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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

タイタニック 3D(1997・2012/ジェームズ・キャメロン)

2012-04-15 14:08:38 | 映画 タ行

 

運命を変えた一本。

なんて大仰な形容による語りは好みじゃないし、

「そんなもん一本と言わずたくさんあるぜ」と言いたくなる質だけど・・・。

今では劇場未公開作とかまで観に行っては絶賛してみたりな生粋シネフィル気取りなのに。

いまの自分が映画にまみれた生活を送っている現実の根源にある体験が、

実は『タイタニック』を観たことだったなんて・・・。

恥ずかしすぎて、とてもじゃないが言えない(笑)

 

「きっかけ」というものが明瞭に自覚されることは少ないけれど、

自分が映画を観始めるそれは紛れもなく『タイタニック』だった。

それは極めて格好悪く聞こえる事実だが、実際そうだったんだからしょうがない。

大学に入ってしばらくした頃。

映画というものに漠然とした興味はありながらも、

家から歩いていける距離にシネコンがあろうとも、

映画一本観るくらいなら輸入盤1枚・・・そんな思考が絶対規格。

『タイタニック』のまえに観た映画は『もののけ姫』。

そのまえに観た映画は1年以上前だし、

高校時代に劇場で映画を観たことなんてほとんど記憶にない。

だから、自分の中でも一般的にも明らかに「後発」な習慣である映画観賞において、

「みる眼」に未だ自信がもてなかったり(え?いっつも偉そうに語ってるって?)、

結局は主観感想という言い訳のもとでの述懐に走ってしまうのも、

そうした体験フィルモの短さや浅薄さ(特に初期)があるのかもしれない。

 

でも。

久々に観た、どころか約14年ぶりに観た『タイタニック』が、

色褪せるどころか輝きを増してさえいるように迫って来た事実は、

気恥ずかしさと不信で回顧するしかない怪訝な過去を、

ちょっとは認めてやりたい余裕を生んだかも(笑)

 

今更ことわるまでもなく、 本作については評価も考察も不可能で、

あるのはひたすら氾濫する情緒と、十数年間の円環確認。

 

よく人生は《旅》に喩えられたりするけれど、

一本の映画もやっぱり 《旅》 の様で、

一本の映画をみることも 《旅》 の様だ。

そして勿論、映画を何本もみていくこともまた 《旅》 のよう。

 

僕の 《旅》 のはじまりは、船旅だったのか。

しかも、いきなり沈没の・・・。

あれから、時間旅行も宇宙旅行も数多の 《旅》 を重ねてきたが、

今こうして二度目の処女航海。

今回も当然、沈没で終わりを迎えたが、

実はそれが終わりじゃないからこそ、《旅》 が始まったのだと初めて気づく。

『タイタニック』のラストシーンは 《夢》 だった。

どんなに 《現実》 が沈没しようとも、《夢》 は必ず浮上する。

映画の《旅》は、はじまりを続ける。

 

  Every night in my dreams

    映画館に闇がおとずれる。すると必ず広がる 《夢》。

 

  I see you. I feel you.

    僕はスクリーンをじっと見つめ、心は映画の魔法にかかる。

 

  That is how I know you go on.

    それは、いつまでもいつまでも消えない《夢》だ。

    場内に明かりが灯っても、明るい場外歩いても。

    目を閉じ暗がり広がるも、そこに灯り続ける 《夢》 なんだ。

 

 

◇一週間ぶりに更新したかと思えば、何なんだ思い出自分語り垂れ流し・・・。

   でも、なんか落とし前(?)つけとかないと前へ進めぬ気がして(意味不明)

   正直、観る前はちょっと怖かった。

   万が一、自分が映画観るようになる「きっかけ」の作品に

   心が微動だにしなかったりでもしたら・・・などと邪推して。

   結果、笑止千万、見事な杞憂。

   なかなか痺れがおさまらぬマイ・ハート、ウィル・ゴー・オン。

   勿論、その感動は原体験の反復に拠るところが大きいのかもしれないけれど、

   それはそれは“諸先輩方”が「懐かしの名画を観る感覚」ってこういうものなのかぁ~

   といった感慨につながったりもして、

   映画を観るってことが《体験》であるってことを再確認、激痛感するに至ったりもした。

 

◇というわけで、「贔屓目」確実ながらも、それゆえに「厳しい目」でもあったはずなのに、

   可視的側面に関しては驚異的な完璧さにひたすら酔いしれてしまった事実。

   勿論、目に見えない部分の「何もなさ」は公開当初からのコモンセンスながら、

   それでもあそこまで《世界》が構築されてしまっては、

   映画内で何にも語られなかったとしても、

   そこに没入した自己は饒舌にならざるを得ないだろう。

   観客が思い思いの 《夢》 をみるという意味では、

   もしかしたら極上の「行間(のなさ)」なのかもしれない。

   とはいえ、場面の一つ一つや展開の一つ一つには本当に

   「あるべき要素」が見事につまっていることを噛み締められたし、

   手抜きが全くない集大成としての文化の最高峰を感じもした(大袈裟か)。

 

◇公開時に観た私が感銘を受けたのはVFXによる「世界」の構築であり、

   そこに没入する感覚の唯一無二だったのだが

   (本当に《時間》の観念を覆されるほどの体感だった・・・

     観終わって3時間以上が経過していたという事実が「よくわからなかった」くらい)、

   そうした陶酔は(当たり前のことながら)キャスティングや彼らの存在感も

   当然重要だったのだと今更再確認。

   そのときもつくづく思ったはずだが、

   改めてその瑞々しさが驚異的だったレオナルド・ディカプリオのジャック。

   もう奇跡的としか言い様がない。

   あれほどまでの「夢の存在」を、

   極めて現実的なゲームが司るアカデミー賞が完全スルーだったのも、

   今となれば至極当然のように思えてしまう。

   いまや大女優然としたケイト・ウィンスレットのその「片鱗」も、

   ローズの危うさと見事に結実。

   主演二人の《アイコン》ぶりのハンパなさ、奇跡的。

   やはり魔術的な何かが働いてこその、「名作」なんだろうなと実感。

 

