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Living Is Difficult with Eyes Opened

宣戦布告(2011/ヴァレリー・ドンゼッリ)

2011-09-26 01:16:12 | 2011 特集上映

原題:La guerre est déclarée 2011カンヌ国際映画祭 批評家週間オープニング作品

わたしたちの宣戦布告』(配給:アップリンク) 今秋 Bunkamuraル・シネマ にて公開決定

 

世間じゃ三連休、私は三連勤・・・そんな悲劇にささやかな抵抗を!

というわけで、仕事をさっさと切り上げ駆けつけた「第15回カイエ・デュ・シネマ週間」最終日。

結局、全然観られなかった今回の特集上映(モーリス・ガレル追悼特集では2本観たけど)。

それでも何とか最大のお目当てだけは見逃すまいと、駆けつける。

 

そして、そこには期待を遥かに上回る、

いや期待とは明らかに印象のベクトルが異なった僥倖が待ち構えていた。

 

日本語字幕も付いていないのに(英語字幕付)、

場内は8割以上の入りとなり、みんなで固唾を飲む覚悟はできていた・・・

しかし、始まりから本作の軽やかさに場内も一気に和み始める。

そう、とびっきりにファニーなのだ。若い二人の初めての息子が脳に腫瘍ができるというのに。

これは、その後の悲劇への落差に向けての「高い高ぁ~い」なのか!?と思いきや、

そうしたポップな色調は透徹した覚悟としてフィルムに終始彩り添える。

 

突然、登場人物がBGMにのせて口ずさみ始めたり(しかも、デュエット!)、

最も深刻なシーンで最もスペクタクルな様相を呈してみたり、

泣きたいときこそ笑わせようとしてみたり。

 

相手の反応を凝視するかのようなキッチュさなどとは無縁の、

徹頭徹尾真面目に「伝え方」を考え抜いた結果としての方法が駆使されている。

 

ライフ・イズ・ビューティフルって映画があったけど、

「人生における美しさとは」などと考えながら映画を観ていた。

この映画に描かれる物語は、決して美しさや楽しさや幸福ばかりではない。

むしろ、100分のなかでそれらだけで構成される時間は最初と最後の僅かな時間。

しかし、それなのに、その間に挟まれた「悲劇」にこそ絶え間なく、途切れなく、

美しさや楽しさや幸福が氾濫しているというパラドクス。

 

この映画は「愛についてのアクション映画」だと評されていたりもするようだが、

確かにそうした言葉に頷けるほどのダイナミクスがダイナミックに働く爽快さもある。

その一方で、本作にあふれる「可笑み」にはもれなく「哀しみ」がこびりつき、

その懸命さは必死さでもあり、清々しいほど痛ましいロメオとジュリエット。

 

悲劇の種を宿す運命にあるかのような名の二人が授かった息子、アダム。

生後18ヶ月でもう生命の危機。「イヴ」と会えるかどころの話じゃない。

人類とは人類になるまえから既に可笑しくも哀しい、それでいて美しい存在だったのか。

弱音や泣き言を封印したかのように耐え抜いたロメオとジュリエットがもらした会話には、

「なぜ」の嵐が突然襲う。「なぜ、私たちなの?」「なぜ、アダムなの?」。

しかしジュリエットは確かめるかのようにつぶやいた。

「わたしたちなら、乗り越えられるからなのよ・・・」

 

断りも理(同語源)もなく齎された悲劇に対し、

ただただ抗戦体制に入るでもなく、ましてや好戦などもってのほか。

抗うべきは、沈淪する心。拒むべきは、悄れる魂。

受容すべき、自然のシナリオ。持つべきものは、慈しみ。

四つの瞳じゃ溜めきれぬ、涙をシェアする家族と友人。

 

「健気」と書くと安っぽい。

しかし、意地の悪いハプニングなどが入り込むすきの無い、

本当の悲しみに襲われたときの人間の厳かな覚悟と団結は、

やっぱり健気で逞しい。壊されるほどに、強くなる。

繰り返される、「私たち、強くならなきゃ」。

 

いまの日本を重ねてしまうのは、センチメンタル過ぎるだろうか。

しかし、これもまた、もうひとつの宣戦布告。

そしてどちらとも、敵のいない宣戦布告。

いや、強いて言うならば、自分と闘うための宣戦布告。

衝突や排除や吸収のためではない、克服のための、克己のための、新しい「戦争」。

 

 

◆序盤で時折挿入される細胞の様子(?)は、『ツリー・オブ・ライフ』を想起。

   というより、むしろ対照的で興味深かった。『ツリー・オブ・ライフ』では、大きな物語と

   ひとつの家族を対比というか並置として描いたわけだが、こちらではむしろ逆。

   家族の外にある壮大な「歴史」などではなく、「いまここ」で起こっている、

   しかも内部の極めて微細な動き。外への広がりに宇宙を感じる男性と、

   内に宇宙を秘めたる女性との、世界活写の対照性!?

 

◆「電話」の使い方(?)が面白い。

   深刻なときに「役目」を果たすアイテムが、「哀しみ」の代償として差し出す「可笑み」。

   ソーシャルワーカーが医者に電話しようと間違ってとる受話器は、玩具の電話。

   病院からの知らせにコメディよろしく一斉凝視な家族の食卓。

   他にも、電話で話すシーンには必ず「ひねり」が用意され、

   直接を大切にするゆえに、間接に演出加える気概に思える。

 

◆アダムが最初に検査を受ける病院では、

   高い柵に囲まれたベッドで検査室へと「連行」される。

   柵をつかんだアダムの姿はまさに「囚人」。そして、そこから「救出」するジュリエット。

   結局、尊厳を護ってやれるのは、感情をもって愛情をそそげる存在しかないのかもしれぬ。

 

◆ジュリエットがアダムを連れて病院に行っている間、

   友人と壁塗りを「少年ノリ」で楽しむロメオ。(この物語は、彼の「成長譚」でもある気がする)

   しかし、夜になると不安が身体を支配する。階段を友人と二人で上る後姿は対照的で、

   軽やかに躍るかのような友人とは正反対の強張った歩調のロメオ。

   そこにかかってくるジュリエットの電話。泣き叫ぶしかないロメオ。

   すかさず友人へ電話をしてフォローを頼むジュリエット。

   スピーディなのに丁寧な展開は、地味に滋味で満たしてアクロバティック。

   その後の、ヴィヴァルディ(『四季』の「冬」)をバックに哀しみの衝撃連鎖と、

   慈しみの疾走、そして結集は、あまりにも残酷を凌駕する美しさを湛え抜く。

 

