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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

テイカーズ(2010/ジョン・ラッセンホップ)

2011-11-21 06:43:12 | 映画 タ行

 

先週末公開の『コンテイジョン』のキャッチコピーは「全員アカデミー賞」。

本作は?

 

この微妙な豪華さは、確かにシネパト直行も納得だけど、

80年代への郷愁はどこか背伸びだが、90年代は道連れ感から小っ恥ずかしく、

ゼロ年代は余りに疾駆な年月に、余所余所しさが残ったまんまの奇妙な新鮮。

そんな感覚の世代には、丁度好い等身大感ただよう超ライト級なポップコーンムービー。

それゆえ、ポップコーン食べながら(あくまで感覚です)でないと不満は残る杜撰さも。

こうしたわかりやすい反応はそれを物語っていたりもするんだろう。

フィルメックスの箸休め的に活用するには賢明か?

 

個人的な印象では、「ヤング・エクスペンダブルズ」みたいな印象で観に行った本作。

作品の印象以上に内容こそが、全ての消耗が何にもつながらないステキな金搾り。

何せ行き当たりばったりな脚本は、1~3本しか執筆経験のない面々が4人も集結し、

ジャンケンで負けた人が次の展開考えてるかのようなパッチワーク・スリリング。

トニスコみたいな無茶は、助走のしなやかさや流麗な構築後の瓦解ぶりにこそ華がある。

だから、本作に華はない。けど・・・一生懸命に体力もばっちり消耗しながら撮影に臨む

次世代のエクスペンダブルスたちの溌剌ぶりにはどこか惹き付けられたりもする始末。

何より、自分の出番だけ頑張れば好い感によるリラックスがうみだすゆる~い活劇は、

どこかパロディ寸劇を立て続けに観てる気すらして来だす。それでも、何か大丈夫(笑)

『TAKERS』ってタイトルも、つい最近のヒット作『TAKEN』(『96時間』原題)とかぶらない?

向こうの人は気にならないのか、「あえて」なのか。そんなB級感きらいになれないけど。

 

タイトルになっている「takers」とは、「カネを取る(奪う)人」って意味なんだけど、

ちょっとばかし「ひねり」があって、これは単純に強盗集団だけを指してるわけじゃない。

まぁ、そこが面白いっちゃぁ面白い気もするけれど、興味が持続するほど物語全体との

有機的な作用はうまれない。脚本家Aの不意の明察、瞬間最大風速どまり。

 

とはいえ、適度なバディ感は「暇つぶし」としてはバッチリ適度なサラサラ仕上がりで、

カサビアンがラストで流れる頃には、湿度は一気に急下降。場内明るくなればカラッと。

にしても、カサビアンって本当よくエンドロールで流れなぁ。

つい一ヶ月前に観た『ブリッツ』のエンドロールで流れてたからね。

そういえば、『ドゥームズ・デイ』では「Club Foot」流れてたっけ。懐かしい。

 

好かったところとしては、

肉弾戦をしっかり重さやぶつかりを感じさせてくれるように撮ってたところかな。

インタビュー記事とか読んでも、そこは強調してるの多いから、力入れたんだろう。納得。

あと、全篇漂う香港ノワールの風味(パロディ的ではあるが)がちょっぴりツボ。

スローモーションの使い方とか抒情系スコアなんかは「確信犯」的。

などと思ってたら、当初は香港で撮影とかいう案もあったとか。

そこまでやっちゃってくれたら、強烈イロモノ臭でカルト的人気を獲得できた!?

 

(公式サイトのINTRODUCTIONによれば)

「アメリカではアクション映画にもかかわらず、女性観客が52%、

しかも観客の半分以上が25歳以下という若者の指示を受け」たという本作。

それなのに日本じゃ銀座シネパトス!

ある意味「正しい」選定とは思うけど、シネパトスな漢たちには物足りず、

銀座イケメンハンター・マダムたちには敷居が高い(まぁ、地下にあるけどね・・・)。

でもでも、フィルメックスの箸休めにはオススメです!(しつこい)

 

 


人山人海(2011/蔡尚君)

2011-11-20 14:39:30 | 2011 TOKYO FILMeX

 

第12回東京フィルメックスにて観賞。初日、日劇3での上映。

 