◇3D(変換)に関して巷では賛否が真っ二つの印象だが、わかる気がする。

   『アバター』でもそうだったが、

   キャメロンの3D構想は「飛び出し」や「動き」による立体感強調よりも、

   画面全体に奥行きや広がりを感じさせるための3D駆使に本意がある気がするので、

   瞬間最大立体感を期待する者にとって物足りないのは当然だろう。

   しかし一方で、立体感の自然さにかけては、

   彼が構築する映像はやはりずば抜けていると思う。

   面的な遠近感ではなく、各面の表面に実在ラインとしての曲線が無数存在している。

   3D撮影による『ヒューゴの不思議な発明』で感嘆した「顔」の存在感が、

   2D撮影後の3D変換による本作でも同様に確認できたことにただただ驚愕。

   ただ、やっぱり予告でも感じたことだが、

   乗船前の車から降りるローズの帽子が異様に「飛び出す」設計は奇妙すぎ(笑)

 

◇後半は、ほとんど3D感を覚えずに観ていた気がするのだが

   (沈没等のスペクタクル展開における船舶描写は除く)、

   これは意図したことなのか、目が慣れただけなのか、

   はたまた変換作業時間の限界か(笑)

   このあたりを「物足りなさ」として指摘する声も聞かれるが、

   私は(確かキャメロンも語っていた気がするが)

   物語への没入感に最適な設計を鑑みてのことなのではないかと受け取った。

   IMAXで観賞したこともあり、画面の暗さなどを余り感じずに観られたことも

   奏功しているかもしれないが。

 

◇「不入り」な声も聞こえる今回のリバイバル(でもないよね、正確には)公開。

   確かに、『タイタニック』は女性からの支持が強そうな作品ながら、

   3Dの訴求力は女性にはあまり働きそうもない。

   おまけに、「疲れる」という認識が定着化しつつある3D観賞において、

   『タイタニック』の3時間超という上映時間はどう考えても不利。

   しかし、実際に観てみれば、「結局、要は作品力」とでも言いたくなるよな

   一瞬の出来事だった。目眩く。

   私の個人的な印象に過ぎぬかもしれないが、

   場内にあふれる映画愛ならぬ『タイタニック』愛。

   あんなにまでも皆が皆、

   緊張してスクリーンに「釘付け」になっていることが伝わってくる場内の空気は

   最近味わったことがないかもしれない。

   風邪ひきのくせして、フィルセンやアテネに惰性で通ってきては咳き込んで

   観賞妨害のみならず病原菌まきちらしな似非シネフィルどもが醸し出す似非映画愛とは、

   雲泥の差。

   まぁ、そういう輩は「馬鹿にして」(こういうところが本当に厭だ)

   絶対観に行ったりしなさそうだけどね、『タイタニック3D』なんか

   そうした愛の証明のごとく、

   2時間足らずの映画でもトイレに立つ客がしばしば見受けられる昨今、

   全然トイレに立つ客がいないことにびっくり。

   年齢層だって結構高めだったのに。気合いが違うんだな、きっと。

   エンドロールの最後までじーっと静かに観続けてたし、皆が皆。

 

◇しかし、そうした気合いとは正反対に、109シネマズ川崎の対応はちょっと不味い。

   まず、3Dメガネの扱いが本当に酷い。

   俺が渡されたメガネだって手垢ベトベト。指紋クッキリ認識級。

   観賞後の回収だって、底の深いボックスに「放り込め」状態。

   観客の方が、「え?このまま落としちゃっていいの?」って表情で

   (実際に訊いてる人まで)、結局は皆が丁寧に底のほうにまで手を伸ばして入れている。

   3Dメガネは新品配布の持ち帰りというパターンが増えている昨今、

   「誰が使ったかわからない」メガネの装着には抵抗ある人増えそうなのに、

   配布も回収もそんなんじゃ明らかにダメだろう。

   おまけに、値引一切なしの特別料金なのに。

   IMAXで観るに値する作品が減るなか(というか、観たい作品に限って上映がない)、

   『アバター』特需なんてとっくに終わってもいるだろうに、

   上映環境含め(川崎は相変わらず最前座席の背もたれがスクリーンにかかってる)

   いろいろ見直して欲しい。

   ちゃんとした劇場つくって、ちゃんとした運営をやれば、

   日本におけるIMAX市場はまだまだ成長の余地もあるだろうし、

   IMAX上映のもつ価値や可能性は劇場観賞における意義を伝道するにも

   稀少かつ貴重だと思う。

 

 

毎年、4月は本当に余裕がなく

(昨年のブログ更新状況みたら、やっぱり3週間ほど空いていた)、

当然映画を観に行く習慣が途切れがち。

しかし、先週は義務感(笑)から足を運ばざるを得ない、

早稲田松竹でのロバート・アルトマン二本立てと『タイタニック3D』の存在によって、

映画を観ることが自分の生活にとっては最上の「レッドブル」だということを

忙しない4月において早くも認識。

3月末公開組の良作4本の観賞ミッションも何とか完遂し、

GW(=イタリア映画祭&イメージフォーラム・フェスティバル・・・何、この寂しい認識)

前までにも地道ながらも観賞を続けいきたいものです。

と言いつつ、グル・ダットやカウリスマキという伏兵との対峙で

間断なき戸惑いの日々が続きそうだけど。

 


トロールハンター(2010/アンドレ・ウーヴレダル)

2012-03-29 23:59:16 | 映画 タ行

 

モキュメンタリー?POV方式?

そうした「スタイル」がやりたかったわけではない映画だと思います。

むしろ、やりたいことをやるために選択した一手段といった趣です。

そうした無駄な拘りのなさが、ちょうど好いのです。

でも、やるからには最低限の誠実さでもって採用してます。

ただ、レンズ割れたり、暗視モードに切り替わったり、カメラマン交代したり・・・

といったお約束がややノイズになっちゃってる気がしなくもないけれど、

小休止というか気分転換にはなってるかもしれません。そのあたり、結構律儀です。

とはいえ、もうちょっと手際よくまとめて90分程度に仕上がってれば、

文句なしの全力疾走で完走できた気がしなくもないですし、

アメリカだったら絶対そうしただろうけど、そこは北欧・ノルウェー。

心拍数を上げるだけが能じゃないとでも言いたげに、

荒涼光景にお似合いの倦怠感をひきずりながら、

いつの間にか「お目当て」の場面が始まっていたりする。

ハリウッドや大作映画にお決まりの「来るぞ来るぞ」でも「来たぁ~」でもなく、

「あ、来てる!」というユル~い盛り上がり方は、

寒くて肌の感覚なくなりそうな感じ!