◆車窓からの光景と、車窓に映る光景が、交錯し、二人のデュエットが始まると、

   それは静かな共同戦線。同志が交わすエールのようでも、愛の決意の表明のようでも。

   そっと重ねあわされる多重世界。目に見えるものも、目に見えぬものも。

   ちなみに、観た人誰もが感じるであろう、選曲とタイミングの妙。

   基本「外し」ているようでいて、「ストレート」に思える不思議。

   それは、観る側に肯定や受容の用意が自然にできてしまう、本作の魅力故かもしれない。

 

◆中盤で訪れる荒涼とした海と岩場の光景では、二人がアダムを抱えて佇む。

   ラストの「三人」として動き回る姿との対比。岩を砕いたかのような砂浜。

   美しき3つの命の寄り添い。

 

◆アダムの手術前夜。アダムの心配のみならず、

   アダムの執刀医の心配(彼の身に何かあったら!?)まで発展する二人。

   ベッドで添い寝する二人。ジュリエットを背中から抱くロメオ。

   二人で同じ方向むいて、共に闘う覚悟の二人。

   翌朝、アダムを送り出し、初めて向き合い、抱き合う二人。

   (眠れずに、屋外のベンチで息子への手紙を書くロメオにぐっと来た・・・

    男に出来ることって本当少ない。そして、弱い。だけど、だから何かを残してやりたい。)

 

◆手術に送り出すときに、アダムを励まし、勇気づけ、讃えもするロメオとジュリエット。

   このとき以外も、終始いつでも自然にアダムに「話しかける」二人。

   届けようとしなければ、届くことはない。届けようとしたからこそ、届いたのかもしれない。

 

◆世の中が華やぐ季節さえ、ロメオとジュリエットには気が休まらぬ闘いの日々。

   しかし、そんな彼らが病室で始めるイマジナリー・パーティー。

   手を叩くと、料理が!グラスが!シャンパンが!

   しあわせなら手を叩こっ!

   想像力こそ、彼らの「武器」かもしれない。

 

◇監督を務め、ジュリエットを演じたヴァレリー・ドンゼッリと、

   ロメオ役のジェレミー・エルカイムは、私生活でも元夫婦だったとのこと。

   おまけに、アダム役では二人の実子が登場し、この物語自体彼等の体験に拠るんだとか。

   そんなことを多少知った上で観たこともあり、いろんな想いが巡りに巡った観賞体験。

   この二人は、ドンゼッリの監督一作目でも共演するのみならず、他にも共演作があり、

   本作は共同脚本。「別れる」という選択が、一つの「解れる」関係へと導いた?

   本作の次の回に上映された『ベルヴィル/東京』でも共演していて、

   観たかった(観るべきだった!)ものの、体力と感動の限界だったゆえ、

   余韻に満たされ続ける道を選んでしまった。うーん、幸福なる見逃し感。

 

◇チラシでは「デジタル上映」と記載されていた本作。

   プログラミング・ディレクターの坂本安美氏の涙ぐましい(推定)尽力によって可能となった

   フィルム上映。シネスコだったり、フィルム的(?)クローズアップのアクションあったり、

   作中で微妙に変化する(特にラスト)色味や質感を堪能するのに、

   フィルムで観られる喜び厖大だ!本当に幸せ、ありがとう!

   [追記]でも、撮影はデジタルでした。

             ただ、デジタル上映と見比べると何故かフィルム上映の質感の方が

             しっくりしてた気もしてしまったり。

             本作のファンタジー性にはフィルムの質感が似合うのかもね。

 

◇英語字幕で観た為に、私の感想(特に展開や内容の詳細に関して)は

   どこかおかしいかもしれませんが、間違い等あったらお許しください(笑)

   しかし、字幕を完璧に捉えて解釈できてるわけではないにも関わらず、

   なぜか「すべてをとらえられたかのような幸せ」を感じるのは何故だろう。

   そして、なぜか日本字幕がないという方が「気楽に」観賞できる奇妙な感覚。

   おそらくきっと、映画とは「とらえきれぬ」表現であるゆえに(だからこそ、

   〈現実〉に最も近い芸術だと思っている)、「とらえきれない」認識のもとに

   対峙すれば好い場合、素直な想いで向き合えるのかも。

   「言葉」は本当に大切で、本当に素晴らしいものだとは重々承知であるけれど、

   そうした呪縛から解かれることによって味わえる豊饒な体験もあるはずで、

   それもまた「言葉がもたらす」情味であるという美しい矛盾。堪能、堪能、満悦至極。

 

◇余談。本作について書いてる記事を読もうと検索してたら、

   先日、ヴェネツィアで新人賞を授与された染谷将太オフィシャルブログがヒットした・・・

   未公開のフランス映画、しかも日本語字幕もない本作を、しっかり自腹で(おそらく)観賞。

   えらい!!(って、別に俺が褒める立場にないだろう・・・)

   『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』『東京公園』と私的フェイヴァリットにも出演してるし、

   ますます頼もしくもあり、好きになりましたよ>染谷君

 

◇ドンゼッリの監督一作目は、劇場未公開ながらDVDが発売されている。

   (『彼女は愛を我慢できない』という邦題で)

   当然、本作こそは劇場公開を心の底から願いもするが(この際、難病モノとしてでも

   「泣ける!」とかって宣伝文句添えても許すからっ!!!(笑))、

   最悪、DVDスルーでもWOWOW発掘シネマでも好いから、

   とにかく未公開で終らせないで欲しい・・・

 

◇頼みの綱は、アカデミー賞!?

   本作は、アカデミー賞の外国語映画賞枠へのフランス代表に決まったらしい。

   シノプシス的にはアカデミー会員にもウケは好いだろうが、実際観たらどうだろう・・・

   受賞は無理だとしても、ノミニーまで残れば、日本での公開にも弾みがつく!?

   もしくはセザール賞でのノミニー(もしくは何か受賞)とか。

   あ、でも、セザール賞じゃ日本での公開にはあまり影響ないんだよなぁ。

   『唇を閉ざせ』とか、あんだけポピュラリティありながら、劇場未公開だったわけだし。

   しかし、本作は低予算ゆえに、そこそこリーズナブルに買付できたりするんじゃない?

