goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ベガス(2008/アミール・ナデリ)

2011-11-12 22:40:19 | 2011 TOKYO FILMeX

<object width="486" height="412" id="flashObj" classid="clsid:D27CDB6E-AE6D-11cf-96B8-444553540000" codebase="http://download.macromedia.com/pub/shockwave/cabs/flash/swflash.cab#version=9,0,47,0"><param name="movie" value="http://c.brightcove.com/services/viewer/federated_f9?isVid=1" /><param name="bgcolor" value="#FFFFFF" /><param name="flashVars" value="videoId=42937831001&amp;linkBaseURL=http%3A%2F%2Fvideo.ilsole24ore.com%2FCinema%2FVideo%2F200900010320-vegas-based-on-a-true-story.php&amp;playerID=18295502001&amp;playerKey=AQ~~,AAAABDk7IrE~,VEk2pvIZALuEUCgfzvtVg_T0nrQv6O4R&amp;domain=embed&amp;dynamicStreaming=true" /><param name="base" value="http://admin.brightcove.com" /><param name="seamlesstabbing" value="false" /><param name="allowFullScreen" value="true" /><param name="swLiveConnect" value="true" /><param name="allowScriptAccess" value="always" /><embed name="flashObj" width="486" height="412" pluginspage="http://www.macromedia.com/shockwave/download/index.cgi?P1_Prod_Version=ShockwaveFlash" src="http://c.brightcove.com/services/viewer/federated_f9?isVid=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" swliveconnect="true" allowfullscreen="true" seamlesstabbing="false" base="http://admin.brightcove.com" flashvars="videoId=42937831001&amp;linkBaseURL=http%3A%2F%2Fvideo.ilsole24ore.com%2FCinema%2FVideo%2F200900010320-vegas-based-on-a-true-story.php&amp;playerID=18295502001&amp;playerKey=AQ~~,AAAABDk7IrE~,VEk2pvIZALuEUCgfzvtVg_T0nrQv6O4R&amp;domain=embed&amp;dynamicStreaming=true" bgcolor="#FFFFFF"></embed></object>

 

来週末より開催される第12回東京フィルメックスにて最新作『CUT』が上映され

(同作は来月17日から劇場公開も)、そのフィルメックスでは今年の審査委員長を務める、

アミール・ナデリ。イラン出身で、現在はニューヨークを拠点に活躍。

 

今回の特集上映は「ビバ!ナデリ」とのタイトルが冠せられているのだが、

正直ちょっと残念な表題に思えていたものの、ナデリの近作傑作2本を観終わると、

まさに、そう言いたくなる気持・・・わかります!わかりすぎます!という結論!!

 

本作の原題は『Vegas: Based on a True Story』。

どの程度が事実か定かでないが、本作における「リアリティ」とは一種の皮肉でもある。

劇中の物語のもつ独特の語りはどこからくるのだろうか。

トゥルー・ストーリーも納得の写実性と寓話的なファンタジーの装いが拮抗しながら、

中和を許さず調和も拒み続ける喜劇と悲劇の狭間を彷徨し続ける慈愛たち。

カタルシスという安易な解決や解消とは無縁の、人間の真剣な滑稽さが眩いドラマ。

希望の背後に待ち受ける絶望、絶望の向こうで佇む希望。鍵をにぎる、欲望。

家族三人の表情や仕草の細部に寄り添いながら、彼らを包む世界の気配が溢れ出す。

 

