原題:La guerre est déclarée 2011カンヌ国際映画祭 批評家週間オープニング作品
『わたしたちの宣戦布告』(配給:アップリンク) 今秋 Bunkamuraル・シネマ にて公開決定
世間じゃ三連休、私は三連勤・・・そんな悲劇にささやかな抵抗を!
というわけで、仕事をさっさと切り上げ駆けつけた「第15回カイエ・デュ・シネマ週間」最終日。
結局、全然観られなかった今回の特集上映(モーリス・ガレル追悼特集では2本観たけど)。
それでも何とか最大のお目当てだけは見逃すまいと、駆けつける。
そして、そこには期待を遥かに上回る、
いや期待とは明らかに印象のベクトルが異なった僥倖が待ち構えていた。
日本語字幕も付いていないのに(英語字幕付)、
場内は8割以上の入りとなり、みんなで固唾を飲む覚悟はできていた・・・
しかし、始まりから本作の軽やかさに場内も一気に和み始める。
そう、とびっきりにファニーなのだ。若い二人の初めての息子が脳に腫瘍ができるというのに。
これは、その後の悲劇への落差に向けての「高い高ぁ~い」なのか!?と思いきや、
そうしたポップな色調は透徹した覚悟としてフィルムに終始彩り添える。
突然、登場人物がBGMにのせて口ずさみ始めたり(しかも、デュエット!)、
最も深刻なシーンで最もスペクタクルな様相を呈してみたり、
泣きたいときこそ笑わせようとしてみたり。
相手の反応を凝視するかのようなキッチュさなどとは無縁の、
徹頭徹尾真面目に「伝え方」を考え抜いた結果としての方法が駆使されている。
ライフ・イズ・ビューティフルって映画があったけど、
「人生における美しさとは」などと考えながら映画を観ていた。
この映画に描かれる物語は、決して美しさや楽しさや幸福ばかりではない。
むしろ、100分のなかでそれらだけで構成される時間は最初と最後の僅かな時間。
しかし、それなのに、その間に挟まれた「悲劇」にこそ絶え間なく、途切れなく、
美しさや楽しさや幸福が氾濫しているというパラドクス。
この映画は「愛についてのアクション映画」だと評されていたりもするようだが、
確かにそうした言葉に頷けるほどのダイナミクスがダイナミックに働く爽快さもある。
その一方で、本作にあふれる「可笑み」にはもれなく「哀しみ」がこびりつき、
その懸命さは必死さでもあり、清々しいほど痛ましいロメオとジュリエット。
悲劇の種を宿す運命にあるかのような名の二人が授かった息子、アダム。
生後18ヶ月でもう生命の危機。「イヴ」と会えるかどころの話じゃない。
人類とは人類になるまえから既に可笑しくも哀しい、それでいて美しい存在だったのか。
弱音や泣き言を封印したかのように耐え抜いたロメオとジュリエットがもらした会話には、
「なぜ」の嵐が突然襲う。「なぜ、私たちなの?」「なぜ、アダムなの?」。
しかしジュリエットは確かめるかのようにつぶやいた。
「わたしたちなら、乗り越えられるからなのよ・・・」
断りも理(同語源)もなく齎された悲劇に対し、
ただただ抗戦体制に入るでもなく、ましてや好戦などもってのほか。
抗うべきは、沈淪する心。拒むべきは、悄れる魂。
受容すべき、自然のシナリオ。持つべきものは、慈しみ。
四つの瞳じゃ溜めきれぬ、涙をシェアする家族と友人。
「健気」と書くと安っぽい。
しかし、意地の悪いハプニングなどが入り込むすきの無い、
本当の悲しみに襲われたときの人間の厳かな覚悟と団結は、
やっぱり健気で逞しい。壊されるほどに、強くなる。
繰り返される、「私たち、強くならなきゃ」。
いまの日本を重ねてしまうのは、センチメンタル過ぎるだろうか。
しかし、これもまた、もうひとつの宣戦布告。
そしてどちらとも、敵のいない宣戦布告。
いや、強いて言うならば、自分と闘うための宣戦布告。
衝突や排除や吸収のためではない、克服のための、克己のための、新しい「戦争」。
◆序盤で時折挿入される細胞の様子(?)は、『ツリー・オブ・ライフ』を想起。
というより、むしろ対照的で興味深かった。『ツリー・オブ・ライフ』では、大きな物語と
ひとつの家族を対比というか並置として描いたわけだが、こちらではむしろ逆。
家族の外にある壮大な「歴史」などではなく、「いまここ」で起こっている、
しかも内部の極めて微細な動き。外への広がりに宇宙を感じる男性と、
内に宇宙を秘めたる女性との、世界活写の対照性!?
