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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ヒューゴの不思議な発明(2011/マーティン・スコセッシ)

2012-03-01 23:58:45 | 映画 ナ・ハ行

 

人が映画を観るのは、映画を愛するのは何故なのか。

何の《purpose》があってのことか。

 

映画には私たちが見たいと思った世界を見せてくれる《magic》があり、

束の間の《illusion》に私たちは夢を見る。

 

映画の魔法はきっと、壊れかかった(時に壊れきった)私たちを

《 fix 》 して現実に還してくれるはず。

 

本作における “ fix ” というキーワード。

「修理する」という意で(文脈上は)主につかわれていたが、

元来は「固定する」という原義から派生した言葉。

つまり、「動かないように固定する」のだ。

世界は常に動いてる。流動的で、掴みのないものだ。

反復も再現もできない無常な世界。そして、やがて消えゆくものたち。わたしたち。

 

そんな世界の条理に抗う技術がそう、シネマトグラフだったのだ。

動き続けて捉えられず保存できない世界を、

フィルムに定着し、固定してみせる。

《時間》のなかで既に失われてしまった世界が、

フィルムを通した光によって、再び生まれる。

 

《再生》の物語である二重性。

しかし、《 fix 》 は単なる反復を意味しない。

“again” はそもそも “against” の意味合いから生まれたもので、

そこにはきっと一期一会な世界の認識があったのだろう。

永劫回帰も輪廻転生も、反復を意味しない。

一回性のイリュージョン。

 

現実が一度しかないように、夢も一度しかない。

その極上は、その極上でしかありえない。

しかし、現実が記憶のなかに残り、育まれ、再生を繰り返すように、

夢も・・・いや、記憶のなかに焼きつくそれが、夢なのだろう。

そして、そのメカニズムを表出外化した《machine》こそ映像で、

そこに人間(語る主体)を宿らせて(ハートという鍵をまわして)、

映画は生まれ、そして映画は続く。

 

************************************

 

これから3月1日は(日本における)ヒューゴ記念日として、

毎年、映画を「2,000円で観る日」(映画への感謝を込めて)にしても好いかも。

というのは冗談だが、映画を観るという《特別》は、

記念日たりうる貴重な体験だという感覚を呼び起こしてくれた本作。

あまりにも、興奮というより陶酔というより酩酊(笑)状態で観ていたために、

本作について冷静にも明晰にも語れぬが(いつもだけど)、思いつきを書きなぐる。

 

◆今までしばしば(ここでも)「3D飽きた」だの「3D不要」だのほざいてきた自分を猛省。

   技術に懐疑的になるのがカッコイイ的稚拙で未熟な青二才というかシニシズム。

   本当の想像力と創造性は、回顧や懐古に在らずして、先見専心前進だ。

   ジョルジュ・メリエスに対する敬意と感謝を、センチメンタルなノスタルジーで語らない。

   彼が世界に遺してくれた作品《work》をただ利用したりするのではなく、

   彼の仕事《work》をこそ記憶する。その姿勢を継承するという、進歩的回帰。

   それは、少年が老年を励まし、老年が少年を導くという、美しき自由な時代の交流。

 

◆本作の核となる機械人形(自動人形) “automaton”

   「機械的に行動する人」を表したりもする語として用いられるように、

   《機械》への懐疑は常に文明批判と不可分で、

   技術と人間の二項対立は近代批判の通奏低音。

   しかし、そうした「相反」を「止揚」してみせようというのが本作。

   いや、短絡的な弁証法として捉えてしまっては、

   本作の(というか映画というものの)語りを矮小化してしまう。

   「相反」する二者から何かを「捨てる」ことで矛盾を回避するのではなく、

   相反や矛盾が寄り添って補完しあう融合なのだろう。

   人間が自身で果たせぬ伝達(機械人形のメッセージ)や機能(公安官の左脚)を

   機械が可能にする。しかし、それを制作・修繕するのは人間。

 

   しかし、本作は機械文明を盲目的に肯定するわけでもない。

   それは、ヒューゴのみる悪夢が象徴的だ。

   automaton化するヒューゴ、機械に征服されようとする人間への危惧、警鐘。

   チャップリンの『モダン・タイムス』を思わせる。

   しかし、本作における歯車は、必ずしも人間を支配するためだけに存しない。

   むしろ、人間はそれをうまく「すり抜け」、それを利用する活路に心を砕く。

   古き良き的世界を展開しているようでいて、実にポスト・モダンとも思える語り。

   いや、ポスト・モダンというようなモダンとの対峙ではなく、

   モダンを愛し感謝して、共に歩むなかで考えようとしている感じ。

   新たな技術を得て、新たな息を吹き込もうという本作の意気に通ずる。

   そして、それは近年のスコセッシによるフィルム修復事業をも思わせる。

   技術は先進だけのものではない。温故知新の助けも為す。

 

   持って生まれる能力の乏しさから、《道具》という文化をうみだした人間。

   それは自らの卑小と脆弱を補うに留まらず、想像と創造の可能性を拡張し、

   それは人間の外部のみならず、内部における世界の無限を与えてくれた。

   映画という具現は、具体という「見える」を端緒にしながら、

   「見えない」ものをみせてくれるものでもある。

   私たちは映画を見ながら、たくさんの「見えないもの」を観ている。

   目を瞑った世界を模した暗闇のなかで。光によって映し出された夢を見る。

   円いリールが廻る度、終わらぬことを願う旅。

 

   夢は実存するわけではない。客観的な事実たりえぬ事象。

   それは例えば手品も同じ。イリュージョン(幻)なのだ。

   実際に起こっていることとは違うものを、観客はみているのだ。

   もしかしたら眼には事実が写っているのかもしれないが、

   脳(というより想像力と呼びたい気持)には別の世界が広がる。

   それは、もしかしたら各々が観たいもの、夢のようなものかもしれない。

 

