*予告篇はこちら。周囲に人がいないことを確認してから観ることをお勧めします(笑)
日仏学院にて開催中の「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」にて観賞。
フランスでも先月封切られたらしい(どういう公開形態なんだろう?)本作。
カプリッチ・フィルムズの代表ティエリー・ルナスがトークショーで
オススメの一本として紹介しており俄然観たくなってしまったので、
1回のみの稀少な上映(観賞機会)を逃すまいと何とか駆け込み観賞。
本当は、ブリュノ・デュモンが主演(!)している『シベリア』も観たかった。
監督のジョアナ・プレイスって、アサイヤス作品(『クリーン』『レディ・アサシン』)や
クリストフ・オノレ作品、諏訪監督の『不完全なふたり』なんかに出てる女優さんなんだね。
今更気づいてますます後悔だけど、仕事だからしょうがない・・・と思えんわ。
本当に、この世から会議とか消滅して欲しい・・・
そもそもまともに懐疑すらできぬ人間が、いくら会議なんかもったって、
何ら改善も前進も発展もないだろう。・・・食い物の恨みならぬ、映画の恨み(笑)
もういっそのこと、みんな真っ裸で話し合った方が早い(何が?)だろ!
本能を見事に演出し、観る者の本能を刺激するために、
明確なヴィジョンをもつポルノ職人は、自らも素っ裸になって撮影する。
「見たいもの」を、「見せたいもの」を作り上げるため、
飽くなき一人会議は果てなく続く。ポルノ映画版、プロフェッショナル仕事の流儀。
(配布された作品解説より)
本作品はポルノ映画の俳優、監督、プロデューサーである
HPG(エルヴェ=ピエール・ギュスターヴ)の作品の撮影時に
撮り集めたメイキング・オフ映像の何千時間から構想された、
HPGのポートレートである。ハード・ポルノの男優として著名なHPGは、
10年以来撮り続けてきたメイキング・オフ映像を、
若きアーティスト、ラファエル・シボニに託す。
このドキュメンタリー作品はポルノグラフィーやポルノグラフィーを特徴づけている
現実に対する情熱を考察している。
「刺激の強い表現が苦手な方、若年者の出席はご遠慮下さい」
との但し書きがあるように、確かに終始性器は露わだし当然行為にも至ったりするのだが、
そこにセクシャルな関係はない。性行為も自慰行為もなく、労働行為がそこにある。
いや、単なる労働というよりも、こだわりの職人技の裏側を覗き見る感覚だ。
「主演」であるHPG以外にも、「台詞」や「キャラ設定」は稀薄とはいえ、
さすがのキャラ立ちはバッチリの(特に女優)面々には、
観てるこちらが行間に書き込むドラマがふんだんだ。
仕事が仕事だけに、単なるサクセスストーリー的な輝きは自ずと翳り、
それでも逞しくあろうとする無理矢理な矜持と、性より生を感じさせるユーモアが随所に。
あんなにも「エロティック」なはずの画面に《物語》が焼き付けば、
何が映っているかよりも、何が起こっているかに注視する。
場内はたびたび笑いに包まれる。
しかし、ラストの倦怠(煩悶のなかで貪るように寝入る男優二人)に見舞われて、
不意に閉じられる《物語》。それは、ファニーでキッチュな「現場」からの解放であり、
我々と同じ凡庸で退屈な日常への回帰でもある。仕事とは、そういった現実との往来。
そして、観客もまた、好奇心で彩られた時間から現実の時間に舞い戻る。
◆セックスにおける「演技」の問題は、「おもいやり」の問題かもしれないが、
本作におけるそれは確実にプロとしての仕事の奥義。
入ってないのに入ってる、叩いてないのに叩いてる、出してないのに出されてる。
しかし、それは「映っているもの」で勝負する世界だからこその、
「映っていないところ」における真剣勝負。
何を映すか。映っているものは何であるべきか。
完璧プリテンドな世界における、虚実の性なる闘い。
「映っていないところ」の完全隠蔽によって活きる「映っているもの」。
それを反転すると、「映っていないところ」こそがメイキング・センスな現実の強度。
ポルノとは、極めて《夢》を純粋培養した世界であると同時に、
どこまでも現実からしか生まれない(それは徹頭徹尾、本能という土台に基づくから)
極めてドラマチックなドキュメンタリーなのだろう。
フィクショナルなノンフィクション。ノンフィクションのフィクション化。
作りこもうとする完璧主義なアーティストであると同時に、
起こったことをリアルに収めようと心を砕くドキュメンタリストでもあるHPG。
◆撮影現場における素っ裸な人々が、やがてユニフォーム姿として映る不思議。
或る意味、裸体という衣裳なのかもしれない。究極に個性的な制服。
そのように見える(観てしまう)のも、そこが紛れもなく労働の現場だからなのだろう。