goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

果てなき路(2010/モンテ・ヘルマン)

2012-01-15 13:26:41 | 映画 ナ・ハ行

 

― 《断絶》のモンテ・ヘルマン21年ぶりの監督作。

ろくに頭を使わずにこの謳い文句をわかったつもりでいると、

『断絶』は当然1989年の作品のように思ってしまう陥穽が用意されている。

そんなもの、別に故意に拵えたわけでもないのだろうが、

『断絶』は1971年の作品である。

 

映画監督モンテ・ヘルマンを見舞った「断絶」もまた、

きわめて重層的なものなのだろう。

《呪い》(?)がはじまる『断絶』からは29年。

沈黙前の『ヘルブレイン/血塗られた頭脳』からは21年。

しかし、そうした「断絶」はあくまで監督と観客の間における話であって、

監督自身に断絶があったわけでもなく、むしろ「仕切り」のない分、

いつまでもどこまでも過去のまとわりついた今を生きてきたのだろう。

だからこそ、虚実の断絶や懸隔を描くために

《断絶》とは対照的な《連続》や《継起》で綴られている本作。

能動的な侵入が監禁の受動性へと昇華する堕落の恍惚。

映画とは何か。というよりも、映画と関係を結ぶとはどういうことか。

真実の物語とは存在するのか。物語とは真実なのか。

語られていることはわかるのに、騙られていることはわからない。

ならば、語られていることもわかっていないのでは?

では、「わかっている」感覚は何なのか。

 

虚実に明確な境界を設けた近代人の感覚は、その存在にふりまわされる。

認識における境界など、任意でしかないはずなのに、決して恣意は許さない。

合意にすがれば社会に生息可能だが、我意なき物語に含意の生息する余地などない。

自らの歩む路が、社会の説く道と重なり続けることなどありえない。

思い描く「行き先」が自分にとって明瞭であればあるほど、

他者にとってはいよいよ曖昧(NOWHERE)になってくる。

普遍と共有に耐えうる到達点《真実》が見出せなくとも、

誰もが確信できる場所がある。確信するしかない場所がある。

いま、ここ。(NOW・HERE)

すべてはそこから始まり、そこに尽きるのかもしれない。

複製技術が我々の意識を弄び続けてきた歴史のなかで、

人間の側から戯れることを始める時機が訪れたとでも言うのだろうか。

 

上映中に「NOWHERE」へ連れ去られた意識が、

終映後に「NOW・HERE」へと帰還する121分の旅。

旅の終わりには、トム・ラッセルが回帰の唄で我らを導く。

そして、2周(2時間)を終えて最初に踏み出す1歩(1分)に

監督から添えられるささやかなアドバイス。

  THIS IS A TRUE STORY

  ROAD TO NOWHERE

何処にも無いのは、今此処に在るからさ。

そんな恣意的理解に耽溺してしまう私の享楽に寛容であるかのような表明として、

任意の解釈を許容された歓びを錯覚し、新たな「ROAD TO NOWHERE」を始めたい。

 

 


フライトナイト/恐怖の夜(2011/クレイグ・ギレスピー)

2012-01-09 22:12:43 | 映画 ナ・ハ行

 

「フライトナイト」って音だけ聞くと、

飛行機の映画か?なんて思う俺みたいなアホのために

わざわざ直訳併記の邦題とは、作品同様ネタ臭ぷんぷん、ワクワクしちゃう。

 

賞味期限が余りにも短かった気がするアントン・イェルチン(でこ後退警報!)と

あまりにも健やかなる成熟まっしぐらなイモージェン・プーツというカップル。

リアルな彼らの今後こそ、劇中以上の格差カップルにならないように・・・

 

波瀾万丈人生は俺にまかせろ!な、コリン・ファレルがヴァンパイア。

ここのところ渋めの役とかも多かった分、嬉々として享楽パフォーマンスを展開。

オンナ大好物!みたいなエロエロ暴走は(さすがに時期尚早とあってか)

随分控えめながら(脚本が女性だからかも)、

こういう役ができるようになったってことは、

或る意味本当に復活してきたってことなのかもね。

たださ、本作のコリン・ファレルがどうもライアン・ゴズリングに見えてしまうのだが、

それって本作の監督クレイグ・ギレスピー(『ラースと、その彼女』)の未練の顕れ?