   映写機の前身(?)は幻灯機などと呼ばれていたが、

   それは今でも通用する呼称だろう。幻をみることこそが、人間たる所以。

   例え映画館に行かずとも、人は記憶の上映会を日々行いながら生活してる。

   その感覚を「体」験する特異性、その感覚を一斉に共有しようとする社会性、

   そういった不思議が映画の魅力でもあるのだろう。

   映し出された同じ「夢」を、別々の夢に変換しながらも、

   共に時空を共有し、多彩な情動が大気を満たす。

   真っ黒な空間が、無限の彩りを手に入れる。

 

◆「色」といえば、本当に本作の色は美しい。

   3Dで(も)こんなに美しい色を感じたことは初めてだ。

   しかも、全体に青味がかった独特の色調は、雰囲気を出すだけではなく、

   「青の時代」として失意の時代を体現させる。

   しかし、それが美しいがゆえに、前半が単なる皮相な悲愴で終わらない。

   失意の人々もまた美しく描く。それが映画という語りによる《技術》。

   公安官(サシャ・バロン・コーエン)の制服が

   美しくも哀しき(当時の軍服を想起させるから)青であるのに対し、

   ヒューゴのセーターが汚れてくすむもトリコロールだったりする対照性も面白い。

 

◆登場する人物たちが皆、喪失感に苛まれ、しかし生きることをやめず、

   安易な救済などを求めず、もたれ合わずとも、自分ができることにまっすぐであろうとする。

   至ってシンプルな人間讃歌であるにも関わらず、「ぬくもり」のたちこめ方が途轍もない。

   映画を愛することとは、人間を愛することなのかもしれない。

   そう感じさせてくれる故に、《技術》への賛美も素直に響く。

 

◆人間への信頼という意味では、本作における3D効果の入魂どころが

   かなり人間に向いているところも特筆すべき点に思えてしまう。

   今まで観たことないよな「顔」のアップ、飛び出し具合。それは、実在感でもある。

   中盤の公安官の顔、そして終盤のメリエス(ベン・キングズレー)の顔。

   本当に、目の前のスクリーンから飛び出してきているかのようであり、

   よく映画のなかで表現される「目の前に突如現れる幻影」的な雰囲気が

   とんでもないリアリティで再現されたかのような充実感。

   機械や景色の遠近感や奥行動作は勿論のこと、

   人間が面的になっていない真実味。

   それは、本作が人間を描こうと、人間の営みを描こうとした決意の表れであり、

   これまでの《技術》利用に対するアンチ・テーゼ、というより一つの新たな解答だ。

 

◆引用されている映画への敬意は最大級だ。

   文脈上のみならず、その見せ方(魅せ方)に愛がある。

   しかし、それは下手すると懐古による回帰に帰結し、《現在》が空洞化する危険もある。

   (ある意味、『pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』で感じた3D利用による

     レトロスペクティブな語りの不満すべてに、本作は応えてくれていたように思う。)

   過去の傑作を引き立てつつも、現在を埋没させず、希望で満たす。

   そのためにも本作には新しさが必要だったのだろう。

   語りの上での技術の必然性。それは映画の黎明期と同様の、ときめきの予感。

 

◇それにしても、いわゆるウェルメイドな作風のようでいて、

   ヒット・ガールだったりヴァンパイアだったりする少女(クロエ・グレース・モレッツ)から、

   アリ・Gだったりボラットだったりブルーノだったりする男(サシャ・バロン・コーエン)、

   太古ファンタジーの悪魔法使いの爺さん(クリストファー・リー)に

   ワトソン君(ジュード・ロウ)までカメオ(?)出演。

   かと思えば、ハリポタ組(ママ・ジャンヌ役のヘレン・マックロリーや

   カフェの老カップル演じるフランシス・デ・ラ・トゥーアやリチャード・グリフィス)まで。

   偏愛におちいらず、映画をまるごと愛していることがわかるキャスティング。

 

◇『アーティスト』未見の俺がこんなことを言うのは甚だ筋違いなのは重々承知だが、

   “should win” は明らかに本作だったのではないだろうか。などと思うのも、

   ワインスタイン包囲網な政治力の話が聞こえてくるからかもしれないが、

   それほど見事な傑出ぶりを発揮していた本作だが、アカデミー賞的には難点多数?

   『アーティスト』がフランスからアメリカ(ハリウッド)へのリスペクトであるのとは逆に、

   ハリウッドからフランスへのリスペクト(オマージュ)たっぷりな本作。

   勿論、引用される名画にはハリウッド黄金期のものが混入しているが、

   ジョルジュ・メリエスが主人公であったり、映画の故郷をフランスとしてる時点でもう、

   アカデミー会員は好い気がしなかったのかなぁ・・・などという邪推をしてみたり。

   特に、授賞式直前にあった報道で白人老人が圧倒的多数な会員構成比からしても、

   「リスペクトはするよりされるほうが心地好い」感が漂いまくっていそうだし。

   権威とは、敬意を表するより表されたいって傾向は、古今東西変わらない!?

   だから、トム・フーパーやミシェル・アザナヴィシウスといった若手への授与も、

   本作におけるメリエスからヒューゴへの謝意や激励とは別次元なのだろう。

   そのくせ無粋なタイミングでスコセッシに「とりあえず」「一応」感たっぷりな

   オスカー授けておこうとする感覚。ま、賞なんて政治で動くものだからね。

   それも含めて観戦するくらいで丁度好いのだろう。

   本作でオスカーを手にしなかったスコセッシは、或る意味「正しい」のかも。

 

◇本作は断然3Dで観るべきだと思う。が、3Dでは吹替派の私としても、

   本作の吹替版の不出来と、字幕版の魅力(キャスティングの妙)で迷いもの。

   前者は、とにかくヒューゴ役の吹き替えが壊滅的な素人ぶり。

   ただ、ヒューゴの台詞はそれほど多くない。(序盤はサイレン映画風だし)