 

向こうじゃ普通な設定かもしれない、アンチクライストなトロール君。

神の力を借りて怪物退治!みたいなパターンが多い舶来品のなか、

「神様お願い!」が命取り、クリスチャンだけが死ぬシュール。

ムスリムはたぶん大丈夫・・・って、いーかげんなノリも好い加減。

大体、国家機密級の極秘任務を黙々遂行してきたトロールハンターのおっちゃんが、

「深夜手当もでねぇ~し、やってられっか」なノリで、

「いいよ、いいよ、全部見せちゃる」なテキトーさ。

全然クールじゃないけど、ほのぼの(笑)

お役人たちの情報漏洩危機管理も投げやりで、

余計なとこに「緊迫感」を浪費しない。あくまで主役はトロール&ハンター。

 

トロールのCGが予想外に上出来で、全然素直に盛り上がれます。

おそらく、夜のシーンや曇天や荒野だったりする背景との好相性もあるのでしょう。

橋上で完全防備(学芸会の衣裳風だけど)のハンターを攻撃するときは、

一瞬パペット感が漂ったりもするものの、むしろそれこそ愛らしい。

ってか、「あいつ(トロール)ら、マジ知能低いんだわ」って解説が、

観る者の緊迫感を見事に削ぎ落としてくれちゃうわけだけど、

怪物とのファニーゲームを安心して楽しむ秘訣かな。

 

トロール登場場面はどれも(それぞれ趣向凝らしてて)バツグンな楽しさで、

途中というか道中がいまいち退屈なのは否めぬものの、

息切れ防止の緩急ってことでしょう。

 

ラストの後日談(というほどでもないが)のユルさも大好きです。

首相の横の彼、最優秀助演男優賞。

そうそう、エンドロールも最後まで観ると好いですよ。

 

この手の作品について語るの得意ではないので、巧く伝えられませんが、

テンション低めの期待で、まったり北欧気分なメンタルで(どんな気分だよ)、

ふらっと観に行くと最高に楽しめそうなB印良品です。

 

ただ、最後に注意事項。

字幕がすさまじく下の位置に出ます!

余白一切無しレベルのまさに下の縁に・・・

日劇で観る場合は特に、座席選びを慎重に。

といっても、前列に(一席もズレずに)客がいるとかなりやばそう・・・

俺が観たときは、前列には人いなかったのに、その前の親父が終始もそもそ動いてて、

しかも時折「背筋ピン!」をかまして超迷惑(まぁ、あくまで私にとってですが)。

字幕があまりにも下だから、そのオッサンともれなくセットで視界にIN!なわけで・・・

ここでも散々愚痴ったけど、最近のデジタル上映の字幕は本当酷すぎ。

ってか、あんなのどう考えたってケアレス・ミス級な職務怠慢じゃね?

字幕位置って、データで設定されてるの?それとも映写?

いずれにしても、真面目に仕事してくれよ。

あと、手ブレは基本終始続きますので、

それ系が苦手な人もご注意を。(前方だとキツイんだっけ?)

 


テイク・シェルター(2011/ジェフ・ニコルズ)

2012-03-28 23:59:22 | 映画 タ行

 

心象風景。

それは、心のなかに浮かび上がってくる光景。

いわば主観のみが所有している世界の有り様だ。

では、誰もが共有し得る客観的な世界はあるのだろうか。

自己の外部に広がる世界と内部に広がる世界は常に一致を見るのだろうか。

そんなことはありえない。自己が捉える世界は世界そのものの断片に過ぎない。

自己という一点座標が切り取った、そしてそこに認識という加工の介在する、

自己の意識が産み出した「世界」なのだろう。

 

幻覚か否かを確かめるとき、周囲の人にそれが見えるか否かを問うだろう。

果たしてそれは正当で確かなやり方だろうか。

立つ位置によって見えるものは異なるし、その人の視力によっても見え方は違う。

経験や興味の違いも、全く異なった相を認識させることだろう。

全く同じ「位置」を同時に占められない限り、

「立場」の異なる人間と全く同じものを見ることは不可能だ。

形而下においてもそうなのだから形而上となれば尚更、

幻覚か否かの判断は困難だろう。

いや、そもそも個人の認識自体すべて「幻覚」のようなものなのだろう。

(全く同じ映画を見ても、全く異なった物語を観ているという事実。)

しかし一方で、己の把捉の不足を埋めようと、他人の「幻覚」に興味を抱く性もある。

その他人の「位置」に立って世界を観ると、「幻覚」に思えた世界が「現実」に姿を変える。

共感だとか、理解だとかいうものは、そうしたプロセスの産物なのだろう。

しかし、もしその「幻覚」が絶対的な恐怖であるとしたら、

それを私たちは共有すべきか、排斥するべきか。

そこに安易な決着など期待できまい。

そうした恐怖は、世界の行方(例えば自然現象)も自己の運命(例えば生老病死)も

「説明(explain)できない」から起こる「感情(feeling)」なのだから。

 

監督も次のように語っている。

「私にとってこの映画は恐怖や不安について語るための術だった。

映画の結末にこういった感情への答えがあるといいと思うし、あると信じている。」

あの結末に「答え」?