今年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞。

なんでも中国の検閲を受けずに出品したこともあって、

ヴェネチアでも上映日までタイトルも明かされぬサプライズ上映だったとか。

検閲が厳しかったり、表現の自由に数多の障壁がある国や地域で

作品をつくる表現者たちの強靭な志から溢れ出る「覚悟」は、作品に焼きつき、

そうした魂が漲り続けることで、観る者の心を鷲掴みにする凛然たる佇まいを感じます。

以前、ソクーロフが対談のなかで、「自由や安全のある程度保証された場では

逆に自由な表現は困難か?」といったニュアンスの逆説的な質問に対し、

奇異な印象を素直に吐露していた言葉を読んだ憶えがありますが、

質問者の意図にも共感できるところのあった私としては省察を促された気がしました。

表現主体である自己は当然周囲の環境から影響を受けながら創作するだろうけれど、

「そうした環境でつくられた」という文脈のなかに嵌め込むことで

短絡的な(公式的な)解釈に陥ってしまう受け手の情緒が「神話」や「伝説」を肥大化させて、

作品自体が語る内容を矮小化し、その生命力への嫉妬に弁明を加えたりするのでしょう。

そういえば、本作が銀獅子を獲た今年のヴェネチアの金獅子は、ソクーロフの『ファウスト』。

 

芸術が社会の文脈に伍することない現実は、

人間が外へ発する力が内を圧する力よりも強いことを確かめられる希望だろう。

本作の主人公が社会の産み出す負の連鎖の歯車に嵌り込みながら、

その歯車に果敢なくも立ち向かう絶望的な希望に観客は、

慄きながらもどこか滋味を感じてしまうだろう。

つきはなした優しさ、とでも言いたくなるような乾ききった潤いが、

全篇の底流にたゆたい続ける確かな佳作。

 

原題の『人山人海』とは、「黒山の人だかり」といった意味なのだそうだが、

日本語のその表現が本作のラストを見事に言い得てしまう恐るべき奇遇。

しかし、映画の冒頭は「白山」からスタートする。白から黒へと突き進む物語か。

冒頭の「白」では、潔白で純白な主人公の弟が、バイク強盗にあっけなく殺される。

画面は白一面なのに、そこに蠢く精神性は、ドス黒く、気味悪く、空恐ろしい。

しかし、ラストの「黒」に蔽われた画面のなかに、私は黒を払う白を見た気がする。

詮無き望みを絶つことで、一縷の望みを希(こいねが)う。

 

◆復讐を心に決め始めた主人公ラオ・ティエ(チェン・ジェンビン)が、

   刃物を研いでる向こうには、食材を包丁で刻んでいる母の姿が小さく見える。

   形は違えど、何かを刃で殺めることで生き残っている人間(生き物?)の宿命を匂わせる。

   それは、冒頭でバイク強盗をした犯人にもあてはまるかもしれない。

   それは炭鉱で見ることになる現実が更に如実に語ってくれる。

   中盤で鶏を「俎板の鯉」にしたまま極度の緊迫を迫る画面もまた然り。

   牛や山羊といった家畜が一瞬とはいえ印象的かつ象徴的に映りこむのも然りだろうか。

   唯一、飼い猫(?)の円らな瞳だけが生態系へと抗う衝動を呼び起こす。

   それは、重慶の息子や炭鉱の少年にもあてはまる。

 

◆犯人探しのために訪れる重慶のフォトジェニックぶりに改めて感嘆。

   いわゆる都会のきらめきも、活力みなぎる喧騒も、およそ都会の一級資格に程遠い、

   必要に迫られ無計画に都会化した「中継地点」としての都市、重慶。

   そんな印象を専ら感じさせる街は、旧き共同体を捨てながら、法治に至らぬ未完都市。

   『重慶ブルース』(個人的には結構佳作)でも印象的に度々映し出されたケーブルカー。

   床の下には何もない、載った時の覚束なさが街にも漂っているかのよう。

   ちなみに、その『重慶ブルース』の王小帥(ワン・シャオシュアイ)の新作である

   『僕は11歳』(今年の東京国際映画祭アジアの風で上映・・・見逃して激しく後悔中)で

   撮影を共同で担当しているカメラマンが本作を撮影している模様。

 

◆そんな重慶は、明らかに「出稼ぎ」的な街。つまり、「住む」ことに適した街ではないだろう。

   主人公の地元(中国南部の貴州)は昔ながらの農村であり、その姿だけでも対照的だが、

   双方で登場する警官がこれまた極めて対照的。賄賂を要求し罪を見逃す重慶の警官。

   組織の不甲斐なさを個人的に受け止め、労わりで慰安金を主人公に手渡す貴州の警官。

   権威や役職といったものの持つ本来の機能が、システムの肥大化と共に損われる現実。

   人間が、つながりを持つ一員同士から、主客の明確な分離によるコマへと変わる。

 