 

コリン・ファレルは顔のつくりのせいかもしれないが、

ヴァンパイア役お決まりの白塗りがそんなに気にならなかったな。

いやね、本編まえの予告でも流れてた『トワイライト』シリーズとか、

みんな「バカ殿」メイクしてるようにしか見えないスイッチが一度ONすると、

延々と志村けんが頭ん中駆け巡ってしまうからね。

それはそうと、本編で『トワイライト』ネタつかってる本作の予告に

ちゃ~んと『トワイライト』の爆笑予告がくっついてる正しさに最も萌えた(笑)

にしても、やっぱりあの予告は何度観ても笑えるんだよなぁ・・・

大映ドラマのホラー・ファンタジー篇みたいな勢いだよね>トワイライト。

俺は1・2作目しか観てないから余計あの新作の展開が奇天烈にしか見えず、

なんかワクワクしてきて仕方がない。あれは、おそらく熱狂するガールズのみならず、

当たり屋的なノリノリ男子も取り込んでたりするのが(本国で)ヒットの秘訣!?

などと今更ながら勝手に分析してみたついでに、

本作観ながら「なぜ昨今またハリウッドではヴァンパイアものが多くつくられるのか」

などという不意に浮かんだ疑問の検証を観ながら勝手に展開してみることにした。

 

本作を観る直前にオリジナル版も初めて観た。

カルト的人気を誇ったのも頷ける快作ではあったけど、

それ以上に結構細かな設定とかが妙にリアリティをもって迫ってきた。

とりわけ、ヴァンパイア撃退にまつわる「条件」みたいなものが新鮮だった。

十字架にしても聖水にしても、《信仰》の有無(強弱)と効力が対応するのだという。

リメイク版の本作では、そのあたりは強調されてはいなかったものの、

そもそも「ヴァンパイア」という存在が《信仰》の補強たる存在かなと。

 

西洋の怪物君たちは得てして、ゾンビにしてもヴァンパイアにしても

基本(容赦なく)「殺していい」存在として描かれるのが常だったりして、

その延長上にあるのが地球外生命体だったり、某国だったりといった印象。

しかし、東洋の(というか日本の?)の怪物くんっていうのは少し違う。

専門家でもないので浅はかな知識での短絡的な結論に過ぎないが、

ヴァンパイアというのは明らかに「異教」なる者であり、

日本の怪物(とか妖怪・・・あれ、日本でも流行ってるな)は「異形」なる者。

前者は当然殲滅対象に認定されるが、後者はむしろ信仰の対象にすらなる。

そもそも、霊的な存在の扱い自体も異なっている気がするし、

その違いの背景にも同じ傾向が重なる気がする。

ハリウッドとかで出てくる霊はとことん祓うか滅ぼすかするのに対し、

日本の霊は慰めたり労わったりして鎮める、畏敬な存在。

まぁ、そもそも「自然の脅威」が常にハンパなく傍にあり続けてきた島国で、

いちいち異常事態を正常に固定しようと思ったらノイローゼになっちゃうし。

(だから、近代化以降、漱石はじめ一億総ノイローゼ!?)

確かに、「印籠ひとつでめでたしめでたし」の方が理に適ってるのかも。

って、それはまたちょっと違うのか?

 

とにかく、

「(家)主の許しを得なければ入れない」とか、

「太陽(まさに神)の光を浴びられない」とか、

「鏡に映らない(罪深き人間の肉眼には見えてしまう)」とか、

やっぱり《信仰》というか「宗教」の価値を補強するに格好の仮想敵なわけだ。

って、こんなことはヴァンパイアにちょっと詳しい人なら常識かもしれないが、

今までヴァンパイアやゾンビの映画を見るたびに感じていた「人間社会の排除性」の

根底に宗教(を利用した「信仰」の唱道)があったのだと再認識した自分。

 

いや、別に「信仰」が好い悪いの問題ではないし、

特定の宗教を「信仰」していなかったとしても、誰もが《信仰》心はあると思う。

そうした心から寛容さが消え、合理性が求められ、形骸化による道具化が起こると、

それは時に武器として働いてしまう側面があるというだけの話だとは思う。

そして、そういった傾向や衝動が強まるのは当然、危機や脅威が身近な情況。

「911」や「リーマンショック」などによる不安の増大をかかえたアメリカでは、

信仰への関心が一気に高まったと聞く。

そして、ゾンビとヴァンパイアの映画が大量につくられ始めたのでは?