   後者の難点はやはり立体字幕という妨げだろう。

   そろそろ六本木あたりで「3D無字幕」上映があっても好い気がする。

   そうすれば、外国人客のみならずリピーターも足運ぶだろうに。

   後だしジャンケン的「無修正上映」とかやらんで(最初から決まってる追加公演みたい)、

   そういう映画愛もたまにはみせて欲しいもの。

   (超合理主義箱割には或る意味感服しきりではありますが・・・)

 

◇原作は勿論、普段は見向きもしないこんなものまで勢いで買っちまった。

   熟読してから再見したら、もっと楽しめたりしそうでウキウキドキドキ。

   ただ、どのシネコンも余りにも中途半端な上映環境ばかりで、

   なかなか絶好の再見場所を選択するのが難しそうだ。

   アカデミー賞効果狙いでのこのタイミングだったのだろうが、

   その当てが外れた今、『戦火の馬』より格下扱いな上に、

   二週後にはスターウォーズ(しかも、ファントム・メナスという無粋)という

   トホホ必至な(そのくせ盛大に乱入してくるであろう)興行につぶされそうだし。

   『タイタニック3D』の3D予告を初めて観たが、最も3D効果期待できそうなシーンは

   最後にちょこっと出すだけなんだけど、あれは出し惜しみなのか隠してるのか・・・

   あきらかに人物たちが「紙」っぽくて、書割的な空間に仕上がってそうで不安。

   しかも、3Dで3時間以上を絶えねばならんのは・・・

   その点、本作の3Dはむしろ3時間でも4時間でも観ていたくなる、

   鮮やかながらも自然であり、しかし随所にワンダーが張り巡らされた、

   3D初めて観た頃の高揚感に匹敵する感動があった。(あくまで私は、ですが)

   気持ちが離れつつあった3Dへの回帰を促すには絶好の充実作なのだから、

   乖離促進必定と思しきSWやタイタニックよりも、本作を厚遇すべきでは?

   というのは、余りにも全面支持すぎる暴走見解かもしれないな。

   でも、しょうがない。

   だって、俺もう完全に、ヒューゴ気触れ(笑)

 


pina / ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち(2011/ヴィム・ヴェンダース)

2012-02-28 23:59:19 | 映画 ナ・ハ行

 

批評的にも一般的にも絶賛の嵐のなか、

俺如きの「いまいち」ほど空しいものはない・・・のを承知で書く。

本作が、何に拠って/何の為に つくられたのかがわからない。

これは、誰の映画なのか?誰のための映画なのか?

きっと答えはこうだろう。

ヴィム・ヴェンダースの映画で、ピナ・バウシュのための映画。

しかし、終始映し出される舞踊およびその世界観はヴェンダースに拠るものではないし、

ピナの精神を正当に継承した者たちの踊りと語りがピナ・バウシュに捧げられ、

鎮魂や追悼の匂いは微かに漂うものの、懐古的な不在の証明に帰結するばかり。

断片やエッセンスを料理するという意味では、

まとまりというか収まりよく束ねたかもしれないが、

《映画の時間》を費やしながら浮かび上がる《語り》は感じられなかった。

ライブビューイング的上映やかつてのIMAXでかかっていたようなドキュメントものに近く、

確かに魅惑の舞踏と確かな画面の美しさも、魅せるために見せてる自己目的化。

極めてスマートなプロポーションで、クレバーなプロモーション。

しかも、それは満腹よりも飢餓感を煽るように出来ている。

そうか。それなら確かに、これほどピナ・バウシュ本人へ渇望をかきたてるものはない。

 

本作では明らかに、

《弟子》たちによる《師》不在の舞いが、《師》の欠乏感を煽って止まない。

ほんの時折挿入される「在りし日」(《過去》)が束の間の充足をもたらすも、

その充足を《現在》は超えない。そもそも、超えようとも思わぬのだろうか。

それを《師》は望むだろうか。亡霊が《現在》を支配するかのように、

「忘れないよ」と表明し続ける葬列を何度も拝みたいだろうか。

 

ヴェンダースは3Dの技術を得て、本作の制作を決意したという。

ここにきて経済原理に拠らぬ新たな芸術的探求として3D技術が活用され始めてる。

それに前向きな作家たちには敬服しつつも、「新しい」が「素晴らしい」とは限らない。

本作の3D映像に序盤は斬新さを感じて気分が高揚したのは事実だし、

自然でありながらも映像的であらんとするのも解る気がした。

しかし、3Dによって産み出された2Dにない奥行(本作では飛び出し要素は稀薄)は

しばらくすると(長く観続けるからかもしれないが)どうしても作為的に映り出す。

とりわけ、背後にあるガラスに映る像たちの居心地の悪さは空間を崩壊させる。

飛び出す絵本的「浮き上がる」人物たちは、確かに2Dにはない実在感を帯びる。

しかし一方で、2Dに埋め込まれた人物たちよりも極めて《薄い》印象も伴ってしまう。

全くもって質量が感じられないのだ。

ジョン・ラセターも「CGにおける最大の困難は質量を感じさせることだ」といっていた。

本作の踊り手たちはCGではないが、3D技術にかかるとCG的になってしまう。

彼等にあるはずの《厚み》や《重み》は消失し、着地の音は空しく響く。

地面から享ける衝撃を体感するかのような身体言語の共有は薄れてく。

身体表現における(言語表現に優る)力は、

プロセスであり続ける《動き》による語りであると私は思う。

しかし、現状の3Dとはその《動き》こそを不得手としている。

それなのに見切り発車してしまった感が付きまとうのは避けられぬ。

事実、《動き》は3Dという加工によって全く殺がれてしまっているのだから。

 