◆監督の蔡尚君(ツァイ・シャンジュン)は、『こころの湯』や『胡同のひまわり』といった

   張楊(チャン・ヤン)監督作に脚本で参加しているようなのだが、

   自身で監督した本作は、ウェッティなそれらの作品と比べて非常にドライな印象だ。

   しかし、それなのにカラカラになりきらぬのは、時折はさまれる軽妙な笑いであったり、

   さりげなく語られる慈しみだったりするからだろう。

   だからこそ、容赦のない現実の渇きもより際立って来るというものか。

 

◇場内はかなり空いていた。

   天候のせいなのか、本作がラインナップ発表後に追加された作品だったからか。

   確かに、私も上映自体は知っていたはずなのに、チケット発売当日にはすっかり忘れてて、

   後から買い足した。チラシのスケジュールに掲載されていないのはデカイと思う。

   また、オープニング作品である『アリラン』(キム・ギドク)のQ&Aとも重なってしまったようで、

   そのために本作の観賞を断念した観客もいたりしたようだし、とにかく残念だ。

   しかも、監督が来日してQ&Aまでしてくれるとは思っていなかったので

   (当初はそうした情報はなかったと思う)、この貴重な機会に観られた事を嬉しく思うと共に、

   残り1回の上映(27日10:30)で多くの人に観てもらえると好いのになぁ、とも思う。

   (この回はQ&Aの表記がないけど、ということは昨日の上映が唯一のQ&Aだったのか?

    だとしたら、このスケジューリング[及び発表の仕方]はやはりちょっと問題あるよな・・・)

 

◇日本の映画祭ではよくあることだが、質疑応答の序盤はなかなか手が挙がりにくい。

   特に本作のようなラストに衝撃があったりすると尚更なのだろうが、

   そんな手の挙がらない中、そうした事情を汲んで真っ先に手を挙げたのが

   今や東京国際映画祭の顔とも言うべき矢田部さん。観客が疑問に思いつつも訊き難い

   ナイスな質問内容でした(ラストの炭鉱はどういったところか?という簡潔な。

   「御尋ね者たちが社会から逃れて辿りついた、隠れ家的炭鉱」との回答でした。)

 

◇私はやや前方の座席だったこともあり、冒頭からデジタル上映であることは認識し、

   それがDCPでないこともわかってはいましたが(正直最初は落胆しましたが)、

   撮影は35mmだったらしく、デジタルヴィヴィッドなシャキシャキ感で疲弊した

   最近の映画眼にとっては、それだけで画の質感がどこか優しく安らぎを覚えもし、

   HDCAMの映像でもそんなに気にはなりませんでした。

   しかし、監督はやっぱりDCPで持ってきたかったようで、

  その辺は残念だと正直に答えていたりして、それはそれで好感もてました。

 

◇客層も東京国際映画祭とは比べものにならない秩序や誠実が期待できるフィルメックス。

   しかし、そんなフィルメックスでも急増中なスマフォ中毒非礼野郎。

   何故に前で人が喋っている間中、延々と手元を凝視し「つながって」なきゃならんのか。

   それも一人や二人が視界に入るレベルじゃないからね・・・。

   あれね、前で喋ってる人って、かなりわかるもんなんですよ。

   話聴いてるか「内職」してるかどうかくらい。そういう輩はせめて退散してくれないだろか。

 

◇今年はコンペ作品を全然観る予定がないフィルメックス。

   ただ単にスケジュールの都合でもあるのだが、『グッドバイ』くらいは観ておきたかった。

   (しかし、日曜レイトか平日真昼間という選択はなかなか苦渋すぎまっせ・・・)

   タル・ベーラを拝める(勿論、新作を観られることもだけど)歓びに今から緊張。

 

 

 


三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船(2011/ポール・W・S・アンダーソン)

2011-11-18 20:01:04 | 映画 サ行

 

ポール・(        )・アンダーソン。

模範解答は、「トーマス」。得点棄ててもネタで勝負なら、当然「ウィリアム・スコット」。

あれ?名前(の響き)だけなら「ウィリアム・スコット」の方が格調高そうだ(笑)

 

さて、そんな我ら(って誰だよ)のポール・W・S・アンダーソン!

おまけに題材は、マイ・ジェネレーションにはお馴染みの「三銃士」!

相変わらずなポールの速度(ペース)で夢冒険!!