   というわけで、セザールやアカデミーなんぞに目をつけられて高騰するまえに、

   さっさと買付けしやがれ(笑)>日本の配給会社

 

◇Youtubeとか見ると、この二人は「本当に別れたのか?」疑惑ムンムンの

   感じ好すぎるツーショット動画多数・・・。一方で、この二人ってどこかアンバランスで、

   そうした危うさが独特の「睦まじさ」感を演出できたりもする気がする。

   ヴァレリーは、ミア=ハンセン・ラブを幾分逞しくさせた感じのする姉御系才女っぽくて、

   ジェレミーはフィルモ見ると苦労人っぽい印象だし、今風フランス男子で草食系?

   ますます、日本でもウケそうじゃん!

 

ちなみに、私の見逃した『Belleville-Tokyo』のトレーラー

・・・やっぱり、観たかった。こっちを先にみて、『宣戦布告』って順番なら最高だったかも。

 

[追記1]アップリンク配給で来年の劇場公開が決まったようです。

 

[追記2]邦題が『愛の宣戦布告』にな(っちゃ)ったようです。

             『愛の勝利を』に続き、またもや「愛」の犠牲になったタイトルたち。

             そこに感ずるは、哀ばかり・・・ま、ル・シネマじゃ仕方ないだろが。

             というより、本作がル・シネマなマダムたちに受容[許容?]されるか心配。

                                                   (2012/2/1)

[追記3]どうやら邦題は確定していない模様。アンケート中みたい。

     『宣戦布告』 or 『愛の宣戦布告』 or 『わたしたちの宣戦布告』

     今ふと思い出してしまったが、ヴァレリー・ドンゼッリの処女(長篇監督)作は

     『彼女は我慢できない』という邦題なのでした。啓示?(笑) (2012/2/3)

 

[追記4]邦題は『わたしたちの宣戦布告』に決定。今秋ル・シネマほかにて公開。

             フランス映画祭2012でも上映予定。(主演二人の登壇あり)

 


ハルーン・ファロッキ監督特集(2)

2011-08-27 18:28:58 | 2011 特集上映

 

興味深い作品群に魅了され、結局その後も二度ばかり足を運んだ本特集。

4日目には四方幸子氏(キュレーター、批評家)の講演付上映もあったので、参加した。

ファロッキは、1996年からインスタレーションとしても作品を発表するようになったらしく、

それ以前と以後の作品では些か違いが垣間見られるといった分析を四方氏はされていた。

確かに、私が1969・1986・1988年の作品を観た翌日に接した2000・2003年の作品に、

明らかな「違い」を感じたのも気のせいではなかったのかもしれない。

前者の作品群では、「視覚」そのもの、あるいは「視覚メディア全般」に対する懐疑が

とにかく作品全体に通奏低音として流れ続けているような印象を受けたのだが、

後者の作品群では明らかにそうした懐疑は「自明」かのように「前提」化しており、

むしろその先にある積極的な疑念へと誘導されるかのような感覚が喚起された。

おそらくその背景には、視覚メディアの一般化が急速に進み、更に形態も多様化し、

その送受信形態すら大きく様変わりをしていった(「映像の民主化」的な革命現象の)ため、

視覚メディアである映像それ自体に対する懐疑から「映像とは」を問うに留まらず、

映像を駆使するなかで、映像のなかに身を置きながらも意識的な懐疑を持続するための

方法を模索し始めていったように私には思われた。

 

四方氏によれば、ファロッキは自らの手法を「ソフトモンタージュ」と呼んだりするそうだが、

プロパガンダ御用達のモンタージュを敢えて駆使しようかという姿勢に、

初期にみられた激烈な否定的感覚を伴う拒絶姿勢による批判ではなく、

まずは受容から入りつつ、積極的活用も試みるなかで、

問題点を浮き上がらせようとする、そんな手法の変遷を見るような気がした。

インスタレーションは複数(もしくは多数)の画面に別々の映像が映し出されたり、

一つの画面のなかに複数の画が並置して映し出されていたりするものが多いそうだが、

そうした特徴はインスタレーション以外の映像作品においてもしばしば登場する。

また、画面の分割が行われなくとも、いくつかのものを比較したり交錯させながら

見せていこうとする手法には、ファロッキ流のサンプリング技量が見事に発揮されている。

そうした意図としては、「複数」のものの間に生起する「関係性」への着目があるらしい。

そして、それは必ずしも想定された多様性などではなく、受け手の側で自由に見出せる

可能性を残す(与えようとする)ための手段として積極的に採っているらしくもある。

 

私の観た80年代までの作品において感じた「強い主張」や

そうした主張の下に綿密に管理され配置されたであろう作品全体の精巧さとは異なる、

自由さのようなものが(ユーモアすら滲ませられながら)90年代後半以降の作品からは

強く印象付けられた。

 

インスタレーション制作へと向かう前年につくられた『労働者は工場を去っていく』(1995年)

リュミエール兄弟の有名な「工場の出口」が冒頭はじめ、繰り返し本作には挿入されている。

他にも、いくつかの映画における「工場の出口」から出てくる労働者たちの姿が映し出される。

そして、ナレーションは語る。

 

  「皆が皆、一目散に帰路については散ってゆく・・・

    まるで、既に多くの時間を無駄にしてしまったかのように・・・

    もっといい場所を知っているかのように・・・」

 

皮肉ながらも愉快な明察。ここでふと思う。

四方氏は、本作が映画100年にあたる1995年に制作され、

そうした区切りを経たことでファロッキは活動の場をインスタレーションにも

広げていったのではないかと推測していた。

そう考えると、映画元年に撮られた「工場の出口」を100年の締めくくりとして用い、

検証しようという温故知新的というか原点回帰的な模索として

節目の意味が担わされていたかもしれない。

しかも、工場を「去って」いくところがテーマである。

100年前の工場の意味・意義・位置づけと、現在のそれは大きく異なるだろう。

従って、「工場の出口」から人が出てくるという意味も大きく変わってきたはずだ。

冒頭のナレーションが語るように、彼らは工場といった統一化や同調を迫るシステムに

辟易して自由な空気に吸い寄せられるように工場から脇目も振らずに帰ってゆく。

しかし、現代の我々は「工場」(勤務先)にそうした危機意識を抱けているだろうか。

いや、もしかしたら工場の外と内との境目があやふやに、双方の位置づけが曖昧に、

場合によってはどちらが外でどちらが内かが判然としない「世界」になっているかもしれない。

 