結局、ライブで表現されるべきものを、再現づくしで表現していることに無理がある。

そんなこと、ヴェンダースは百も承知であろうから、

本作の意図はむしろそうした《欠陥》によって照射されるライブの意義なのかもしれない。

しかし、映画を愛する者とは、ライブに敵わぬという羨望や嫉妬から解放されるべく、

自己正当化も厭わずに映像の存在意義に自問自答を重ねる営みを貫くべきだろう。

勿論、ヴェンダースほどの「巨匠」となれば、失うものが得るものであったりもする。

しかし、映像化によって失われたものが、観る者に何を得させようとしているのか。

その問いに解答をみつけられず、回答もままならぬまま観終えた自分としては、

このような拙い《抵抗》の足跡を残すことくらいしかできないものだ。

 

◇やっぱ『ピナ3D』より『ピラニア3D』だよなぁ~とか思っちゃうような

   「芸術」を解さぬ人間の負け惜しみゆえに、大目にみてください(笑)

 

◇新宿バルト9で観賞したものの、久々のXpanDはやっぱりキツかった・・・

   都内だとヒューマントラストシネマ有楽町のややこぢんまり劇場との二者択一ゆえに、

   眼鏡の重さと画面の暗さに我慢する方を選んだものの・・・

   新宿バルト9の最大箱(シアター6)は、空間や席数に比して画面が小さすぎ、

   本作を観るにあたっては余り最適とは言い難かった。前方なら好いかもしれんが。

   最大箱よりも中箱の方がスペック(?)が好いかもしれない。

   もしくはユナイテッド・シネマ浦和まで行くとか、かな。

   バルトで観るならシネマチネを使うと1,600円で観られるから、

   その場合はKINEZO(ネットからの座席指定)を活用すると好いかも。

   俺もKINEZOを久しぶりに利用し、珍しく定価(しかも2,100円!)で観たのに・・・

   ちなみに、購入してないがパンフレットはハードカバーで1,600円だとか。

   随分とセレブな興行してますな・・・

 

   更に余談ですが、バルト9ではコンセが充実してるからか(?)

   場内にはホットドッグやポテトの匂いが充満しておりました。

   まぁ、昼飯時だったこともあるし、たまたま俺の周辺に多かっただけかもしれんが、

   作風には余りにもそぐわぬ意外な「3D」効果に、ややがっかり。

   でも、そういった客層まで取り込めてるってことはある意味成功なんだろう。

 


ピアノマニア(2009/ロベルト・シビス、リリアン・フランク)

2012-02-03 23:21:05 | 映画 ナ・ハ行

 

スタインウェイ社を代表するドイツ人ピアノ調律師シュテファン・クニュップファー。

彼の仕事を記録したドキュメンタリーでありながら、

眼差しは技巧それ自体より職人気質を見つめていたい。

Every Sound You Make -シュテファン自身にステイ・チューン。

調律師という仕事を一般化しようとはせず、調律の仕事に入魂する一個人の姿を見せる。

 

そこにもう一人のマニアが絡んでくる。

完璧な響きを求める旅の先導者、ピアニストのピエール=ロラン・エマール。

飽くなき探求を始めた二人。果たして彼等に納得や満足は訪れるのか。

 

そして、違いが分かる男たちの孤高の営みに、果たして他人はついていけるのか。

しかし、そんな心配無用なようだ。

なぜなら、本作が描きたいのはピアノ狂ではなくピアノ熱。

クレイジー・フォー・ピアノな男の生態を暴くより、

クレイジーそのものの純粋一途を傍でそっと見守る気持。

マニアックになればなるほど、その情動がイタイほどわかる気がする不思議。

しかも、本作においては至って直向ポジティブな「こだわり」光景で埋め尽くされて、

暗く陰鬱拘泥気質な自分のマニア生活すら肯定してくれそうな寛容にあふれてる。

マニアだろうがオタクだろうが、明るく爽やかに生きろという教訓(曲解)。

 

◆本作のタイトル(原題も"PIANOMANIA")が、お仕事の記録ではない表明を。

   「mania」は、熱中や熱狂することやその心を表し、

   「maniac」こそが、そうした状態にある人を表す言葉。

   つまり、本作に備わっているポピュラリティはそこなんだろうと思う。

   安っぽい言い方をすると、「好きでたまらない」気持それ自体を追体験。

   「身に覚え」のある人間なら共有できる感覚の連続。マニアックな普遍性。

   そんな矛盾をサラッとかわせる人間の想像力を刺激されるのが心地好い。

 

◆《映画》としては、それほど巧かったりもしなければ、

   オリジナリティに溢れているわけでもない。

   テレビ的パッチワーク感や説明過多な傾向もある。

   序盤は(撮られることに慣れていないからだろうが)シュテファンの語りも

   些か演技がかっていたりもする。しかし、それらに躓くことない観賞を保証する、

   被写体から放たれる「まっすぐ」さ。それさえあれば、むしろ巧さは必要ない。

   識らぬうちにシュテファンの熱と同化している自分に気づくのは、

   彼の入魂反響版があっけなくボツとなる瞬間。

   傍観者でしかない自分の心が、どこまでも沈みゆく。

   「何て励ませば好いのだろうか・・・」なんて余計なお世話で脳内埋め尽くす観客。

   彼の周囲も気持ちは同じ?  しかし、そんな沈殿を一蹴してしまうチーズケーキ。

   ほんの一瞬だけ映ってたシュテファンの妻が、最大の精神の危機を救う場面。

   画面には結果としてのチーズケーキしか映っていないのに、背後のドラマの焙り出し。

   マニア(熱)を冷まそうとしたり、抑えようとするのではなく、温め続けるサポーター。

   外方を向きながら黙って傍らに腹這う愛犬もまた然り。

   彼の熱を冷ましたりしない、興醒め強いぬ「愛すべき」「愛してくれる」存在たち。

   そして共に熱にうなされる享楽を共有できる同志たち。

   相手にするのはピアノという器械。録音にはあらゆる機械を駆使して臨む。

   しかし、それらを産み出し、操り、享受するのはあくまで人間たちなわけで。

   奏でるのも、聴くのも人間だからこそ、その営みに極みを探る。

   そうしたとき、道具は本当に人間の延長となり、音は声となる。

 

