人が映画を観るのは、映画を愛するのは何故なのか。
何の《purpose》があってのことか。
映画には私たちが見たいと思った世界を見せてくれる《magic》があり、
束の間の《illusion》に私たちは夢を見る。
映画の魔法はきっと、壊れかかった(時に壊れきった)私たちを
《 fix 》 して現実に還してくれるはず。
本作における “ fix ” というキーワード。
「修理する」という意で(文脈上は)主につかわれていたが、
元来は「固定する」という原義から派生した言葉。
つまり、「動かないように固定する」のだ。
世界は常に動いてる。流動的で、掴みのないものだ。
反復も再現もできない無常な世界。そして、やがて消えゆくものたち。わたしたち。
そんな世界の条理に抗う技術がそう、シネマトグラフだったのだ。
動き続けて捉えられず保存できない世界を、
フィルムに定着し、固定してみせる。
《時間》のなかで既に失われてしまった世界が、
フィルムを通した光によって、再び生まれる。
《再生》の物語である二重性。
しかし、《 fix 》 は単なる反復を意味しない。
“again” はそもそも “against” の意味合いから生まれたもので、
そこにはきっと一期一会な世界の認識があったのだろう。
永劫回帰も輪廻転生も、反復を意味しない。
一回性のイリュージョン。
現実が一度しかないように、夢も一度しかない。
その極上は、その極上でしかありえない。
しかし、現実が記憶のなかに残り、育まれ、再生を繰り返すように、
夢も・・・いや、記憶のなかに焼きつくそれが、夢なのだろう。
そして、そのメカニズムを表出外化した《machine》こそ映像で、
そこに人間(語る主体)を宿らせて(ハートという鍵をまわして)、
映画は生まれ、そして映画は続く。
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これから3月1日は(日本における)ヒューゴ記念日として、
毎年、映画を「2,000円で観る日」(映画への感謝を込めて)にしても好いかも。
というのは冗談だが、映画を観るという《特別》は、
記念日たりうる貴重な体験だという感覚を呼び起こしてくれた本作。
あまりにも、興奮というより陶酔というより酩酊(笑)状態で観ていたために、
本作について冷静にも明晰にも語れぬが(いつもだけど)、思いつきを書きなぐる。
◆今までしばしば(ここでも)「3D飽きた」だの「3D不要」だのほざいてきた自分を猛省。
技術に懐疑的になるのがカッコイイ的稚拙で未熟な青二才というかシニシズム。
本当の想像力と創造性は、回顧や懐古に在らずして、先見専心前進だ。
ジョルジュ・メリエスに対する敬意と感謝を、センチメンタルなノスタルジーで語らない。
彼が世界に遺してくれた作品《work》をただ利用したりするのではなく、
彼の仕事《work》をこそ記憶する。その姿勢を継承するという、進歩的回帰。
それは、少年が老年を励まし、老年が少年を導くという、美しき自由な時代の交流。
◆本作の核となる機械人形(自動人形) “automaton”。
「機械的に行動する人」を表したりもする語として用いられるように、
《機械》への懐疑は常に文明批判と不可分で、
技術と人間の二項対立は近代批判の通奏低音。
しかし、そうした「相反」を「止揚」してみせようというのが本作。
いや、短絡的な弁証法として捉えてしまっては、
本作の(というか映画というものの)語りを矮小化してしまう。
「相反」する二者から何かを「捨てる」ことで矛盾を回避するのではなく、
相反や矛盾が寄り添って補完しあう融合なのだろう。
人間が自身で果たせぬ伝達(機械人形のメッセージ)や機能(公安官の左脚)を
機械が可能にする。しかし、それを制作・修繕するのは人間。
しかし、本作は機械文明を盲目的に肯定するわけでもない。
それは、ヒューゴのみる悪夢が象徴的だ。
automaton化するヒューゴ、機械に征服されようとする人間への危惧、警鐘。
チャップリンの『モダン・タイムス』を思わせる。
しかし、本作における歯車は、必ずしも人間を支配するためだけに存しない。
むしろ、人間はそれをうまく「すり抜け」、それを利用する活路に心を砕く。
古き良き的世界を展開しているようでいて、実にポスト・モダンとも思える語り。
いや、ポスト・モダンというようなモダンとの対峙ではなく、
モダンを愛し感謝して、共に歩むなかで考えようとしている感じ。
新たな技術を得て、新たな息を吹き込もうという本作の意気に通ずる。
そして、それは近年のスコセッシによるフィルム修復事業をも思わせる。
技術は先進だけのものではない。温故知新の助けも為す。
持って生まれる能力の乏しさから、《道具》という文化をうみだした人間。
それは自らの卑小と脆弱を補うに留まらず、想像と創造の可能性を拡張し、
それは人間の外部のみならず、内部における世界の無限を与えてくれた。