「映画」にとってまさに最初の一歩が、工場から「出る」ことだった。

つまり、映像は「画一」や「反復」のため(だけ)に生まれたものではなく、

管理や統率から解放され、自由な世界への扉として生まれたものなのだ。

想像力の管理者としてではなく、想像力の支援者としての映像、「映画」。

そんなことをリュミエール兄弟が1985年にカメラを廻した光景に教わった気がする。

 

ファロッキは、「映画」においては工場にいる時間よりも圧倒的に

個人的な時間において物語が展開されると本作で述べている。

(四方氏によれば、「労働者の映画は主ジャンルにならなかった」と語ってもいるとか。)

やはり、「映画」が何のためにあるのか、「映画」が私たちに何をしてくれるのか、

そんな原点を見つめる上でも有効なテキストになったかもしれない。

(そんなところに主眼がないのは明らかですが)

 

しかし、本作のなかでは、「工場の門」よりも「監獄の門」の方が、

映画では明らかに多く登場しているという指摘もある。それは、監獄という場においては、

近代が抱えている問題の諸相が如実になるからであろうが、工場における問題だって

同様の背景をもち、同様の観念から引き起こされていたりするはずなのではないだろうか。

「投獄」だとか「囚人」だとかいう現象や対象を考察する際には、「管理」や「排除」などが

より意識的に認識しやすいと同時に、自らと切り離して考えられる気楽さもあるかもしれぬ。

しかし、工場(会社)や学校といった「社会」においても、同様の概念が基底をなしていることに

かわりはないのではあるまいか。そう考えるならば、昨今の映画が「個人的な時間」にばかり

物語を見出そうとするのではなく、まさに「管理下」における日常を物語ろうとし始めている

気もするし、そうしたものに注目が集まってもいるように思う。

ここ数年に傑作・佳作が多くうまれるジャンルとして、

私は「監獄もの」が挙げられると思っているのだが、

「監獄そのもの」である場合(カンヌのグランプリ作『アンプロフェット』や

数年前のゴヤ賞作品『第211監房』[DVDタイトル『プリズン211』]など)もあれば、

精神病を扱ったもの(想田和弘『精神』、マルコ・ベロッキオ『勝利を』など)にも同様の

「監獄的」要素を垣間見ることができるし、数年前のパルムドール作でもある『パリ20区、

僕たちのクラス』などは、まさに学校の内部で(それも主に教室内で)ほとんど展開する。

『パリ20区~』の原題は「塀の内側」というような意味だったと記憶しているが、まさに

学校という場の監獄性を焙り出そうとしているかのようにも受け取れたし、そうした点も

評価や観客の共感が得られた要素だったのかもしれない。ただ、そうした「監獄性」は

どのようなジャンルやテーマであったとしても、必ず透けて見えるものではあると思うので、

とりたてて近年のどの作品がどうこう言う問題ではないかもしれないが、そうした性質を

意識的に抽出しているかのような作品が多く、しかも力強い訴えを伴って現れる傾向は、

管理や統御がより洗練されながら意識化され難くなっている時代と関係あると私は思う。

 

そんな興味関心を日頃抱いている(暗いな・・・)自分にとって『監獄の情景』(2000年)は、

実に面白くみられる豊潤示唆凝縮論文とも言うべき内容だった。

監獄の情景が映し出され、監獄の特性などから語られ始める本作は、

やがて私たちの日常生活において、市井の人々が「囚人」化しつつあつ現実を暴くに至る。

何度か挿入されるロベール・ブレッソンの『抵抗』やジャン・ジュネの『愛の唄』の映像は、

最初こそ閉塞感を感じ、そこに悲壮な空気を嗅ぎ取りさえするものの、

やがて現代社会において監視カメラが遍在している現状を見せつけられ、

それがもはや監視目的に留まらない事実をつきつけられるとき、

観客は囚人たちにこそ「美しさ」を見出し始めてしまう。

牢獄、とりわけ独房に入れられた囚人たちは、常に「見られる」ことを覚悟する。

そうして誤魔化しのきかなくなった自己は肉体しか持たぬ存在となり、

原初の思索へ還ってゆく。『抵抗』における脱獄準備の作業にかかるナレーション。

「肉体だけしか残されていない囚人は、やがて手仕事を再発見するだろう」

人間の本質が問われる時間。人間の根源をみつめる空間。

 
監視カメラという存在は、同時に複数の視点を獲得し、

そのことによって世界が構築されゆくことを意味するのだとファロッキは語る。

そして、商業施設などにおける監視カメラは、防犯という本来の目的を離れ(から飛躍し)、

客の動向や嗜好にまでその「監視」範囲を広げてゆく。どこをどのように移動するのか、

どのような行動をした客がどのような商品を購入して行ったか。他の器機との連動により、

さまざまなデータが収集されてゆく。それは、囚人ひとりひとりの行動とアイデンティティを

把握しようとする監獄と同様の光景であると言わんばかりの相似形。

 

囚人にとって面会とは唯一の〈外部〉とのつながりをもてる機会であると語られる。

〈外〉の存在を認識できる貴重な機会である面会は、同時に喪失感をも味わわせる。

ある男は妻から「新しい硬貨」を見せてもらう。男が刑務所にいるうちに、

新たに発行された硬貨である。それを見た男は、「取り逃した人生を感じる」と語られる。

しかし、そうした〈喪失〉は、工場で働いていた人々が感じ続けたものと同じではないか?

「工場の出口」から威勢よく出てゆく人々の歩調が何より物語る。

(ちなみに、走って帰ってゆく人々の映像も挿入されていたなぁ・・・)

 

また、「情愛は監視下において特殊な行動をとらせる」とも語られる。

つまり、面会においては「決められたこと」しかできないはずだが、

「在り得ない」ことを在らしめてしまうもの、それが情愛だと言うのだろう。

「管理し得ぬもの=管理を凌駕し得るもの」といった希望が込められているのだろうか。

 

更には、「権力も暴力も、もはや非個人的なものとなってきている」とまで語られる。

確かに、刑務所における看守の権力や暴力は、当然その看守個人に拠るものではなく、

〈国家〉という極めて抽象的な後ろ盾によって代理で行使され得るものである。

しかし、直接関わる者同士にうまれる恐怖や憎悪や快楽は、結局のところ個人に帰属する。

従って、そこに付随し定着する怨念や執念といったものが向けられるのも、個人。

それらを全て操作し、圧迫し続けるのは、「誰」でもなく〈国家〉という社会システムなのに。

管理の強化に役立つ監視のツールを、人間はなんと急速に開発・発展させてきたことか。

首を絞めてる感覚を手は持たぬまま、

そして自らの首がいつ絞められてもおかしくないことを知らぬまま、

私たちは厖大な「眼」で見ようとしては、厖大な「眼」に見られている事実。

それは、監視のスパイラルが推進されるのみならず、流動化し多元化した視点によって、

見る位置変えて「正義」を変えることをも容易にした。「文脈」を操作できるのだから。

しかし、文脈の読みかえは人間が都合よくできようと、そもそも「書く」のは誰なのか?

