goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

バッド・ティーチャー(2011/ジェイク・カスダン)

2012-05-24 21:20:22 | 映画 ナ・ハ行

 

イケナイ先生とイケてない先生ばかりが出てくる映画。

まぁ、そもそもイケテル先生なんて映画のなかくらいしかお目にかかれない!?

って考えると随分「新鮮」なタイプなのかもしれない。

非映画的映画。

でも、そうした目論見は映画的には余り活かされず、

だから映画的な高揚も感動も皆無に等しければ、

とはいえ何もそういった観後感だけが映画じゃないし。

 

オススメ映画を問われたら絶対に口にしないけど、

疲労と倦怠と虚脱な日々が続いていて、

映りの悪いテレビなおすなら断然叩く派の貴方なら、

「うん、悪くない」程度の爽快感が味わえるはず。

ただ、タイトルの「バッド」に特別な含意もなければ、

そのまま「バッド」なだけで、そのために周りに「グッド」を配置しない。

結果、相対的に「バッド」な気がしなくなる。そんな麻痺作戦。

そういった進め方、語り方が苦手な人(俺も気分次第ではこっちなときも)は、

不快なだけで終わる恐れがあるかもしれない。

性善説や水戸黄門が信条だったりする人も。

 

アメリカじゃR指定みたいで(日本ではPG12)、

それは使用語彙に拠るところが大きいのかもしれないけれど、

最終的に「バッド」に対する何らのエクスキューズも用意せず、

糾弾もされなければ罰が当たりもしないという展開こそが、

もしかしたらR指定相当なのかなという印象も。

 

どこでも軒並好評の洗車シーン以外には

映画的高揚がもたらされるシーンやシークエンスは皆無に等しく、

何より物語の骨子がふにゃふにゃで、骨抜きな断片の集合体。

だからこそ、いま目の前で起こってる断片を楽しめればそれでいい。

くらいの気楽さが快適に思える瞬間も。

ユル~イって感じの緩慢さとは一味違う、

シャキシャキダラダラな感じが好きな人にはハマると思う。

あと、DVDでも全然構わない作品をあえて大きいスクリーンで観てる事実にアガる人(私)

とか。

 

エリザベス(キャメロン・ディアス)は最初、

講義もせずに教室のテレビで映画を観させるだけなのだが、

私の中学高校時代にも同様の教師がいた。

英語のいわゆる「リスニング」的授業という位置づけで、

何回かに分けて『チャイルド・プレイ』(のどの作品だったかは忘れた)を観た覚えがある。

本作で登場する映画はせいぜい『スクリーム』がバッドな類だったから、

勝ちましたよ>T先生。

高校時代には自分が大好きな映画だといって

『アマデウス』を何回にも渡って見せてくれた教師もいた。

これも、英語の先生だった。

大学の時には、『七人の侍』を見せては

「元気がないときには必ず観るんですよ」と嬉しそうに語る教官

(彼は企業でずっと働いて「企業論」的な授業を担当していた気がする)もいた。

ま、今になってみれば最大の手抜き仕事だってわかるけど(笑)、

そうした時間の方が(いや、そうした時間しか)憶えられてないってのも、

先生達かわいそう・・・って、そっち!?

(まぁ、いつの時代も「生徒」は自分を責めたりしないのです。

責められるのも「先生」の大切な仕事のひとつ。)

 

◇プロポーションは相変わらずながら、 やはりお顔のシワはさすがに進化。

    そんなキャメロンも今年はもう40歳。ジェイソン・シーゲルが7歳も年下という事実。

   テイラー・キッチュといいジェイソン・シーゲルといい、

   出演作同日公開は共倒れというジンクスがうまれつつある?

 

◇脇を固める同僚教師たちが実に魅力に溢れていた。

   天敵エイミー役のルーシー・パンチは、

   エリザベスを相対的に輝かすために過不足ない演技。

   (終盤の頬の[メイクの]変遷が単純ながら笑えて仕方なかった)

   ふくよかな年増乙女リンを演じるフィリス・スミスの独特な愛らしさも最高。

   アンサンブルによる効果はさほど見込めぬが、

   各々の個性を堪能するには十分なカタログ的仕上がりになっている。

   ジャスティン・ティンバーブレイクは演技の幅広げるべく(?)