本作では、ほんのささやかな驚きが襞のように折り重なりながら語られる。

説明的でなければないほど、映しだされる画が観ているものに語りかける言葉は厖大だ。

そうして促された思考の奥で、語られ始めるアナザー・ストーリーがパラレル進行。

それは、家族がトレーラーハウスで過ごした日々であったり、7年前の母の姿であったり、

ミッチ(息子)のかつての交友風景だったり、あるいはラスヴェガス狂騒曲の妄想だったり。

劇中で提示される「情報」は一切の説明をそぎ落としたまま、示唆の一滴が波紋を広げる。

目の前の人物が抱えた〈過去〉があり、そこから導き出された〈現在〉がある。

〈過去〉の代償として出現する〈現在〉は、代償への固執から免れきれぬノスタルジア。

かつての生活を懐かしむ、トレーラーハウスでのひとときに、安らぎおぼえる息子のミッチ。

かつての性癖を抑制し、「圧縮」したかたちでささやかなスリルに満足してきた母トレイシー。

摩れば摩るほど増大を続ける代償の奪還に、同じく「ギャンブル」で挑むしかない父エディ。

人間が喪失を受け容れることは困難で、そうしてできた空洞をそのままにしておけない。

そこを何とか埋めようとするなかで、〈すがるもの〉へと寄りかかる。

それが確かなものならば・・・トレーラーしかり、トマトしかり、花しかり。

それが「ありもしない」ものならば・・・。なきゃないなりに、無限に「ある」わけで・・・。

裏書された喪失のシナリオには目もくれず、獲得のシナリオひたすら記す。

ラスヴェガスとは渦巻く欲望の中心で、台風の目のごとく現実無風の夢想地帯。

しかし周縁風速尋常ならず、そこでは喪失が喪失でしかない。

獲得の希望が終焉すれば、もはや代償ですらない。

 

それ自体に価値があるわけでもなく、それだけでは何の感動すらもたらさぬ、カネ。

ただ在るだけで、ただ見るだけで、ただ咲いてるだけで、美しい花。胸いっぱいの愛。

 

形而下に生きる人間が、形而上の強欲に、ひきずりまわされる現代の皮肉。

即物的な欲求なのに、その価値は「みなし」によってあたえられた仮構のもので、

それはどこにもない幻のドラマに生きようとするダークサイドな想像力のフル稼働。

触れて嗅げて、食べられるトマト。育てて咲いた、色鮮やかな花。

ブライトサイドの想像力よ、負けじと五感を作動せよ。

どこにもないもの、それでも追うか?不適の謳歌。

 

 

◆私は、Theodore Roethke というアメリカの詩人が好きだが、

   彼の父が「薔薇つくり」だったこともあって、彼の詩では花をはじめ自然の描写にあふれ、

   父の想い出と共にある「温室」も度々登場する。そして、数多の鳥も詩をうめつくす。

   そうしたレトキの詩を思わせる象徴の数々が、本作においても丹念に描かれており、

   観ながらレトキの読む「アメリカ」と、本作が語る「アメリカ」が、私のなかで読み合った。

   風を享受するかのように謳う軒先のウインド・チャイム。中盤で響きを失うその音が、

   終盤で再び聞こえだす。それは、希望のまえぶれか。それとも、在りし希望の幻覚か。

   ミッチが愛でてた鳥達は、危機を察した彼の手で、ガールフレンドに譲られる。

   幸せの青い鳥。それらが家を去ったのは、幸せが消えるまえぶれか。

   しかし、鳥たちの避難はいつか幸せが舞い戻るための越冬か。

   崩壊し荒廃した庭に戻された、花。どんなに愚かに傷つけど、抱擁できる母なる愛か。

 

◇母親といえば、本作の前の回で観た『サウンド・バリア』(2005)にも、

   〈不在〉として登場する。そして、こちらもまた喪失との対峙が、

   107分の99%をつかって執拗なまでに展開される。

   しかし、主人公の聴覚障害に見舞われている少年は、

   そうした喪失の正体から目を逸らすことなく、どこまで正視を止めない一途な超克。

   一体どれほどの時間を費やしたかわからぬほど「冗長」な貸し倉庫でのテープ探しは、

   混沌とした茫洋未知なる記憶の海に、単身潜った少年の焦燥と閉塞を活写する。

   車が激しく行き交う橋上で、ひたすら「聞きたい」声に「触れ」ようとする。

   他力にむしゃぶりつくのに、どこか自力本願ぶりな豪快さ、一直線。

   カセットテープのケースの音や自動車の行き交う音が、観客を逆撫でする一方で、

   それらが遮られた沈黙の世界が繰り返し挿入されていく。二つの世界の往来続く。

   「聞えぬ」もどかしさと、「聞える」煩わしさが交錯してゆく。

   そんな二つの止揚と共に、絡まり合ったテープは空へと舞い上がる。

   沈黙が聞える。口笛が聴こえる。助走が跳躍へ。執拗が必要にかわるとき。

 

 


世界の現状/O ESTADO DO MUNDO (2007)

2011-11-10 00:01:45 | 2011 特集上映

 

 

現在、オーディトリウム渋谷にて開催中の王兵(ワン・ビン)全作一挙上映にて観賞。

2008年の東京国際映画祭にて上映された際には予定が合わず観賞が叶わず。

何しろ、いまや世界をときめかせまくっているアピチャッポン・ウィーラセタクンや

ワン・ビン、そしてペドロ・コスタというドキュメンタリーとフィクションを自由に越境している

映像作家たちが「世界」を短篇に収めようとして一堂に会しているというだけでも興奮。

そこに、アイーシャ・アブラハムやヴィセンテ・フェラスといった気鋭の作家のみならず、

シャンタル・アケルマンという重鎮(?)まで参加しているという充実っぷりの強度凄まじく。

 

