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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

セクシャルな関係はそこにはない(2011/ラファエル・シボニ)

2012-02-26 00:34:58 | 2011 特集上映

 

*予告篇はこちら。周囲に人がいないことを確認してから観ることをお勧めします(笑)

 

日仏学院にて開催中の「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」にて観賞。

フランスでも先月封切られたらしい(どういう公開形態なんだろう?)本作。

カプリッチ・フィルムズの代表ティエリー・ルナスがトークショーで

オススメの一本として紹介しており俄然観たくなってしまったので、

1回のみの稀少な上映(観賞機会)を逃すまいと何とか駆け込み観賞。

本当は、ブリュノ・デュモンが主演(!)している『シベリア』も観たかった。

監督のジョアナ・プレイスって、アサイヤス作品(『クリーン』『レディ・アサシン』)や

クリストフ・オノレ作品、諏訪監督の『不完全なふたり』なんかに出てる女優さんなんだね。

今更気づいてますます後悔だけど、仕事だからしょうがない・・・と思えんわ。

本当に、この世から会議とか消滅して欲しい・・・

そもそもまともに懐疑すらできぬ人間が、いくら会議なんかもったって、

何ら改善も前進も発展もないだろう。・・・食い物の恨みならぬ、映画の恨み(笑)

もういっそのこと、みんな真っ裸で話し合った方が早い(何が?)だろ!

 

本能を見事に演出し、観る者の本能を刺激するために、

明確なヴィジョンをもつポルノ職人は、自らも素っ裸になって撮影する。

「見たいもの」を、「見せたいもの」を作り上げるため、

飽くなき一人会議は果てなく続く。ポルノ映画版、プロフェッショナル仕事の流儀。

 

   (配布された作品解説より)

   本作品はポルノ映画の俳優、監督、プロデューサーである

   HPG(エルヴェ=ピエール・ギュスターヴ)の作品の撮影時に

   撮り集めたメイキング・オフ映像の何千時間から構想された、

   HPGのポートレートである。ハード・ポルノの男優として著名なHPGは、

   10年以来撮り続けてきたメイキング・オフ映像を、

   若きアーティスト、ラファエル・シボニに託す。

   このドキュメンタリー作品はポルノグラフィーやポルノグラフィーを特徴づけている

   現実に対する情熱を考察している。

 

「刺激の強い表現が苦手な方、若年者の出席はご遠慮下さい」

との但し書きがあるように、確かに終始性器は露わだし当然行為にも至ったりするのだが、

そこにセクシャルな関係はない。性行為も自慰行為もなく、労働行為がそこにある。

いや、単なる労働というよりも、こだわりの職人技の裏側を覗き見る感覚だ。

「主演」であるHPG以外にも、「台詞」や「キャラ設定」は稀薄とはいえ、

さすがのキャラ立ちはバッチリの(特に女優)面々には、

観てるこちらが行間に書き込むドラマがふんだんだ。

仕事が仕事だけに、単なるサクセスストーリー的な輝きは自ずと翳り、

それでも逞しくあろうとする無理矢理な矜持と、性より生を感じさせるユーモアが随所に。

あんなにも「エロティック」なはずの画面に《物語》が焼き付けば、

何が映っているかよりも、何が起こっているかに注視する。

 

場内はたびたび笑いに包まれる。

しかし、ラストの倦怠(煩悶のなかで貪るように寝入る男優二人)に見舞われて、

不意に閉じられる《物語》。それは、ファニーでキッチュな「現場」からの解放であり、

我々と同じ凡庸で退屈な日常への回帰でもある。仕事とは、そういった現実との往来。

そして、観客もまた、好奇心で彩られた時間から現実の時間に舞い戻る。

 

◆セックスにおける「演技」の問題は、「おもいやり」の問題かもしれないが、

   本作におけるそれは確実にプロとしての仕事の奥義。

   入ってないのに入ってる、叩いてないのに叩いてる、出してないのに出されてる。

   しかし、それは「映っているもの」で勝負する世界だからこその、

   「映っていないところ」における真剣勝負。

   何を映すか。映っているものは何であるべきか。

   完璧プリテンドな世界における、虚実の性なる闘い。

   「映っていないところ」の完全隠蔽によって活きる「映っているもの」。

   それを反転すると、「映っていないところ」こそがメイキング・センスな現実の強度。

   ポルノとは、極めて《夢》を純粋培養した世界であると同時に、

   どこまでも現実からしか生まれない(それは徹頭徹尾、本能という土台に基づくから)