私もあると信じてる。「答え」は「問い」に規定されるもの。

ジェフ・ニコルズは科学的・論理的な問いを私たちに投げかけてなどいない。

つまり、外から受け取る答えではない。内から湧き上がる「答え」なのだろう。

理性(ロゴス=言葉)で問うことなく、感情を描くことで問いかける本作。

世界を理性の掌ですくおうとしたとき、指の隙間からこぼれおちる真実。

そこにこそ立ち昇る絶対的な恐怖。

 

理性は近代における《神》であり続けてきた。

しかし、科学の客観性は古代の神ほどの安堵すら人間にもたらしてはくれなかった。

かといって、今更無垢なる信仰の時代に戻れるわけでもない。

万能に思われた科学がいつまで経っても説明してくれない恐怖、そしてその源泉。

自然の不可解、生命の不透明、それらを「眠らせる」ために別の「幻覚」を産み出しながら、

私たちは平穏という均衡を保っているのかもしれない。

悪夢という現実を見ないよう、必死で眼を閉じて夢を見続ける。

しかし、それも人間の尊厳ではあるだろう。

そして、本作の傑出した語りの誠実は、

「現実」も「幻覚」も肯定(受容)しようとしているところだろう。

 

◆VFXや恐怖演出といった新奇な側面を持ち合わせながらも、

   前作『SHOTGUN STORIES』で魅せた語りと演出の精髄を傷つけることなく、

   前作同様(いや、それ以上 )の繊細さで人間ひとりひとりを描いている

   ジェフ・ニコルズに脱帽。

   好い意味で、技術があくまで語りに従属させられている印象だ。

   「語りたいもの」のために、「どう撮る(語る)か」がある。

   それは、「デザイン」よりも「デッサン」に徹する語り手の自信と覚悟。

   所詮、人生などデザインできるものではない。

   デザインしたところで、図面通りに運ばない。

   (それは、本作における「シェルター」にも象徴されている?)

   すべての場面が一枚一枚の襞となり、隙間は大気を集めて呼吸を止めず、

   有機的に語り続ける映像詩。

 

◆マイケル・シャノンの巧さは言うまでもないだろうが、

   本作における最大の感心は、

   彼の特異な側面よりも「平凡」な側面を見事に垣間見せているところだろう。

   それは冒頭における実直そのものの様相のみならず、

   妄想にとりつかれた後も自らに宿し続けている他者への顧慮であったり

   父親としての慈しみだったりに見受けられる。

   そうした確かな真人間要素が認められてこそ、

   観客は彼をただの狂人と判断することによる安堵を手にすることなく、

   最後まで緊張と期待と共感(もしくは逡巡)が持続するのだろう。

 

◆ジェシカ・チャスティンの説得力は、本作の神々しさを際立たせる。

   『ツリー・オブ・ライフ』でも女神のようなマリアのような清澄さをたたえていたが、

   本作にはそこに現実的な逞しさが加わることにより、

   御伽噺の側面に現実的な希望を付与している。もはやアメリカ映画の至宝だろう。

 

◆冒頭、親友から語られる「平凡の正しさ」。

   そこには、監督の一定の主張が潜んでいそうに思えてならない。

   もしかしたら、消えることない恐怖を前向きに凌駕できる唯一の方法こそが、

   そんな「今の平凡さ」を感謝し慈しむことなのかもしれない。

   などと、一年前の異常がもたらした平常の貴重さを思ったりもした。

 

◆カーティス(マイケル・シャノン)の母親が統合失調症で療養施設に入居している

   というのは、一見カーティスのなかの遺伝的要素を示唆しているように思わせるも、

   温厚真人間の兄が登場することにより、

   そうした事実はむしろ「幻覚」の一部であることが判明する。

   と、私は解した。

   家庭環境などの生育環境は、その人物に多大な影響を与えるだろうが、

   それは現実的な作用というよりは、

   それを受け止める側の認識に拠るところも大きいと私は思う。

   (とはいえ、なかなか現実的作用を凌駕する認識をもつのは困難だが。)

   ジェフ・ニコルズという監督は、実は極めて「楽観的」な作家なのだろうと思う。

   それは、「恐れない」でも「恨まない」でもなく、

   「それでも期待する(したい)」人間なのだろうということ。

 

◆娘が聴覚障害者であるのは、

   彼女自身が「シェルター」内にいるということでも表しているのだろうか?

   外部の音が聞こえない状態にある。

 

◆今の日本に住む自分だからそう思ったのかもしれないが、

   稲妻が《放射能》のようにも見えてしまった。

   最近、たまたまそういった実験を目の当たりする機会があり、

   そのときに見た光が、まさしくあのようなものだった。

   そして、『メランコリア』で見た光の筋をも想起。

   また、カーティスが慄く雷の音はどことなく「銃声」のようにも聞こえた。

   自然の恐怖と人間社会が産み出す恐怖。それらがダブりもした。

 

(ラストの展開に触れます)

◆嵐が実際にやってきて、親子三人はシェルターへ入る。

   これは、現実の必要性からでもあるが、そうした自然の成行を助力として、

   妻のサマンサ(ジェシカ・チャスティン)は

   夫の《意識》(=シェルター)に入りこもうとしたのではないだろうか。

   そこに入ってくれる他者がいない者こそが所謂「ひきこもり」となるのだろう。

   (あるいは「異常者」として隔離される。ある意味、社会とは「正常」という名のシェルター。)

   そして、一旦入った上で、そこから「一緒に」出ることを懇願する。

   しかも、他者の手によってではなく自らの手によって

   「囚われ」から解き放つように促すのだ。

   自室で誰にも邪魔されずに寛ぐことが至福の一時だったりする暗い私としては(笑)、

   シェルター内における安穏と、そこから扉を開けて出て行く恐怖(というより、億劫?)は

   身に覚えがありすぎて、迫りくる胸の痛みがたまらなかった。(見方、間違ってます)

 

   更に最後のあの場面は現実なのか、それとも幻覚か?

   カーティスのシェルター(意識)に入り、共に歩む覚悟をしたサマンサ。

   それはカーティスが見る恐怖を一緒に見ることを受け容れたということなのか。

   自分の見ている世界の何が正しいのか。すべて正しいのだ。

   本作最後の言葉はそう、「OK (All Correct)」。

 

   [追記]

   撮影はラストシーンから始まったとのこと。

   そこにも何か意図があるのだろうか・・・などと勘ぐってしまいたくなる。

   やっぱりあのラストもカーティスの幻覚(妄想?悪夢?)だったりするのだろうか。

   ただ、妻が自分への理解を深めてくれたことにより、《敵対》する形で登場せず、

   共に災難と対峙しようとしてくれているという「ハッピーエンド」なのかもしれない。

(ネタバレ終了)

 

