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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

私たちの好きな八月(2008/ミゲル・ゴメス)

2011-06-11 23:56:32 | 2011 特集上映

 

昨年のポルトガル映画祭2010で上映され、好評があちこちで聞こえてた本作。

本当は、川崎アートセンターでの巡回上映で観るつもりでいたものの、

2週間の上映期間の真っ只中に震災が起こり、叶わずじまい。

そんな中、EUフィルムデーズ2011のラインナップに入り、

幸運なことに日程も好都合で、ようやく会えた。

 

ポルトガル映画祭の巡回もいよいよアテネ・フランセ文化センターでの上映で最終。

7月29日(金)から8月13日(土)まで。モンテイロ作品は見逃したままなので、観なくては。

また、観れば観るほどハマる『トラス・オス・モンテス』も3回上映があるので、

あと1回は観ておきたい。サプライズとかでパウロ・ローシャの上映とかないかなぁ・・・

勿論、あまりにも特別な魅力に格別あふれた本作も見直したいもの。

 

ドキュメンタリーとフィクションがボーダーレスに戯れる唯一無二の魅力。

みたいなコメントをしばしば見かけていたので、そういった作風である覚悟はできていた。

ただ、場内には明らかに「戸惑い」の空気が充満しており、途中退場も数名いた。

隣の男性も前の女性も定期的に腕時計に眼を遣っていた。・・・気持はわかるけどね。

でも、なぜ「時刻」をみてしまうと「時間」が脳へとこびりついてしまうのだろうか。

「時間を忘れる」という感覚は、人間が背負った十字架をひとつ降ろせる至福のひととき。

だから、私は映画を観るときは絶対に時計を見ないことに決めている。

腕時計をしていたら、腕から外し、鞄のなかへとしまっておく。

自宅で観たりする場合、時刻や時間を示す表示はすべて隠してしまう。

そうして、現実の時間とは異なる世界に束の間没入する幸福を手に入れる。

しかし、どんなに視界から「時間」をシャットアウトしようとも、

内面に固着した〈時間〉まではそう簡単に溶解しない。

それを無化してくれるのが、虚構の力でもあるのだが、

そうした力を持ちうる虚構とは、もはや虚構ではなく、

現実の時間を圧倒し、支配しつくす「現実」となる。

したがって、もはや「終わり」を意識することもないから「残り」もなく、

明るくなろうが、立ち上がろうが、歩き出そうが、帰ろうが、

どこまでも「観ていた」ときの時間がまとわりついて離れない。

そんな感覚こそ、映画という「時間と空間が共にある」芸術の真髄かもしれない。

そんな、私たちの好きな映画。私たちの好きな八月。

 

冒頭ではフェスティバル会場のバンド演奏が映し出され、

それにあわせて踊り出す人々もおさめられる。

そして、本作では随所に音楽(唄)が溢れかえっており、

それはそこで実際に演奏されているものが中心であるが、

その「在りかた」は劇伴的でもある。数箇所には劇伴も流れはするが。

そして、本作のラスト、映画の撮影クルーたちがちょっとした議論を始める。

森の中で聞えるはずのない音楽が録音されていたことに異議を唱える監督。

客観的に存在する音だけが収められるべきでなく、主観的な音の存在意義を説く録音技師。

(そして、それは外部の時間と内部の時間の問題にも収斂されるように思うが。)

外部にある客観世界とは、実はまだ誰もとらえきれたことのない幻想であり、

しかし、客観の神話に溺れる私たちはその存在こそを確実なものと考える。

ところが、結局私たちの認識は内部からとらえている主観世界で成り立っている。

ドキュメンタリー的であったり羅列的に提示されるアルガニルの八月は、

ひとつの叙事詩として観る側が「物語ろう」とする思考を促す。

後半の若者たちの叙情詩からは、主観で紡がれた物語に痛切なリアリティを感受する。

そして、それは前半よりも遥かに雄弁であるのに、ラストの少女の泣き笑いにより、

語っても語ってもそこには行間がうまれるばかりであることの捉え難さに幸福を覚える。

 

本作の中間あたりで、夜の戸外で若者二人が立ち話をしていると

そこに突如BGMが流れ始め、美しき自然の光景が二人の姿に重なり、

更には彼女や彼の日常の姿までがそこに重なってゆく。

まさに四つの世界(二人分の時間と空間)が重なり合った映像となる。

私たちの世界がもつ重層性、主観と主観が紡ぐ世界。

「いまここ」で共有する時間と空間の背後にある〈時間〉。

 

「愛のために死ぬ 愛(あなた)なしに生きるより」

終盤にフェスティバルで歌われる印象的な歌の言葉。(旋律も切なく美しい。)