   極めてドラマチックなドキュメンタリーなのだろう。

   フィクショナルなノンフィクション。ノンフィクションのフィクション化。

   作りこもうとする完璧主義なアーティストであると同時に、

   起こったことをリアルに収めようと心を砕くドキュメンタリストでもあるHPG。

 

◆撮影現場における素っ裸な人々が、やがてユニフォーム姿として映る不思議。

   或る意味、裸体という衣裳なのかもしれない。究極に個性的な制服。

   そのように見える(観てしまう)のも、そこが紛れもなく労働の現場だからなのだろう。

 


アルベルト・セラ Albert Serra

2012-02-06 00:44:32 | 2011 特集上映

 

2012年最初の《再発見》がモンテ・ヘルマンだとしたら、

2012年最初の《発見》はこの人、アルベルト・セラかもしれない。

奇しくも、セラ作品を手がけるカプリッチが『果てなき路』も仏配給していたりする。

(その配給前から対談集の出版準備はカプリッチで進められていたらしい。)

今回、日仏学院でのカプリッチ・フィルム・ベストセレクションでは、

アルベルト・セラの長篇1作目および2作目を上映する。

IMDbによると、そのまえの作品もフィルモ入りしているが、

まぁ特異な制作スタイルを貫いている作家だけに、色々あるのだろう。)

 

なに経由だかは判然としないが、

極私的要チェック作家リストに入っていたアルベルト・セラだったのに、

その記憶と今回の上映が、つい昨日まで結びつかずにいて、本日慌てて参戦。

このインタビュー記事を読んでもわかるように、普遍性を追求する作家というよりは、

強烈な自我の直截な発現を貫き通す作風であろうことは予想していたが、

これぞまさにカプリッチのRADICALとも言えそうな、孤高の美学を透徹敢行。

ブリュノ・デュモンから色気を排し、アピチャッポンより右脳が肥大。

ティエリー・ルナス氏の言葉を借りれば、まさに「ショット」より「シークエンス」の作家。

つまり、「収める」とか「呈する」とかではなく、「流れる」とか「乱れる」なわけ。

だから、そこに身を委ねられるか否かによって評価は大いに二分されもしそう。

しかし、映画の脱構築と再構築を真摯に果たそうと勤しむ姿が見え隠れするかのように、

生ぬるいオマージュごっことは別次元。粉骨砕身な換骨奪胎の次世代の古典。

クラシカル・ネクスト・ジェネレーション。温故知新が神出鬼没。

 

 

『騎士の名誉/Honor de cavallería』(2006)は、

ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの人物像についての考察、監督独自の解釈。

しかし、フランス語字幕(話されているのはカタルーニャ語)で観たこともあり、

私自身がそれを更に解釈しようとする姿勢は端から放棄(笑)して観賞。

すると、この作品(おそらく次の『鳥の歌』も)、《解釈》のための作品とは別地平。

観察、ですらない。ひたすら随行する。同伴しながら見守る。それを求められる。

それでこそ完結するかのような撮り方、見せ方。(デジタル撮影)

 

会話の量は通常の映画より圧倒的に少ないこともあり

音にしろ字幕にしろ「理解」が不能だったとしても、「わかる」のだ。

というより、この作品における《言語》の優先順位は明らかにランク圏外だ。

順位が低い、というのとも違う。画だとか音だとか言葉だとかいった要素がバラバラに

序列化されたり整理されるのとは違う、総体として観客を包み込もうとする作品。

カタルーニャ語(出演する素人演者の使用言語)を選択(というより許容)するのも、

言語によって「伝えよう」とするよりも、ライフそのものが「伝わる」ことを重視するから?