◇宣伝では本作を「心理スリラー」という呼び方をしている。

   「thriller」とは確かにスリルを与えてくれる物語を指す語ではあるが、

   そこには犯罪や推理などの要素が多く含まれる場合が多く、

   当然そうした語感から観客が事前に抱くイメージも方向付けされてしまう。

   また、予告編では「悪夢か、現実か」といったフレーズを挿入したりして

   明らかにシャマラン風味を漂わせていたりもする。しかもシアターN公開作品だし。

   まぁ、ある意味「正しい」宣伝なのかもしれないし、それで確実に動員できる層もいる。

   しかし、おそらくそういう層には余りウケなさそうだし、むしろ呼ぶべき層を逃してる気も。

   昨年には『ザ・ウォード/監禁病棟』や『リミットレス』、今年も『パーフェクト・センス』

   といった良作をDVDスルーの危機から救ってくれた配給のプレシディオ。

   ただ、「パラノーマル」のプレシディオなだけに、この手の作品の宣伝は巧くない気も。

   (勿論、早々に劇場公開してくれたことにはこの上なく感謝しているわけですが。)

   あと、願わくば(贅沢だけど)フィルムで観たかった・・・。

   フィルムにこだわって撮った監督の作品だっただけに。

   (ヘルツォークの洞窟映画みたいに「35mmで再上映」なんて!・・・ないよな。

     そういえば、『バッド・ルーテナント』も配給はプレシディオだったっけ。

     もし、それが無理ならせめて『SHOTGUN STORIES』の劇場公開を・・・)

   ちなみに、私は新宿バルト9で観たのだが、DCPでの上映らしいものの

   やや精彩を欠いた画質に(私には)見えたので、フィルム上映のタラレバ思考を助長。

   もう一つ残念ポイントは(しつこいね)、現在バルト9で本作を上映してる箱がいずれも

   「縮みシネスコ」だという悲劇。折角のシネスコなのになぁ。

   おまけに新宿バルト9の縮みシネスコ劇場って、本当スクリーンサイズが小さい・・・

   都内の3劇場では断然最適環境と思いきや、そうでもなかった次第です。

 

ちなみに本国の予告編は、日本版の怪奇テイストとはかなり異なります。

 


TIME / タイム(2011/アンドリュー・ニコル)

2012-03-04 20:59:06 | 映画 タ行

 

本作を観るに際し、多くの人が不可避想起な諺は、

Time is Money. 時は金なり。

しかし、そんなアフォリズムの根底を揺るがす真実こそが、

Time flies ( like an arrow ) . 光陰矢の如し。

 

つまり、時間は必ず一定方向にだけ進み続け、

巻き戻すことが出来ないことが一回性という悲喜劇を伴わせ、

人間のあらゆる認識や感覚にそれはこびりつき、そこに様々なドラマがうまれる。

それが部分的に喪失した世界。それが本作の設定だろう。

完全に喪失した訳ではないので、そこにはまだ不安や恐怖、飢餓感は存在する。

しかし、それを払拭できる可能性、更にそうした安堵を半永久的に享受できる可能性は、

新たな煩悶や苦痛を生み、不自然な平和と過激な競争の二極化を促してゆく。

そうした世界で失われるものとは何なのか。

そのなかで浮かび上がる《時間》の意味とは?

人間にとっての《時間》とは?

 

「あらゆる病に効く薬がある。それは死という薬だ。」

ポルトガルには、こんな格言があるらしい。

 

莫大な富を得た男が得たオーヴァー・センチュリーな生命は、

ある意味「病」の継続か?

だからこそ死という万能薬を手にしたかった?

 

そんな関心事をよそに、本作は設定が設定で完結したまま完走、終了。

ミクロ視点なら、ひとつひとつが興味深く思えるものの、

マクロ視点で眺めたら、「設定」以上の何かは見当たらず。

傑作ポテンシャル抜群配合な「設定」・・・のはずだったのに。

極めて往生際の悪い(観ながら色々考えられはするから)駄作という印象だ。

 

しかし、やっぱり設定が設定だけに、考察ポイントにはあふれていると思う。 

 

◆ネーミングの妙。登場人物たちが「時計」関連の名になっているらしい。

   確かに、「ニュー・グリニッジ」とかは明らかに本初子午線が通る天文台があった

   グリニッジに由来しているし、主人公のウィルはおそらく《未来》と《意志》の象徴か?

   Where there's a will, there's a way. ウィルが世界を救う?

 

◆ウィル(ジャスティン・ティンバーブレイク)は、

   余命1世紀の男(マット・ボマー)との会話で、時間の浪費(waste)を批判する。

   貧乏暇なし。富者は暇で死。消費の実感、浪費の虚無感。

   この点は、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の考察がなかなか興味深い。

 

◆時間とは概念的なものゆえに、日々の生活においても精神面は過敏となり、

   身体性は損われていくようだ。金持ちならぬ時間持ちは走らなくなったり、

   車ですら「display」のためのもので、自ら運転するなどしなくなるらしいのだ。

   『WALL・E』のように全員肥満化しないのか?(笑)

   人間が概念的な存在(生命=時間)に近づく一方、

   生命(時間)のやりとりは身体によって行われる。

   「接触」が鍵を握っているという点では『WALL・E』との共通点も。

   にしても、何もできないお嬢さんが初めての発砲でヒットしたり、

   あまり必要性を感じないトンデモは、設定の自滅になりかねない。

 

◆貨幣を時間に見立てることで、軍事国家に引き続き(『ロード・オブ・ウォー』)

   金融国家を本作で糾弾・・・のつもりだったのだろうし、それはそれで爽快だが、

   如何せんその銀行自体がショボ過ぎて(簡単に強盗されすぎだろ・・・)、

   いまいち緊迫感に欠ける。敵が強大なほど、緊張も興奮も増大するものだから。

 

◆アンドリュー・ニコルの寓話的な語りにはベタな引用や借用もしばしば。

   本作でも、ロビンフッドの義賊的側面とキリストの奇跡が同居したボニー&クライド

   といった趣だ。こう書けば面白さ炸裂になっておかしくなさそうなものの、

   (これが本作の迷走のもとだと思うが)娯楽的な仕上がりと社会派的批判の狭間で

   迷った挙句にどっちつかずになってしまった印象だ。それ故の隙だらけ。

   娯楽に徹するなら90分で一気に駆け抜けて「後から考えて!」ってつくりにするとか、

   社会派的示唆を富ませたければ、もう少しジレンマや葛藤を丁寧に描くとか・・・。

 

◆終盤の全力疾走連続展開(だから、盛り上がるはずだけど)では、

   登場人物たちがいよいよ「時間を忘れて」追いかけっこに熱中し始める。

   おかげで、残り僅かな余命にも気づかず死を迎えたりする展開もあるのだが、

   それはそれで或る意味「解放」でもあるわけで、そこに複雑ながらも感じてしまう

   「幸福」や「達成感」が滲み出てたりしたら好かったのになぁ・・・というのが個人的感想。

   本作で最も好きなキャラは自殺する余命1世紀男(マット・ボマー)であり、

   彼の煩悶に「答え」を求めるように本作が展開するのだとばかり思っていたら・・・

   やっぱ時間(貨幣)はあった方が好くね?的発想に単純回帰してる感が否めず、

   資本主義の安易な批判に帰結しないのは好いとしても、

   かといって社会主義や共産主義の限界にまで思考は及ばず、

   では無思考なりに刹那的享楽があるかといえば不十分。

   頭をつかうか心をつかむか、どっちかに専念した方がよかったんじゃね?