というのは余りにも穿ちまくった推測だけど、

あれだけ「親友だったのに救えなかった・・・」とか何度も悔やむくせに、

いざ対峙したらほとんど躊躇いもなく斧をふりおろせるメンタリティに、

《異》に対する絶対的不信や殲滅肯定が前提条件としてある社会背景を

(この手の映画を観ると)いつも考えてしまう。

とはいえ、そういった映画にも「正しい」あり方が二通りあって、

あくまで人道的にいく(人間であるからこそ逡巡や葛藤に苛まれる)か、

あくまで好戦的にいく(とにかく異形の恐怖と敵の打倒にエクスタシー)か。

ただ、本作はどちらにも転べなかったので、余計な考察はさみながら観ちゃったわけ。

 

キャスティングは皆俺好みだったんだけどなぁ。

とりあえず、イモージェン・プーツの待機作が盛り沢山な件について確認できたし、

公開済のものでも未見作が盛り沢山な残念にも気づけたし。予習復習しなきゃだな。

録画したままの『僕と彼女とオーソン・ウェルズ』や『チャットルーム』や

シアターNでひっそり公開されていた『ソリタリー・マン』とか観なきゃ。

そして、今年最も楽しみな映画のひとつ『ジェーン・エア』にも出てるみたい。

『闇の列車、光の旅』のケイリー(キャリー?)・ジョージ・フクナガが監督、

『永遠の僕たち』のミア・ワシコウスカ、

『ウォンテッド』のジェームズ・マカヴォイが主演。

超がいくつもつくほど好きな作品をつくった人たちが結集してる!

まぁ、イモージェンはあまり大きい役ではなさそうですが。

 

撮影を担当してるハビエル・アギーレサロベって

トワイライト・シリーズの2作目から撮影担当してるんだね。

ヴァンパイア撮影の名手だな(笑)

ウディ・アレン(『それでも恋するバルセロナ』)との仕事がきっかけで

ハリウッド進出したのかな?

『ザ・ロード』はなかなか魅せる画をばんばん撮ってたなぁ。

そうか、あれはスペイン仕込だったんだな。

とか書きつつ、ちゃんとフィルモ見てみたら、

アルモドバルともアメナーバルとも、エリセとまで(『マルメロの陽光』)仕事してる。

ゴヤ賞も11回ノミネートされて6回も受賞してる。完全に巨匠だった。失礼しました。

 

本作の内容についてほとんど触れずじまいで終わってしまいそうだなんだけど、

とにかく脚本が完全に「映画してなかった」という印象かな。

どうりで脚本のカノジョはテレビドラマ界では売れっ子のやり手ガールな訳ですよ。

そりゃ、向いてないでしょ。

TVドラマは(ケータイ小説ばりに)山場だけで突き進む面白さあるけど、

映画っていうのは「うねり」とか「ながれ」とか「ため」とかがモノを言う。

だから、ホップ・ステップ・ジャンプな感じとか、

多少の退屈や冗長がある助走が続いても、跳んだら一気に突きつける!

みたいな爽快感(ジェットコースターで言うところの大きなGの必要性)が欲しい。

監督のクレイグもテレビやCMの仕事多く手がけてるみたいだし、

その辺の(TV的には好いけど映画的には)悪い癖が出ちゃったのかもしれない。

「ディズニー」って縛りもどこかにあったかもしれないけどね。

 

ちなみに、俺は2Dで観たんだが、

観ながら「あぁ、ここが飛び出すのね」ってわかりやすい

(というより、そのために挿入されてる)カットが激しく違和感。

あれは、3Dで観てたら楽しめるところなのかな。「来たぁーーー」って?

大体夜のシーンが多い映画で3Dってかなり冒険だよな。

ま、俺は冒険しなかったんだけど。

 

この手の映画じゃエンドロールを観て帰る人少ないけど、

それにしても皆帰るの早すぎ(笑)

「ロール」に入る前の画が出てる時点でバンバン帰る帰る。

でも、意外や意外、Rottenじゃ批評家の方がハイスコア(74%)だし、

IMDbでもまあまあ(6.6)という成績。

やっぱり日本人にはヴァンパイアものを観る(楽しむ)精神的土壌が

乏しいのかもしれないな。俺がいまだにハロウィンとかわかんないように(笑)

 

更なる余談。

アントン・イェルチンに隠れた良作『House of D』(邦題:最高のともだち)がある

って話は以前にも書いたけど、先日とんでもない掘り出し(てはいけない)モノを観た。

そう、あの『Memoirs of a Teenage Amnesiac』です。え?知らないって?