 

時間や空間の制約を超越するために、デジタルでの撮影を積極的に選択したという。

確かに、容赦ない長回しではあるが、それは美の沈潜を促すそれとはやや異なる。

旅の疲れを植え付けるかのような、心地よい倦怠感をお見舞いしてくれる、連続時間。

長回しとは、実際の時間の流れに近づいていくプロセスを伴うものだと又もや実感。

110分が嘘のようにあっけなく去っていった。(ノレないと5時間くらいに感じそうだが)

 

いわゆる「綺麗な画」を撮ろうとしているわけではないが、

美しい光景を忌避しているわけでもないので、当然息を呑む瞬間は度々訪れる。

しかし、デジタル撮影によるランドスケープは、フィルムのそれに求心力は及ばない。

ところが、フィルムの深奥から浮かび上がる《普遍性》が望めぬかわりに、

デジタルのフラットに固着した《固有性》は、反ユニバーサルな世界を表出。

大自然のなか、自然の音につつまれ、陽光や緑にいだかれて、

なお《個人》として世界に身を処し続ける光景。

間違いなく刻まれる《近代》、そして現代。

 

古典としてのモチーフを、デジタルで個人がとらえる現代性。

終盤に突如聴こえてくるギターの音。

違和から芽生えた戸惑いが、

木洩れ陽の瞬きの凝視と共に安らぎをもたらせば、

神秘な慈愛に満たされる。

 

 

『鳥の歌/El cant dels ocells』(2008)は前作から一転、モノクロ。

こちらは同じデジタル撮影でもHDなので、より繊細な画の力でじっくりと迫ってくる。

登場人物に随伴していた前作のカメラとは異なり、偏愛される定点観測。

『騎士の名誉』の即興性が出演者と監督が対等に協同していた印象だったのに比べ、

本作における即興性は、監督がすべてを享け止めながらコーティングしている印象。

大地や砂漠を歩く三賢者の軌跡には、計算や指示とは無縁の流動がひたすら続く。

しかし、カメラのフレームにおさまり、そこに出入りする彼等の動きは、

すべてアルベルト・セラが「描いた」物語として提示されているかのよう。

あらかじめ求められていたかのような即興が結果的に収録される。

そんな多重な矛盾を味わいつくす、至高の俯瞰。無介入によって加工済。

 

そして、アルベルト・セラは闇をおそれない。

暗くなろうが、光が去ろうが、凝視を止めず、対象を眺める。

闇は音であふれてる。かすかに見えるシルエット。凝視はそれを顕在化。

薄れた輪郭の確かな実在感。微かな光の存在感。聴くように見つめる闇の奥。

 

『鳥の歌』は英語字幕での上映だったのだが、ほとんど読まずに観ていた気がする。

前作で勝手に結論付けたセラ作品における言語観を都合好く敷衍したりしてたから。

実際、台詞はほとんどないばかりでなく、言葉で物語を追うよりも、

徹頭徹尾、画面(=世界)と対峙することに全精神を傾けるべきだと思える作品。

むしろ無字幕で観ていたいほどの豊饒さで溢れかえっている神話。

 

 

今回の特集上映では、『鳥の歌』が2月5日(金)13:30、

『騎士の名誉』が2月24日(金)16:00の上映を残すのみ。

アルベルト・セラはお気に入りの映画作家としてソクーロフやタル・ベーラを挙げている。

彼らの作品を愛する映画愛好家ならば、観ておいて好い(観ておくべき)二作だろう。

但し、ちょっとでも睡眠不足や疲労困憊が感じられる際には爆睡まちがいなしなので、

その辺は要注意。確かな物語性や心酔必至な映像美が着実に展開するでもないので、

とにかく自由かつ柔軟な感受性で、開放的精神状況で臨むのがベストかと。

あと、他の観客のイビキ[というか、寝息?]にイラっと来ないこと(笑)

こういった沈黙と自然の音にあふれる作品は、場内の静寂と相俟って完成する。

そういった点では、『騎士の名誉』上映時の場内は素晴らしい静謐さが充満してた。

それに比して『鳥の歌』では、退屈さや落ち着きのなさを発散させる者が散在したりして、

ちょっと残念だったのも事実。静寂の砂漠を歩く賢者たちの姿に重なるフリスクの音。

誰かが咳込むと免罪符得たりと連鎖する咳払い。静寂に包まれて再見してみたい。

(まぁ、普通に静かなレベルでしたよ。ただ、本作がそれだけ静謐な作品なのです。)