複数の作家が、提示された一つのテーマを思い思いに作品化し、

それをつなぎ合わせて一連の作品として統合し、発表するという形態は珍しくない。

とりわけ映画という表現媒体においては常態化しているほど永らく「流行り」のジャンル。

それは、つながれたフィルムがひとつのリールにのって同心円の運命共同体となる、

映画ならではの収束がもたらす魔法の一種なのかもしれない。

 

そうした形式の映画は、それぞれの作品が全く独立した意思表示をしている場合もあれば、

何らかのバトンが引き継がれていきながら提示されるような場合もある。

勿論、前者と思える場合にも、観る者の読み方次第では、

しっかりバトンが浮き上がることだってあるだろう。

 

今から逃げたがってる現実と、逃げたところで変わらない歴史の鬩ぎ合いが立ち現れる、

もの寂しげなペシミスティックが、本作全体を漂い続けていた気がする。

死者やソ連、生まれ故郷のネパールやアフリカ、そして文革と失われし上海ラプソディ。

それらは決して甘美なノスタルジーで語られることは許されず、

しかし、「現在」のミッシングピースを埋めるためには不可欠な爪痕なのだ。

そして、いつでも「現在」の背後にスタンバっていて、「現在」を雁字搦めに出来もする。

清算されずに残留し続け、背負いながらも営む「現在」。

いまが光に満ちるほど、過去の影が慕われる?

いまに闇がたちこめて、過去の光が射し込めば・・・

 

言葉を介さず共有された悲哀の時代から(「聡明な人々」アピチャッポン・ウィーラセタクン)、

言葉によって会話や議論、真実暴いてみせようぞ(「ジェルマーノ」ヴィセンテ・フェラス)。

語る相手が不在なら、モノローグの言葉が浮遊する(「片道」アイーシャ・アブラハム)。

いよいよ言葉を抑圧するときは、暴力還りの退歩な人類(「暴虐工廠」ワン・ビン)。

語り継ぐべき話があれば、ふたたび語ってみせもする(「タラファル」ペドロ・コスタ)。

しかし闇の沈黙に、ネオンが喧しく躍り、モダンな夜に言葉は消える

(「上海の夜は落ちて」シャンタル・アケルマン)。

 

最初と最後のノンバーバルで向き合う世界の姿は、

親交と拒絶の対比をみせる。同じ水でも、同じ船でも、別の文脈に据えられた人間。

語り(働きかけ)続けてきたものの、必竟、耳をすますしかない世界。

現状とは、語ることではつかめない。語られる対象は常に、過去化のさだめ。

じっと見つめ、そっと耳をかたむける。

さすればいつしか忘却してた、海のうねりを想い出す。

家族と、仲間と、乗り合った、あの船上のあの揺れを。

大きな船(大陸)の上でしか生きることのできない人間にとって、

波を感知する静観こそが、世界のありさまを感受する。

川から海へ、陸(おか)へあがって、眺める海。

亡郷、乏郷、忘郷、暴郷、某郷、そして望郷。

 

 


ラビット・ホール(2010/ジョン・キャメロン・ミッチェル)

2011-11-08 23:14:30 | 映画 ラ・ワ行

 

幼い息子を喪失した夫婦の再生を描いたドラマ。

そうした認識は当たらずも遠からず。いや、遠からずも当たらず。

そんな気がする。そう思いたい。そう思えてくる。

 

前二作で疾走の果てにある喪失を描いたジョン・キャメロン・ミッチェルが、

疾走による喪失(交通事故)から始める物語。

しかし、容易く共有され得ぬ哀しみを描く点は共通している。

いや、本作においても共感や同情などはこれまで同様拒絶されてはいるのだが、

その先に「受容」などという生ぬるい解消(もどき)で物語に安易な決着をつけぬ真摯さが、

私にとっては沁みて響いて、静かに震え。傷とはおそらく、癒えたり消えるものなどではなく、

「それがなかったとしたら」とか「それがなくなったとしたら」ということを想像することにより、

少しずつ痛みだけをもたらすものでないように加工してゆくものなのだろう。

記憶の抹消などではなく、記憶の捏造なんかでもなく、

記憶の再創造なのだろう。それも終ることのない。

 

 