 

3D吹替版にて観賞。

個人的な選択肢はいつも、「2D字幕」か「3D吹替」。

「2D吹替」と「3D字幕」は原則NGなので、

3Dへの期待値と出演者への思い入れのバランスで

観賞する「版」は決めている感じ。

昨年のバイオ新作では3Dが全く活かされていなかったので、

本作でもその辺りは危惧したものの、折角のコスチュームプレイでアクションで3Dだし!

ってことで3Dを選択。まぁ、ポールのような作風(ってほどでもないか)は、

頭からっぽにしながら吹替で気楽に観た方が楽しめそうだしね。

それに、フランスでみんなが英語しゃべってる時点で「吹替」みたいなもんだしね(笑)

実際、タレントなんかも大量投下してるわりに、

吹替自体は大して違和感もなく、普通に観られたよ。

まぁ、そっち方面に精通された方々からすれば「甘い!」って言われそうだけど、

主演(?)二人をあてた溝端淳平(ダルタニアン)や檀れい(ミレディ)なんか普通に好かった。

恥ずかしながら、ダルタニアンの声は、最近よく観てる海外ドラマで耳馴染みの声優さんだと

勝手に思い込んでしまったくらいだし。(俺の耳の精度が微妙って話も・・・)

あんまりキャストとかばっちり確認せずに行ったから、意外にも国際的演技派キャストで

「本人の声で聞きたかったかもなぁ」と思わないこともなかったが、

クリストフ・ヴァルツは別として、マッツ・ミケルセンなんか本当「時折」の出演だし、

ティル・シュヴァイガーに至っては「一瞬」レベルの登場だったから、やっぱ吹替で十分(笑)

宮廷のフレッシュなキャストたち(ルイ13世のフレディ・フォックスや

コンスタンスのガブリエラ・ワイルド)も、馴染みないし、演技もあんまり巧そうじゃなかったし。

表情なんかは好かったよ。特にルイ13世なんかは、無垢で純粋な未熟さ軽さと明るさで、

ダルタニアンの稚拙さをカモフラージュというか正当化し得るナイス・バディ。

「バカ殿」的なキャラが時折はにかみ見せる中学男子ときめきハートや、

「元服」的な決意の到来を、男性客は素直に応援したくなる。

アンヌを演じるジュノー・テンプルの「若いのに貫禄感じさせる」空気もまた、

おそらく演技以前に素でそうなのだろうと予測できるグッド・アンバランス・キャスティング。

不安たっぷりを自信たっぷりで覆い隠した笑顔の硬さはなかなかのもの。

ただ、肝心のダルタニアン&コンスタンスより印象に残ってしまったのも事実。

ダルタニアンを演じたローガン・ラーマンは、『パーシー・ジャクソン~』の時も思ったけど、

どうしてもインパクト不足というか、クールとキュートの配合が中途半端なままなんだよね。

ネーム的には三銃士以外のキャスティングに偏りがちだが、それゆえの経費節減も奏功し、

三銃士の役者たちは、堅実に演技のできる方々で観ていて安心。

キャラ設定的にも、デフォルメ先行なリシュリューやバッキンガム、ミレディとは異なって、

スタンダードな銃士の風格を保ち続けていられたところなんかは、

きわめて「漫画」な本作の最後の生命線だったかも。

とはいえ、ミレディの峰不二子っぷりからすると、

「また、つまらぬものを斬ってしまった」くらいのサービスが、アラミスあたりに欲しかった(ウソ)

 

日本のアニメ好きな監督の趣味がよぉ~くわかる作りになってる分、

そういうところで自然にシンクロできる人間には「スッ」って入っていける活劇具合。

もう少し質量を感じさせてくれる黒澤明や岡本喜八みたいな活劇に比すれば軽すぎて、

宮崎アニメなんかからするとフワフワ感が足りなくて。

だけど、それも(が)丁度好いってとこもある。

重力から解放されすぎず、重力を感じすぎない感じ。

これって所謂ジャパニメーション的アクションの特徴なんだろか。

(って、あんまり門外漢なくせに余計な分析かまさぬ方が身のためだ・・・)

スローモーションっていう手法もそうした重力関係との落としどころなのかなぁ、なんて。

 

日本人が「三銃士」好きかどうかはわからぬが、

個人的には何となくしっくりくる気が昔からしていたので、

これを機にそんな要因を観ながら考えてみたりもしていたのだが、

これって、「忠臣蔵」的な要素がちょっと入ってない?とか(え?全然違うって?)、

「One For All」って精神は、日本人大好きそうだよなぁ、とか。

ま、「All For One」メンタリティな連中急増な世の中ですが。

 