 

日本でもようやく《発見》された、アルベルト・セラ。

新作と併せて特集上映が企画される日を切望する。

 

 

『騎士の名誉』の一場面

 

『鳥の歌』の冒頭

 


猫、聖職者、奴隷(2009/アラン・ドゥラ・ネグラ、木下香)

2012-02-04 23:57:43 | 2011 特集上映

 

日仏学院にて開催中の「カプリッチ・フィルムズ ベストセレクション」。

いつもながら日本語字幕付は僅かながらも、貴重な作品をスクリーンで、

なかにはフィルムによって観ることもできる、相変わらずありがたい(在り難い)企画。

「現在、フランスで最も先鋭的な作品を製作・配給している」というカプリッチ・フィルムズ。

代表のティエリー・ルナス自らが来日し、本作の初上映では、

共同監督の一人である木下香とトークショーにも登壇。

成田から直行してかけつけたティエリー・ルナスの語りは淀みなく、

カプリッチ・フィルムズの先鋭性は決して「ファッション」ではないのだろうと確信。

既存にただ背を向けるのではなく、新たな可能性を求めては逸れてしまう映画たち。

確実な結果としての《成果》や《達成》に固執せず、創ることの価値を認める姿勢。

安っぽいシニシズムで従来を皮肉るよりも、新たな地平へ踏み出す覚悟。

そこにこそ創作による批評精神が宿るだろう。と、私は解釈したが、どうだろう。

 

ところが、本作に限って言えば、

私自身に望外な興奮瞬間が訪れることはなく、

今回の特集上映のタイトルである「先鋭的であること」の片鱗に触れられぬまま終了。

上映後のトークショーでは、ティエリー氏の製作ヴィジョンのみならず、

木下監督から細かな制作背景やプロセスなどのメイキング話を聴くことができ、

なかなか興味深いものだった。が、そうした映画何本分にも匹敵しそうな《物語》が、

本作においては全く割愛されている。というより、遠景にすら配されておらず残念。

とはいえ、シノプシスを読んでからというもの、観賞前に随分と脳内模擬観賞

というか自分版脳内上映をしてしまったが為に、余計な「期待」が高まって、

それらとの齟齬によってもたらされる戸惑いがスクリーンとの乖離を引き起こしたのかも。

仕事切り上げ駆け込み観賞したのも(疲労&睡魔)好くなかったのかもしれない故に、

批評ともいえぬ不平な不評なのかもしれないが。

 

本作は「セカンド・ライフ」というサイト内で

アバターとしてアナザー・ライフを満喫する人たちの日常を収めたドキュメンタリー。

とはいえ、監督も語っていたように、《記録》というよりは《物語》として見せる印象。

しかし、「いま、ここ」に拘り過ぎたからか、眼前の時間のみで迫ってくる映像は、

ストイシズムより説明不足感が上回る。それこそが、虚実のボーダーレス化を促す、

とも言えなくはないのだろうが、曖昧模糊なまま「あわい」に放り込まれた感覚だ。

確かに、二項対立を凌駕する地平がそこに浮かんでくるのかもしれない。

しかし、まずはそうした対立や分裂や乖離を相対化するところから始めて欲しくもある。

問題提起のないまま、問題だけを回収していく印象だ。主観を排した手記のよう。

言葉だろうが色や形だろうが音だろうが、表現する主体が存在する以上、

《説明》のなかには必ず《解釈》が含まれる。だから、《説明》を削ぐという選択は、

重要な覚悟を回避する姿勢にも思えてしまう。ダイレクトシネマや観察映画に近そうで、

全く異なる次元で収めれ繋がれていく映像。やはり、他者へと送り「届け」られる以上、

そこに何らかの《答え》を持つ(持とうとする)決意があって欲しい。

 