己に宿った哀しみは、誰かと比べ、誰かと分かち、軽くなったり消えるもの。

そんな安易な錯覚は、麻酔で誤魔化す対症療法。

喪失埋めるそのために、喪失事実を隠蔽するも、在りし日々との戯れも、

喪失そのもの脹らます。喪失という名の存在感。

去った人が残した痛み。残った人が去りぬを悼む。

消え去るものほど留まり続ける人生は、不条理だらけのパラドクス。

辿り着ける気はしないけど、確かに在ったパラダイス。

 

同じことが再び生じることを祈ったりする再生ではなく、

再び生じたときには以前より好くなっていたいという願い。

喪失感はシェアできずとも、そうした想いで手をつなぐこと。

喪失からの再生などではなくて、喪失を再生しつづける覚悟を手に入れること。

別れの辛さは出会いの喜びが裏返ったから。満たされた分だけ残される空洞。

悲しみ噛みしめ続けることが、空洞に在りし充足との再会そして別れとなる。

そんなことを繰り返し、空洞につながる穴は少しずつ、小さくなってゆくかもしれない。

 

 

◆二コール・キッドマンの演技に称賛が集中しがちな本作。

   しかし、数多のノミネートにも関わらず受賞には至っていないのは、

   『ブラック・スワン』のナタリーのせいかもしれないが、

   (そのナタリー然り)繊細さよりも大胆さにこそ注目集中のアワード法則なんだろう。

   別にそれが悪いとも思わないが(得てして「賞」なんてパワーバランスの産物だから)

   本作の彼女の演技に感嘆しきりだったのも事実。

   これまでは外へ発散する激しさに本領を発揮してきたかのような彼女がいよいよ本格的に

   外への力を内へと反す葛藤(しかもそれは決して表出し得ずに埋もれてゆく)によって

   細かな襞を重ねてゆくような繊細な緊張感を持続させていた。

   それは、彼女自身が本作に惚れ込んでいたことが陶酔よりも慎重さに作用し、

   そこに一役買ったのも「プロデューサー」という立場に身を置いてみたからかもしれない。

   だから、彼女だけが集中的に称賛の的としてピックアップされるのは、

   (二コール自身も)本意ではないように、私には思えたりするのだが。

   要は、演技合戦でもなければ、二コール出色でもなく、

   キャストが皆きわめて冷静かつ丁寧な演技で作品を編み上げている印象。

 

◆主人公ベッカの母親役を演じるダイアン・ウィーストが巧いのは言わずもがなだが、

   相手役である夫のアーロン・エッカートが、かなりな好演。

   「普通」を演じるほど難しいものはないと思うし、「普通」が「異常」になった姿ほど、

   説得力をもたせるのは至難の業だろう。

   しかし、彼は過度な共感をぎりぎりでかわし、極度な乖離は来たさずに、

   絶妙な匙加減で、二コールに埋もれずも、二コールを引き立てて、

   男性の観客が作品に入り込む為のベストスポットを用意する。

   もう一人の男性としては、ジェイソン演じるマイルズ・テラーもいるのだが、

   彼は役柄の性質上、観客の感情を余りに吸収してしまっては不味いわけで

   (主人公夫妻を相対化し過ぎてしまう危険があるし)、そうした意味では彼も絶妙。

   そのへんはおそらくジョン・キャメロン・ミッチェルの演出力に拠るところが大きそうだが、

   ジェイソンの人物造形も非常な困難を伴うものだが、共感と反感の狭間を逡巡させてくれる

   誠実な演出が見事な機微へと結実している。

   (本作はとにかくあらゆる面で「抑える」というテーマで彩られているかのような抑制の芸術。

   ラスト近くのスローモーションでちょっと「いつものくせ」が出てる気もするけれど。)

 

◆私は本作の予告編を(おそらく何処かで目にして入るはずだが)ほとんど記憶に留めず、

   宣材やサイトなどにも目を通さずに観賞したので、かなり先入観からは自由にみられた。

   日頃から予告編はなるべく注視しない習慣を貫いているのだが、

   本作の予告(及び事前情報)もそのような扱いで好かった・・・

   (だから、いつもは貼り付ける予告編を今回は貼り付けない。)

   得てして「女子モノ」や「婦人向け」の作品の広報は、

   「それっぽさ」を過剰に演出して「釣る」ために、それ用の演出が施されがち。

   本作でも、予告編に入る「人物設定」や明らかにテーマとずれる「引用」なんかに顕著。

   極めつけは、公式サイトのコメント集

   「さて、このなかで実際に映画を観た人は何人いるでしょう?」的レベルの作文で、

   更に「そのうちで、映画をきちんと解釈しようと試みた人は何人いるでしょう」な内容で・・・。

   (レビューとして提示された指摘や批評はさすがに、的を射ながら示唆に富んではいるが。)