◆「電話」の使い方(?)が面白い。
深刻なときに「役目」を果たすアイテムが、「哀しみ」の代償として差し出す「可笑み」。
ソーシャルワーカーが医者に電話しようと間違ってとる受話器は、玩具の電話。
病院からの知らせにコメディよろしく一斉凝視な家族の食卓。
他にも、電話で話すシーンには必ず「ひねり」が用意され、
直接を大切にするゆえに、間接に演出加える気概に思える。
◆アダムが最初に検査を受ける病院では、
高い柵に囲まれたベッドで検査室へと「連行」される。
柵をつかんだアダムの姿はまさに「囚人」。そして、そこから「救出」するジュリエット。
結局、尊厳を護ってやれるのは、感情をもって愛情をそそげる存在しかないのかもしれぬ。
◆ジュリエットがアダムを連れて病院に行っている間、
友人と壁塗りを「少年ノリ」で楽しむロメオ。(この物語は、彼の「成長譚」でもある気がする)
しかし、夜になると不安が身体を支配する。階段を友人と二人で上る後姿は対照的で、
軽やかに躍るかのような友人とは正反対の強張った歩調のロメオ。
そこにかかってくるジュリエットの電話。泣き叫ぶしかないロメオ。
すかさず友人へ電話をしてフォローを頼むジュリエット。
スピーディなのに丁寧な展開は、地味に滋味で満たしてアクロバティック。
その後の、ヴィヴァルディ(『四季』の「冬」)をバックに哀しみの衝撃連鎖と、
慈しみの疾走、そして結集は、あまりにも残酷を凌駕する美しさを湛え抜く。
◆車窓からの光景と、車窓に映る光景が、交錯し、二人のデュエットが始まると、
それは静かな共同戦線。同志が交わすエールのようでも、愛の決意の表明のようでも。
そっと重ねあわされる多重世界。目に見えるものも、目に見えぬものも。
ちなみに、観た人誰もが感じるであろう、選曲とタイミングの妙。
基本「外し」ているようでいて、「ストレート」に思える不思議。
それは、観る側に肯定や受容の用意が自然にできてしまう、本作の魅力故かもしれない。
◆中盤で訪れる荒涼とした海と岩場の光景では、二人がアダムを抱えて佇む。
ラストの「三人」として動き回る姿との対比。岩を砕いたかのような砂浜。
美しき3つの命の寄り添い。
◆アダムの手術前夜。アダムの心配のみならず、
アダムの執刀医の心配(彼の身に何かあったら!?)まで発展する二人。
ベッドで添い寝する二人。ジュリエットを背中から抱くロメオ。
二人で同じ方向むいて、共に闘う覚悟の二人。
翌朝、アダムを送り出し、初めて向き合い、抱き合う二人。
(眠れずに、屋外のベンチで息子への手紙を書くロメオにぐっと来た・・・
男に出来ることって本当少ない。そして、弱い。だけど、だから何かを残してやりたい。)
◆手術に送り出すときに、アダムを励まし、勇気づけ、讃えもするロメオとジュリエット。
このとき以外も、終始いつでも自然にアダムに「話しかける」二人。
届けようとしなければ、届くことはない。届けようとしたからこそ、届いたのかもしれない。
◆世の中が華やぐ季節さえ、ロメオとジュリエットには気が休まらぬ闘いの日々。
しかし、そんな彼らが病室で始めるイマジナリー・パーティー。
手を叩くと、料理が!グラスが!シャンパンが!
しあわせなら手を叩こっ!
想像力こそ、彼らの「武器」かもしれない。
◇監督を務め、ジュリエットを演じたヴァレリー・ドンゼッリと、
ロメオ役のジェレミー・エルカイムは、私生活でも元夫婦だったとのこと。
おまけに、アダム役では二人の実子が登場し、この物語自体彼等の体験に拠るんだとか。
そんなことを多少知った上で観たこともあり、いろんな想いが巡りに巡った観賞体験。
この二人は、ドンゼッリの監督一作目でも共演するのみならず、他にも共演作があり、
本作は共同脚本。「別れる」という選択が、一つの「解れる」関係へと導いた?
本作の次の回に上映された『ベルヴィル/東京』でも共演していて、
観たかった(観るべきだった!)ものの、体力と感動の限界だったゆえ、
余韻に満たされ続ける道を選んでしまった。うーん、幸福なる見逃し感。
◇チラシでは「デジタル上映」と記載されていた本作。
プログラミング・ディレクターの坂本安美氏の涙ぐましい(推定)尽力によって可能となった
フィルム上映。シネスコだったり、フィルム的(?)クローズアップのアクションあったり、
作中で微妙に変化する(特にラスト)色味や質感を堪能するのに、
フィルムで観られる喜び厖大だ!本当に幸せ、ありがとう!