私が映画および監督の言葉を解釈する力不足だったかもしれぬが、

「現状認識」に留まっているような印象に終始した80分だったため、

《作品》としての享受にやや物足りなさを感じたのが正直なところだったりする。

監督の話は正直かつ誠実な語り口で、極めて明瞭な意図がわかりやすく伝わるのだが、

《興味》で始まり《興味》のまま終わってしまったという印象を私は受けた。

 

ティエリー氏が語っていたように、本作の構想・撮影段階から完成の間においてさえ、

こうしたリアル・ライフとネット・ライフという2つの世界の関係性は劇的に変化した。

Facebook や Twitter などを例に挙げるまでもなく(それらを使用しておらずとも)、

既に多くのネットユーザーが「別人格」を意識無意識関わらず手にしているし、

それが故にこうしたテーマはもはや先鋭的ではなくなってしまったのだと思う。

だからこそ、情況報告的なままでは全くラディカルに映らないのだろう。

いやむしろ、ネット上でのリアルを日常に持ち込んだり融和させたりしている方が、

実は正常であり、健全であるともいえるのだ。

なぜなら、ネット上における直接性の排除や徹底的形而上的世界観による

究極の抽象的存在としての新たな自己は、日常との隔絶においてより新奇な革新だ。

そうした意味では、本作に登場する人々はアナログ時代の人格の持ち主であり、

ネット上に別の生活を求めようとも、結局は《直接》と《形》を求める「見える」人格。

だから、彼等にとってはまさに「セカンド」ライフで好いのだろう。

確かに「セカンド」が「ファースト(現実の生活)」を凌駕しようとしている様に

見えなくもない。しかし、「セカンド」が「ファースト」に昇格するということは、

「セカンド」がもはや「セカンド」であることを止めているように私には思える。

いや、彼らのなかでは既に「ファースト」であることを認識した上で、

その実験台としての場を「セカンド」に間借りしているだけな気がしてならない。(

だから、本作がバーニングマンに辿り着いて終わろうとするのは、正しい。

夢の生活を、現実の日常をこじ開けて「実現」させる欲望の結実集合体。

しかし、それは現代人のアイデンティティに《革命》をもたらしたデジタルワールドと

完全に異次元な従来の営みだ。フェスティバル、つまり祭り。人類原初の儀式スタイル。

 

といった私の穿ち視線は、本作の企図にはそもそもそぐわぬのかも。

ティエリー氏は本作を、社会学的考察に向かわずに人間存在を語る作品だと説明した。

従って、本作に新たな視座や論理展開、趨勢への懐疑と分析などは不要だったのだろう。

制作における最重要作業がキャスティングだという返答も、そうしたことの証左となろう。

ただ、だとするならば、登場する個人の掘り下げ方は、

《人間》の核心に到達するにはあっさりし過ぎな気がしないでもない。

上映後に監督が語っていた、撮影前のやり取りから撮影時の様子までがもう少し

伝わるような部分が欲しかった。コンテクストの排除を試みたとは思うのだけど、

やはり《時間》の芸術である「映画」には、コンテクストが何より魅力。

実際に映さなくても、映っていればいいのだが。(私が見落としてただけかもしれぬが)

 

とはいえ、カプリッチ・フィルムズという《RADICAL》にはやはり

何処か惹かれてしまうものがある。もう何作か観てみたい。

 

※木下監督がしきりに、事前にチャットで触れた人格と実際に会った人物の印象は、

   どの人たちも「同じだった」と語っていたことこそが、セカンド=ファースト説を立証?

 

◇トークショーの終わりに、次回上映(2/12(日)16:00)にも

   木下監督が駆けつけるような話をほのめかしていた。

   「とある日本の有名な監督さん」も来るので是非対談を!