   そろそろこの手の一つ覚えから卒業する気はないものだろうか。

 

Anton Sanko の心の震えを優しくなぞるかのような抑えたスコア。

   Frank G. DeMarco のカメラは近づきすぎず遠ざかりすぎずに見守る眼差し。

   Joe Klotz の断片と断片の間に流れる時間がそれらを接着する編集。

   どれもが出色しなくとも、一つ一つを踏みしめ噛みしめする仕事。

   丁寧に、厳かに、和やかに。抑制という名の調和が滲みでる。

 

 

以下、ネタバレ含み(といっても、予告編では完全ネタバレですけどね)詳細感想。

 

◆冒頭の二コール・キッドマンは、特殊メイクかと見紛うほどの「らしからぬ」容貌。

   彼女特有の颯爽をすべて消し去った、衰弱と執意にのっとられた人間の顔。

   そんな彼女の前にあらわれる、至って「善良」な隣人は、細心の気遣いで彼女を労う。

   しかし、そんな隣人の足元で無意識に踏みつけられていた植物。

   悲しみも慈しみも、きわめてパーソナルな営みなんだと教えてくれるファーストシーン。

 

◆本作におけるテーマの一つである「悲しみの共有不可能性」。

   グループセラピーくそ食らえが二度も出てきて面白い。

   しかも、懐疑的な嘲笑と、無関係な爆笑で。

   悲しみは共有できないだけでなく、共有してはならないものかもしれない。

   悲しみを共有し続けることは、悲しみをそのまま保存し続けてしまうかもしれない。

   そうして夫婦としても、グループとしても8年間保持した夫婦の帰結にひとつの示唆が。

   更には、同じ共有するならマリファナファニーなスマイルを。

   これも根本的な解決にはならないが、逃避が「現実」を相対化してくれるかも。

   少なくとも現実に戻ってきた「以後」の感覚は、打開を試みる第一歩につながるかも。

 

◆かつて働いていた職場へ出向くベッカ(二コール・キッドマン)は、「いつもの」颯爽で、

   しかしそれ故にその後に訪れる失意の彼女が痛ましい。

   人間になど容赦もせずに動き続ける回転ドアに、うまく入り込めないベッカの当惑。

   人が皆、運命に抗えず、寄り添うようにくぐっていくしかない現実。

 

◆息子の事故死を招いた(おそらく車を運転していた)ジェイソンの痛みも描かれる。

   これは、立場は違えど(正反対といえども)喪失を埋めるための代償として起こってくる

   自責の念は同じで、そこに生まれる共感が、悲しみを共有する感覚につながるのだろう。

   そうした意味では、人間は「運命」という不可抗力に等しく翻弄されて生きている。

   皆が皆、運命の被害者ともいえるだろう。(現実にはそう寛容にはなれないが)

 

◆ジェイソンがベッカに手渡す自作のコミックが『ラビット・ホール』という物語。

   図書館で延滞しまくった本(罰金払わされてたが、これは事故前に借りてその後しばらく

   『ラビット・ホール』という再創造の物語が止まっていたことを示唆しているのだろうか)を

   参考にしながら書いたという「並行宇宙(パラレル・ワールド)」の物語。

   (その参考図書はずばり『PARALLEL UNIVERSES』)

   父を失った息子が、父のいる世界へと入っていき(その入り口がラビット・ホール)、

   自我を取り戻してゆく物語のようだ。そして、それを描くジェイソンも実際に父を失っている。

   そうした「展開」に興味を示し、そこに何らかの答えを求めるかのように読むベッカ。

   二人とも並行宇宙の存在を信じるわけでも、そこに縋るわけでもない。

   しかし、必ずしもそれは幻視という否定で帰結したりもしない。

   期せずして同時期公開である『ミッション:8ミニッツ』でも軸となった世界観。

   あちらでもそうした存在をひたすら肯定したり享楽するでもなしに、

   想像と創造の可能性として映ずる鏡に見えた。

   二作ともアプローチも作風も異なるが、「人間」を描き、「物語」を語り、

   想像することの可能性に想いを馳せる美しさが刻まれた、愛しさ募る佳作に映る。

 

 


ミッション:8ミニッツ(2011/ダンカン・ジョーンズ)

2011-11-03 23:47:35 | 映画 マ・ヤ行

 

