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来週末より開催される第12回東京フィルメックスにて最新作『CUT』が上映され
(同作は来月17日から劇場公開も)、そのフィルメックスでは今年の審査委員長を務める、
アミール・ナデリ。イラン出身で、現在はニューヨークを拠点に活躍。
今回の特集上映は「ビバ!ナデリ」とのタイトルが冠せられているのだが、
正直ちょっと残念な表題に思えていたものの、ナデリの近作傑作2本を観終わると、
まさに、そう言いたくなる気持・・・わかります!わかりすぎます!という結論!!
本作の原題は『Vegas: Based on a True Story』。
どの程度が事実か定かでないが、本作における「リアリティ」とは一種の皮肉でもある。
劇中の物語のもつ独特の語りはどこからくるのだろうか。
トゥルー・ストーリーも納得の写実性と寓話的なファンタジーの装いが拮抗しながら、
中和を許さず調和も拒み続ける喜劇と悲劇の狭間を彷徨し続ける慈愛たち。
カタルシスという安易な解決や解消とは無縁の、人間の真剣な滑稽さが眩いドラマ。
希望の背後に待ち受ける絶望、絶望の向こうで佇む希望。鍵をにぎる、欲望。
家族三人の表情や仕草の細部に寄り添いながら、彼らを包む世界の気配が溢れ出す。
本作では、ほんのささやかな驚きが襞のように折り重なりながら語られる。
説明的でなければないほど、映しだされる画が観ているものに語りかける言葉は厖大だ。
そうして促された思考の奥で、語られ始めるアナザー・ストーリーがパラレル進行。
それは、家族がトレーラーハウスで過ごした日々であったり、7年前の母の姿であったり、
ミッチ(息子)のかつての交友風景だったり、あるいはラスヴェガス狂騒曲の妄想だったり。
劇中で提示される「情報」は一切の説明をそぎ落としたまま、示唆の一滴が波紋を広げる。
目の前の人物が抱えた〈過去〉があり、そこから導き出された〈現在〉がある。
〈過去〉の代償として出現する〈現在〉は、代償への固執から免れきれぬノスタルジア。
かつての生活を懐かしむ、トレーラーハウスでのひとときに、安らぎおぼえる息子のミッチ。
かつての性癖を抑制し、「圧縮」したかたちでささやかなスリルに満足してきた母トレイシー。
摩れば摩るほど増大を続ける代償の奪還に、同じく「ギャンブル」で挑むしかない父エディ。
人間が喪失を受け容れることは困難で、そうしてできた空洞をそのままにしておけない。
そこを何とか埋めようとするなかで、〈すがるもの〉へと寄りかかる。
それが確かなものならば・・・トレーラーしかり、トマトしかり、花しかり。
それが「ありもしない」ものならば・・・。なきゃないなりに、無限に「ある」わけで・・・。
裏書された喪失のシナリオには目もくれず、獲得のシナリオひたすら記す。
ラスヴェガスとは渦巻く欲望の中心で、台風の目のごとく現実無風の夢想地帯。
しかし周縁風速尋常ならず、そこでは喪失が喪失でしかない。
獲得の希望が終焉すれば、もはや代償ですらない。
それ自体に価値があるわけでもなく、それだけでは何の感動すらもたらさぬ、カネ。
ただ在るだけで、ただ見るだけで、ただ咲いてるだけで、美しい花。胸いっぱいの愛。
形而下に生きる人間が、形而上の強欲に、ひきずりまわされる現代の皮肉。
即物的な欲求なのに、その価値は「みなし」によってあたえられた仮構のもので、
それはどこにもない幻のドラマに生きようとするダークサイドな想像力のフル稼働。
触れて嗅げて、食べられるトマト。育てて咲いた、色鮮やかな花。
ブライトサイドの想像力よ、負けじと五感を作動せよ。
どこにもないもの、それでも追うか?不適の謳歌。
◆私は、Theodore Roethke というアメリカの詩人が好きだが、
彼の父が「薔薇つくり」だったこともあって、彼の詩では花をはじめ自然の描写にあふれ、
父の想い出と共にある「温室」も度々登場する。そして、数多の鳥も詩をうめつくす。
そうしたレトキの詩を思わせる象徴の数々が、本作においても丹念に描かれており、
観ながらレトキの読む「アメリカ」と、本作が語る「アメリカ」が、私のなかで読み合った。
風を享受するかのように謳う軒先のウインド・チャイム。中盤で響きを失うその音が、
終盤で再び聞こえだす。それは、希望のまえぶれか。それとも、在りし希望の幻覚か。
ミッチが愛でてた鳥達は、危機を察した彼の手で、ガールフレンドに譲られる。
幸せの青い鳥。それらが家を去ったのは、幸せが消えるまえぶれか。
しかし、鳥たちの避難はいつか幸せが舞い戻るための越冬か。
崩壊し荒廃した庭に戻された、花。どんなに愚かに傷つけど、抱擁できる母なる愛か。
◇母親といえば、本作の前の回で観た『サウンド・バリア』(2005)にも、
〈不在〉として登場する。そして、こちらもまた喪失との対峙が、
107分の99%をつかって執拗なまでに展開される。
しかし、主人公の聴覚障害に見舞われている少年は、
そうした喪失の正体から目を逸らすことなく、どこまで正視を止めない一途な超克。
一体どれほどの時間を費やしたかわからぬほど「冗長」な貸し倉庫でのテープ探しは、
混沌とした茫洋未知なる記憶の海に、単身潜った少年の焦燥と閉塞を活写する。
車が激しく行き交う橋上で、ひたすら「聞きたい」声に「触れ」ようとする。
他力にむしゃぶりつくのに、どこか自力本願ぶりな豪快さ、一直線。
カセットテープのケースの音や自動車の行き交う音が、観客を逆撫でする一方で、
それらが遮られた沈黙の世界が繰り返し挿入されていく。二つの世界の往来続く。
「聞えぬ」もどかしさと、「聞える」煩わしさが交錯してゆく。
そんな二つの止揚と共に、絡まり合ったテープは空へと舞い上がる。
沈黙が聞える。口笛が聴こえる。助走が跳躍へ。執拗が必要にかわるとき。