   なんて振り(?)もされてた坂本安見さん。タイムテーブル的にはきつそうだけど・・・

 

 


世界の現状/O ESTADO DO MUNDO (2007)

2011-11-10 00:01:45 | 2011 特集上映

 

 

現在、オーディトリウム渋谷にて開催中の王兵(ワン・ビン)全作一挙上映にて観賞。

2008年の東京国際映画祭にて上映された際には予定が合わず観賞が叶わず。

何しろ、いまや世界をときめかせまくっているアピチャッポン・ウィーラセタクンや

ワン・ビン、そしてペドロ・コスタというドキュメンタリーとフィクションを自由に越境している

映像作家たちが「世界」を短篇に収めようとして一堂に会しているというだけでも興奮。

そこに、アイーシャ・アブラハムやヴィセンテ・フェラスといった気鋭の作家のみならず、

シャンタル・アケルマンという重鎮(?)まで参加しているという充実っぷりの強度凄まじく。

 

複数の作家が、提示された一つのテーマを思い思いに作品化し、

それをつなぎ合わせて一連の作品として統合し、発表するという形態は珍しくない。

とりわけ映画という表現媒体においては常態化しているほど永らく「流行り」のジャンル。

それは、つながれたフィルムがひとつのリールにのって同心円の運命共同体となる、

映画ならではの収束がもたらす魔法の一種なのかもしれない。

 

そうした形式の映画は、それぞれの作品が全く独立した意思表示をしている場合もあれば、

何らかのバトンが引き継がれていきながら提示されるような場合もある。

勿論、前者と思える場合にも、観る者の読み方次第では、

しっかりバトンが浮き上がることだってあるだろう。

 

今から逃げたがってる現実と、逃げたところで変わらない歴史の鬩ぎ合いが立ち現れる、

もの寂しげなペシミスティックが、本作全体を漂い続けていた気がする。

死者やソ連、生まれ故郷のネパールやアフリカ、そして文革と失われし上海ラプソディ。

それらは決して甘美なノスタルジーで語られることは許されず、

しかし、「現在」のミッシングピースを埋めるためには不可欠な爪痕なのだ。

そして、いつでも「現在」の背後にスタンバっていて、「現在」を雁字搦めに出来もする。

清算されずに残留し続け、背負いながらも営む「現在」。

いまが光に満ちるほど、過去の影が慕われる?

いまに闇がたちこめて、過去の光が射し込めば・・・

 

言葉を介さず共有された悲哀の時代から(「聡明な人々」アピチャッポン・ウィーラセタクン)、

言葉によって会話や議論、真実暴いてみせようぞ(「ジェルマーノ」ヴィセンテ・フェラス)。

語る相手が不在なら、モノローグの言葉が浮遊する(「片道」アイーシャ・アブラハム)。

いよいよ言葉を抑圧するときは、暴力還りの退歩な人類(「暴虐工廠」ワン・ビン)。

語り継ぐべき話があれば、ふたたび語ってみせもする(「タラファル」ペドロ・コスタ)。

しかし闇の沈黙に、ネオンが喧しく躍り、モダンな夜に言葉は消える

(「上海の夜は落ちて」シャンタル・アケルマン)。

 

最初と最後のノンバーバルで向き合う世界の姿は、

親交と拒絶の対比をみせる。同じ水でも、同じ船でも、別の文脈に据えられた人間。

語り(働きかけ)続けてきたものの、必竟、耳をすますしかない世界。

現状とは、語ることではつかめない。語られる対象は常に、過去化のさだめ。

じっと見つめ、そっと耳をかたむける。

さすればいつしか忘却してた、海のうねりを想い出す。

家族と、仲間と、乗り合った、あの船上のあの揺れを。

大きな船(大陸)の上でしか生きることのできない人間にとって、

波を感知する静観こそが、世界のありさまを感受する。

川から海へ、陸(おか)へあがって、眺める海。

亡郷、乏郷、忘郷、暴郷、某郷、そして望郷。

 

 


名前のない男(2009/ワン・ビン)

2011-10-12 22:19:21 | 2011 特集上映

 

先週末、真のシネフィル魂が向かうべき聖地はオーディトリウム渋谷であった。

そう、ワン・ビンの『原油』。840分!第1部が7時間。第2部も7時間。合計14時間。

しかも、英語字幕。・・・観てない俺が盛り上がれる(?)ほどのハイパー仕様。

『鉄西区』の9時間を完走したくらいで悦に入るなどもってのほか。

『サタンタンゴ』なんて可愛いものよ(って、未確認だけど・・・)。

そんなチャレンジャーでサバイバーなシネフィルへの道を早々に諦め、

SKIPシティとかでのどかな時間を過ごした日曜日。

朝の9時上映開始から23時半までの『原油』を完走した方々(どの位いたのだろう)に

敬意を表します。また、そうした上映を敢行した(しかも連休の日曜に丸一日つかって・・・

中日[なかび]という設定も本当に気が効いている)劇場側の英断にも感動ですね。

 