◆本作の冒頭で、ラン・ランの演奏会に向けての調律シーンが映るのだが、

   そのときの印象的な注文は、演奏時に座る椅子。

   彼の要望に応えるべく探し出したる椅子は、地下の倉庫に無造作に置かれてたもの。

   その椅子に満足して演奏会に臨むラン・ラン。

   つまり、各人の求める《完璧》とは、一般的な価値とは別次元。

   「求める」ものは、内に「浮かんだ」ものであり、それは個人の「感じる」由来。

   だから、本来は多元的で多様で無限な感覚のカオスな磁場のはず。

   それがコミュニケーションやカンバセーションを幾重に経ることで、

   《完璧》というシンクロニシティに結実する興奮。

   個々に異なる軌道を辿りつつも、感動という体験を共有できる《芸術》。

   それは、演奏会だろうがCDだろうが、文学だろうが映画だろうが、

   マニアック(個人)を超越したマニア(熱)の結合からのフィードバック。

   そうした肥大化する宇宙を感じていたく、《完璧》を追求するのかも。

   一音が広げる宇宙。そこに生まれる世界の有り様。創造主のこだわり。

   そうか、これは人間が《神》を感じる、《神》になれる営みなのか。

   現実とは異なった「世界」をつくる想像力は、人間の証たる最上の体験なのだ。

   享けるばかりでなく、創ることをあきらめない。読むばかりでなく、書き続ける。

   《自然》の音を加工する。そこに新たな《自然》が生まれる。

   旧市街を走るトラムのように。

 

◆ピアニストと調律師の関係性とは、どのようなものとして捉えるべきか。

   調律師が注文を「受ける」立場だとすると、そこに主従関係を見出したくもなる。

   しかし、ピアニストが望むものを得られるか否かは調律師にかかっている。

   ピアノ職人>ピアノ調律師>ピアニスト>ピアノの音色>ピアノの音を聴く人。

   順番的には、そんな序列も成り立つか。そうすると、やはり実際に「創る」人こそが、

   世界の土台を築いてる?  そして、それを提供する世界《自然》こそが最上位。

   などと飛躍にも程がある思考はさておき、観客が本作を味わえる秘訣もそこにあるかと。

   つまり、ピアノという謂わば「機械」を使うピアニストが直接ピアノを征服できぬ事態は、

   自らが使っている機械を直接把握も管理もできぬ身近な現実と地続きですらある。

   それで自分とピアニストを重ね合わせることができる云々とかではなくて、

   機械に直接働きかけ、調節し、望みどおりにカスタマイズしていく過程には、

   昨今の私たちから失われゆく《自由》の可能性を垣間見たりできるのでは?

   人間は、働きかけて加工する力を持っていて、そこには無限の《自由》が潜んでる。

 

◆ただ、調律師という仕事の印象は、元来《近代》的でもあった。

   音律の統一、平均律の誕生など、統御と管理が進む社会と軌を一とした楽器の宿命。

   そこに誕生した職業としての、調律師。そうしたイメージから管理者的に思えてた。

   しかし、本作が描き出す職人芸は、既定への収斂請負人などでは決してなく、

   無限から能動的に選択する矜持。ピッチという客観指標には把捉不能な、

   音色という表情。そこにこそ、expression の魂は宿るもの。

 

◇監督を務める二人はどうやら夫婦らしい。(映画学校時代に出会ったとか)

   どうりで職人矜持よりも人間模様に軸足があるわけだ。

   とはいえ、プライベートな側面をやたらと絡ませてこないのは好いな。

   犬とか妻とかチーズケーキとか唐突ながらさりげない閑話が無用な緊迫を緩和する。

   ストローブ=ユイレとは趣異とした編集の光景だったりするのだろうか。

   でも、『あの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001/ペドロ・コスタ)観てると、

   彼らだって映画的美学とは別の個人の内面が反響し合ったりしているわけで、

   そう考えると、あの作品は創作の教科書(といっても随分変わり種だが)としてより

   映像作家の「人間」性こそが強調されたドキュメントとして捉え直してみたくなる。

 

◇ロベルト(監督)は兄がピアニストをしているらしく、

   シュテファンとは彼を通して知り合ったとか。

   彼らの両親宅にある古いグランドピアノを調律する際、

   最初にやってきた調律師の仕事に納得のいかなかった兄の元へ派遣されたのが、

   シュテファンだったという。その後もその両親宅へ定期的に訪問したらしい彼と、

   夫婦(ロベルト&リリアン)揃って知り合いとなり、本作の制作につながったという。

   だからこそ、人間シュテファンの魅力を丁寧に物語れもしたのだろう。

 

※私はシネマート新宿の初回で観た為、まともなスクリーン1で観賞できたが、

   それ以外の回は伝説の新ピカ4級のショボショボ小箱(スクリーン2)で上映してた。

   が、連日の盛況ぶりからか、いよいよ明日(2/4)よりスクリーン1で2回上映に。

   但し、スクリーン2の上映回もあるので、観に行かれる際には要注意!

   ちなみに、クラシック好きや楽器経験者でなくとも十分に楽しめる作品ではあるが、

   シネマニアには物足りないかもしれない危惧(笑)  しかし、

   ピアノ経験者だったりピアノの音が無条件に好きだったりする人(自分です)や、

   マニアであれば何マニアでも同志と思えて親近感わいちゃう人(これも自分)は、

   一度観ると愛でたくて仕方がなくなる作品かも。

   勿論、ごく普通の音楽好きでも十分楽しめるとは思います。(公式サイト

 

 


パーフェクト・センス(2011/デヴィッド・マッケンジー)

2012-01-22 22:13:02 | 映画 ナ・ハ行

 

「五感が消えてゆく」「全世界五感喪失」といったコピーをもつ本作の、

タイトルは「パーフェクト・センス(Perfect Sense)」。

この矛盾こそが、本作の主張であることは明らかだ。

よって、この物語が描きたいのは混乱でも恐怖でも終末でもない。

むしろ、《再生》の物語。

だからこそ、日本で早くも公開する意義を見出したのだろう。

 