『誰かが私にキスをした』ですよ!アーロン・エッカートとヘレナ・ボナム・カーターの

『カンバセーションズ』で頑張っていたハンス・カノーザ監督がメガホンを・・・

置くことにならないか心配。仕上がりは驚愕の珍作ですが、志が見え隠れするだけに、

切ない。でもでも、これは酒の肴的なディスり対象としてはもってこいなので、

深夜2時くらいに無駄なパワーを浪費したい方々にはオススメです。

(みんなで観賞!を推奨・・・独りで観てると羞恥死しそうになる)

 

 


ニューイヤーズ・イブ(2011/ゲイリー・マーシャル)

2012-01-06 23:54:55 | 映画 ナ・ハ行

 

ゲイリー爺さんと愉快な仲間達による歳末たすけあいザ・ムービー『大晦日』。

年末年始の特番なみにゆるぅ~い寸劇ぞろいだからこそ、

お祭り気分の中で観ればひたすら高揚まちがいなし。

したがって、賞味期限切れると食あたり。

5日過ぎての賞味の可否は?

 

予告に出てくるメイン(?)キャスト以外にも矢継ぎ早なカメオ出演の嵐。

懐かしの面子から、今をときめくテレビスターまで。ヴァラエティ感200%。

しかも、交通整理がシンプル過ぎて(「ハイ、次!」みたいな)、

これぞ《雑・エンタテインメント》!

「新春かくし芸大会」のハリウッドリメイク版的寸劇十番勝負。

「ロバート・デ・ニーロ(本物)」とかいうテロップが今にも出てきそう。

 

ツッコミどころとかは枚挙に暇がないし、それは《使命》のようなもの。

というか、ツッコミたくなるのは、説明が杜撰だったりするからで、

説明しなきゃ好いんだよね。ま、それこそいよいよツッコミ出す人いるだろが。

映画のマジックは反則スレスレの省略にあると思っている私としては、

説明省略の醍醐味を映画で味わえたときこそ、映画を賞味。

だから、「なんで0時05分にしたの?」とかって謎(だよね?)は、

(あぁ、映ってないところで出産を通じていろいろあって優しくなれたんだねぇ~)

という自動脳内変換機能が瞬時に作動すれば感動できてしまうわけ。結構、俺単純。

でも、「映ってる部分」で語るメディアだからこその反作用を取り込めれば、

いや取り込まなければ、映画というのはやっぱりハンパなメディアでしかない故に、

そういう省略からうまれる《from ? to !》の束の間小旅行は心地好い。

勿論、脳内変換の楽しみもあるけど、ミシェル・ファイファーとザック・エフロンの

後だしジャンケン的エスコートな語り口が魅力なのも、そんなとこかな、と。

リストを最初から観客と確認しないから、余計な詮索もないかわり、

ほんの一瞬の解答時間直後に正解バーンッ!って反復は心地好い。

まぁ、ギャップや落差やムチャが最も際立ってるのもこの二人だし、

そうした意味では、誰もが感情移入(応援)しやすい組み合わせ。

12月31日という1日分しか目の当たりに出来ない観客に

背後の時間を十分に想像させるためには、よっぽど巧く描かなきゃならない。

そういう意味では、それが成功しにくい条件(登場人物や小話が雑多すぎる)の下、

ミシェル&ザックとリア&アシュトンの2組が魅惑たるのも当然かもしれない。

そういう魔法を信じさせてくれる場所《ニューヨーク》が最大の功労者だけどね。

 

とはいえ、本当に「捨てエピ」も多い印象受けたし、

エピソード間の有機的互換性完全無視のダイジェスト的編集は

紅白ラストのドヤ顔ブサイク編集のダイジェストに通ずるもの感じたし、

総じてRottenの過剰反応(フレッシュ7%!)も納得は納得だけど、

年末年始のゆるぅ~い特番に一喝する方が無粋なわけで、

これはこれでクリスマスから大晦日までの期間限定で

フレッシュ!なわけですよ。

 

そうした意味では、23日公開って選択も至極賢明に思えたりする。

日本じゃクリスマスと年越しは極めて「別物」感が漂いまくってるし。

一昨年、デプレシャンの『クリスマス・ストーリー』が公開直後は寂しかったのに、

クリスマス直前には大盛況だったって話を思い出したりして。確かに季節感、重要。

『ラブ・アクチュアリー』を2月とかに公開しやがった(バレンタイン商戦のつもり)

いまはなきUIP(日本法人)より遥かに正しい。(事情いろいろあったんだろうけど)

そういえば、本当にみんな『ラブ・アクチュアリー』好きだったんだねという事実。

いや、俺は本当に本当に大好きで(恥)、毎年クリスマスシーズンには欠かさず観てた。

それで一昨年末にようやくブルーレイ化されて「わぁーい」って大喜びで購入観賞・・・

そこに浮かび上がる明朝体の字幕・・・。なんだ、あれ?