   正しき役者修行に勤しんでいる感じが好印象。

   着衣でもイケる、脱アイドル完了。

 

◇キメのシーンに必ず流れるメタルは空耳アワー的熱量が適量でリラックス・ヴォルテージ。

   スコアはマイケル・アンドリュース(最近では『ブライズメイズ』も担当)。

   こちらは随分とカラフル・ファニーにポップする。

   そして何と言ってもゴキゲンなのは、

   タイトルロールで流れるロックパイルの「ティーチャー・ティーチャー」。

   デイヴ・エドモンズとニック・ロウが在籍したバンドの1980年のスマッシュ・ヒット。

   多種多様な「教室の情景」(さまざまな時代や国のさまざまなメディアの映像)が流れる。

   ま、その後の展開には全く活かされないけどね(笑)

   あ、でも、この曲の冒頭に「Cheeks flushed, apple red」って歌詞がある!


ファミリー・ツリー(2011/アレクサンダー・ペイン)

2012-05-22 23:17:59 | 映画 ナ・ハ行

 

原題『The Descendants』は「子孫」といった意味をもつが、

邦題の『ファミリー・ツリー』は「家系図」。

その二者に奇遇な矛盾を覚え、それが本作を味わう前提に。

つまり、「descendant」という語は

「descend(下る、降りる)」同様、下降するイメージがある一方、

「ツリー(樹木)」といえば上へ伸びるイメージなのだ。

映画の序盤、病院の階段を受難のごとく昇る主人公。

子孫にとって「降りてきたもの」とは何なのか。

それが「降ろされてきた」理由は?

それをそのまま「降ろす」ことだけが使命なのか。

 

そうした問題は一方で、《記憶》の問題と密接な関わりを持っているようにも思える。

「血」にしろ「地」にしろ、そこには固定された呪縛が存する、まさに不動産。

それに比すれば「カネ」などという動産は極めてフローで、縁の切れ目の端緒を握る。

あらゆるものが実体を失い、質量に存在証明を求められなくなった現代。

《記憶》こそが存在を感知し承認し、継承を叶えてくれるだろう。

《記憶》の共有は、自分が消えても自分を憶えていてくれる存在をつくる。

自分が消えた世界に、「自分」が残る。が、それだけで時間は超えられない。

個人に与えられた僅かな時間を過去と未来につなげることで、「永遠」を手に入れたい。

それが「血」であり「地」なのかもしれない。

そして、時間を超越した《自然》にも、永遠の《記憶》が宿ってる。

 

◆結局、なぜ子孫は必ず「下降」によって発生するのだろうか。

   やはり、最上位には神がいて、その神が創造したところから始まったから?

   川の水も高いところから低いところへ流れてゆく。

   やがて川は海へと注ぎ、その海から上昇した蒸気は雨となって再び地上へ舞い降りる。

   重力に耐えながら伸びゆく樹木も、やがて新たな命を生むためには、

   再び土へと還らねばならない。

   そう考えれば「下降」は必定ながら、

   苦しくとも昇らねばならぬ《一生》への成果としてある「下降」なのかもしれない。

   苦悩のなかで昇る階段。

   永遠に感じる時間(想い出/過去)に思いを馳せながら見下ろす自然。

   昇りがあるから降りがある。

   それは人も太陽も同じこと。

   自然の美しい法則。

 

◆劇中に主人公(ジョージ・クルーニー)が家族を「群島」に喩える語りがある。

   そのなかでは家族(親族)といえども

   個別の存在として孤立の宿命を背負っていることが語られ、

   それらの島々(個人)はやがて離れてゆくこともあるという。

   しかし、島である以上、それらの「距離」を決めるのは島(個人)自身ではない。

   それを決めるのは、島の存在基盤たる海。

   つまり、《場》によって関係が結ばれたり解かれたりするのだ。

   そして、その《場》として機能するものこそが、本作における「土地」であり「記憶」であろう。

 

◆しかも、「土地」と「記憶」は本作において密接な相互連関を想わせる。

   確かに、不動産たる土地は、これ以上ないほどの固有性をたたえている。

   記憶を刻むにも掘り起こすにも、まさに「それ自体」のような磁場になり得る《場》。

   売却を検討している一帯を家族三人が眺める場面で、

   長女は母と一緒にキャンプをした想い出を語る。

   次女は「私もキャンプしたい」と呟く。

   《場》が在り続けることによって可能になる《記憶》の共有。

   それは亡き存在が生き続ける《記憶》が宿る場所。

   スクラップ・アンド・ビルドではなく、在り続けようと生き続けている場所。

   時を越えても共有できる場所。

   次女にここでキャンプさせてあげる意味。

   失われゆく時を求めて。失われえない存在を感じて。

 

