、映像へのノイズ感あり過ぎだ。
それに、デジタル上映の場合、字幕の「白」が余りにも発光しすぎてしまうので、
あの太さと大きさでは(特に暗めのシーンなんかでは)浮きすぎだし邪魔すぎ。
ソフト化の際は好いとしても、折角劇場で観る身にとって、あのフォントは無粋。
でも、「あの方が見やすくていい」派が多数なのかもしれないし、趣味の問題かも。
◇ちなみに、実は私、原作もだいぶ前に読んでたりする。
といっても、スウェーデン版の映画公開に当たり、予習のために読んだのだ。
小さい頃、ほんの一瞬サスペンスにはまったことがある身としては、
久々に読み耽った年末の二日間だった。ジャーナリスト出身だけあって、
社会的な視座があちこちに埋め込まれている原作は確かに独特の魅力にあふれ・・・
でも、第一部しか読んでない。文庫化されてるし、続きも読んでみようかな・・・
と思いきや、実はスウェーデン版(映画)は一応三作とも観ていたりする。
から、いまいち読む気起きず。
今回のフィンチャー版公開にあたり意外だったのは、
スウェーデン版(映画)のファン(というか高評価な人)が多かったという事実。
それ以前に、「そんなに観られてたんだ・・・」という。
映画公開時は(原作含め)思ったほど話題になってなかったようだったのに。
ちなみに、『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』を観に行ったとき、
予告篇でリスベット(ノオミ・ラパス)を見かけた後(『シャーロック・ホームズ~』で)、
本篇でミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)が出てくるという不思議体験が面白かった。
ちなみに、原作を自分なりにハマりまくって読んだ直後の観賞ということもあってか、
スウェーデン版の映画(特に一作目)は正直イマイチはまれなかった。
だから、本作観賞は結構フラットに観られた気がする。
どう考えても「初見でスムーズにリアルタイム理解」が困難そうな本作なので、
粗筋は頭に入っている状態で観られたことも好条件だったかも。
本作を観ながら、
「この静寂と閉塞の北欧感が貫かれてる感じ、好いなぁ~」と酔いしれていた反面、
「でも、ラストでアメリカ行っちゃうんだよなぁ~」って思ってたから、
ロンドンどまりの改変が加えられてたのは、正直嬉しかったりもした。
更に、リスベットの変装詐欺旅行でも画面が「寒い」ままで通されており、
北欧で冬に始まり冬に終わるクリスマス映画としての正しさとしても、クール。
冷蔵庫から落ちたペットボトルをキャッチするミカエルもクール。
ミカエルの見せ場がそこだけっていうのも、クール(笑)