今回の主題歌は、テイク・ザット。

「三銃士」の主題歌といえば当然(なのか?)「こころぉ~に ぼぉけんをぉ~」なわけだけど、

それから少しすると、メイル・ヴォーカル三銃士による「All For Love」がFMからよく流れてた。

ブライアン・アダムス(来年来日するみたい・・・もう52歳か)とスティング、ロッド・スチュアート。

三銃士+ダルタニアン+プランシェ(ポルトスの使用人)といった5人がチームプレーで

活躍する本作を、5人の絆が復活したテイク・ザットの歌で締めくくるのは、なんだかしっくり。

 

 

◇本作とは無関係なのだが、本編前の予告を観て感じたこと。

   『スターウォーズ エピソード1 ファントム・メナス 3D』って、本気!?

   いやね、俺は実は恥ずかしながら7回くらい劇場で観てるんだけど(シネコンバイトの

   帰りに週課のごとく観てた夏・・・)、そんな俺からしても(だからかもしれんけど)、

   全く観る気が起こらない。どうせなら・・・(以下全員一致意見)。

   それに、その予告の次にかかった「タンタン」の予告が段違いの3D出来映えだった故、

   余計にショボさしか印象に残らなかった・・・今の時点では「タンタン」の引き立て役なのか?

 

   それと、早くもかかってて吃驚した『The Iron Lady』の予告。

   メリル・ストリープがサッチャー元首相を演じることで話題のあの映画。

   『英国王のスピーチ』で一山当てたGAGAが、見事に二匹目のドジョウに喰らいつき・・・

   しかし、それこそアカデミー賞の行方に思いっきり左右されそうな感じだよな。

   『マネーボール』がもしアカデミーに絡んだり受賞なんかした日には、

   なんであんな時期に公開しちゃったんだろうって後悔しきりなんだろな。

   日本シリーズやら泣き虫GMやらでリアル球界に話題かっさらわれてる最悪タイミング。

   後者は予期できずとも、前者を無視した公開時期は、配給までもがスイーツ化!?

   まぁ、それはともかく、そのサッチャー映画の予告のBGMがさぁ、

   『月に囚われた男』なんですけど・・・

 

激しく違和感だけど・・・IMDbによれば、音楽担当に(トーマス・ニューマンの他に)

クリント・マンセルってあるから、この曲流用されんのか?

もしかして、サッチャーがたくさん出てくる映画なのか?

邦題は『マーガレットの穴』とか(笑)

それより、監督が『マンマ・ミーア!』の人ってところが更に不安・・・

 

 


マネーボール(2011/ベネット・ミラー)

2011-11-17 01:04:43 | 映画 マ・ヤ行

 

本作に特定のジャンルやカテゴリーを重ねることは困難だ。

野球のなかでばかり物語が進むのに、

野球「内」にテーマが閉じ込められてなど一切ないからだ。

いわゆる「スポーツもの」でも、「伝記もの」でも、ましてや「感動もの」でもない。

いや、そのどれでもあるのかもしれない。

しかし、観終わってすぐの余りにも嬉しい躊躇いは、

『マネーボール』という映画の「おとしどころ」が自分のなかに見つからないでいることだ。

個人を描き、社会をとらえ、個人の歩みに思いを馳せたり、世界を相手に闘ったり。

感情を排して理論で進む。消えるわけでない感情は、消えてないと見せたりせぬが、見える。

多くを語らない。ましていちいち説明しない。しかし、沈黙が訪れるたびに聞える声。

語るべき何かを確かにもってる作品共通の、ストイックなつくりのもつ濃密さ。

壮大なスケールを背負った、ミニマムな世界。マクロでもミクロでもなく、ミニマム。

メジャーな世界のマイナーなるコアに徹底的に迫った本作は、

全体を決して矮小化するでもなく、しかし個が全体に埋もれることもなく、

まさにアメリカの、アメリカ映画の良心が最大限に機能した「名作」だ。

 

監督を務めるベネット・ミラーが言うように、

本作で描かれる物語において、「スポーツ(野球)」も「ビジネス」もきっかけに過ぎない。

それは、人生というものが仕事やお金を必要としながら、

それだけで十分ではないという事実と重なる。

必要なくして十分などありえぬが、十分に耽溺するあまり、

何が必要かの見極めが鈍ってしまうのも常である。

スカウトマンたちとの会議のなかで、業を煮やしたビーン(ブラッド・ピット)は言う。

「おまえら、ただお喋りしてるだけだろ・・・」。その通り。喋ることで満足してる。

つまり、会議の「目的」など忘却彼方。此方で展開、机上のチャット。

現状の行方を占うよりも、現状の行き先をまず見定めて、

そこへの行き方考えるべき。

しかし、行き先すら見失い始める机上のチャット。

「穴を埋める」ことは、「元に戻す」ことを主眼とした発想だけど、

それが本来の目的なのか?