本作の構造や展開を考察する上で、原題である「ソースコード」の存在は不可欠。

精密な分析も詳細な解説もできる頭脳に欠けるゆえ、想像領域内の推測段階どまりだが、

〈現実〉(現象・意識・物質)と〈虚構〉(想像・夢・記憶)の循環構造や多層性を背景とした、

あるいはそれらの混同や衝突や矛盾を逆手にドラマに仕立てたスペクタクル。

だから、おそらく監督の意図は明確ながら、その意図に矛盾する要素も少なくない。

しかし、そうした矛盾は間違いではない。論理に収束できぬ、検証による確信を得られぬ、

現象界の「背後」の海を泳ぐ物語だから。一見、極めて科学的理論的な前提があるようで、

それらを度外視しても、いや度外視してこそリアリティが噴出するかのようなユニークさ。

バリバリ理系な頭脳で観れば、そんな私の印象など見当違いかもしれぬ。

しかし、本作で描かれている「現実」は、或る意味ほとんど「夢」であり(独断御免)、

そうした見方で読むならば、きわめて文学的ですらある設定。

 

把握しようとするのを止めたとき、

観客は「シートにもたれている自分」から解放されて、

「スクリーンのなかの世界」につつまれる。ところが、意識や記憶はひとつ。

映画が終わり、明るくなって、日常に還ってゆくときの、不可思議な感覚。

しかし、そこにも確実にひきずられている奇妙な「現実」感。

現実と虚構。「いま、ここ」と「いつか、どこかで」。

現象と想像は常に循環し、それは一体であるようでもあり、

あらゆる「点」を起点としながら無限に増殖し続ける果てなき宇宙ですらある。

だから、Everything's gonna be OK(All Correct).なのだろう。

 

 

以下、ネタバレ全開でグダグダ妄想ふくらます。

 

◆序盤は全く「理解」できなくて、途中からあきらめて(笑)甘受しはじめた途端、

   ふっと感受できはじめ・・・ただ、この解釈が合ってるかどうかは自信がない。

   主人公のスティーヴンス大尉(ジェイク・ギレンホール)が送り込まれる世界は、

   「ショーン」なる人物の脳が記憶している8分間の世界だというのだが・・・

   最初はそれが、ショーンの記憶している「情報」によって再現された世界(一つ)と思ってた。

   ところが、どうやら基本的な展開(起こること:コーヒーこぼされたり、電車遅れたり)は

   同じようでいて、微細な部分は異なるし、そもそも送り込まれる度にスティーヴンス大尉が

   ショーンの行動を書き換えるので、送り込まれた瞬間を起点として更新されてゆくことで

   新たなパラレル・ワールドが生成されていっているという風に考えていいのだろうか。

   いや、というより、そもそも着地地点(8分間の起点)ですら、

   その瞬間に無数存在していたパラレルワールドの一つに過ぎないということか。

   だから、クリスティーナ(ミシェル・モナハン)の姿勢や表情が微妙に違ってたとか?

 

◆そういった解釈(間違ってるかもしれないけれど)で本作を眺めると、

   たとえば、デジタルとアナログの世界の在り方の違いとの類似性を感じもする。

   たとえば、文章を紙と鉛筆で書く場合。何度も消して書き直しても、

   一度書かれた文字の痕跡は、ほんのわずかでも残り続ける。

   従って、「一つ」の世界の中で「書く」行為は展開され続ける。

   しかし、パソコンで文章を書く場合、一度消したら痕跡はない。

   したがって、Deleteされる前の「世界」と、Deleteされた後の「世界」は、

   全く別個の世界として存在し、それは現前の「世界」が常に

   背後に或る無数の「世界」から選択された「一つ」でしかないことを意味している。

   「書く」行為は常に更新され続ける無数のなかのたった一つの世界で展開される。

   「上書き」すると、その前の「世界」がまるごと消えるのもそのせい・・・とか言ってみる。

   しかし、「上書き」されるまえの「世界」がコピーされていたら、それはそれで別個に存続し、

   そこに新たな更新を加えていくことも可能。って、そういうことじゃないかもしれんが(笑)

 

◆スティーヴンス大尉の肉体がある世界(A)も、無数のうちのたった一つの世界に過ぎない。

   彼が送り込まれる他の「世界」たちのなかでいくら更新しようとも、

   それらの「世界」の延長でない世界(A)では何も変わらない。

   だから、ラストでグッドウィン(ヴェラ・ファーミガ:めちゃくちゃ好演)が

   メールを受け取る世界は(A)とは別世界。

   最後にスティーヴンスの意識が落ち着いた「世界」内のグッドウィンなのだ。

   そう考えてみると、主人公の男が次から次へと登場してきたダンカン・ジョーンズの前作

   『月に囚われた男』と極めて符合する。(もう散々いろんな人が語り済みだけど)

