第12回東京フィルメックスにて観賞。初日、日劇3での上映。
今年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞。
なんでも中国の検閲を受けずに出品したこともあって、
ヴェネチアでも上映日までタイトルも明かされぬサプライズ上映だったとか。
検閲が厳しかったり、表現の自由に数多の障壁がある国や地域で
作品をつくる表現者たちの強靭な志から溢れ出る「覚悟」は、作品に焼きつき、
そうした魂が漲り続けることで、観る者の心を鷲掴みにする凛然たる佇まいを感じます。
以前、ソクーロフが対談のなかで、「自由や安全のある程度保証された場では
逆に自由な表現は困難か?」といったニュアンスの逆説的な質問に対し、
奇異な印象を素直に吐露していた言葉を読んだ憶えがありますが、
質問者の意図にも共感できるところのあった私としては省察を促された気がしました。
表現主体である自己は当然周囲の環境から影響を受けながら創作するだろうけれど、
「そうした環境でつくられた」という文脈のなかに嵌め込むことで
短絡的な(公式的な)解釈に陥ってしまう受け手の情緒が「神話」や「伝説」を肥大化させて、
作品自体が語る内容を矮小化し、その生命力への嫉妬に弁明を加えたりするのでしょう。
そういえば、本作が銀獅子を獲た今年のヴェネチアの金獅子は、ソクーロフの『ファウスト』。
芸術が社会の文脈に伍することない現実は、
人間が外へ発する力が内を圧する力よりも強いことを確かめられる希望だろう。
本作の主人公が社会の産み出す負の連鎖の歯車に嵌り込みながら、
その歯車に果敢なくも立ち向かう絶望的な希望に観客は、
慄きながらもどこか滋味を感じてしまうだろう。
つきはなした優しさ、とでも言いたくなるような乾ききった潤いが、
全篇の底流にたゆたい続ける確かな佳作。
原題の『人山人海』とは、「黒山の人だかり」といった意味なのだそうだが、
日本語のその表現が本作のラストを見事に言い得てしまう恐るべき奇遇。
しかし、映画の冒頭は「白山」からスタートする。白から黒へと突き進む物語か。
冒頭の「白」では、潔白で純白な主人公の弟が、バイク強盗にあっけなく殺される。
画面は白一面なのに、そこに蠢く精神性は、ドス黒く、気味悪く、空恐ろしい。
しかし、ラストの「黒」に蔽われた画面のなかに、私は黒を払う白を見た気がする。
詮無き望みを絶つことで、一縷の望みを希(こいねが)う。
◆復讐を心に決め始めた主人公ラオ・ティエ(チェン・ジェンビン)が、
刃物を研いでる向こうには、食材を包丁で刻んでいる母の姿が小さく見える。
形は違えど、何かを刃で殺めることで生き残っている人間(生き物?)の宿命を匂わせる。
それは、冒頭でバイク強盗をした犯人にもあてはまるかもしれない。
それは炭鉱で見ることになる現実が更に如実に語ってくれる。
中盤で鶏を「俎板の鯉」にしたまま極度の緊迫を迫る画面もまた然り。
牛や山羊といった家畜が一瞬とはいえ印象的かつ象徴的に映りこむのも然りだろうか。
唯一、飼い猫(?)の円らな瞳だけが生態系へと抗う衝動を呼び起こす。
それは、重慶の息子や炭鉱の少年にもあてはまる。
◆犯人探しのために訪れる重慶のフォトジェニックぶりに改めて感嘆。
いわゆる都会のきらめきも、活力みなぎる喧騒も、およそ都会の一級資格に程遠い、
必要に迫られ無計画に都会化した「中継地点」としての都市、重慶。
そんな印象を専ら感じさせる街は、旧き共同体を捨てながら、法治に至らぬ未完都市。
『重慶ブルース』(個人的には結構佳作)でも印象的に度々映し出されたケーブルカー。
床の下には何もない、載った時の覚束なさが街にも漂っているかのよう。
ちなみに、その『重慶ブルース』の王小帥(ワン・シャオシュアイ)の新作である
『僕は11歳』(今年の東京国際映画祭アジアの風で上映・・・見逃して激しく後悔中)で
撮影を共同で担当しているカメラマンが本作を撮影している模様。