カメラ(の眼)か?カメラを持つ者か?それとも、カメラを持つ者を持つ者か?

いやいや、それこそ「誰」でもない。

 

 

◇他には、『隔てられた戦争(識別と追跡)』(2003年)『静物』(1997年)を観た。

   前者は、(四方氏も繰り返し述べていたが)映像による遠隔化の問題がかなり直接的に

   描かれており、映像を駆使することによって可能となる作業の果てに、機械化による

   人間疎外とでも言うような事態が今後も加速し、ただ疎外されるのみならず排斥されかねぬ

   危険性が提示されてゆく。「ワルキューレの騎行」まで流してくれる、サービス精神(笑)

   後者は、フランドルの静物画と現代の広告写真とを比較分析しながら、静物を表現する

   (あるいは、捉える)ことの意義や可能性を論じてゆく、興味深い内容だったのだが・・・

   「おぉ!これは面白いはずっ!!」と思ってしばらくすると、速やかに入眠していたという・・・

   後悔しきり。

   まぁ、睡眠観賞(矛盾な表現だ)が1本に留まったことをむしろ褒めてやりますか(笑)

 

 


ハルーン・ファロッキ監督特集(1)

2011-08-24 00:56:27 | 2011 特集上映

 

今週5日間にわたり、アテネフランセ文化センターにて開催されている特集上映。

今年の恵比寿映像祭でも「眼差しの系譜」とのタイトルで4作品を上映するプログラム

組まれていたが、今回はそちらとはすべて異なるラインナップによる特集。

(ちなみに、恵比寿映像祭では「ハルン・ファロッキ」表記だった)

 

私は、恵比寿の方には行けなかったので、今回が初ファロッキ。

昨年は、トーマス・アルスラン3作品をフィルム上映で観られるという

貴重な機会を提供して頂き、今年は夏の終わりにファロッキ特集。

日本になかなか紹介され難いドイツの作家(今年もドイツ映画祭は開催見送りらしい・・・)を

定期的にカヴァーしてくれることに感謝します。と共に、やっぱり世界は広い広い。

映像世界も深い深い。まだまだ知らない人だらけ。まだまだ知りたいことだらけ。

 

今回の特集では、全7プログラム(全9作品)が組まれていますが、

とりあえず2プログラム(3作品)を観てきました。

どれも、素通り厳禁なへヴィー級の濃縮essay。

とてもじゃないが、「イッキ観」不可能・・・。

 

というのも、情報量の多さと、その構成展開の妙とが、

一回観ただけじゃ掴み切れないのが明白なほど、

いちいち画面が編集が、含意にあふれかえっている。

それは或る意味、意図的で(おそらく)、まだ3作しか観てない私の仮説に過ぎぬが、

ハルーン・ファロッキという映像作家の特異性とは、

「映像によって映像を懐疑する」といった志向を持っているからである気がする。

我々が無意識に無条件な信頼を寄せがちな「視覚」に対し、強烈な揺さぶりをかけてくる。

つまり、作品は常に「問題提起」というよりも、一種の「挑戦状」。

しかも、そこには日時も場所も、決闘手段も記載なし。

それゆえ観る者すべてに尋常ならぬ能動性が求められる。

スクリーン突き破っても足りないくらいに前のめり。突き破っても何もない虚脱感。

「だって、こっちじゃないないだろう。こっちに突撃、意味がない」ファロッキ微笑、臍噬む私。

 

あきらかに一元的な結論を提示する作品とは異なるゆえ、

まず第一段階としては観客を逡巡のスパイラルに陥れることが主眼かと。

『消せない火(燃え尽きない火焔)』(1969年)では、「見ること」の限界についての

断言から始まった。つまり、観客(見る主体)とはいつでも「見たいものを見る」存在だと。

「見たくないもの」は見ない。それは、いくら眼に映じる事実や可能性があろうとも、だ。

ナパーム弾で焼きただれた女性の姿に眼をそらすであろう私たち〈観客〉。

だから、所詮送り手が伝えられるのは「イメージの断片」だけだと言い切るファロッキ。

しかし、断片を組み立ててゆくうちに、気づけば「見たくないもの」が眼前にそびえ立つ。

一篇のモンタージュ叙事詩を辿ってゆけば、そんな展開が待ち受ける。

 

『見ての通り(物の見え方)』(1986年)にしたって、タイトルから諧謔な皮肉。

古代は、大きな道路が交差するところに街が生まれ栄えたという。

しかし、現代では「そこ」に何もうまれない。なぜならそこは数多の道路が交錯する

「四葉のクローバー(幸運を呼ぶ)」であるにも関わらず、実際には交差していない。

交わりも邂逅もない場所において、皆が皆思い思いに寄せては返してゆくばかり。

しかし、そうしたパラドキシカルな現状は(交差してるのに交差しない)、

近代社会じゃ常套パターン。兵士を救うために導入した銃器こそ、

戦争拡大(兵士の犠牲増大)の立役者。合理化精神のパラドクス。

為政者は直線的な境界引くが、ドライバーは直線を運転すると疲弊する。

フォードが工場でベルトコンベアを採用したのは、豚の工場に着想得たり。

「組み立て」のための手法を「解体」の手法から頂戴したわけ。

コーラの製造法は秘密だが、その事実は見事に「おおやけ」だ。

そんな矛盾に無自覚なまま、人は進歩という名の退歩に突き進む。

 

中央から蒸気を供給し、皆が作業をする工場(ジーメンス工場の写真)から、

個別の動力で思い思いに行動する工場(AEG工場の写真)へ。

前者を「鉄道」的な労働体制と呼び、後者を「自動車」的労働体制と呼ぶ。

そして、今や人間は人生の三分の一を車と道路に捧げているという。

(以前は、カテドラルに捧げられていたのだが)

それはつまり、封建的な社会を脱し、個人の自由を手にしたようで、

実は資本や技術や何かしらの「奴隷」へ無自覚に突き進んでいるだけとでも言うのだろうか?