   こうした構造や展開は、唯一の中心へと集約されてゆく近代的世界観が壊廃し、

   ある面ではアイデンティティ・クライシスが起こりつつも、

   そもそも一貫性や同質性に「囚われ」ていた自我を解放拡散させもする。

   そうしたリセットの後におとずれる、幸福追求を語ろうとしてるいるのかも。

   斬新なようでいて、意外とクラシックなポストモダン(?)。私は好きですが。

 

◆独創性には満ちているものの、観方をかえると『マトリックス』やら『インセプション』やらの

   革新的な「面白味」の要素を換骨奪胎した作品にも思えてくる。

   「リアル」を固定せずに流動かつ曖昧にすることで『マトリックス』よりもファンタジックに、

   「夢」は醒めるものであるとの前提を取っ払うことで『インセプション』より自由な往来。

   夢と現実の交錯や、はたまた夢のなかで更に夢を見るなんて、もはや「胡蝶の夢」を

   グレードアップ。しかも、「現実」サイドの主人公はほんの数十秒しか映らない。

   そもそも、「Beleaguered Castel」にいるスティーヴンス大尉自身が夢の産物で、

   特殊なコードを介してしか「現実」と交信できぬわけ。

   映画という〈虚構〉。夢の世界。もう一つの「世界」。束の間の「現実」。

   そして、全く同じような構造をもったサイバースペース。

   そのあたりを見事に横断しながら、包括しながら、物語として描いてみせた面白さ。

 

◆「みんなしあわせ」のストップモーションが、もれなく感動必至になりうるのは、

   「不機嫌な世界」を繰り返し見せつけられきた観客が

   ようやく見ることのできた「ゴキゲンな世界」だったから。

   しかし、一部始終を知っているのはあの「世界」ではスティーヴンスのみ。

   つまり、束の間とはえ彼はやはり「神」のような創造主(世界を書き換える力を持った)に

   なっていたということか。だから、彼はいつもFATHERに対する罪の意識に苛まれてた?

   かつて神に向かって「死んじまえ!」と叫んだ近代人の後悔か。

   「あんなこと言ってごめん」と謝りたい?

   そして、好き勝手に「世界」を書き換えられると思ってた人間は、

   一つの世界に身を委ねて落ち着く選択をし始めたのだろうか。

   いや、答えはまだまだわからない。次なるスティーヴンス大尉の実験が待っている。

 

◆クリスティーナの着メロは、チェズニーホークスの「The One and Only」。

   マイケル・J・フォックス主演の映画『ドク・ハリウッド』の主題歌でもあるのだが、

   その映画の原作は『What? Dead...Again?』。本作の内容とかけてるのか?

   それとも、すべての世界(パラレル・ワールド)が「唯一無二」だという代弁!?

 

◆邦題が不評なのは明らかで、当然邦題にうるさい当サイト的にもこき下ろす気満々・・・

   だったけど、音楽がSF的というよりもややクラシックなアクションモードで、非ピコピコ。

   おまけに列車フィーチャーされてるし(『ミッション・インポッシブル』想起しちゃう)、

   ちょっとは作品カラーも考慮の上か!?などと温情まじり・・・しかし、やっぱりダメだろ。

   「ミッション」(昭和だったら「大作戦」)というノスタルジックな言葉選びに加え、

   「数字」+「時間」という安直邦題パターンのお手本をくっつけたりしやがって・・・

   もういっそのこと『8ミニッツ大作戦』とかの方がまだマシだし(え?そりゃない?)、

   そこまでダサさを追求するなら、『八分間世界一周』でもいいじゃん(意味不明)。

 

 

◆主人公は、軍人から歴史の教師へと変貌するわけだが、これも実に象徴的。

   「たった一つの正義」に導かれる戦士から、「無数の語り手をもつ」歴史の探検家へ。

   そうか、そもそも「歴史」について考えりゃ、無数のパラレルワールドなんて当然だ。

 

 


フェア・ゲーム(2010/ダグ・リーマン)

2011-11-01 22:24:35 | 映画 ナ・ハ行

 

これまでのダグ・リーマンの作風からはやや意外な本作。

おまけに、カンヌのコンペに選出されていたりもして、やや違和感。

しかし、これはダグ・リーマンの華麗なるネクスト・ステージか!?とも期待しつつ、

なかなか決まらぬ日本公開に些か痺れをきらしているうちに、作品の存在を忘却(笑)

 

IMDbやらRottenなんかの評価では軒並好評そうなスコアだから、

期待も昂ぶり観賞するも・・・好くも悪くもリーマン・ショックと呼べる変革何ら無し。

だって、何故にわざわざシネスコで揺れまくる映像撮ったりするんだ?