始まりも終わりも省略されて、その中間における説明すら不十分。

時間の流れの「ひと続き」を、世界のほんの「一部」だけを抽出して終わる。

それでいて、じっと目を凝らして掘り下げるでもなく、陰森に分け入ることもしない。

しかし、この半端なパニックと無理矢理な再起の精神が、なぜか今は自然に沁みる。

殺伐と化し落下するしかない人間の魂が、いつ割れるか知れない終末世界。

しかし、それは崩壊以前の「希望」が在り得る場合に現出する世界。

一縷の望みも絶たれたその時に、新たな人間に兆すのは、絶望がうみだす希望かも。

 

「パーフェクト」とは絶対普遍なものではない。

完璧や完全を示す雛形や尺度は永遠不変なものではない。

「パーフェクト」とは在るものではなく、感じるものだから。

身体が受けとる感知が消えようと、精神による感受は消えやしない。

研ぎ澄まされゆくパーフェクト・センス。

 

 

◆主人公マイケル(ユアン・マクレガー)はシェフをしているが、

   五感を語るに絶好の職業だ。

   案の定、まずは嗅覚から失われ、次に味覚をさっさと失ってゆく。

   この時点でお手あげになりそうなシェフの仕事だが、作る方も食べる方も終わらない。

   それは「生命線」たる行為である《食》ゆえに当然なのだが、

   そうした人間の生の根幹たる営為であるからこそ、

   そこに全感覚を注ぎ込み、自然を受けとめ加工して、

   自然を享け味わう至高の文化。

   そして、嗅覚と味覚だけによる享受を超えた《食》こそ、

   人間が他の動物を凌駕しうる「食文化」なのだろう。

   五感すべてで育み、堪能してきた文化のひとつ。

 

◆嗅覚が消えると共に「想い出(記憶)」が消えてゆくという語りが沁みた。

   季節や天候が放つ匂いに、私たちは年中「過去」を想起する。

   残り香に「いたこと」が刻まれる。移り香に「つながり」を感じる。

   匂いに敏感な日本人なら特にそうだろう。

 

◆五感のそれぞれは、一つずつ消えてゆくのだが、

   その直前には或る種の感情が一時的に暴走する。

   止め処ない「悲しみ」に包まれた後、嗅覚が消える。といった具合に。

   その後も、「恐怖」や「怒り」が暴発する。

   では、その感覚と共に、それらの感情も消え去ってしまうのだろうか。

   確かに、その後にそれらが前面に出てくることはないが、

   それらが一つずつ欠落していったようには思えない。

   むしろ、融合し融和しながら、感情が陶冶され、完璧な感情に近づくようにすら思う。

   それだけでは《負》のように思える感情が、掛け合わされて《正》となるように。

   悲しみも、恐怖も、怒りも、それらはいずれも重要な感情であり、

   それらに端を発しながら、個人も社会も変わってゆける。

   しかし、どれかに偏ってしまうとき、葛藤や超克とは無縁の暴走が、

   私たちから可能性や感受性の豊かさを奪い去ってしまうだろう。

   外部からの刺激を失えば、内部に生起する感情が支配する。

   それは、受動的な反射から、能動的な創造へ。

   想像力のはたらく余地が拡張してゆくはずだろう。

   何も臭わないは、何でも臭う。何も味わえないは、何でも味わえる。

   何も聞えないは、何でも聴こえる。何も見えないは、何でも視える。

 

◆終末観を漂わせる「感情暴走」場面で使用される映像には、

   現代社会を象徴する世界各地のニュース映像的風景が挿入される。

   つまり、終末は「来るかもしれぬ」ではなく、「来るべき」ですらなく、

   もう既に「来ている」のでは?という皮肉。

   しかし、その先を単なる崩壊でもなく、安易な希望だけでも描かぬ本作。

   作中で何度か口にされる、「Life goes on」。そして人生はつづく。

   そもそも続きは見えないものなのだ。

 

(ラストに触れます)

 

◆結局、本作のなかで五感すべてが喪失するまでは描かれないのだが、

   ラストの時点では触覚が残されている。なぜ、触覚なのか。

   身体そのものが直接感知する感覚であり、

   嗅覚も味覚も聴覚も、刺激に「触れる」ので、触覚が根底にあるとも言える。

   勿論、映像で表現し難いという問題もあるだろう。

   (だからこそ観てみたい気もするが)

   しかし、私がデヴィッド・マッケンジー監督の過去作である『猟人日記』と

   本作を観て勝手に思い浮かんだ仮説とは、彼のフェティシズムの業。

   デヴィッド・マッケンジーはとにかく「触覚」をこよなく愛しているのでは、と。

   役者を脱がせまくる(ユアンが脱ぎたがりなだけ?)、情事撮りに執着する、

   そんな傾向はどちらにも顕著だが、ただ「見せる」だけじゃ気が済まぬらしい。

   例えば、本作におけるスクリーンへ手を伸ばさせようとしているかの如き

   エヴァ・グリーンの3D的ヴォリウム乳房の定点観測のフェティシズム。

   『猟人日記』では、スポット到達が目的で触手を伸ばすのとは全く異なる、

   「触れる」こと自体で官能を描く、脚と脚の肌の接触。

   「触る」画にとにかく執念を燃やしてる。

   監督の真骨頂たる触覚映像は捨てられない。

   だから、本作も触覚を最後まで残したのだろう。

   まったくもって、俺の勝手な妄想に過ぎないが。

 

◇マックス・リヒターの音楽が素晴らしい。

   というより、彼の音楽と映像とのコラボ具合が絶妙だ。

   冷静と情熱のあいだ的トーンが心地好い。

   ここ数年精力的に映画音楽を手がけている印象のマックスだが、

   公開中の『サラの鍵』のスコアも彼が手がけている。

   こちらは、音楽の静謐な冷たさが感情に抑制を効かせ、

   的確な役割を果たしている印象だったが、映像とのケミストリーが感じられなかった。

   その分、本作におけるマッチングは余計嬉しく見守った。

   ベタな映像の連続を、ポスト・クラシカルな彼の音楽が、わずかに捻りを加える感じ。

 