◆《記憶》についての物語のように感じた理由の一つに、

   回想が皆無であることも挙げられる。

   各人の《記憶》のみから語られる過去。

   大切な人が消えゆく直前、思い思いの記憶が交錯してはそれらが編み出す、再生。

   (それは、時に責めたり恨んだりする相手とも為し得る。)

   物語の最後、家族三人は海上で、実在よりも自在な内在としての《記憶》を選択する。

 

◆次女は最初、記憶よりも記録にこだわった。

   形あるものに焼きつけて、確かめる。

   しかし、形あるものがやがて消えてしまうことを覚えたとき、

   形をもたぬ永遠に触れはじめたことだろう。

 

◇好きか嫌いかで言えば、

   ストレートに好きだと宣言したくなるタイプでの映画ではなかったが、

   行間で語るというよりも、

   宙吊りにされたまま思考が促される居心地の悪さ

   (「思わせぶり」が終始連鎖しているような私的印象)が

   返って物語への没入を駆り立て、驚くほど一瞬にして2時間弱の時が流れた。

   巧緻な淡々のもつ潜在磁力。

   原作は未読ゆえ、脚色としての妙は解せずじまいだが、

   アカデミー賞脚色賞も納得な「まとまり」のよさ。

   勿論、爽快に「割り切れる」わけではないけれど、

   愛おしい「余り」の生じる作品世界が妙に安寧を促してくれもする。

   まぁ、個人的には断然『裏切りのサーカス』へ授与したい気持ではあるが。

   (原作読んでることもあるかもね)

 

   これでアカデミーノミニーズのうち未見は

   脚本賞受賞の『ミッドナイト・イン・パリ』を残すのみ。

   なんだかんだ言っても(『ものあり』はやや違和感だが)

   いずれも好い作品ばかりだよな、最近のアカデミーノミニーズ。

 


ビースト・ストーカー/証人(2008/ダンテ・ラム)

2012-04-26 23:59:15 | 映画 ナ・ハ行

 

香港映画の良作は、二つに大別できるように思う。

娯楽性において巧緻の極みを達成した理性製無欠型と、

人間のドラマに徹頭徹尾分け入っては終始情緒高密度な感情製過剰型。

勿論、アジア映画共通の高湿度や香港映画特有の疾走感は当然前提ながら、

どちらも各型特有の副作用が用意されている。

前者のような、ハリウッド映画を軽く凌駕する手練手管を擁した作品群においては、

感情の余韻をブツ切りにされてしまう現象が時折生じる。

後者のような、機微を凌駕した噴出感情洪水作品群となると、

語りや展開が熱情に従属するしかないモタつきに時折焦慮する。

しかし、どちらの場合においても、

多少犠牲にされた要素(前者なら情味、後者なら構成や展開)が

観賞後に新たな意味と滋味でもって押し寄せてくることが少なくない。

完璧を期さぬからこそ、完璧たりうる。

それが香港映画の強みであり、極みである。

たとえそれが弱みとなろうとも、ファンにとってはそれもまた、

味わいの一つになりうるという愛嬌。

普遍と固有の自由な共存。

香港という地の歴史が産み出した文化のケミストリー、いやタペストリー。

 

そんな非弁証法的なイースト・ミーツ・ウエストの急先鋒として驀進中なのが

ジョニー・トーであることに異論はないだろう。

勿論、彼がいまだに「更新」を続ける制作活動を展開していることには

驚嘆の興奮を覚えるばかりだが、

そうした進化や革新性への未練を潔く断ち切るかのごときローカライズな精神に

矜持を保つ作家たちの使命感に魅了されることも忘れてはならない。

昨秋、『アクシデント/意外』と『密告・者』という快作2本が公開され、

その好評を受けてか今月も2本の極上香港映画が公開。

ピーター・チャンの『捜査官X』と、

フィルモ的には『密告・者』よりも前のダンテ・ラムの本作『ビースト・ストーカー/証人』だ。

どちらも、香港映画の醍醐味をふんだんに含有しながらも、

爛熟にはまだ早いとばかりの鮮度も維持。

香港映画の観賞に怠慢してた最近の自分を猛省。

 