などと、散々(観てもいない)映画について(しかも、内容無視で)盛り上がっておりますが、

ささやかな贖罪(?)がてら、ワン・ビン特集にて未見の一本を見てまいりました。

それが、本作『名前のない男』。今年のイメージフォーラム・フェスティバルでも上映され、

最後の最後まで観に行くか迷いつつ(観たい気持は確定だったものの、あの椅子で

ワン・ビンを観る自信がなかったので)結局観逃してしまって後悔しきりだったので、

本当に本当に感謝したい今回のワン・ビン特集(全作一挙上映!)。

 

ワン・ビンは現在来日中。

彼がグランプリを二度受賞している山形国際ドキュメンタリー映画祭にも訪れた模様。

(そちらでも、特別招待作品として本作が上映されたようです。)

オーディトリウムでも二度ほど「会える」機会があったものの、

結局、生「ワン・ビン」を拝むことはできず、仕方なく昨日のBS1への出演眺めて我慢。

NHKオンデマンドでも見られるようです。)

 

あ、ちなみにNHKといえば、来週の火曜午前に生「キアロスタミ」に会えるイベントが・・・

私は偶然にも奇跡的に出向ける状況が生まれたゆえに、行ってしまおうかと思案中。

 

さてさて、ワン・ビンに話を戻すと(それにしても、ウォン・ビンと混同しそう・・・)、

私の王兵(ワン・ビン)体験は『鉄西区』に始まり、『鳳鳴-中国の記憶』を経て、

昨年のフィルメックスで観賞した『溝』(12月17日から『無言歌』として公開予定)止まり。

さすがに『原油』には二の足踏むものの(おそらく踏んだまま終るけど)、

他の未見作品はこの機会に観ておけたら、とは思う。

 

しかし、『鉄西区』で魂を鷲掴みにされた私としては、

もっともっとヒートアップして本特集に没入しなきゃならないはずなのですが、

何しろ昨年のフィルメックスで観賞した『溝(無言歌)』が、とにかく「苦手」だったのです。

それで一気に「王兵熱」が冷め切ってしまい、そうしてイメフォフェス(厭な略し方だ・・・)でも

スルーしたまま、とはいえ『鉄西区』の唯一無二な没入感を味わいたい自分が騒ぎ、

結局今回の特集にも少しばかり参加しようと意を決した次第であります。

 

そんな中観た本作。結論から言えば、「おもしろいっ!」。

だって、上映時間92分だよっ!(そこ?)

いやいや、「俺の好きな王兵、ここにあり」てな胸の高鳴りが、

ばっちり焼け木杭を炎上させまくり!

 

そこで、なぜ『溝(無言歌)』にノレなかったのかも自己分析。

それが自分なりにしっくりくる理由が見つかる本作の観賞体験でした。

 

つまり、王兵映画に私が(勝手に)求めているものとは、

〈弛緩しきった眼差し〉のような気がするのです。

例えば、ワイズマンなんかの観察は、ある意味被写体への「監察」とも呼べるような

極めて張り詰めた緊張感に漲る映像が計算しつくされた編集と共に

精緻な(隙のない)「映画」として提示されている印象です。

一方、王兵は、被写体を「緩察」しながら「そのまま」を淡々追いかける記録として、

何も起こらない時間の引き延ばしが壮大な宇宙の助走となり、僅かな変化がビッグバン。

というのは、無駄に大袈裟な例えかもしれませんが、

ワイズマン映画が「何か起こっている」常態であるのに対して、

ワン・ビン映画が「何も起こらない」常態に揺さぶりをかける「何か」をとらえるといった具合?