 

サッカーは、本来「手」でやるべきことを足で器用にやるから賞賛されるという。

しかし、足でやれることが手でやれることを質的に上回っているのだろうか。

「いつの時代も優れているものこそ朽ちてゆく」とファロッキは語る。

しつこく挿入されたポルノのアフレコ現場。

「生」の唸りに優るべく鋳造される「虚」のこだま。

その滑稽さに無自覚な、送り手。

しかし、それは〈観客〉のせい?

 

「視覚への不信」が噴出しまくる、

『この世界を覗く-戦争の資料から(世界の映像と戦争の刻銘)』(1988年)が面白い!

まず、「波」(しかし、人工的に産み出したもの)の映像から始まる本作。

その「波」はたびたび挿入される。ファロッキは「波は思考を解放する」と言いながら、

その波は「一方向」に、しかも前の波と後ろの波は永遠に交わることがない。

そんな悲劇性もたたえた存在としても、「波」をとらえているのかも。

 

そして、話題の中心となる「米軍が撮影した航空写真におさめられたアウシュヴィッツ」とは、

まさに「眼前にある」にもかかわらず、捉えられない(視覚が知覚しようとも認識できず)もの。

ファロッキは「写真」を、「瞬間を固定し、過去と未来を切り離す」ものだと定義する。

一方で、測定用に写真を撮影した者は、実際に見るよりも「よく(具に)見える」と言う。

写真の誕生により、私たちは「もう一つの視覚」を手に入れた。ある意味「客観」による視覚。

しかし、そこに写っているものを見るのが人間である以上、それはもはや客観などではなく、

どこまでいっても主観に隷属する視覚。

 

米軍が「写っている」アウシュヴィッツを「みつけられなかった」のは、

彼らの撮影目的が別にあったから。彼らにとっての「課題」ではなかったからだ。

つまり、意識が向かねば「見える」は意味を為しはしない。しかし恐ろしいことに、

五感のなかで最も容易く遮断が可能なのも「視覚」だったりする始末。おまけに、

目は対象と離れたままでも機能を果たすことができるが、口は近寄らねば働けない。

そんな言葉も語られる。そう、だからこそ我々「観」客は、対象からいくらでも離れたまま

知覚し、「認識」(したという錯覚)に満足してしまう。

 

「アウシュヴィッツ」の例の写真に、さまざまな名称(「言葉」として強調されている)が

書き入れられるのは、撮影されてから33年後の1977年。

そこで、「言葉が書き入れられる」という強調がなされるのもきっと、

単純な視覚(見える)状態から、理性(ロゴス=言葉)を伴った視覚(認識する)状態へと

初めて到達したことを自覚させようとしているのではないだろうか。

 

また、アウシュヴィッツで撮られた写真を取り上げ、人間の矛盾と現実を鋭く指摘してもいる。

収容所の職員が撮った一枚の写真。そこには収容所には場違いな女性の美しさがあった。

ファロッキは想像する。撮った「男性」はきっと、「女性」を街で見かけて向ける眼差しで、

シャッターを押したに違いない。そして、その女性もきっと、街で自分を見る男性に送る

流し目がつい出てしまったのだろう、と。立場や状況など、主観にまとわりつくだけのもの。

 

後半はやや政治思想的な側面も混入してくるが、

そんな場合でも常にイデオロギー的なるものへの懐疑が向けられる。

その根底にあるかのごとき、「遠近法」がもたらした視覚の変遷。

しかも、それは中心たる一点座標の創出にとどまらず、

もはや「遠近法で捉えたもの」から中心を焙り出そうとするかの如き逆行へ。

しかし、自然は時間と同様、進行しては消えゆくもの。

それを反芻するかのごとく、「波」のすがたを映し出す。

しかし、私たちが見ている「波」とは何をもってそう呼ぶのだろうか。

「波」というモノはなく、そこには運動があり、生成と消滅が常に反復持続され、

A波とB波の関係も不可解なまま。そもそもAからBではなくて、すべてがXなのかもしれぬ。

 

〈疑い〉という確信。〈不信〉という信念。ただでは夏を終らせない。

私は、ファロッキの挑戦状に、果たして立ち向かってゆけるのか。

 

 


トランス(2006/テレーザ・ヴィラヴェルデ)

2011-08-10 00:57:46 | 2011 特集上映

 

現在、アテネフランセ文化センターにて最終上映を迎えている「ポルトガル映画祭」にて観賞。

今回の企画では、オリヴェイラが7作品、パウロ・ローシャ3作品(フィルセン上映のみ・・・)、

ジョアン・セーザル・モンテイロが3作品。それらポルトガル映画の歴史を語る上で重要な

巨匠たちに加え、4作家(5人)の作品を1作品ずつ上映するといった内容だった。

 

アントニオ・レイスとマルガリーダ・コルデイロの『トラス・オス・モンテス』は、

向こうでもDVDが出ていないとかということもあってか、話題性も十分ならばフィルセンでも

かなりの盛況で、川崎アートセンターで再見したときもそこそこ入っていた気がする。

ペドロ・コスタは日本じゃ人気が確立してるだろうし(と思ってたけど、

昨夏の『何も変えてはならない』公開直後の平日昼間は数名しか客いなかった・・・)、

ミゲル・ゴメスの『私たちの好きな八月』は随所で好き好きコメントを見かけもした。

従って、私の印象としては最も影の薄い作品が本作であり、たいした予備知識も情報もなく

観賞に臨んだのだが・・・望外の感動全身浴びの刑に処せられました・・・好きです。

 

「trance」を英和辞典で引いてみると、

「夢うつつ」「恍惚」といった「我を忘れる」側面と、

「失神」や「催眠」といった状態、それから「神がかり」的な入神状態を指すとある。

本作の主人公ソーニャ(アナ・モレイラ)は、『イースタン・プロミス』でお馴染みの(?)