作中、娘を誘拐された女性検事アン(チャン・ジンチュー)は、

娘との面会を求める元夫を激情に駆られながら拒絶。

(誘拐の事実を隠さねばならぬからだが)

そこで元夫は「もう少し理性を保て」といった言葉をかける。

しかし、アンはそうした理性の必要性(優位性)に懐疑を示す。

検事という職業に就き、気骨あふれる仕事ぶりを印象づけられた後に見せられる

彼女の取り乱し。

そんな姿は本作の登場人物全員に通ずる「表明」だ。

まさしく感情製過剰型の濃縮サスペンス劇場。

しかし、そこに虚飾に満ちた駆け引きが上滑ったりすることはない。

作劇的都合に起因する「嘘」などの応酬のない直線行動。

まさに、つねに「言」の「正」しき「人」たちばかり。

それぞれが、それぞれの「正しさ」で動き出す。

 

信条の所業かのように皆が皆、手負いであるのも印象的だ。

主要人物三人(刑事・殺し屋・検事)が「共通」の深い傷を抱えているばかりではなく、

あの事故(事件)を境に足が不自由になったり左遷されたりする者たちも。

絶望のどん底に突き落とされた者たちは悲痛な叫びを押し殺し、

しかし贖罪という希望への渇望に突き進む。

ノワール的でありながら、そこにはアウト・オブ・ダークネスな輝く青空への祈りが溢れ出す。

 

空の青さも闇の黒も、フィルムで映し出される《世界》はやはり格別だ。

銀残し風の画調の味わいも、フィルムで再現(上映)されてこそ。

劇場の上映環境の事情かもしれないが、

本国公開から4年ほど経過してようやくの公開(本作は日本でもCSで放映済だとか?)の

意義も十分な堪能観賞が叶えられた喜び。

 

演者の力量や入魂は言わずもがなながら、

誰しもが賛辞に熱くなるであろうニック・チョン演じるホンの生き様は、

最後の最後まで説明(それは物語上のみならず、内面の葛藤すら)を避け続けるのに

雄弁で、省筆が深奥な行間を出現させている。

ニック・チョンに比べれば、

ニコラス・ツェーの悲壮感は甘美な陶酔に映ってしまう危険を孕んでいるものの、

二人のフラットな対峙や対比にそれは貢献しているとも言える。

(ただ、終盤の感傷トゥー・マッチ演技[演出?]は正直やや閉口・・・)

前半は刑事トン(ニコラス・ツェー)を中心に、

後半は殺し屋ホン(ニック・チョン)を中心に物語は展開する。

『捜査官X』にも見られた構成だが、トンの葛藤を観客が一部始終目撃するのに対して、

ホンの苦悩はベールに包まれたまま展開する。

そこに緊迫の持続が生まれる秘訣はあるのだろうが、

ホンの背景をブラインドで通すには、ホン自身の行動に牽引力が必要で、

そのためにニック・チョンの身体(性)と表情は本領を発揮していた。

彼の存在によってこそ可能になった《かたり》だろう。

 

冒頭のクラッシュ場面などは新しい技術を積極的に取り入れ楽しむ姿勢が見受けられるも、

チープさが心地よい香港映画特有の劇伴は相変わらずで終始ニヤリ。

フルコーラスが必要ないほどのさっぱりエンドロールはやっぱり「冷める」前に終わるから、

明るくなっても「醒めない」夢。

 

    劇終

   THE END

 

がスクリーンに映り、しかも幕が下りてくる。

映画を映画館で観ることの味わいを再確認させてくれる香港映画。

映画を愛する者の存在を、映画を愛する者たちが劇場で「証人」となる時間。

 


バトルシップ(2012/ピーター・バーグ)

2012-04-24 02:58:47 | 映画 ナ・ハ行

 

「好きだバカ!」

そう心の奥で呟きながら、

スクリーンに釘付けな、僕等がいた。

 

拙いバカ映画模倣をダラダラ続けた「序」から一転、

ほんの一瞬ですべてが始まる「破」を経れば、

あとはひたすら「急」なる疾走、全力で。

先行逃げ切り、ランナーズハイ。

 

