本国公開時より、作品の質に関して好評が伝えられ、
日本での公開後にも随所で絶賛に近い声を目に耳にしてきたので、
否が応でも期待は高まるし、求めるものも自分のなかで勝手に膨らんでいったのだろう。
結論からいえば、「映像」文句なし、「物語」文句あり。
客観的には絶賛要素がふんだんに詰まっているが、
主観的にはいろいろと難癖つけたくなる(笑)と。
「物語」には、絶対的な価値基準も完璧な判断も存在しないと思う。
但し、責任ある立場や期待された役割の下に評論する場合、
ある程度の責任が生じるであろうし、客観と主観のバランスは重要となる。
しかし、この場は個人の「ブログ」であるので、主観に軸足をおいても好いと私は考える。
その一方で、「公開」している以上、最低限の客観性を維持するよう努めるのも
書き手の責務であろう。つまり、頭から湯気を出しても好いが、湯気が出てることに
気づけるアングルをもつくらいの理性は失わないようにしたいと思う。
私は3D版で観たので、当然「3Dの出来」について言及したくなる。
そして、それは見事なものであった。
突発的に奇を衒った演出で驚愕をうむのではなく、
常に必然性をもって(ということは実に自然な流れで)活かされた3D演出になっている。
私の3D映画観賞体験はそれほど豊富ではないが
(ちなみに、『ボルト』『くもりときどきミートボール』『カールじいさんと空飛ぶ家』
『クリスマスキャロル』『アバター』 『トイストーリー3』『エアベンダー』
と、書き出してみたら結構見ていたことに気づく・・・が、多いか少ないかはわからない)
これまで観た3D作品のなかでも、違和感のない流麗さと躍動感あふれる動きの数数は
出色の出来であったように思う。(眼の疲労度も少なかった気がする。)
とりわけ心躍ったのは、ヒック(少年)とトゥース(ドラゴン)が初めて飛翔する場面。
自分もドラゴンの背中に乗っているかのような臨場感。
これは3Dならではの興奮かもしれない。(『クリスマスキャロル』にも同様の感覚があった。)
勿論、トゥースが飛べない姿を何度もしっかりと見せつけた上、
ヒックの技術が未熟であることも冒頭で示唆されているので、
そんな半人前同士の飛行には、観客も当然不安がつきまとう。
飛べることがわかっていながらも、そうした不安をしっかりと残し、
見事に飛翔へとステップアップする瞬間の喜びを彼らと共有できるような描写の妙が
映画への没入感を約束し、観客は達成感すら覚えてしまう。
もう一つ印象に残った「画」がある。
ドラゴンの大群が、ボスのところへ餌を貢ぎにゆく場面である。
靄のなかから少しずつ姿を現してくるドラゴンの群れが、非常に不穏で美しい。
アメリカの3Dアニメの上質さは、こういった恐怖心を煽る演出に手抜きがない点だ。
真剣に不安にさせる。「奈落の底」を、ほんの一瞬だが観客に直接確認させる。
だから、観客も気を引き締める。作品も引き締まる。
最初はバイキングと同様にドラゴンへの畏怖を残しながら見始め、
トゥースとヒックの交流で完全にドラゴンへの親近感で満たされ始めた矢先、
ヒッチコックの『鳥』ばりの迫力ある「群れ」演出。
つまり、個としてのドラゴン(トゥース)に友情を感じ始めた観客は、
集合としてのドラゴンに再び疑念を抱き始める。
そして、この疑念はおそらく最後まで継承されるのであろう。
一部のドラゴン(ヒックの仲間が乗る、戦闘練習用に飼っていた)には
(個としての)多少の描き分けや存在感を与えているが、
その他のドラゴンはあくまで「ボスに支配され、隷属せざるを得ない存在」
としてしか描かれず、それが「言いなり」の場合には「不穏」なのである。
そして、自分たち(人間)の「言いなり」になれば「穏当」なのかもしれぬ。
煽動者のいる過激派も、自分たちが先導すれば穏健な「仲間」に。
などという見方は穿ち過ぎかもしれぬが、そうした個人的な感触が、
物語の後半部で覚えた違和感へと結びついていった気がする。
ある作品と接した際、別の作品と結びつくことによって作品理解が深まったり、
感動が増幅することがある。それは作者が意図している場合もあれば、
観客が各各で勝手に膨らましてしまうこともある。
その逆に、ある作品の中に別の作品で味わった醍醐味を期待し始めてしまったり、
別の作品との比較を始めてしまうと、自己完結的な幻滅で終始してしまったりもする。
したがって、観ながら「これは『(作品名)』だな」などと思わないように極力努める。
しかし、今回はそれをやってしまい、それも又この作品を「心ゆくまで楽しむ」ことを
妨げた一因かもしれない。
ちなみに、今回想起してしまった作品とは、『アイアン・ジャイアント』と『となりのトトロ』。
前者は10年以上前に観たきりなので内容の詳細については記憶は不確かだが、
いずれも子供が「未知との遭遇」から「親愛なる存在との交流」へと発展していく展開をもつ。
そうしたプロットは多くの作品で用いられているものだろうが、私が想起した理由としては、
前者は「同じアメリカ映画であるから」であり、後者は「最近観たから」(笑)であろう。
(何ともお粗末な根拠である・・・)