だから、そうした独特な「緩慢につつまれてるのに緊迫が底流している」画面にきっと

私は惹き付けられて、たまらなかったのだと再確認。

 

だから、『溝(無言歌)』における、終始「明らかに」「はりつめ」まくってるあの感じや、

「(今までのグロテスクの極北のようなリアリティに比べりゃ)所詮演出でしょ」などという

余計な「頭」が脳裏にこびりつきながらの観賞だったゆえ、いまいち入りこめなかったのかも。

だから、もっとフラットな感覚で接してみるべきだったと反省し、12月に再見しようかなぁ・・・

と思っていたのだが、本作において、終始「カメラの存在」に頓着無きように見えた「男」が、

本作の丁度中盤あたりでカメラを一瞥するのである。そして、そのシーンを経た途端、

私の中での彼(主人公)を観る眼差しに底流していた緊迫感が消え去ってしまった・・・

勿論、それまでだって、彼はカメラを実は意識していたのかもしれないし、

それ以降だってカメラを意識したりしていなかったのかもしれない。

しかし、いずれにしても、おそろしく身勝手(観勝手?)な私の感覚は、

途端に冗長助長なセンサー作動で、次第に私の観察眼から緊迫ムードが薄れていった。

 

というのは、本当実に独善的な「王兵論」(論ですらないか)に過ぎないが、

そんなつまらぬ「ショック」はさておき、

さまざまな考察を喚起するに足る作品であることに違いはなかった。

 

◆本作のタイトルは『名前のない男』だが、私なりの解釈としては、

   それは〈他者不在〉として生活する男の特徴をとらえた表現なのかと思ったりした。

   つまり、彼のような生活をしている以上、名前をもっているかどうかは別として、

   名前は必要ない。もっといえば、表情や言葉すらも必要ない。

   つまり、“ex”pressの必要がない。そこで、私たちは仕方なく彼の内面へ入ろうとする。

   彼の営みは極めて外面的(行為それ自体に意味や価値があるもの)であるにも関わらず。

 

◆『溝(無言歌)』とは異なり、現代を舞台としている(?)ため、

   彼の生活の背後には、車の音もヘリ(?)の音も交錯し、そうしたコントラストが

   画面内の主人公(というか、一人しか居ぬのだからその表現自体がおかしいか)を

   〈孤立〉や〈原始〉とは異なった次元で捉えることを試みさせる。

   つまり、時代や地域などを超越した〈普遍性〉を提示したいかのように思えてくる。

   名前のない男。まだ名づけられていぬ男。つまり、原初のMAN(人類)。

   それは、社会も存在するまえの、動物的ともいえるヒト。

   しかし、そんな彼も食事のときは、手や口で直接食らうことはないのである。

   しっかりと「道具」を用いている。それは、農耕においてもそうだ。

 

◆荒涼とした土地で、孤立して生活し、かわりばえなど皆無に思える男の生活。

   それは彼を見守る私たちの眼にもいえることだが、地面の窪みに躓いたり、

   風で帽子が飛ばされると、たちまち宇宙のリズムに変化が生じる。

   そうした微細な偶発に対する敏感さを醸成させるワン・ビン作品。

   そして、それはこの男の生活にある種の活力を見出さずに

   いられない私たちの根拠に十分な「生」の瞬間でもある。

   窪みに怒りをぶつける男。自然との「交」流。

   自然に八つ当たりできるなんて、不敵。

 

◆後半から、男は声(言葉?)を発するようになるが、

   その内容ゆえか(重要でないとか?)監督の方針ゆえか、字幕はない。

   そこで突如生じる「壁」(まさに、「言葉の壁」って感じだな)。

   そこに生じる〈溝〉というか懸隔というか、それに覚える疎外感。

   「バベルの塔」が人類にもたらした現実の悲劇の追体験?

 

◇今回の特集上映では、3年前のTIFFでも上映された『世界の現状』の上映もある。

   私は当時観ることが叶わなかったため、その上映にも至極感謝の念がわく。

   ワン・ビン、ペドロ・コスタ、シャンタル・アケルマン、アイーシャ・アブラハム、

   ヴィセンテ・フェラス、アピチャッポン・ウィーラセタクンという6名によるオムニバス。

   これは貴重な上映、かつ必見。(11月に2回上映があります。)