   という、上から目線アドバイス。

 

◇キャストは絶好調の主演二人をはじめ、

   もはや安心保証領域のキリアン・マーフィー、

   人気急上昇のはずのアレックス・ペティファー(『ビーストリー』超絶トホホでキャリア心配)

   といったフレッシュな面々に加え、本作に不可欠の年齢不詳感は

   シルヴィアの父役であるヴィンセント・カーシーザーや

   ウィルの母役オリヴィア・ワイルドから見事に醸し出されており、

   ヴィジュアルにおいてはかなりパーフェクト。そこはさすがのアンドリュー。

   しかし、本作においては『ガタカ』のような 〈 静 〉 よりも 〈 動 〉 で魅せようとした故に、

   肝心なのはやはりアクションだ。(基本的に、これまでのニコル作品は〈静〉的だと思う。)

   皆、好い動きをしてるし(母と息子の駆けっこは最高)、

   追いかけっこの設定も構造も面白いはずなんだけど、それらが手際よくまとまらず。

   編集の問題かと疑ってみるも、担当してるのはザック・ステンバーグで、

   ウォシャウスキー兄弟の盟友で、彼らの諸作はどれも(個人的に)大好きリズム。

   『ロード・オブ・ウォー』でもニコルとは組んでいたようなので、

   やっぱり本作では脚本における展開やテンポ、「キメ」に欠ける台詞の凡庸さが問題?

   この手の作風はやはり(初めてということもあり)得意ではなかったのだろうから、

   単独で書き上げるよりも共同した(もしくは外注した)方が好かったのだろう。

 

◇撮影を担当したロジャー・ディーキンスは、

   「好い画を撮る」技巧に溺れず、目的を見失わずに「語るための画を撮る」人の印象。

   コーエン兄弟とのコラボで知られるが、近年では様々な作風で見事な仕事ぶり。

   『告発のとき』では、抑えた情動が静かに暴れるさまを、

   『ジェシー・ジェームスの暗殺』では、アメリカの妖艶な大地の不穏な美しさを、

   『ダウト~あるカトリック学校で~』では、人物の微細な変遷を残らず活写、

   『レボリューショナリー・ロード』では、美しき狂乱の萌芽に残酷な潤いを、

   『愛を読むひと』では、文芸の薫りに開放的な広がりを持たせ、

   『カンパニー・メン』では、拡張続ける世界を質素な卑近で捉えようとした。

   そういった「語り」に貢献する撮影の仕事をしているように(私が勝手に)思っている

   ロジャー・ディーキンスだが、本作における彼の意図や仕事の必然性が、

   私のなかで感じられずに終わってしまった。

   人間の卑小さを強調する画(荒涼たる広大な背景に人間ポツン)に度々ハッとするも、

   やはりアクションにおける堅実さというか落ち着きありすぎ感が気になった。

   彼の次回作は007最新作『Skyfall』らしいので、そのリハーサルだったのか!?

   サム・メンデスとは『レボリューショナリー・ロード』で見事なコラボを見せたので、

   そちらにはかなり期待しても好いのかな。

 

◇クレイグ・アームストロングのスコアは悪くはないんだけど、

   世界観は演出するも、興奮を駆り立てる感じではないんだよな。

   彼お得意のビートはほとんど封印されてる印象で(ニコルの指示?)、

   強盗や逃亡シーンでは、その手のスコアでもっと盛り上げられただろうに・・・

   という残念。次回作は『ムーラン・ルージュ』以来のバズ・ラーマンとのコラボ。

   ディカプリオ主演の『グレート・ギャッツビー』。

   レオ様(懐かしいな、この呼称)は、タランティーノの新作にも出るんだね。

   にしても、そのキャスティングのゴージャスさには唖然・・・楽しみすぎる。

 

◇今更ながらの記事アップ。しかし、観賞は公開直後の日曜レイトで。

   実はその丁度一週前に、同じ劇場の同じ回(日曜レイト)で『ドラゴンタトゥー~』観賞。

   ところが、その二作における客層が恐ろしいほど両極端。

   フィンチャーは一人客率高い上、男子比率も高い。そして観賞態度超良好。

   しかし、本作はカップル率やファミリー率高い上、場内の雰囲気は・・・

   ものすごくうるさくて、ありえないほどウザい。ビニール音は序盤から華々しく響き、

   (普通はクライマックスに向けて静けさが育まれてゆくものの)終盤の緊迫シーンですら

   おかまいなしに菓子袋オープンの音を響かせる奴らがいる始末。

   こんなバカっぽい客層のなかで観たの久しぶりかも。

   子供連れ(23時前の終了だったから?)の親子は、

   「もうちょっと静かに食べな」みたいなことを息子に父親が注意してたが、

   「そもそも、その菓子って持ち込みじゃねーか」という・・・。

   自分(たち)で観に来るときならともかく(でもないか)、

   子供と来るときくらい(建前的なるものとはいえ)ルールを守ろうよ・・・。

   予想外にヒットしてるという本作。それも、そんな客層に支えられてるからなのか?