映画という具現は、具体という「見える」を端緒にしながら、
「見えない」ものをみせてくれるものでもある。
私たちは映画を見ながら、たくさんの「見えないもの」を観ている。
目を瞑った世界を模した暗闇のなかで。光によって映し出された夢を見る。
円いリールが廻る度、終わらぬことを願う旅。
夢は実存するわけではない。客観的な事実たりえぬ事象。
それは例えば手品も同じ。イリュージョン(幻)なのだ。
実際に起こっていることとは違うものを、観客はみているのだ。
もしかしたら眼には事実が写っているのかもしれないが、
脳(というより想像力と呼びたい気持)には別の世界が広がる。
それは、もしかしたら各々が観たいもの、夢のようなものかもしれない。
映写機の前身(?)は幻灯機などと呼ばれていたが、
それは今でも通用する呼称だろう。幻をみることこそが、人間たる所以。
例え映画館に行かずとも、人は記憶の上映会を日々行いながら生活してる。
その感覚を「体」験する特異性、その感覚を一斉に共有しようとする社会性、
そういった不思議が映画の魅力でもあるのだろう。
映し出された同じ「夢」を、別々の夢に変換しながらも、
共に時空を共有し、多彩な情動が大気を満たす。
真っ黒な空間が、無限の彩りを手に入れる。
◆「色」といえば、本当に本作の色は美しい。
3Dで(も)こんなに美しい色を感じたことは初めてだ。
しかも、全体に青味がかった独特の色調は、雰囲気を出すだけではなく、
「青の時代」として失意の時代を体現させる。
しかし、それが美しいがゆえに、前半が単なる皮相な悲愴で終わらない。
失意の人々もまた美しく描く。それが映画という語りによる《技術》。
公安官(サシャ・バロン・コーエン)の制服が
美しくも哀しき(当時の軍服を想起させるから)青であるのに対し、
ヒューゴのセーターが汚れてくすむもトリコロールだったりする対照性も面白い。
◆登場する人物たちが皆、喪失感に苛まれ、しかし生きることをやめず、
安易な救済などを求めず、もたれ合わずとも、自分ができることにまっすぐであろうとする。
至ってシンプルな人間讃歌であるにも関わらず、「ぬくもり」のたちこめ方が途轍もない。
映画を愛することとは、人間を愛することなのかもしれない。
そう感じさせてくれる故に、《技術》への賛美も素直に響く。
◆人間への信頼という意味では、本作における3D効果の入魂どころが
かなり人間に向いているところも特筆すべき点に思えてしまう。
今まで観たことないよな「顔」のアップ、飛び出し具合。それは、実在感でもある。
中盤の公安官の顔、そして終盤のメリエス(ベン・キングズレー)の顔。
本当に、目の前のスクリーンから飛び出してきているかのようであり、
よく映画のなかで表現される「目の前に突如現れる幻影」的な雰囲気が
とんでもないリアリティで再現されたかのような充実感。
機械や景色の遠近感や奥行動作は勿論のこと、
人間が面的になっていない真実味。
それは、本作が人間を描こうと、人間の営みを描こうとした決意の表れであり、
これまでの《技術》利用に対するアンチ・テーゼ、というより一つの新たな解答だ。
◆引用されている映画への敬意は最大級だ。
文脈上のみならず、その見せ方(魅せ方)に愛がある。
しかし、それは下手すると懐古による回帰に帰結し、《現在》が空洞化する危険もある。
(ある意味、『pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』で感じた3D利用による
レトロスペクティブな語りの不満すべてに、本作は応えてくれていたように思う。)
過去の傑作を引き立てつつも、現在を埋没させず、希望で満たす。
そのためにも本作には新しさが必要だったのだろう。
語りの上での技術の必然性。それは映画の黎明期と同様の、ときめきの予感。
◇それにしても、いわゆるウェルメイドな作風のようでいて、
ヒット・ガールだったりヴァンパイアだったりする少女(クロエ・グレース・モレッツ)から、
アリ・Gだったりボラットだったりブルーノだったりする男(サシャ・バロン・コーエン)、
太古ファンタジーの悪魔法使いの爺さん(クリストファー・リー)に
ワトソン君(ジュード・ロウ)までカメオ(?)出演。
かと思えば、ハリポタ組(ママ・ジャンヌ役のヘレン・マックロリーや
カフェの老カップル演じるフランシス・デ・ラ・トゥーアやリチャード・グリフィス)まで。
偏愛におちいらず、映画をまるごと愛していることがわかるキャスティング。
◇『アーティスト』未見の俺がこんなことを言うのは甚だ筋違いなのは重々承知だが、
“should win” は明らかに本作だったのではないだろうか。などと思うのも、
ワインスタイン包囲網な政治力の話が聞こえてくるからかもしれないが、
それほど見事な傑出ぶりを発揮していた本作だが、アカデミー賞的には難点多数?