この映画には、解釈も哲学もない。

だから、きわめてオープンなんだろう。

もはやエイリアンなんて《敵》じゃない気がするからね。

というか、明らかに「正 vs 邪」とか「聖 vs 俗」とか「賢 vs 愚」とかの二項対立じゃない。

どころか、明らかに「俗 vs 俗」な上に「愚 vs 愚」という愛らしさ。

それでいて「邪 vs 邪」といったニヒルには振り切れず、

徹頭徹尾、オロナミンC。

 

スイッチ入った途端、破壊モード全開で、

容赦なくビルも道路もぶっ壊してるシーンを見るにつけ、

ひたすらアガる自分に躊躇。あれから1年強しか経ってないのに、

こんな場面で無邪気に享楽、不謹慎!?などと殊勝な自主規制装置が発動・・・

と思いきや、これは別にディザスターでも戦争でもSFですらないゲーム。

だって、壮大な「ドロケイ(泥警)」みたいなもんでしょ?(笑)

 

新たに「警察」となったエイリアンたちに囚われた泥棒(旧・警察)の乗組員達を、

牢屋から離れた島で警察(エイリアン)達に立ち向かって救おうとする泥棒達。

なんてテキトーに喩えてみて気づいたけど、凄い遊びだよな>ドロケイ(ケイドロ)。

だって、警察が泥棒全員つかまえたら今度は泥棒になってワーイ!って遊びだよ。

ある意味、とんでもないリアリティ(笑)

 

それはともかく、

何が言いたいかといえば、これは敵味方の問題など何処にもなく、

というか論じることすら全くしないから、観てるこっちに応援の自由が託される。

俺の場合は、前半は明らかにエイリアン応援モードで、

人間達の歯が立たなさ加減に妙に浮かれてみたりして。

その爽快なまでの苦悩のなさ(やられまくってるのに悲壮感どころか危機感もない)は、

主人公の兄が死んだとはいえ、その死が露骨に提示されもしなければ、

皆が皆、死と隣り合わせ感が全く漂わず、そんなところまでゲーム感覚。

だって、あんなにドッカンドッカン戦艦ぶっ壊れても人間無傷だからね。

あんだけの高さから(しかも途中にゴチャゴチャ障害物あるのに)飛び降りて、

下が海とはいえ平気平気!なノリはもう、ゲーム感覚すらないかもしれない。

抑圧がないまま、ずーっと解放&弛緩で進む(但し時々キメる)一方、

展開としては常に前のめり。

そんなところは、あそこまで全面作り物なメカ&海の映像の「隙」(CGっぽさ)が

凝視によって浮き彫りになる間もなく次々と映像を浴びせ続けて麻痺させる効果もある?

もう眼は完全にVFX漬けで、完全中毒状態「もっともっと!」

 

最初、エイリアンたちは単純な敵対心や私欲による侵略からの地球襲撃ではなさそうな

「意味ありげ」な描写が多かったので(赤《武装》と緑《非武装》に対応した攻撃有無など)、

最近流行の「地球人への啓蒙目的」(『地球が静止する日』)だったりするのかな?

とか、

余りにもエイリアン無敵具合には『2012』ばりの為す術なし的人間無力感噛みしめ型?

とか、

とにかく単なる対決や対戦の映画ではなさそうなところに興味をそそられるも・・・

気づくとどんな映画よりも対戦だけの映画になっているという・・・

おまけにいつの間にか人間側の兵器が随分と「通用」するみたくなってるし・・・

エイリアンたちまでコメディリリーフ的扱いに成り下がってゆく始末。

好きだバカ!

 

エンドロール後の「アレ」は、

エンドロール前に打ち上げの浮かれ気分から切り返しで見せて暗転!

とかのお決まり展開でも好かったかな、とは思うけど(エンドロール長いからね)、

まぁ、そのどちらも安心二重丸なお約束感を奇を衒わず漂わせ、

結果的にウェルメイド錯覚まで引き起こす(笑)

 

本作とは関係ない、どうでもいい話だが、

ピーター・バーグって『ベリー・バッド・ウェディング』の監督だったんだぁという驚き。

キャメロン・ディアス主演っぽく宣伝してたけど、

観に行ったらキャメロンなんてほんのちょっとしか出てなかったという・・・記憶しかない。

 

更新停滞な昨今、もっと語るべき映画があるだろうに・・・

駆けつけねばならぬ作品もあるだろうに・・・

でもでも、こういう活源映画こそ、マニック・マンデーのレイトショーにはもってこい。

それで興奮して睡眠削ってちゃ、メランコリック・チューズデー・・・

 