それは、最高で「元の状態」でしかない縮小再生産。

ジリ貧組織の典型パターン。

 

そこで、主人公はとにかく「目的(目標)」最優先を忘れまいと、

逆算で正当化し得る現在のベストを模索する。

優勝、勝利、得点、出塁。まず出塁しないことには、優勝はない。

出塁の確率が上がれば、優勝の確率は上がる。

獲った点の「数」や勝利の「数」で答えが出るゲームなら、

とにかく「数」を整えろ。斟酌、忖度、駆引よりも、信頼できる唯一の公式、それが「神」。

それはある意味、機械的で非人間的なアプローチに思えるのだが、

結局、絶対的なるもの(基準)が存続できるとしたら、

それは「神」がそうであるように、結局はそれを信じる気持の強度の為せる業。

それは「信念」と呼ばれるものであり、時に「信奉」や「信仰」にまで発展する。

例えば、「科学信奉」などという揶揄が「科学」の暴走を指してるつもりでいながらも、

それはどこまでも「人間(の信奉に耽溺する心)」の暴走でしかないという事実。

それは逆に、どんなに客観的な理論でも、それを活用しきるために必要なのは主観。

そして、そんなパラドクスを語りがいのあるドラマとして魅せてくれるのが本作。

 

映画では、ビーン(ブラッド・ピット)が試合を観ないのは、ジンクスのせいだと語られる。

しかし、実際のビーンが試合を観ない理由は、

「感情に任せて決断を下してしまうような状況に身を置きたくないから」だと言う。

つまり「ひとつひとつの試合をじっと観る」ことで、

中長期的な客観的展望に感情的要素が混じってしまうことを避けたいのだ。

それは、どんなに客観的で科学的な理論による運営を目指していても、

それを「志す」こと自体に既に個人的な感情が作用しているという事実を意味するだろう。

そして、そうした「理論」と「感情」の弁証法は必ず、止揚の過程で犠牲を伴う。

本作は、そうした犠牲にエクスキューズもフォローもなしに(それがあると止揚に至らない)、

そして「感情」を排したエンタテインメントでも、「感情」を称賛するヒューマンドラマでもなく、

マジックでもパーフェクトでもない理論と感情の二重螺旋を、

淡々とありのまま伝えようとする。

モデルであるビリー・ビーン自身がいまだ探求の最中であるのと同様に、

本作に安易な「解答」など用意されてはいない。

しかし、合理的な判断を貫き通した男の「愚か」な決断を、

スタジアムの歓声よりも、娘の歌声が讃える本作は、

胸に確かな応えを広げる。

 

 

◆出演者たちは本作を次のように語っている(パンフより)。

   ブラッド・ピットは、「既存のシステムに挑戦する男たちの話」だと。

   それはまさに、プロデューサーとしての仕事に魅力を感じるブラピ自身のドラマでもある。

   選手からスカウトマンに転身したビーンと、俳優引退宣言をしたブラピが重なる。

   ジョナ・ヒルは、「過小評価されている人たちの話」だと語る。

   そして、本作で自らが起用されたこと自体がそうした象徴でもあると述べている。

   自分だからこそ評価できる視座を見出すことに使命を感じ始めたブラッド・ピットと、

   新たな視座からの評価で自分の新たな能力を発揮し始めたジョナ・ヒル。

   二人がそれぞれの旅立ちを静かに決意しながら演じる人物は、

   単なる登場人物を遥かに超えた説得力をたたえて見えた。

 

◆実際のビリー・ビーンとは異なる理由とはいえ、

   劇中のビーンが試合を観ない理由(自分が観ると負けるというジンクス)も十分魅力的。

   というか、実際のビーンの「人となり」を表現するために見事に機能した「改変」。

   客観データによる理論を信奉している傍ら、ジンクスにこだわってしまう不動な感情。

   どちらかを切り捨てるでも、どちらかに軍配を上げるでもなく、拮抗をしっかり葛藤させる。

   しかし、時折見せる暴走も活写する。

   椅子を投げたり、フリーウェイをワクワクUターンしたり。

 