◇脚本を担当しているキム・フォップス・オーカソンは、

   作家としても活躍しているらしく、日本でも翻訳されて出版されている

   彼が脚本を手がけたPernille Fischer Christensen の作品群が観てみたい。

   ベルリンのコンペ出品の『En soap』(審査員グランプリ)や

   『En familie』なんか特に。

   トーキョー ノーザンライツフェスティバルとかでやってくれれば好いのにな。

   (地味すぎるか・・・)

 

◇私が本作を観たのはチネチッタ(川崎)。

   個人的NG劇場最高クラスの新宿武蔵野館に足が向かうはずはなく、

   私の中では当然の一択。しかも、デジタル覚悟で足を運ぶも、なんとフィルム上映。

   チッタの(どの劇場でも)大きめスクリーンで観る本作は、そりゃぁもう極上。

   なんかフィルムで映画観るだけで「あったか~い」気持になれてしまう昨今。

   そんな「贔屓目」も働いての好印象だったのかも。

   今週のチッタでは夜に2回の上映だが、最大箱(532席・THX)という贅沢。

   私は平日夕方だったこともあってか、かなり空いてた(端的に言えばガラガラ)し、

   学校の視聴覚室未満な新宿で観るのを躊躇ってるあなたは、少し遠出してみては。

 

 


ヒミズ(2011/園子温)

2012-01-19 23:46:58 | 映画 ナ・ハ行

 

昨年は2本も監督作が公開され、そのいずれもが話題となり動員もなかなか。

このブログでも取り上げて好さそうなものの、実は両方とも観ていない・・・。

映画ファンのマストアイテム化した園作品。正直、ちょっと不得手だったりするのです。

 

苦手、ではないのです。別に嫌悪感とかに見舞われたりしないので。

むしろ困惑してしまうのが、全くもって個人的な感覚として終始受ける印象が、

可もなく不可もなくといったものだったりするので、食指が微動だにしないという。

といっても、作品数そんなに観ていないので、どう考えても早計なのですが。

 

ゼロ年代以前の作品は、中野武蔵野ホールで何本か観た気がする。

「園子温の作品はビデオ化されてないから貴重」的売り文句に釣られた感もある。

でも、DVDが普及すると、それが美学云々とは無関係な事実だったことを知る。

ゼロ年代ものはほとんど観てないけど、みんな大好き『愛のむきだし』は観た。

4時間楽しんだ。それ以上でもそれ以下でもなかった自分としては、

絶賛の嵐についていけずに困惑。絶賛を否定したいわけでもないけれど、

絶賛してる人たちと盛り上がれない寂しさを覚えるのは事実で・・・。

だから、それから益々遠ざかりつつあった園作品。

 

本作は予告編がなかなか期待させる作りだったこともあるけど、

内容的(?)にも「さすがの俺でもマストだな」と思わせる要素盛り沢山で、

そこそこ期待も高まりながらの観賞だった。

 

随分と賛否両論っぽい雰囲気が漂っている気がするが、私のなかでは本作もまた、

可もなく不可もなくという至極つまらない感想しか持てずに終了。

まぁ、そんな冷めた野郎の思いつき感想程度をテキトーに書き散らしてみます。

 

◆《震災》の影響や扱い

フィルメックスで『RIVER』での「利用」ぶりを観て

萎えるというか冷めまくった感覚に、本作でも再会。

ただ、「客寄せ」的策略として挿入しているのだとすれば許しがたいのは当然だが、

どちらの作品でも、作り手のその時の誠実さから欲したものであることは本当だろう。

ただその事象は、そんな付け焼刃で太刀打ちできる代物ではなかっただけのこと。

「その時の気持」を優先させたいとか、活かしたいとかっていう衝動は解するし、

それを実行に移す気概や行動力にも敬服する。が、事が事だけに難しさがある。

例えば、大失恋をしたときに、ドン底な気持でありのままを書きなぐれば、

そこには傑作の要素が散りばめられているかもしれないが、それとは訳が違う。

大失恋はあくまで個人的な事象であり、受け手も個人的経験フィルターろ過可能。

大震災はそうはいかない。否が応でも《共有》せざるを得ない重さで迫ってくる。

個人的感覚も、すべては共通の重さに由来するのだという感覚が個人にある。

だから、震災直後の個人的感覚を作品に注入してしまうと、

それが激烈なほど乖離を伴う宿命なのだと思う。

そのときの受け止め方が、一人一人がいつになく激しかったものだから。

微細な差異を捨象して、普遍の像を共有するにはまだまだ時間が足りないのだろう。

ただ、それでも果敢にやってしまう「姿勢」には、

一定の敬意が払われるべきなのかもしれない。

まぁ、観てる間も観終わってからも、必然性を直感できる瞬間皆無だったけど。

 

ちなみに、ヴェネチアで(一応)オフィシャルな賞をもらったくらいだから、

そこそこ評判が好かったのかと思えば、かなり不評(もしくは無視)だったらしい。

上映時には退出者も続出だったようで、終了後には軽くブーイングまで。

それは暴力描写に対する嫌悪感もあったようだが、震災の扱いに対する

違和感も強かったとのこと。日本以外の人の眼にもそう映ったというのは相当・・・

 

震災後に「脚本を書きかえた」って話が

武勇伝(?)というか美談として語られているが(メディアの取り上げ方か?)