字幕のフォント変えられたりしないよね?

映画館の上映でもデジタル化の影響もあってか、

味気ない字幕の字体に寂しさ覚えるけど、明朝体って・・・

 

『ラブ・アクチュアリー』の縁の下の力持ちは、出番は少ないながらも印象的なスコア。

これまでは、壮大系や重低ビートの職人だったクレイグ・アームストロングが挑んだ

ハートフル胸キュンときめきスコア。ラストでは壮大系スキルも相まって感動スコア。

そのスコア、今でもしばしば映画の予告で使用されている。

ちなみに、フィギュアスケート(全然興味なかったけど、このまえちょっと観たら

結構楽しみどころ満載なんだと気づく)で誰かが「ロミオとジュリエット」って演目?で

クレイグの曲を使用していたのだが、ラストにかかるのはロミジュリじゃなくて

『プランケット&マクレーン』(リドリー・スコットの息子Jake Scottが監督)の曲。

「Escape」ってタイトルだけど、報道番組とかでもよく使われてるし、

以前ラジオ番組で「予告篇につかえる音楽集」があるって聞いたことあるけど、

『プランケット~』や『ラブ・アクチュアリー』のスコアはその手に登録済なのかも。

まぁ、クレイグ自身も自曲のつかいまわしよくやってるからな(笑)

(『ウォールストリート』でも、『プランケット~』の「The Ball」を使用。

  ちなみに、その曲は『ザ・バンク 堕ちた虚像』の予告編でつかわれてた。)

 

というわけで、本作にはクレイグばりの胸キュンスコアには欠けるものの、

どちらも選曲はスカしも外しもしないで抜群な直球勝負で心地好い。

『ラブ・アクチュアリー』の「All I Want For Christmas Is You」にあたるのが、

本作では「Auld Lang Syne」(「蛍の光」の元唄)。最高に素敵な愛しき直球選曲。

しかも、これを適度にお洒落加工してくれてるから、閉店BGMに聞えず好い塩梅。

 

そして、日本人にも馴染み深い「蛍の光」しかり(これは配慮ではないかもしれぬが)、

しょっちゅう映りまくる「TOSHIBA」やら「TDK」の華々しいアピールしかり、

どこか日本への愛というかエールみたいなものを勝手に感じてたりしたら、

パーティーで使用されてるピアノまでが「KAWAI」だったりするものだから・・・

まぁ、徹頭徹尾「大人の事情」による偶然の産物なのかもしれないけれど、いや、

実際まだまだ日本経済(というより日本のモノづくり)底力維持なのかもしれんけど、

2011年の日本(日本人)は戦後最大級のダメージと危機感にまみれた一年で、

そんな日本人のメンタリティにはしみじみと映ってしまうのも、必定かと。

そこにきて、ラストのナレーション。

「地震や洪水なんかは自分じゃどうしようもないけれど、

  自分で出来ることは頑張れよ!」みたいなメッセージ(ちょっと違うかも)。

なんて、好い人達なんだ・・・。まぁ、自意識過剰かもしれないし、

自分たち(米国人)が世界の中心(NY)から不幸に見舞われたアジアに

思いやり示して能天気な祝宴の贖罪おさえておいただけかもしれない。

でも、どんな理由であれ、思いやりが滲めば表情も綻んでしまうよね。

そこでラストにP!NKの「Raise Your Glass」で弾けちゃってくれるんだから、

ズタボロパッチワークも許す許すっ!・・・とか思った矢先に余計なこと始めるし。

ザックのダンシング観られてアップ、つまらんNG観てダウン。その繰り返し。

でも、単なるNGじゃなくて最後の最後の面白オマケはなかなか好きだった。

ので、許すことにしたが、『バレンタインデー』が双子じゃなかったら許してない(笑)

ちなみに、私はその前作を未見のままなので、今度こそ時季を逃さず観てみます。

というわけで結論としては、賞味期限切れも3秒ルールでオッケーよ!

 

日本ネタといえば、小澤征爾の顔をどこか(ポスターか何か)で見かけた気がする。

 

ラストは多くの人が期待したであろう、全員集合でダンス!ってシーンが見たかった。

   ギャラが一桁違えば可能かもしれないが、スケジュール的にも不可能だよね。

   内田有紀版『花より男子』(観てる人いないよな・・・)のようにはいかないね。

   あの映画は、あのラストだけ妙に輝いてたなぁ。

   それか、リアが合流して『ハイスクール・ミュージカル』と『glee』、夢の競演!