◆「見た目」で決めないためのマネーボール理論。

   それは、「見る」ということが「知る」ことだという意識の落とし穴。

   フランス語の「知る(SAVOIR)」のなかに「見る(VOIR)」が入っているように、

   「百聞は一見に如かず(Seeing is Believing)」なんて諺まであるように、

   視覚による認識に優先権を与えて久しい人類。

   だからこそ、目に見えない「数字」や「理論」、「公式」などは信頼できない。

   しかし、そうした可視的なるものへの抵抗か、本作における「音」(もしくは「沈黙」)が、

   恐ろしいほど胸に迫ってくる。たびたび訪れる静寂に、観客はさまざまな「音」を聞く。

   ビーンは、ロッカールームで「これが敗北の音だ」と語る。

   たった一つの快音は、一瞬途方もない沈黙を感じさせた後、歴史をつくる。

   アトム・エゴヤンとのコラボで有名なマイケル・ダナの見事な音仕事。

   音楽それ自体は主張しようとせずに、映像と混ざることで共に語ろうとする一体感。

   愛聴盤でもあるThis Will Destroy You の2nd からの楽曲使用は個人的にも感涙もの。

   そしてラストシーンも、不可視な対面による「声」の手紙で暗転する。

 

◆終盤でピーター・ブラント(ジョナ・ヒル)がビーン(ブラッド・ピット)に語るメタファーは、

   知識不足(あの選手がどういう人物かを後から入手した「情報」程度でしか認識できてない)

   な自分は十分解釈できない気がしてしまうものの、あれこれ考えたくさせてもくれる。

   最初は単純に(?)「あなた(ビーン)はホームラン打ったのに一塁に留まるのですか?」

   といった旨の「背中押し」だと思ったのだが、どうやらあのジェレミー・ブラウンという選手は

   マネーボール理論の「ポスターボーイ的存在」なんだとか。

   そう考えると別の意味も浮かんできそう。

   これはただの「こじづけ」に過ぎない気もするが、

   「一塁手」を誰にするかで散々擦った揉んだしていたり、

   本塁打よりも「出塁」の事実を重視したり、

   前人未到の挑戦をはじめて(first)成功させようとしていたり。

   などと、「一塁」考に萌えてみた(笑)

 

◇本作に驚きのカメオ出演がっ!?そう、スパイク・ジョーンズが出てきて吃驚。

   ビーン(ブラッド・ピット)の元妻の再婚相手として登場するのだが、

   スカウトしに選手宅に行ったシーンの直後に出てくるものだから、

   別の選手宅を訪問しているのかと思い、「まさか選手役!?」と一瞬思ってしまった。

   エンドロールにも名前出てないから、「あれって、ただのそっくりさんか?」と思ったら、

   IMDbにはしっかりと名前が載ってて、一安心(?)

   そういえば、ユーロスペースで来月にスパイクの小特集(?)があるので楽しみだ。

 

 


インモータルズ-神々の戦い-(2011/ターセム・シン)

2011-11-14 23:58:32 | 映画 ア行

 

デヴィッド・フィンチャーやスパイク・ジョーンズなんかと比べても、

「好き!」と公言しづらいターセムことTarsem Singh

しかし、『落下の王国』ではいよいよ彼の作家性が芸術的高みへ導かれ、

いよいよ彼らと同様、脱(単なる)ヴィジュアリスト宣言が聞かれた気がしたが・・・。

 

観る前から不安で仕方なかった本作。

ターセムとの蜜月も終焉か!?と不安で臨んだ観賞だったが・・・

 

許す!(笑)

ターセムはもうフィンチャーとかジョーンズとかみたいに、

哲学やら風刺やらを凝縮した高尚な物語の領域に踏み入れんで好い!

あんたはこのまま、あくまで魅せることだけ考えれば好い!

そしていつまでも石岡瑛子とコラボってくれ!

内容無視の様式美で突っ走れ!

そういう覚悟で観続ける!

以上!!