   なんて思うと、(内容もだけど)余計素直に喜べなかったりする。

 

   とはいえ、本作のヒットは、

   日本人がいかに「世にも奇妙な物語」が好きかってことの証明にはなっていそう。

 

余談だが(って、さっきから余談ばっかだろ)、

原題は『In Time』なのに、わざわざ「In」だけとって「Time」、

しかも『TIME / タイム』とか訳わからん(でも何かわかる)ダサさ爆裂な「クール」感も、

結構ツボってる人が多そうだ・・・といった意味では、明らかに宣伝戦略の勝利でもある。

でも、原題の本来の意味である「間に合う」って場面が作中に何度も出てきたりする一方、

結局は時間(Time)の中で(In)生きているって逆説的ニュアンスも兼ねてそうだし、

なんかもったいない気がするのも確か。

それに、中高生が「in time」っていうイディオム憶えられる契機でもあった訳だし(笑)

 


ドラゴン・タトゥーの女(2011/デヴィッド・フィンチャー)

2012-02-23 22:55:45 | 映画 タ行

 

「タトゥー(tattoo)」は日本語で何と言う?

そりゃぁ当然「入れ墨」だよね。Vシネっぽくは「刺青」ね。

ところが、「我慢」という呼称もあるらしい。

説明不要なそのもの感たっぷりな別名ですが、

その「我慢」という語にも更には二面性があるわけで。

通用的には耐え忍ぶって意味がスタンダードになってるものの、

そもそも仏教用語的には字義通りに「慢ずる我」を意味します。

つまり、相反する(というか相容れないというか対極的な)側面を、

一個の内に秘めてる言葉、「我慢」。そんな「我慢」の女の物語。

 

(これ以降、結末等を容赦なく引用して書きます。)

 

リスベット(ルーニー・マーラ)はハリエットよろしく、

鬼畜な父親に「我慢」の日々を重ね、ついには自らの手で葬ろうとしたわけですが、

少女ハリエットの写真があまりにもリスベット似だったのも、

そうした示唆を意図したものに思えてしまいます。

彼女たちの「我慢」はどこに向かっていったのか。

リスベットは《男性》への嫌悪をつのらせる一方で、

《父性》への渇望を秘めて(時に実現させて)きたように思われます。

父親のごとく信頼していた後見人(ベント・C・W・カールソン)という支柱を失い、

彼女が庇護を求めた相手こそミカエル(ダニエル・クレイグ)だったのでしょう。

マッチョな男性には暴力的支配の予感がよぎってしまう故なのか、

知性と純粋な正義感を宿した男でなければらない《対象》。

センシティブな彼女のセンシティヴな調査の結果でも、

埃の出なかった誇り高きジャーナリスト、ミカエル。

このネーミングは、大天使ミカエルを想起させる仕掛けを兼ねていそうだが、そう考えると、

リスベットはさしずめ(大天使ミカエルが神の啓示を与えた)ジャンヌ・ダルク?

父親を火あぶりにしようとしたのも、(ジャンヌの)仕返しか!?

と、ちょっと妄想が過ぎました。(ちなみに、原作の第二部は「火と戯れる女」)

 

本作には極端なまでに母性が排除されてもいる。

ミカエルの妻(=娘の母)は登場しないし(たしか)、

マルティンやハリエットの母親に母性だって、完全無欠のネグレクト。

ミカエルと愛人関係にあるエリカ(ロビン・ライト)だって、まるで独身かのような振舞。

(ちなみに、「ペン」がとれた「ロビン・ライト」ゆえに余計そんな感じもしたり・・・)

それは、父権の絶対的支配という旧弊のおぞましさを引き立てている一方で、

リスベットのなかに《母性》を凝縮し、彼女が作品を支配できる構図にも。

「ピエタ」寸前の救出劇、《息子》の宿敵ヴェンネルストレムへの徹底的復讐、

挙句の果てには《息子》の大好きな革ジャンまで極上オーダーメイドしたにも関わらず、

《息子》は母の想いを露知らず、クリスマスに女とイチャついて、

それを目撃する母リスベット。妄想劇場ア・ラ・カルト。

 

母性を何処となく秘めつつも、姫を救う王子のようにも見えるリスベット。

それはヴィジュアル含め(スウェーデン版のノオミ・ラパスはより顕著)

両性具有的印象がそれを助長する。

しかし、それは性的な側面に限らずに、

光(正義感)と影(不正アクセス・不法侵入)の共存や、

無垢(父親の愛情を求める)と汚れ(父親に性愛を求める)の融合や、

切望する忘却(トラウマ)と不幸な記憶力(瞬時保存)の葛藤などに顕れる。

そして、前述の「我慢」の二面性。つまり、究極の忍耐の向こうに見える我の暴走。

しかし、それは単なる傲慢などではなく、他人を信じられず、まとわりつかれたくないから。

所謂「頼れるのは自分だけ」状態。しかし、《前父親》に「友だちができた」と報告し、

「幸せだ」とまで吐露するリスベット。その直後に沈吟する孤独の深淵。

フレンド申請後にリフレッシュしまくるマーク(ジェシー・アイゼンバーグ)とは対照的に、

静かにその場を去る(身を引く)リスベット。

しかし、心のなかでは・・・Is your love strong enough?

男声に変わった Is your love strong enoug? は、ミカエルからの返答か。

そして、彼女と彼の物語は続くのか。

 

 

◆オープニングの映像が、

   楽曲に負けじと尋常でない奮発具合で最高なのは万人了解事項ながら、

   実はそれが(『ファイト・クラブ』とは違って)モロOPじゃないってところに、

   フィンチャーの余裕を感じてしまう。

   正真正銘の冒頭には、

   不気味な自由の女神(コロンビア・ピクチャーズ)とサイレント吠えなライオン(MGM)、

   サスペンスものにありがちなベタベタ不穏シークエンスの儀礼的挿入後に始まる、

   リスベットの悪夢。極上のファンタジック・サスペンスの饗宴に、ようこそ。

 

◆フィンチャーが『ミレニアム』シリーズをリメイク(というより再映画化?)する

   と聞いたときには、ワクワクするも退行するのか?という不安も過ぎったものだが、

   観てみりゃ後退どころか飛躍。それも、『ソーシャル・ネットワーク』を踏み台にして。

   セルフ・カヴァー(パロディ?)ばりに前作想起な会話の応酬や音楽、

   遠近法的語りを瓦解させたクライマックス不在の多中心で高速維持な語り口。

   『ソーシャル・ネットワーク』が青年ばかりが大挙していたのとは裏腹に、

   本作では青年不在で中高年の男女と若い女だけで展開。

   フェミニンさに欠けるところは、最後の変装で帳尻合わせ?