ヘルプ 心がつなぐストーリー(2011/テイト・テイラー)

2012-04-03 03:04:08 | 映画 ナ・ハ行

 

ほとんど女性で出来ている。

ところが、所謂「女性映画」という印象を観ている最中に感じることはなかった。

「女性映画」的な「女性」とは、「男性」と相対された存在である。

しかし、本作における女性たちはそうした存在ではない。

その変わり、本作においては「白」と「黒」の相対が存在する。

そして、そうした比較や対照がうみだした境界線が、敵と味方を分け始め、

Homeという安住が手に入る。

それは、生態的には生物の自然であるが、

その境界線が任意に引かれ、固定や強制の力がもたらされるのは人間の業。

とはいえ、人間には境界線を引くという文明の悲しい性の裏側に、

それを無化する自然も宿している。

相対的な価値判断を超越した絶対的な感情。

本作では、それが《母の愛》。

本作の登場人物は誰もが皆《母の愛》を宿しているか、享けている。

勿論、その《愛》の出所は生みの母親ばかりではない。

 

差別をうみ出す《社会》とは、まさに男たちの「生態(論理)」に基づく産物だ。

だからこそ、女性たちはそこに感じる不自然から、無意識に自然とはみ出したりする。

スキーター(エマ・ストーン)の母だって、

一人の女性としては自然にコンスタンティンと心が通っていたが、

《社会》の論理に支配されたコミュニティにおける「名誉」のために、

違和や罪悪を覚えつつも、コンスタンティンを追い出してしまうのだ。

《社会》から離れたところにいるスキーターやシーリア(ジェシカ・チャステイン)

のような女性は、実はより女性本来の自由さを体現しているのだ。

(二人は、共に「喪失感」という痛みを抱えている共通点もある。)

姥捨て山に放り出されたヒリーの母(シシー・スペイセク)も然り。

更には《社会》に虐げられている存在も、である。

そして、代償を恐れず真実を語り始めた彼女たちは、

《社会》に組み込まれた女たちも「自由」になる。

 

しかし、いずれにしても女性(出産の有無に関わらず《母》なる存在)が

差別を続けることは極めて不自然なのだろう。

だから、疲れる(tired)のだ。

エイビリーン(ヴィオラ・デイヴィス)が

ヒリー(ブライス・ダラス・ハワード)に放った最後の言葉こそ、まさに真実だったのだ。

その言葉は、聞く耳こそ違えど、響く心は同じだったはず。

分かり合える、分かち合えるはずの《母》同士であるにも関わらず、

《社会》がそれを許さない。

しかし、許さないということは必ずしも存在しないことではない。

《母》から享けた愛を覚えている限り、《母》なる愛を自らに覚える限り、

その「不自然」に抵抗する力は発生し、疲れを感じているはずだ。

 

真実の言葉を口にしたエイビリーンは晴れやかでも誇らしげでもなく、独り歩いてく。

「白」でも「黒」でもない「個」として。

息子の果たせなかった夢を代わりに果たし、作家になったのかもしれぬ、などと述懐し。

真実を語る者こそが、作家(writer)なのだと言わんばかりに。

語るとは「吾」の「言」葉で述べること。

そして、「write」とは元来「引っかく」だとか「木に彫る」という意から来る。

そう、真実を述べるとは、そこに痛みや代償が伴うものなのだ。

しかし、そうして刻まれた愛ならば、永遠の代償と共に永遠に。

 

Writer を夢見るスキーターが「書く」場面から始まる本作。

彼女は一冊の本を記した。

しかし、まだ何も書いてはいない(出版された本にも「ANONYMOUS(匿名/作者不明)」

とされ、名が伏されている)のだから、エイビリーンこそがwriterになって終わる物語は正しい。

the help たちを助けようとしたスキーターこそが、

彼女たちの助力を得てwriterとしてのスタートラインに立てたのだ。

「the help」を《所有》するということは、《help》の役目や体験を放棄することでもある。

それは、対象と直接関わる経験を失うことで、本当の感情と触れ合う機会を失してしまう。

《help》できる喜びを忘れることの寂しさは、《help》を体現する者への嫉妬も生むだろう。

 

アメリカの詩人の言葉。

Own Nothing, Owe Everything.

(何も所有しない、すべてに負うているのだから。)