人身売買によってイタリアの売春宿に連れてこられる。そんな彼女が、

ときに夢見に逃避しながらも、失神するほどの苦痛を味わい、

もはや神しか救えぬほどの自我崩壊へと向かう物語。

 

まさしく「トランス」状態へと突き進まざるを得ぬ一人の女性をじっくりねっとり記録する。

自らを防御する膜が、一枚また一枚と無残にも剥ぎ取られていく様を凝視するカメラ。

今回の最終上映で観たモンテイロ作品(凄すぎて超キャパシティ)でもつくづく感じたことは、

ポルトガル映画におけるアングルの完璧さはストローブ=ユイレ並じゃね?ってこと。

そのくせストローブ=ユイレほどはストイックじゃなく、適度にサービス精神もあるから、

俺みたいなシネフィル気取りな道楽者にはもってこいの映画たちだったりする。

モンテイロは引用の嵐だったりするらしいので、正規シネフィル御用達になれるんだろうけど、

テレーザはどうなんだろう。彼女も、モンテイロの『海の花』に女優として出演してたりするが、

いやぁ美しい・・・。(作品は未見ながら写真等で拝見するに、です。)

先のフランス映画祭にて上映された『美しい棘』のレベッカ・ズロトヴスキにしろ、

昨年公開された傑作『あの夏の子供たち』のミア・ハンセン=ラヴにしろ、

最近のヨーロッパ女性監督の美しさはハンパない。

やっぱり妖艶さを兼ね備える(皆さん女優出身ですから)のみならず、

そこに知性が加わったときの威光はもはや、後光の如きに達します・・・

 

と、そんなことを書いていると、私が本作にそんなアドヴァンテージを与えたかのようですが、

実は監督が女性だなんて観てる間は全く意識しておらず(というか失念しておりました)、

あとでパンフを観直して吃驚。よくもまぁ、あんだけ女を虐め倒す女性監督がいたもんだ、と。

でも、現実を考えてみると、女同士の方が「普通」に残酷なのかもしれない(笑)

ヒロインは何度も裸を露わにするし、サディズムにもみくしゃにされズタボロにされるのに、

そこには完全にポルノ的な要素の付け入る隙を与えずに、快楽厳禁の痛みがこびりつく。

そうしたところが同じようなテーマを男性が撮った場合のエキサイティング・ファイティングとは

異質な佇まいを全篇に施しているのだろうとも感じたし、それは極めて新鮮にも思えた。

 

「trance」の語源(ラテン語)には、「越える」というニュアンスが含まれているようだが、

まさしく本作はさまざまな「越境」が描かれるのみならず、実践されてもいる。

物語の舞台もロシアから始まり、チェコ、ドイツ、イタリアを経てポルトガルへと至る。

映画の序盤は、詩的に収められた断片が「繋がれる」ことなく並べられていく印象。

劇映画というよりは、一篇のインスタレーションが入れ代わり立ち代り現れては消えてゆく。

それらの断片はまさに全てが「トランジット」であるかのように移動(展開)自体を明示しない。

しかし、そうした構造は、ヒロインの自我が崩れ始めると途端に崩れ、悲劇が「動き」だす。

デヴィッド・リンチのような怪しげな室内が映し出されたかと思えば、

ギャスパー・ノエにも真似できぬ甚振りまであったりして、

そうした手法と戯れているかのような余裕も見せて、

あらゆる映像表現を「越境」してゆく。

 

その最たる例が、終盤の「コンテナ」内でのあのシーン。

もはやシアターNレイトショー枠送り必至な展開まで用意されているとは、

テレーザ、トランスし過ぎでしょ。でも、そこが好き。

というか、ああいう展開を変にアートアートせずに撮っていて、

ヒロインの表情はシアターNなのに、どことなくイニャリトゥ的でもある。

(って、それは犬が登場してるからってだけだろ)

 

私は常々、「ユーモア」の有無が最終的には監督の「器」を決めるではないかと思っている。

つまり、どんなに生真面目だろうが、どんなにペダンチックだろうが、

どんなにファッショナブルだろうが、ひとたび滑稽さを目にすれば、魂を感知できるから。

え?本作のどこが滑稽かって?私がおかしいのかもしれないけれど、大爆笑してしまったぞ。

ヒロインを運ぶ男が、ホテルでヒロインをおかした後のベッドでの会話。

(うろ覚えだが・・・確か次のような内容をレイプした男がヒロインにほのぼの語る)

「おまえはイタリアに連れてかれんだ。イタリアかぁ・・・ピザ!そう、ピザが美味ぇんだよ」

おいおいおい。そこでピザかい。ひとり連想ゲームかい。おまえ、いま目の前の女襲ってさ・・・

いや、わかるよ。きっとまだ、興奮が冷めやらないのと征服感からのウキウキが

止まらないんでしょ?それに、性欲満たされたもんだから、今度は食欲ってわけだ。

・・・ってか、どう考えても要らんだろ、この台詞。いいや!だからこそ、めっちゃ必要なんだよ。

こういうのこそ、本当の「不条理」なんじゃない?

条のカケラも理の影も、見えやぁしない生身の人間。

これだけ創りこまれた「虚構の世界」に突如進入したリアリティ。

こういうの、大・好・物!

他の例だと、ダルデンヌ兄弟の『ロルナの祈り』で、

ロルナが突然病院の壁に腕ぶつけて虐待の痕跡つくろうとするところとか、

最近だとセミフ・カプランオールの『卵』で、ホテルの何かの機器をいじってたら急に動き出し、

止め方わからなくてそのままにして立ち去る女の子、とか。

「目のつけどころ」も「解釈」も大いに間違ってるとは思うけど、

悲哀にまみれた心情から醸される諧謔洒脱な名シーン。

それが現れた時点で名作認定、俺基準。

神妙さ、深刻さ、悲惨さの度合いが高ければ高いほど尚好し。

って、どんどんどん書いてる本人が滑稽に陥ってしまっている御馬鹿。

 

そういえば、本作における「緑」も本当に本当に美しかった。

モンテイロ作品の「緑」もみているだけで浄化されるかのような美しさだったが、

ポルトガルって何でこうも緑が美しいのだろう。

サッカーのポルトガル代表もユニフォームは赤と緑が基調となってるし。

チラシもパンフも今回は赤ばっかだった映画祭。

次回のポルトガル映画祭のイメージカラーは緑でお願いします。

という冗談はさておき、ポルトガル映画の色は本当に美しい。

それは、50年近く前の『春の劇』(オリヴェイラ)の鮮やかな色彩にもため息出たし、

ペドロ・コスタが撮る頽廃的な風景でさえ、微細ながらも鮮やかな色彩が息づいている。

 

蛇行しっぱなしで全然まともな感想も(ましてや)批評もできずじまいではあったものの、

なかなか観る機会もないであろう注目作『トランス』。

本映画祭での上映は残すところ8月12日(金)18:30からの1回のみ!