   もっと無理か。

 

アビゲイル・ブレスリンの鼻は、ニコール・キッドマンみたいな特殊メイクだよね!?

   そうだよね? そうだと言って・・・美しき青きリトル・ミス・サンシャイン・・・

 

ゲイリー・マーシャルと言えば、『プリティ・ウーマン』に便乗した

   「プリティ」シリーズの邦題でおなじみで、邦題聞くたびに興醒めしてたけど、

   『プリティ・バレンタイン』とか『プリティ・ニューイヤー』とかまで頑張ってたら、

   正直ちょっと見直したんだけどな(ウソ)。

 

ところで、ニューイヤーズ・イヴを「大晦日」という字幕でみる度に生じる違和感。

それは各表現がもつイメージが明らかに対照的ゆえに当然かもしれない。

「大晦日」は《晦日》の《大》トリって意味だけど、「晦日」は月の最後の日を表す。

「晦(日)」は「つごもり」とも読むけど、それは「月隠り(つきこもり)」に由来。

だから、どちらかというと一年の総括(過去が集約)される静かな日という印象。

しかし、英語の表現だと明らかに未来志向。前夜祭。新しい年へのカウントダウン。

そうした対照性は面白い。紅白歌合戦がどんなに前倒しして時間延ばしても、

後ろに延長してカウントダウンしてバカ騒ぎしないのは、文化的背景に由来かな。

確かに、紅白終わった後に聞こえる除夜の鐘の音とそれを包む静けさこそ、

「大晦日」って響きにはぴったりなイメージだよな。

 

そして、世界の色色な年越模様

 

 

おぉ!

   奇遇にも『花より男子』(IMDb)で道明寺役を演じた谷原章介ナレーション版予告!

 


不惑のアダージョ(2009/井上都紀)

2011-12-22 23:57:30 | 映画 ナ・ハ行

 

ユーロスペースでは随分と前から予告を見かけてた気がしていたので、

ようやく公開かぁ・・・と思っていたら、もう終わり!?という感じで、

先週金曜の最終日に滑り込み観賞。

想田和弘や河瀬直美といった面々が推薦人に名を連ねていたこともあり、

作品のタイプ的には門外漢な気がしつつも、秘かに楽しみにしていた作品。

 

内容、評判が好いのも納得の、よく出来た映画でした。

若手(といっても、それこそ四十近いのだろうが)にしては

丁寧に物語を構築していく姿勢に非常に好感もてたし、

一方で今しか撮れないショットを不要な恥じらいみせずに収め、

「処女」作に思わせぶりな出し惜しみをしたりしない潔さも感嘆もの。

女性監督による女性映画なのに、ありがちなフェミ臭もさほど漂わず。

(名前の表記ゆえか、後で確認するまで男性だとばかり思ってた。)

横浜聡子や瀬田なつき等に続く期待の女性監督だとは思う。

 

しかし、あのような酷い画質で「一般劇場公開」に踏み切る感覚には全く納得できない。

チラシ等には「HD」との表記があるのみだが、あれは何で撮ったんだ?

とても劇場の大きなスクリーンで上映するような代物ではない。

あんなにギザギザの醜い画質で公開できる神経を、

美大の油画科出身の「映画監督」が有している落胆。

予告編では、あんな画質じゃなかったような気がするのだが、

公開に向けて素材の変換か何かであそこまで劣化したというのだろうか?

冒頭の「ゴー・シネマ」のロゴが最も美しいとはどういうことだ!?

 

そもそも観た人数自体が少ないのだろうが(最終日最終回手前で数名だったし)、

それにしてもWeb上で見かける感想では「映像が本当綺麗だったぁ」とかいうのまであるし、

もう誰も映画館でかかる映像の価値というか意義なんて、どうでも好いのだろうか。

デジタル化に関連して様々な危惧が叫ばれているが、

最近では論点がビジネス的な観点に収斂されて来てしまっていて、

文化の質だとか内容的な影響だとかって議論は二の次三の次って印象だ。

そりゃぁ、映画は娯楽で産業で、それで飯食ってる人も少なくないってのはわかるけど、

あんな正視するに忍びない画質の映画が劇場で平気でかかってしまうという、

家庭や個人における映像観賞の高画質化と明らかに矛盾・逆行する現況。

もう全く、何が何だかわからない。

商売人だけじゃなくって、クリエイターがそうなってきてんだからね。

そういえば、昨年のラテンビートで『テトロ』が酷い画質で上映されたときも、

「プリントの状態が悪かったのかなぁ」とかつぶやいてる映画評論家(らしき人)とかいたし

(あの映像観てフィルムだと考えるって、どんだけ映画館で映画観てないんだよ)、

ホームシアターの先には、シアターのホーム化が待ち受けているんだろうな。

そうなったらもう、劇場に足を運ぶ意味なんて消滅してしまう。

音楽業界(レコード会社)の衰退と軌を一にする運命か?