『アーティスト』がフランスからアメリカ(ハリウッド)へのリスペクトであるのとは逆に、
ハリウッドからフランスへのリスペクト(オマージュ)たっぷりな本作。
勿論、引用される名画にはハリウッド黄金期のものが混入しているが、
ジョルジュ・メリエスが主人公であったり、映画の故郷をフランスとしてる時点でもう、
アカデミー会員は好い気がしなかったのかなぁ・・・などという邪推をしてみたり。
特に、授賞式直前にあった報道で白人老人が圧倒的多数な会員構成比からしても、
「リスペクトはするよりされるほうが心地好い」感が漂いまくっていそうだし。
権威とは、敬意を表するより表されたいって傾向は、古今東西変わらない!?
だから、トム・フーパーやミシェル・アザナヴィシウスといった若手への授与も、
本作におけるメリエスからヒューゴへの謝意や激励とは別次元なのだろう。
そのくせ無粋なタイミングでスコセッシに「とりあえず」「一応」感たっぷりな
オスカー授けておこうとする感覚。ま、賞なんて政治で動くものだからね。
それも含めて観戦するくらいで丁度好いのだろう。
本作でオスカーを手にしなかったスコセッシは、或る意味「正しい」のかも。
◇本作は断然3Dで観るべきだと思う。が、3Dでは吹替派の私としても、
本作の吹替版の不出来と、字幕版の魅力(キャスティングの妙)で迷いもの。
前者は、とにかくヒューゴ役の吹き替えが壊滅的な素人ぶり。
ただ、ヒューゴの台詞はそれほど多くない。(序盤はサイレン映画風だし)
後者の難点はやはり立体字幕という妨げだろう。
そろそろ六本木あたりで「3D無字幕」上映があっても好い気がする。
そうすれば、外国人客のみならずリピーターも足運ぶだろうに。
後だしジャンケン的「無修正上映」とかやらんで(最初から決まってる追加公演みたい)、
そういう映画愛もたまにはみせて欲しいもの。
(超合理主義箱割には或る意味感服しきりではありますが・・・)
◇原作は勿論、普段は見向きもしないこんなものまで勢いで買っちまった。
熟読してから再見したら、もっと楽しめたりしそうでウキウキドキドキ。
ただ、どのシネコンも余りにも中途半端な上映環境ばかりで、
なかなか絶好の再見場所を選択するのが難しそうだ。
アカデミー賞効果狙いでのこのタイミングだったのだろうが、
その当てが外れた今、『戦火の馬』より格下扱いな上に、
二週後にはスターウォーズ(しかも、ファントム・メナスという無粋)という
トホホ必至な(そのくせ盛大に乱入してくるであろう)興行につぶされそうだし。
『タイタニック3D』の3D予告を初めて観たが、最も3D効果期待できそうなシーンは
最後にちょこっと出すだけなんだけど、あれは出し惜しみなのか隠してるのか・・・
あきらかに人物たちが「紙」っぽくて、書割的な空間に仕上がってそうで不安。
しかも、3Dで3時間以上を絶えねばならんのは・・・
その点、本作の3Dはむしろ3時間でも4時間でも観ていたくなる、
鮮やかながらも自然であり、しかし随所にワンダーが張り巡らされた、
3D初めて観た頃の高揚感に匹敵する感動があった。(あくまで私は、ですが)
気持ちが離れつつあった3Dへの回帰を促すには絶好の充実作なのだから、
乖離促進必定と思しきSWやタイタニックよりも、本作を厚遇すべきでは?
というのは、余りにも全面支持すぎる暴走見解かもしれないな。
でも、しょうがない。
だって、俺もう完全に、ヒューゴ気触れ(笑)