睡眠不足だと爆睡の可能性もグンと上がりそうな一品(逸品だけど)ゆえ、

そういう場合は栄養ドリンクぐい飲みしてから行きましょう。

だからといって、飲み過ぎたり飲み間違えたりして、

『トランス』どころじゃない「トランス」だけはご用心。

 

 

◇手元にある「ポルトガル映画祭2000」のパンフには(行ってはないけど、なぜかある)

   本作のプロデューサーも務めているパウロ・ブランコのインタビュー記事が掲載されている。

   その中で彼は、今後期待する才能としてテレーザ・ヴィラデルベとマチュー・アマルリックを

   挙げている。現代ポルトガル映画のまさに先駆者かつ擁護者であるパウロ・ブランコ。

   オリヴェイラからモンテイロ、ペドロ・コスタにテレーザまで。ポルトガル以外の作家とも

   数々の名作を生み出しているし(そう、ジャック・ロジエの『メーヌ・オセアン』とかまで!)、

   こうしたプロデューサーの存在こそが、文化としての映画を育むのには不可欠なんだな。

 

◇テレーザの助監督を務めていたらしいジョアン・ペドロ・ロドリゲシュなる人物は、

   昨年のカイエ・デュ・シネマのトップテン入り(第7位)しているとか。

   テレーザ自身も『トランス』が長篇劇映画は5本目のようで、1991年から撮ってるし、

   そろそろ中堅の域に達しようとしているから、最も油が乗ってる時期かもしれない。

   ちなみに、劇映画のほかに、2004年にはドキュメンタリーと短篇をとっていて、

   後者は『Visions of Erope』という24人の監督によるオムニバス映画なのだが、

   そのラインナップが豪華過ぎ・・・それなのに、日本では未だ公開がなし!?

   テレーザの作品は見つけられなかったけど、、、

 

   タル・ベーラ 『Prologue』

 

   ファティ・アキン 『Die alten bösen Lieder(The Evil Old Songs)』

 

   アキ・カウリスマキ『Bico』(ロシア語吹替え[同時通訳?]版)

 

 


My Son, My Son, What Have Ye Done(2009/ヴェルナー・ヘルツォーク)

2011-06-22 23:57:22 | 2011 特集上映

 

[追記]いつのまにやら・・・『狂気の行方』などという凡庸で憶えられそうにない邦題で

          DVDが発売されていた。タイトルくらい凝ってあげたら好いのに・・・

 

 

2009年は、ヴェネチアのコンペにヘルツォークが2本も出品(というか選出)され、

いろんな意味で驚いたもの。そして、その1本が公開済の『バッド・ルーテナント』で、

これまた妙な空気が終始漂う怪作で、強力な自我をもつ人に「住めば都」は成り立たず。

ヘルツォークがアメリカで撮る映画には、現実とは遊離した世界が常に提示されている。

同じドイツ人監督で言えば、確かにヴェンダースのアメリカ物もそんな気がしたな。

 

で、本作はプロデュースがデヴィッド・リンチ!なのに、未公開のままソフト化もされず・・・

シアター・イメージフォーラムで開催中の「ヘルツォーク傑作選」の一本としてひっそり初公開。

外国映画の配給が厳しくなり、ヘルツォーク × リンチでも公開されないなんて・・・

と絶望的な寂しさをかみしめながら、しかし劇場には「どこにいたんだ、おまえら」ってくらい

ヘルツォーク熱(リンチ熱?)が蠢きまくっており、普通に公開しても好かったんじゃぁ?

とか思っても、実際ロードショーとなると採算はとれなかったりするもんなのかな。

 

最近は随分と熱量が控えめなヘルツォークだけれど

(何しろ私のヘルツォーク初体験は『フィツカラルド』だからねぇ・・・余計そう感じる)

今回も随分と低体温なまま淡々と狂気がじんわりねっとり支配しておりました。

キャストはヘルツォーク組+リンチ組って感じで、それが意外とすんなり融合してて、

ツイン・ピークスのローラ母役のグレイス・サブリスキーとか、「被害者」だなんて忘れる戦慄。

「ぞくぞく」な狂気や恐怖ではなく、「じわじわ」なそれなものだから、正直ちょっぴりウトウト。

『バッド・ルーテナント』の時もそうだったけど、仕事上がりだからか、

ヘルツォークのアメリカもの共通の相性なのか、なぜか微睡んでしまう自分・・・。

あ・・・恥を忍んで告白すると、実は『フィツカラルド』を初めて観たときも、

風邪薬飲んでたりしたもんだから、度々ウトウトしちゃってて、気づけば船が山を越え・・・。

ただ、この妙な酩酊的な感覚は嫌いじゃない。なんだかちょっぴり、酔いどれ船。

 

オープニングの青空にストライプな雲の下、貨物列車が走る画は、

なぜか微かな違和感がつきまとう。構図?それとも左から右への移動だから?

下から上へ流れる見え方だからか?でも、そうした1cmズレみたいな感覚がつきまとう。

で、そこにハマる人は心地よく、そこに無感動だとひたすら退屈。なんだろう。

俺はどっちなんだ!?(笑)

 

主人公の異変は、物質文明批判でもあるんだろうけれど、

「演じてる」感が(劇中でも俳優やってたりすることもあって)ずっと漂っていたり、

立てこもり中に空腹からピザを要求したり、あっけなく武装放棄したり、

何だか緊張感のない「イタイ」奴が勢い余っただけみたいな・・・

そうした三面記事的演出は、妙にリアリティを創出してる。

ジョン・ウォーターズとのコラボ(嘘)も好い感じ。

 

本作を観ながら急に気になりだしたのが、同じ2009年のカナダ映画『I killed my mother』。

色んな映画祭でガンガン受賞していて、DVDもとりあえず入手したものの未見。

これもやっぱり日本での公開はないのかなぁ。

そういえば、十年以上前に「カナダ映画祭」ってやってたことあったなぁ。

数本観たけど結構、面白かった気がする。

 

なんか作品自体に関してほとんど書けていない。

邦題すらつけられぬやる気なさが伝染?(笑)

それにしても、この数週間のシネフィル(自称含む)虐めは酷すぎんではないかい?

ヘルツォークが終らぬうちに始まるフランス映画祭。そして、爆音映画祭。

おまけにシャブロル特集はユーロスペースから日仏学院へと連続で。

グラウベル・ローシャとかも見逃すわけにはいかないし、アテネのソ連映画も行きたい・・・。

来月の後半とかも、ユーロのヤスミン特集やアテネのポルトガル映画祭最終上映とかあり、

他にも重なりそうで今からこわい。でも今年の夏は(も?)映画館に入り浸ったりしてれば、

それはそれで節電になるかもしれないし、社会貢献につながるか。

So What?