ヘタウマな歌声が、刹那い夏が去りゆく寂しさを増幅させる。

〈生〉のまえに〈死〉がないように、〈愛のよろこび〉のまえに〈愛のかなしみ〉もない。

別離に直面した彼女の「あの表情」は、悲しみであり、喜びであろう。

そのどちらも吸い込みながら、噎せ返り、

現実でもあり虚構でもある世界を生きる「私たち」が好きな八月は、

まさに虚実が交錯し、何が起こるか、何をすべきか捉えきれないブラックボックス。

現実の時間が終わり、日常からの別離と共に訪れる虚構の時間。

その背後から現実の時間が消えたわけではないし、それは容赦なく再来する。

しかし一方で、現実の時間への回帰によって、虚構の時間は永遠を手に入れる。

実在せずとも生き続ける〈記憶〉のなかで。私たちの好きな八月よ、永遠に。

 

 


春の劇 Acto da Primavera (1963/マノエル・ド・オリヴェイラ)

2011-03-10 00:12:40 | 2011 特集上映

 

昨年9月にフィルムセンターで始まった「ポルトガル映画祭2010」の巡回上映。

現在、川崎アートセンター(アルテリオ映像館)にて開催中。

パウロ・ローシャ作品やオリヴェイラ作品の一部は巡回しておらず残念なものの、

観られる作品はいずれも見応え抜群なものばかりで、究極の贅沢映画体験が期待できる。

リピーター割引も実施しているが、アルテリオ・シネマ会員は800円で観賞できるので、

本数を観る場合はこの機会に入会した方がお得かも。

 

昨年7月アテネフランセ文化センターで「ポルトガル映画祭2010」の特別企画として

ペドロ・コスタがポルトガル映画史について語るというイベントがあったのだが

(映画祭カタログに内容は採録されている)

その時に、オリヴェイラの長篇デビュー作『アニキ・ボボ』を観賞し、

その数ヵ月後に、オリヴェイラの(ほぼ)最新作『ブロンド少女は過激に美しく』が観られ、

岩波でも2作が劇場公開されるなど、2010年は誠に贅沢なオリヴェイライヤーであった。

と同時に昨年は、アラン・レネやコッポラなどの新作同様に、巨匠の自由で瑞々しい魅力の

半端なさに完全魅了された一年でもあったように思う。彼らの「若さ」は恐ろしく楽しい。

 

『春の劇』は、オリヴェイラの長篇二作目。

チラシの作品解説では以下のような紹介がなされている。

 

 16世紀に書かれたテキストに基づいて山村クラリャで上演されるキリスト受難劇の記録。

 自ら「作品歴のターニングポイント」と述べる本作でオリヴェイラが発見したのは

 「上演=表象の映画」という極めて豊かな鉱脈だった。

 一見して不自然な「虚構」のドキュメントだけが喚起する謎と緊張。

 前人未到の「映画を超えた映画」の始まり。

 

本作はオリヴェイラ初のカラー作品。

(ちなみに、今回のプリントは2008年に復元(?)された非常に美しい仕上がりのプリント)

上演する村人たちの色鮮やかな衣裳、それらを照らす光やそれらを揺らす風、

陽が傾こうがどこまでも青い空、それら全てを時に絵画的に、時に映画的に収める。

ストローブ=ユイレの『モーゼとアロン』『アンティゴネー』などを想起させる作風でもあるが、

そこまで禁欲的ではなく、撮影も編集もしっかりと劇的で91分を一気に魅せる。

 

冒頭のナレーション(オリヴェイラが担当)で、

この劇は「村人たちの哲学」によって演じられてきたというような旨のことわりが述べられる。

つまり、本作はあくまで「キリスト」や「キリスト教」の特殊性を提示するための記録ではなく、

共同体のもつ普遍的な営みの実相を浮かび上がらせるための演劇なのかもしれない。

 

村人たちの演じる役は、そのどれもが非常にフラットだ。

台詞に抑揚がなく、呪文を唱えてるかのようでいて、どこか節がついているようでもある。

それは「キリスト」とて例外ではなく、確固たる主役(中心)が不在である印象すら抱く。

キリストの「受難」よりも、民衆の「授難」にこそカメラは意識的に向けられている気がする。

しかし、共同体のメンバー同士による演し物に、迫真の悪意が登場することはない。

むしろ淡々と儀礼的に「こなされる」演目のルーティンさにこそ、

集団による無意識の排除と無自覚な暴力が内包され、

それがラストの「現代の悲劇」の挿入へと繋がる。

(この映像の選択にパウロ・ローシャが携わったとか)

 

劇中では何度かキリストが「罪なき罪人」という呼び方をされている。

そうした矛盾を平然と貫くために、糾弾すべき「罪」をつくり出そうとする。

罪をつくっているのは自分であるにもかかわらず、相手に罪をなすりつける。

そして、それは「十字架にはりつけにしろ!」という群衆の声によって決定的となる。

大衆による社会の煽動や国民によるナショナリズムの暴走といった現代に通ずる様相。

受難から起こる復讐譚としての「宗教」こそが、そうした社会構造を築いたのかもしれない。