[追記]でも、撮影はデジタルでした。
ただ、デジタル上映と見比べると何故かフィルム上映の質感の方が
しっくりしてた気もしてしまったり。
本作のファンタジー性にはフィルムの質感が似合うのかもね。
◇英語字幕で観た為に、私の感想(特に展開や内容の詳細に関して)は
どこかおかしいかもしれませんが、間違い等あったらお許しください(笑)
しかし、字幕を完璧に捉えて解釈できてるわけではないにも関わらず、
なぜか「すべてをとらえられたかのような幸せ」を感じるのは何故だろう。
そして、なぜか日本字幕がないという方が「気楽に」観賞できる奇妙な感覚。
おそらくきっと、映画とは「とらえきれぬ」表現であるゆえに(だからこそ、
〈現実〉に最も近い芸術だと思っている)、「とらえきれない」認識のもとに
対峙すれば好い場合、素直な想いで向き合えるのかも。
「言葉」は本当に大切で、本当に素晴らしいものだとは重々承知であるけれど、
そうした呪縛から解かれることによって味わえる豊饒な体験もあるはずで、
それもまた「言葉がもたらす」情味であるという美しい矛盾。堪能、堪能、満悦至極。
◇余談。本作について書いてる記事を読もうと検索してたら、
先日、ヴェネツィアで新人賞を授与された染谷将太オフィシャルブログがヒットした・・・
未公開のフランス映画、しかも日本語字幕もない本作を、しっかり自腹で(おそらく)観賞。
えらい!!(って、別に俺が褒める立場にないだろう・・・)
『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』『東京公園』と私的フェイヴァリットにも出演してるし、
ますます頼もしくもあり、好きになりましたよ>染谷君
◇ドンゼッリの監督一作目は、劇場未公開ながらDVDが発売されている。
(『彼女は愛を我慢できない』という邦題で)
当然、本作こそは劇場公開を心の底から願いもするが(この際、難病モノとしてでも
「泣ける!」とかって宣伝文句添えても許すからっ!!!(笑))、
最悪、DVDスルーでもWOWOW発掘シネマでも好いから、
とにかく未公開で終らせないで欲しい・・・
◇頼みの綱は、アカデミー賞!?
本作は、アカデミー賞の外国語映画賞枠へのフランス代表に決まったらしい。
シノプシス的にはアカデミー会員にもウケは好いだろうが、実際観たらどうだろう・・・
受賞は無理だとしても、ノミニーまで残れば、日本での公開にも弾みがつく!?
もしくはセザール賞でのノミニー(もしくは何か受賞)とか。
あ、でも、セザール賞じゃ日本での公開にはあまり影響ないんだよなぁ。
『唇を閉ざせ』とか、あんだけポピュラリティありながら、劇場未公開だったわけだし。
しかし、本作は低予算ゆえに、そこそこリーズナブルに買付できたりするんじゃない?
というわけで、セザールやアカデミーなんぞに目をつけられて高騰するまえに、
さっさと買付けしやがれ(笑)>日本の配給会社
◇Youtubeとか見ると、この二人は「本当に別れたのか?」疑惑ムンムンの
感じ好すぎるツーショット動画多数・・・。一方で、この二人ってどこかアンバランスで、
そうした危うさが独特の「睦まじさ」感を演出できたりもする気がする。
ヴァレリーは、ミア=ハンセン・ラブを幾分逞しくさせた感じのする姉御系才女っぽくて、
ジェレミーはフィルモ見ると苦労人っぽい印象だし、今風フランス男子で草食系?
ますます、日本でもウケそうじゃん!
ちなみに、私の見逃した『Belleville-Tokyo』のトレーラー
・・・やっぱり、観たかった。こっちを先にみて、『宣戦布告』って順番なら最高だったかも。
[追記1]アップリンク配給で来年の劇場公開が決まったようです。
[追記2]邦題が『愛の宣戦布告』にな(っちゃ)ったようです。
『愛の勝利を』に続き、またもや「愛」の犠牲になったタイトルたち。
そこに感ずるは、哀ばかり・・・ま、ル・シネマじゃ仕方ないだろが。
というより、本作がル・シネマなマダムたちに受容[許容?]されるか心配。
(2012/2/1)
[追記3]どうやら邦題は確定していない模様。アンケート中みたい。
『宣戦布告』 or 『愛の宣戦布告』 or 『わたしたちの宣戦布告』
今ふと思い出してしまったが、ヴァレリー・ドンゼッリの処女(長篇監督)作は
『彼女は愛を我慢できない』という邦題なのでした。啓示?(笑) (2012/2/3)
[追記4]邦題は『わたしたちの宣戦布告』に決定。今秋ル・シネマほかにて公開。
フランス映画祭2012でも上映予定。(主演二人の登壇あり)