◆そんな重慶は、明らかに「出稼ぎ」的な街。つまり、「住む」ことに適した街ではないだろう。
主人公の地元(中国南部の貴州)は昔ながらの農村であり、その姿だけでも対照的だが、
双方で登場する警官がこれまた極めて対照的。賄賂を要求し罪を見逃す重慶の警官。
組織の不甲斐なさを個人的に受け止め、労わりで慰安金を主人公に手渡す貴州の警官。
権威や役職といったものの持つ本来の機能が、システムの肥大化と共に損われる現実。
人間が、つながりを持つ一員同士から、主客の明確な分離によるコマへと変わる。
◆監督の蔡尚君(ツァイ・シャンジュン)は、『こころの湯』や『胡同のひまわり』といった
張楊(チャン・ヤン)監督作に脚本で参加しているようなのだが、
自身で監督した本作は、ウェッティなそれらの作品と比べて非常にドライな印象だ。
しかし、それなのにカラカラになりきらぬのは、時折はさまれる軽妙な笑いであったり、
さりげなく語られる慈しみだったりするからだろう。
だからこそ、容赦のない現実の渇きもより際立って来るというものか。
◇場内はかなり空いていた。
天候のせいなのか、本作がラインナップ発表後に追加された作品だったからか。
確かに、私も上映自体は知っていたはずなのに、チケット発売当日にはすっかり忘れてて、
後から買い足した。チラシのスケジュールに掲載されていないのはデカイと思う。
また、オープニング作品である『アリラン』(キム・ギドク)のQ&Aとも重なってしまったようで、
そのために本作の観賞を断念した観客もいたりしたようだし、とにかく残念だ。
しかも、監督が来日してQ&Aまでしてくれるとは思っていなかったので
(当初はそうした情報はなかったと思う)、この貴重な機会に観られた事を嬉しく思うと共に、
残り1回の上映(27日10:30)で多くの人に観てもらえると好いのになぁ、とも思う。
(この回はQ&Aの表記がないけど、ということは昨日の上映が唯一のQ&Aだったのか?
だとしたら、このスケジューリング[及び発表の仕方]はやはりちょっと問題あるよな・・・)
◇日本の映画祭ではよくあることだが、質疑応答の序盤はなかなか手が挙がりにくい。
特に本作のようなラストに衝撃があったりすると尚更なのだろうが、
そんな手の挙がらない中、そうした事情を汲んで真っ先に手を挙げたのが
今や東京国際映画祭の顔とも言うべき矢田部さん。観客が疑問に思いつつも訊き難い
ナイスな質問内容でした(ラストの炭鉱はどういったところか?という簡潔な。
「御尋ね者たちが社会から逃れて辿りついた、隠れ家的炭鉱」との回答でした。)
◇私はやや前方の座席だったこともあり、冒頭からデジタル上映であることは認識し、
それがDCPでないこともわかってはいましたが(正直最初は落胆しましたが)、
撮影は35mmだったらしく、デジタルヴィヴィッドなシャキシャキ感で疲弊した
最近の映画眼にとっては、それだけで画の質感がどこか優しく安らぎを覚えもし、
HDCAMの映像でもそんなに気にはなりませんでした。
しかし、監督はやっぱりDCPで持ってきたかったようで、
その辺は残念だと正直に答えていたりして、それはそれで好感もてました。
◇客層も東京国際映画祭とは比べものにならない秩序や誠実が期待できるフィルメックス。
しかし、そんなフィルメックスでも急増中なスマフォ中毒非礼野郎。
何故に前で人が喋っている間中、延々と手元を凝視し「つながって」なきゃならんのか。
それも一人や二人が視界に入るレベルじゃないからね・・・。
あれね、前で喋ってる人って、かなりわかるもんなんですよ。
話聴いてるか「内職」してるかどうかくらい。そういう輩はせめて退散してくれないだろか。
◇今年はコンペ作品を全然観る予定がないフィルメックス。
ただ単にスケジュールの都合でもあるのだが、『グッドバイ』くらいは観ておきたかった。
(しかし、日曜レイトか平日真昼間という選択はなかなか苦渋すぎまっせ・・・)
タル・ベーラを拝める(勿論、新作を観られることもだけど)歓びに今から緊張。