 

 


プリピャチ(1999/ニコラウス・ゲイハルター)

2011-12-09 01:00:44 | 映画 ナ・ハ行

 

プリピャチは、チェルノブイリ原発から4キロ離れた発電所労働者が暮らす街だったが、

事故後には住民五万人が移住し、厳格な監視下に置かれたゴーストタウンとなっている。

1986年の事故以来、チェルノブイリ原発の周囲30キロ圏内は立入制限区域となるも、

そこにはいまだ暮らし、働く人々がいる。そんな彼らが語る言葉を重ねてゆきながら、

ナレーションも音楽もなく、静謐ながらも微かな滋味が滲みもしているドキュメント。

 

ニコラウス・ゲイハルターは、日本でも話題になった『いのちの食べかた』を撮った監督。

今回の(緊急?)日本公開に際し、初日には上映館であるアテネフランセ文化センター

監督によるトークもあったのだが、仕事の都合で行けず。残念。

今のところ6日間限定ロードショーということなので、今週末(12/10土曜)まで。

劇場にしろテレビにしろ、ここのところ立て続けに上映や放映がなされるものとは異なり、

煽情や政情から遠く離れて、あくまで「個人」の心奥から世界を眺めようとするシンセリティ。

事故から10数年を経た現在(当時)という背景に横たわる、

忘れた人々(自体は登場せぬが)と忘れられない人々との途方もない乖離。

二元論にはしらず、イデオロギーに収斂せずに、個人の生に寄り添うことで、

そこには「チェルノブイリ」や「原発」といった具体的問題に幽閉されることなき

普遍の思考を試行させ、人間と技術と自然の関係を根源的に洞察させる。

 

◆本作では、「無知」という言葉が象徴的に用いられる部分(インタビュー)があるが、

   本作を観ている私自身が何より「無知」であったことを痛感する事実があった。

   それは、チェルノブイリ原発は事故後も稼動していたということ。

   そんなことは、福島の原発事故時にもしばしば語られていたのかもしれないが、

   恥ずかしながら私は知らなかった。事故を起こした4号機の隣にある3号機は、

   本作の撮影時も(原発の技術者曰く)「フル稼働」していたというのだ。

   本作公開の翌年(2000年)には操業停止したということだが、

   この事実は凄まじい「真実」が渦巻く近代の縮図に見える。

   満足な給与が保証されず、健康の保証もないなかで働かざるを得ない人々。

   そうした存在が不可欠な社会の構造。

   それゆえに、危険や不安や罪悪感から逃れて生活できている多くの人々。

   自分がそうした安穏を手にしているとき、そうした構造を直視し、問題化し、

   根底から覆そうとすることは可能なのだろうか。

   構造を駆動している(と見做されている)国家への非難という形で、

   糾弾や断罪の「儀式」を敢行する活動や運動はしばしば起こるが、

   そうした国家を駆動しているのは、民主主義である以上、自分たち。

   安穏を手にして生活している者が、少しずつでもリスクを請け負う覚悟がないならば、

   結局そうした構造はどう足掻こうが変わりはしない。かく言う私も、その覚悟は極めて困難。

   だからこそ、事後の裁判は出来ても、構造崩壊による循環の断絶はいつまで経っても

   かなわぬままであり、それはたとえ原発が全廃されようとも、戦争がなくなろうとも、

   別の温床を見つけては巣食ってゆくメカニズムなんだろう。悲観的過ぎるだろうか。

   しかし、「なくす」や「倒す」ほど短絡的な楽観もないだろう。

   あれほどの事故が起きようと、

   あそこで生きている人々や表情変えずに在り続ける自然、

   自適にブラつく犬や牛。

   「ゼロ」や「ノーモア」といった幻想(一度産み出したものは「なかったこと」にはならない)は、

   ともすると過去を消し去ることにもなりかねない。それは、汚染(という事実)を葬り去り、

   イノセントな未来志向の無垢なる自己を購う狡猾さと紙一重になるだろう。

   責任を「とらせる」まえに、皆が「とる」覚悟をしなければ、「とらせる」ことすらままならない。

   チェルノブイリ3号機を稼動させ続け「事故は全力で防ぎます」と宣言する技師の責任感の

   数%にすらならぬ社会への世界への責任認識の小ささを、痛切に感じざるを得ぬ自分。

 