 

というわけで、開始数分で腹を括れてしまったら、

あとはもう「眼」だけで楽しみ、「眼」だけが喜ぶ絵巻の時間。

日頃は物語重視で、そうした核がスカスカだったりするとすぐに難癖つけるくせに、

何ら物語ってないとすら思える本作なのにワクワクしどおしな自分に戸惑う始末。

性格最悪で、頭悪くて、態度とかムカつきまくるのに、顔は好み・・・

みたいな心地よい(んかい!?)自己矛盾な恍惚感。

 

そうした「無条件降伏」とは恐ろしく、ツッコミどころがむしろ愛おしい。

ダサくなるほど、カッコいい。イタくなるほど、アガってしまう。

そんな感覚にはもってこいの、間違いだらけの邦題事件。

国語辞典ですら「イモータル」なのに、なにゆえ中学男子の下ネタレベル?

おまけにタイトルの「IMMORTALS」の中心は、そもそも「神々」のみではないのでは?

ラストのあの昇天も指すだろうが、自らの生の足跡が不滅であれと願う想いも指すだろう。

勿論、神々の存在と重ね合わせてもいるだろうが、それでも軸足は地上にあるんでない?

まぁ、そうは言っても確かに『イモータルズ』だと内容もイメージも想像し難いしね。

いっそのこと『聖闘士テセウス-正義の復讐-』とかでも好かったんじゃね?(冗談)

 

ターセムの映像は、とにかく「遠景」として捉えられた自然や物や人の配置や関係に、

ドギツイほどの「人工感」が充満してて、それが堪らぬ者ならば、全てを許して拝んでしまう。

今回のように、あまりにも安っぽくて丸わかりなCGだって、そうしたターセム・コーティングなら

観客側にも(人によって大いに異なるだろうが)幾分許容の準備も整うってものかもしれぬ。

ただ、デジタル上映だとCGの作り物感が強調されてしまうのが残念。これは今後の課題?

(映画館で観ると気にならない「それ」は、これまでフィルムの雰囲気に拠ってたんだね。)

 

神々の衣装(というか甲冑)がいちいち魅惑すぎ。もっと堪能したかった。

しかし、腹八分ゆえの満足かもしれず、コンパクトだけど定期的な挿入はジャストかも。

人間の方の衣裳はそこそこ「地に足の着いた」ものでありながら、微妙な凝りにしびれたり。

ハイペリオン(ミッキー・ローク・・・もうこんな役回り専門になってきてるよな)の甲冑も、

ダサかっこいいというより、かっこいいダサさで貫く感じがキャラ相応。

テセウス(ヘンリー・カヴィル)のスカート(?)の丈の長さ、絶妙!

巷じゃ巫女衣裳の評判こそ好いみたいだけれど、個人的には

『トリシュナ』想起でそれほど惹かれず。

 

意外なほど本作にノレてしまった自分を分析してみれば(?)、

我々世代特有の好物、「大映ドラマ」ノリと「戦隊シリーズ」なパフォーマンスゆえかもしれず。

それらもよくよく考えりゃ、物語なんてどうでも好かった歌舞伎な(?)出し物。

そのくせ、あんだけアドレナリン過剰分泌な通路での突撃場面には、

肝心な激突直前に怯んで後ずさりする奴がいたりもしてて。

気まぐれなこだわり仕事に、ニヤリな気分。

 

次回作『Mirror, Mirror』も来年3月アメリカ公開ということで、

神話の次は寓話でやりたい放題してくれそうだ。

 

 

◆本作の公開日は11年11月11日ということで、

   予告なんかでは、神々が地上に降りてくるところの光跡で記せばよかったのに・・・

 

◆ミッキー・ロークとスティーヴン・ドーフが共演とは、

   近年のヴェネチア金獅子受賞作の主演男優競演ですな。

 

◆これにて今年のフリーダ・ピント祭りも終了。

   作品的には『猿の惑星:創世記』がダントツ素晴らしく、

   フリーダ堪能度は(本作と)僅差で『トリシュナ』かな。

   『ミラル』はエリック・ゴーティエによる映像楽しみに観に行ったのに、

   まさかのユーロの裏切り(サイトにも告知なしでブルーレイ上映へ変更)に失望し、

   内容の微妙さに更に落胆した夏の終わり・・・。

 

◆神様の紹介テロップって必要だったのだろうか?

   アポロなんて死ぬ間際に出されても・・・

 

◆テセウスの息子のキャスティングは、なにゆえ手抜き?

   ヘンリー・カヴィルとフリーダ・ピントの息子の突然変異ぶりにはちょっぴりがっかり。

   凛々しく闘う姿を観客に嘱望させるような「端整さ」が欲しかったな・・・。

   もしくは『グラディエーター』(例えが微妙に古い・・・)のラッセル・クロウの息子

   (『ライフ・イズ・ビューティフル』の子役)みたいな、「いじらしさ」が欲しかった。