まず、『アイアン・ジャイアント』と『となりのトトロ』の両者で大きく異なるのは、
〈未知なる存在〉の大人たちの捉え方(いわば物語の前提ともいえるかもしれない)である。
警戒や排斥の志向が強い前者に対して、後者では畏敬の念から共生を望んでいる。
近代以後と以前の世界観、西洋と東洋の自然観などといった対比が可能だろうが、
いずれも文明の洗礼を受けるまえの「子」らは、ごく自然に一体感を獲得していく。
では、それがなぜ可能だったのか。
社会通念が刷り込まれる以前であったからというのが妥当な答えだろうが、
それは勿論のこと(そうであるからこそ可能になるとはいえ)、
直接の接触(身体的な接触も含む)、一対一での対峙、そして目を合わせたという体験、
それらが「未知」を「既知」に変え、「既知」が「無知」をも氷解させたのではないだろうか。
『ヒックとドラゴン』では、縄で拘束されたトゥース(ドラゴン)をヒックが始末しようとする時、
彼を思い留まらせたのは「トゥースの眼」であった。
そして、その後もヒックとトゥースのコミュニケーションには、「言語」が全く用いられない。
こうした流れは個人的に非常に感心し、
「言語」自体が大きな障壁となり得る現状を打破する
力強い主張を汲み取ることができた。
そして、そうした交流に説得力をもたせた最大の功労者は、
ジョン・パウウェル(作曲家)ではなかろうか。
ヒックとトゥースが初めて心を通わせるシーンの胸の高鳴りを実に繊細に演出していたのは、
無限なる夢現のときめきを体現させてくれるかのような唯一無二の音世界である。
そして、音楽こそが彼らの「通じる」瞬間を演出する
というのは、実に正しいと思う。
言語を超越し、時には文化や信仰や時代をも超越して心を動かすものこそ、
音楽なのだから。
些か脱線してしまったが、そうした非言語コミュニケーションに必要なのは、
対面であり、接触であり、時間である。
従って、そうした前提を無条件に放棄してしまう大人たちが、
巨大ロボットやドラゴンなどのような存在と打ち解けるわけがない。
(片や「もののけ」との交流を続けてきた大人たちは、異なった捉え方をしている。)
そして、それは差別や軋轢を解消する唯一の可能性とも思える「経験」の
有無の差を明示しているようにも思えるのだ。
先入観や偏見が人間から直接的に奪うのは、「経験(の可能性)」なのではないだろうか。
知識や情報を獲得することは、自らの世界の広がりに大きく貢献すると同時に、
その内容如何によっては世界の広がりに限界を設けてしまうことにも繋がる。
知識や情報で獲得できない、或いは理解できないことも、
経験を通じて認識できる場合は少なくない。
しかし、その経験を知識や情報が奪う。
理性が万能でない証左。
だからこそ、そうした「経験」を通ることのない大人たちにとっては、
〈monster〉はいつまで経っても〈排除すべき存在〉であり続ける。
私が期待したのは、バイキングの大人たちがそんな「経験」を通ることで得られる
発見であり、反省であり、可能性だったのだ。
それでこそ、〈無垢なるもの〉への単純な信奉・礼賛ではなく、
〈無垢なるもの〉の建設的な可能性に目が向けられたような気がする。
おそらく、この物語に違和感をおぼえる観客の多くは、
救世主として戦争をしかける国家を正当化しようとする思想が
根底にあるような印象をもったのではないだろうか。
事実、私もそのような印象をもってしまった一人である。
そして、それは浅はかな読みかも知れぬし、
本来の読み方から外れるのかもしれない。
しかし、観客の多くが子供であることが想定される作品において、
その作品における物語がもつ「教育」効果が軽視されているはずがないと私は思う。
従って、やはりそこには明確な意図があってこその「展開」だったのではなかろうか。
それを私は非難しようというのではない。むしろ、感心と反省をもって受け止めるべきだ。
このような上質なエンタテインメントを産み出すクリエイターたちが
明確な「教育」的使命をもって作品を創り上げているという事実。
大人向けであれば、制作者は「啓蒙」を期待するだろう。
だからこそ、映画が文化としても在り続けるのだろう。
アメリカ(とりわけハリウッド)映画には、
一見「産業」的側面が強い作品が多いようでいて、その実は非常に「文化」的な作品も多い。
それはもしかしたら、「世界の中心」としてのアメリカであるが故の使命感もあるかもしれぬ。
しかし、いずれにしても文化活動を通じて社会とのつながりを意識する誠実さが
そこには確かにある気がする。
今の日本映画(特にメインストリームの)に欠けている「思考」がそこにはあるのではないか。
いや、映画業界などに限ったことではなく、日本の大人たちに稀薄になってきているものこそ
そうした「教育」「啓蒙」の観点なのではないだろうか。
「誘導」「煽動」「洗脳」といった謗りを恐れるあまり、
「自由」という隠れ蓑で教育を放棄する。
「またアメリカ万歳か」などと嫉妬するまえに、
伝えたいことをしっかりと持ち(持てるよう模索し)、
語ろうとする姿勢を常に忘れぬよう在りたいと思う。