◆立入禁止区域は「ゾーン」と呼ばれているのだが(タルコフスキー『ストーカー』想起)、

   その言葉に違和感を覚えると語る「ゾーン」の元住人。

   別の言葉で呼ばれても、周囲を鉄線かこもうが、

   そこには変わらず見える住処の名残。

   名称ひとつで「世界」を変える人間。

   放射能は見えない。いや、見えぬだけではなく、感知できない「存在」。

   しかし、実証主義かつ経験主義である科学はその存在を証明できる・・・はず。

   その科学は原子力を見出し駆使し、挙句に放射能を撒布した。

   犬にも牛にも感知できず不知なままの放射能。人間は「知っている」。

   だからこそ、犬や牛には無縁の恐怖を感じる。見えないものを「知っている」がための恐怖。

   自分で拵えた影と戦い続けているという意味では、近代史そのものとも言える気も。

   それならまだ、神や自然を相手に闘っていた方が、幸福かつ荘厳だったのでは?

   そんなことを、人間とは対照的に長閑に息をしている犬や牛の姿に感じた。

 

◆冒頭の方に出てくる検問所の職員。カメラに向かい、自らの業務について語るのだが、

   異様な緊張感を伴っている。それは、単純にカメラに緊張しているのか、

   それとももっと「大きな」カメラを意識せざるを得ないのか。

   「これを話したら逮捕されるかもしれないけど」との枕詞を置きながら、

   今更「逮捕」など何でもないかのように語る(それは責任感からもであるように思う)

   研究所で働く女性の言葉は実に対照的。それは、個人としての犠牲の有無の差ゆえかも。

 

◆冒頭にも登場し、ラストでも印象的な「生きる」姿を見せてくれる老夫婦。

   夫は事故の3日前に発電所を解雇されたという。だから、神を信じるとも。

   そうして神に救われた命を、放射能に巣食われた土地で全うしようとする二人。

   それは、「放射能」を信じる科学する心より、己が感じられ信じられる神を想う気持ちだろう。

   どちらの精神が幸福なのか。答えなどないかもしれぬが、後者を忘れ去ろうとも、

   前者のみになれる人間などいないだろう。

   唯物論的検証に偏重した語りの多い原発モノのなかにあって、

   どこまでも唯心的であろうとする本作の真摯さは、観る者に繊細な静観を可能にさせる。

   沈黙にあふれ、無色にあふれたモノクロの映像は、人間にも必要な「冷却」を試みながらも

   抑えきれない体温のぬくもりこそが通奏低音。

   「通い」ではなく「暮らし」て撮ったというゲイハルター監督の姿勢が引き出した、人間の声。

 

ユージン・スミスの『水俣』を想起した。

   あれも、彼が住民たちと寝食を共にしながら親交を深めたからこそなドキュメント。

 

◇たまたま観たときの情況が不味かっただけなのかもしれないが、

   『いのちの食べかた』は個人的に本当うけつけない(いけ好かない)タイプの映画だった・・・

   本作の誠実さが心に沁みた今、もう一度観直してみた方が好い気もしてきた。

 

◇ゲイハルター監督は、アテネでのトークショーの後、軍艦島に撮影取材に行ったとか。

   本作を観た今、彼の興味が(私なりにだが)わかりすぎるほどわかる気がする。

   そして、私も一度行き、複雑な感慨に打ちひしがれた軍艦島を彼が語ってくれるなら、

   これはとてつもない「記録」であり「物語」が映像によって刻まれることだろう。

 

◇私が行けなかった監督トークに参加された方の記事で、

   非常に興味深いものがありました。

   進行役の渋谷哲也さんは、主にドイツ映画の研究をされている(と思う)方で、

   昨年、大阪ヨーロッパ映画祭での特集上映に先立ってアテネで組まれた

   「トーマス・アルスラン特集」で彼の3つの作品をフィルム上映してくれた功労者。

   来場者全員に配布される、『プリピャチ』鑑賞の手引き(プレスシート風)にも

   なかなか映画的かつ文学的な素敵な考察文を寄稿して下さっています。

 

◇場内はいつものアテネ客層とは結構異なっていて面白かった。

   それを示す好例が、最前列に誰も座っていないという事実(笑)

   私は基本的に(アテネでは)後方専門なんですが。

   デジタル上映(HDCAM)ですが、35mm撮影の映像も美しく堪能できる上映でした。

   但し、(私が観たときは)場内がかなり寒かった・・・。(雰囲気出て好かったかしれんが)