よっぽどの天才じゃない限り、そんな「やっつけ」で作品の質が上がるとは思えない。

ラストだけ変える、とかならまだ判るけど。粗さを売りにする作風ならわかるけど。

少なくとも「震災」を扱う以上、粗さは命取りにしかならないこと必定。

 

『熱風』(ジブリが出してる小冊子)の是枝裕和が寄稿していた文章では、

映像作家として震災とどう向き合うべきかについての正直な論考が興味深かった。

直後に映像作家として何かすべきなのではという使命感に苛まれつつ、

「直接扱わなくとも影響は出るだろう」という彼なりの結論が読み取れた。

震災前と後で「違わない」方がおかしいし、誠実な《主観》で表現を試みれば、

そこに震災という現実はこびりついてくるだろう。そんな内容だったと思う。

私も、そうした姿勢で向かうのが、《文学》(とりわけ映画)なりの表現だと思う。

 

だから、個人的には、脚本もそのままで、わかりやすい映像なども挿入せず、

「物語」のなかで、「物語」を通して、語って欲しかったなぁとは思う。

そして、それに成功していたら受け手はもっと震災と向き合うことが迫られた事だろう。

 

◆語りにおける震災

何も映像に頼らずとも、冒頭の授業における掛け合いを軸として、

震災について正面から再考を促すことはできたと思う。

  「普通万歳!」「異議なし!でも、住田君は普通じゃないよ」

これって、震災が重ね合わさると痛烈に思う。

震災はまさに《普通》の崩壊をもたらしたものなわけで、

住田はまさにそうした状況のなかで常に生きてきたわけだから。

まぁ、だからこそ被災者の気持がわかって、心が通じたのかもしれないが、

テントで暮らす彼等にとっての《普通》が語られたりもしないので、

記号的な存在(扱い)としての印象がつきまとってしまう。

中盤で住田が「俺は立派な大人になるんだ!(本来は《普通》のこと)」と

大声で(半ば自棄になりつつも)宣言する当たりはもっと活きて来ていいはず・・・

などと勝手に思ったりもした。茶沢にしても、《普通》の幸せを求めてたはず。

それは、彼女も「被災者」だったから。

しかし、同じような境涯でも、異なる選択をした対照的な二人。

その光と影は(そこに本意がないからか)あえて鮮明にしなかった印象。

むしろ、肩身を寄せ合う同族的な捉え方が強かったようにも思う。

そして、茶沢のポジティブさはどこから来るのか。それは「恋」なのだろう。

(映画内ではそれしか考えられないから)

だったら、そうしたトキメキ成分を漂わせた方が、

希望や青春のバロメーター急上昇したはずなんだけど。

震災とかそのまま持ってくるものだから、そういうことしづらくなってるのでは?

と、原作も全然知らないので勝手書いてます(笑)

 

◆感心した点もいくつかあって、それは「同じ言葉」を異なる文脈にのせたこと。

教室内で空虚に響いた教師のくすんだ言葉を、別の人物が別の想いで口にする。

それは全く異なる空気を生み出す光の言葉へと変化する。

言葉のもつ記号性を、物語の力が乗り越えていくプロセスが些か心地よい。

また、震災のときに大人(ということを意識せざるを得ない者たち)が明確な自覚と共に

深く考えさせられた、「未来のためにできること」を言葉や態度で語らせたのも、

直截すぎる表現とはいえ、思い出すと共に改めて考えさせられもした。

特に、直接描かれない部分から浮かびあがる物語が面白い。

例えば、いかにも偽善者面の教師にしても、あのような演説の背後には

「こういうことでも言っていないと教師としての責任果たせる自信が無い」

といった自己暗示や、そこに至るまでの恐怖や不信の肥大化があったはず。

そして、金子(でんでん)は夜野(渡辺哲)の言葉に心動かされたはず。

ああいう言葉や思考が、恐ろしいほどスッと入ってきてしまい、

心の底辺まで一気に掻き乱すような或る種の「柔軟さ」があった、あの時期。

そうした空気や人々の関係性が前面に出てれば面白かったかも。

 

◆園作品における暴力、なんてことを語れるような立場には全く無いが、

少なくとも本作における暴力描写は「安売り」しすぎていた。

不評な意見もみられる住田と茶沢の応酬は、面白かった。ヴィジュアル的にだけど。

父の虐待なども、必然性は感じられもした。暴力団のそれも、まあ・・・

でも、そうして暴力が氾濫すると、犯罪者たちの暴力が埋もれてしまう。

彼等の「暴力者」としての側面よりも《狂気》を際立たせたいのなら、

あまり暴力を前面に出さずとも好いと思うのだが・・・皆をすべて並置したかったのか?

まぁ、とにかく無差別殺人が身近で頻発する「リアリティ」は物語を矮小化。

闇(病み)の潜在性こそを焙り出す描写がもっと欲しかった気もする。

 

◆如何せん長すぎる、上映時間。必然性が感じられる長さでもなかった。

『愛のむきだし』以降(?)、上映時間が延びることに抵抗なくなりすぎて、

無駄に長くなっていたりしないのだろうか?前二作未見ゆえ判断不能だが。

変化するなら劇的に、停滞するならとことん・・・そういった時間の経過が発揮する

「飛躍」恍惚も「助走」効果も感じられなかったのが残念。

後半、一緒にまどろみそうだったもん(笑)

 

◆本作で意外にも(?)好かったのが窪塚洋介。

もともと好きな俳優だったけど、一時期の「出ずっぱり」状態のときには

何に出ても「本人」過ぎる演技が鼻につき始めてもいたけれど、

こうして久々にスクリーンで「らしい」演技を堪能してみると、

やっぱりユニークかつ鮮烈な魅力の持ち主だなぁ、などと実感。

本作の私的最痛快場面だって、窪塚の「脱・原・発!」ドロップキック。

映画にリズムをもたらせる役者なんだろな。

 

◆本作を観るまえ(同日)に、『M★A★S★H』を観てしまっていた。

軽くなればなるほど背後にある重さが識らないうちに重くのしかかってくる。

そんな感覚とは間逆な状態で観続けていたような気がする『ヒミズ』。

重くなればなるほど背後にある重さが軽くなって飛んでいってしまう。

Suicide Is Painless ってとこは共通してるけど(笑)