   しかし、ジャンルも場所も登場人物たちもまるで異なる二つの物語を、

   ここまで同じ手法で描く面白さ。前作になかった暴力性とアクションが加わるも、

   それを抑制するかのように決してテンポアップをはからぬスコアの妙。

   そして、正しいエンヤの使い方。ツェッペリンよりも卑猥で陰惨なエンヤの響き。

 

◆『ソーシャル・ネットワーク』のサントラは、昨年の最優秀作業効率アップBGM賞。

   本作のサントラも事前入手で聴き込み参戦図ろうとしたものの、

   音楽単体で聴いててもいまいちピンとこない。前作ではスコア単体でも聴き込めた。

   しかし、そここそがトレント・レズナー&アッティカス・ロスの成長をあらわしていた。

   前作では自己実現的要素が「楽曲的完成度」に貢献していたものの、

   本作のスコアは明らかに劇伴に徹しようとした姿勢が垣間見られ(聞こえ?)る。

   それゆえに、映像観ながら、そこに塗された音たちの完璧さにハイボルテージ。

   しかも、音の立体感や圧力が細部まで計算し尽くされており、

   画や編集と並び、「隙」が完全消滅のパーフェクト・デザイン仕様。

 

◆昨年は『ソーシャル・ネットワーク』を三度も観に行ってしまった私だが、

   本作も二週連続で二度目の観賞に赴いた。

   そうすると、二度目ゆえに細部に俗っぽい満足感を感じる場面も。

   例えば、ヘンリック(クリストファー・プラマー)がミカエルに

   一族のメンバー紹介をする際に、マルティンの話をすると聞える銃声とか。

   ミカエルがロンドンのアニタを(最初に)訪ねて行ったとき、

   「ハリエットについて教えて」とお願いした時のアニタことハリエットの動揺っぷりとか。

   リスベットがミカエルとベッドインしようとしてベルト抜く仕草、レイピストっぽくもあり。

   宗教に懐疑的なミカエルが、額の傷にアルコールをかけられ「ジーザス!」とか。

   May I kill him? が、「ねぇお父さん、殺して来ても好い?」に聞えたり。

 

◆ちょっとしたユーモア場面もお気に入り。

   病院のロビーで喫煙を注意されて、思いっきり憎らしい顔をするババア。

   資料室の主として君臨してきたはずのババアとリスベットの対決も滑稽だ。

   そんな二大ババアも真っ青の「タトゥー除去サイトとか見てんじゃねぇーよっ!」

   いや、待てよ。ババアはネットとかやってないから、逆に更に強かったり!?

 

◆「知りすぎた女」リスベットとしては、

   なかなか信頼できる人間に巡り会えぬのも当然だ。

   だからこそ、不貞は多少はたらきながらも、正義感に裏はなく、

   情熱も純粋なミカエルは極めて稀有な信頼に「値する」存在だったのだろう。

   一見《不正》(リスベット)の勝利に見える物語において、

   そうした《不正》すらも魅了する《正義》(ミカエル)の最終勝利は、

   ジャーナリスト出身の原作者にとっては譲れぬ構造だったのだろう。

 

◇作品自体には至極満足してしまった私だが、日本配給においては不満が二点ほど。

   誰もが指摘するだろう「笑っちゃうモザイク」。あれ、フィンチャー知ってるの?

   最初、フィンチャーのいきすぎた悪戯かと思っちゃったよ・・・。

   それから、字幕のフォント(字体)。あの丸ゴシック(?)のデカいサイズは、

   WOWOW観てるような感じがして風情が削がれ、映像へのノイズ感あり過ぎだ。

   それに、デジタル上映の場合、字幕の「白」が余りにも発光しすぎてしまうので、

   あの太さと大きさでは(特に暗めのシーンなんかでは)浮きすぎだし邪魔すぎ。

   ソフト化の際は好いとしても、折角劇場で観る身にとって、あのフォントは無粋。

   でも、「あの方が見やすくていい」派が多数なのかもしれないし、趣味の問題かも。

 

◇ちなみに、実は私、原作もだいぶ前に読んでたりする。

   といっても、スウェーデン版の映画公開に当たり、予習のために読んだのだ。

   小さい頃、ほんの一瞬サスペンスにはまったことがある身としては、

   久々に読み耽った年末の二日間だった。ジャーナリスト出身だけあって、

   社会的な視座があちこちに埋め込まれている原作は確かに独特の魅力にあふれ・・・

   でも、第一部しか読んでない。文庫化されてるし、続きも読んでみようかな・・・

   と思いきや、実はスウェーデン版(映画)は一応三作とも観ていたりする。

   から、いまいち読む気起きず。

   今回のフィンチャー版公開にあたり意外だったのは、

   スウェーデン版(映画)のファン(というか高評価な人)が多かったという事実。

   それ以前に、「そんなに観られてたんだ・・・」という。

   映画公開時は(原作含め)思ったほど話題になってなかったようだったのに。

   ちなみに、『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』を観に行ったとき、

   予告篇でリスベット(ノオミ・ラパス)を見かけた後(『シャーロック・ホームズ~』で)、

   本篇でミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)が出てくるという不思議体験が面白かった。

   ちなみに、原作を自分なりにハマりまくって読んだ直後の観賞ということもあってか、

   スウェーデン版の映画(特に一作目)は正直イマイチはまれなかった。

   だから、本作観賞は結構フラットに観られた気がする。

   どう考えても「初見でスムーズにリアルタイム理解」が困難そうな本作なので、

   粗筋は頭に入っている状態で観られたことも好条件だったかも。

 

   本作を観ながら、

   「この静寂と閉塞の北欧感が貫かれてる感じ、好いなぁ~」と酔いしれていた反面、

   「でも、ラストでアメリカ行っちゃうんだよなぁ~」って思ってたから、

   ロンドンどまりの改変が加えられてたのは、正直嬉しかったりもした。

   更に、リスベットの変装詐欺旅行でも画面が「寒い」ままで通されており、

   北欧で冬に始まり冬に終わるクリスマス映画としての正しさとしても、クール。

   冷蔵庫から落ちたペットボトルをキャッチするミカエルもクール。

   ミカエルの見せ場がそこだけっていうのも、クール(笑)