「人間」やら「社会」やらを凝視しようとした作風、めざしたんじゃない?

一体〈誰〉が視てんだよ・・・手持ちのあの揺れってそういう必然性ありきなんじゃなかろうか。

ただの臨場感とか緊迫感を演出(というより捻出)するための安易な選択な気がするなぁ。

ボーン・シリーズ意識したとかか?(ちなみに、撮影はダグ・リーマン自身が担当)

 

そもそも、周知の有名事件を題材にしているのだから、

観客は展開に対するハラハラドキドキなどそもそも期待できぬ(してない)わけで、

描くべきは作り手が投げかけたい「問い」であったり、提示したい「テーマ」であるべきでは?

そこのところが極めて希薄。何を描きたいのかが不明瞭。主演二人の演技に依存しすぎ。

本国での高評価も、カンヌ・コンペ選出も、「この事件を早くも映画化した」という事実に対し、

敬意を表しているのか否定を封じる空気が作用しているのか・・・そう思えるほど凡庸なのだ。

「国家」を描くにはスケール小さすぎ、「社会」を描くには切り込まなすぎ、

「個人」は描くもステレオタイプ。(達者な二人の演技が余計そう感じさえる気もしてしまう)

 

これはあくまで個人的な意見(というより要望?)だが、

この事件における諸悪の根源(という言い方は適切ではないかもしれぬが)は、

どう考えても〈国家〉だとか〈アメリカ〉などではなく、

むしろ〈大衆〉及びそうした群衆こそが動かしている「民主主義」なのだろう。

だからこそリークやら報道やらが〈武器〉になり得るわけで。

リークした人物の卑劣さだとか、そうした構造の傲慢さを叫ぶより、

そうした「からくり」の前提や背景を丁寧に描くことで、

それを駆動している〈何か〉を浮き彫りにしてこそ、

社会の根源的な考察にも迫れるというもの。

 

確かに、ラストのジョー(ショーン・ペン)の演説(講義)では、

そうした民主主義の実体と(それ故に必要な)実感を説いて終ろうとしている。

しかし、そうした不信の矛先が「われわれ」を脅かすほどに迫ってくることが結局ない。

だから、彼の言葉も民主主義の危険性を説いているようで、それを説くという行為によって

(さらには、ラストの実際VTRを引用することによって)「勝利」として捉えられて終ってしまう

(そうすると、結局安堵ばかりが広がってしまって)民主主義の称賛に収斂されてしまう。

決して新しくなどない(むしろ実際は原初的な「政治」のあり方である)民主主義の不変的な

問題点をしっかり押えつつ、新たな問題(大衆やメディアという新たな脅威)を喚起し、

そうした問題の所在や責任は常に「われわれ」にあるのだという自覚を促すような警鐘が

もっとじわじわ微かにずっと鳴らされ続けもしていたら、

歴とした社会派佳作になり得たろう。

 

 

◆脚本家の人選を間違ったのではなかろうか。フィルモ的に怪しいJez Butterworth とか

   新人(おそらく)のJohn-Henry Butterworth とか。

 

◆ジョン・パウウェルは今をときめく映画音楽家で、ダイナミックなスコアにはもってこい。

   だからこそ、本作のような〈動〉というより〈静〉な印象で進める「ドラマ」においては、

   別の人選っていうのもあり得た気がするな。

 

◇最近はすっかりWOWOWで映画を観なくなってしまった私だが(ダサいロゴ目立ちすぎ)、

   ドラマは結構観てしまっており、そんなWOWOWで放映中のドラマに出演してる俳優が

  本作には二人も出ておった。ほんのチョイ役で『私はラブ・リーガル(Drop Dead Diva)』に

   出演中のDavid Denmanが出てたり、『クリミナルマインド FBI行動分析課』スピンオフの

   『クリミナルマインド 特命捜査班 レッドセル』出演中のMichael Kelly(映画出演も多いが)

   なんかは主人公(ナオミ・ワッツ)の上司(?)だったりした。

   どうでもいいことだけど、ちょっと嬉しく、でもそれ故にちょっと安っぽく感じたのかも。

 

◇不満たっぷりっぽい感想を書いてしまったが、ダグ・リーマンは基本的に好き。

   ただし、『Mr.& Mrs.スミス』とか『ボーン・アイデンティティー』とかの無思考全力疾走系が。

   そういえば、『go』とかも学生時代に劇場観賞したんだよな。

   それも伝説の新宿ピカデリー4で!