goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

トーキョーノーザンライツフェスティバル2012(3)

2012-02-20 12:28:52 | 2012 映画祭(その他)

 

大盛況のうちに終了したtnlf2012。

実はこの「北欧映画の1週間」、スカルスガルド祭りでもあったことに今更気づく。

まずはtnlf2012前夜祭として公開された(違います)『ドラゴン・タトゥーの女』で、

ハリエットの兄役としてステラン・スカルスガルドを拝んだ直後には、

幻の珍作『友達』で二十年以上前の彼に遭遇してしまう。

そして、tnlf201のオープニングにしてクロージング作品『シンプル・シモン』で

シモンを演じたのは、ステランの息子であるビル・スカルスガルドだったのだ!

おまけにtnlf2012前夜祭に出演したステランは、後夜祭『メランコリア』にも出演。

しかも、息子のアレクサンダー・スカルスガルドも新郎役で出演してる!

他にも何処かで出没していそうな気がする、スカルスガルドな1週間。

おそるべし、スカルスガルド包囲網。

 

さて、今回の上映作品のなかでも極私的待望作として裏最重要だったのが、

『セレブレーション』(1998)。

昨年公開された『光のほうへ』も素晴らしかったトマス・ヴィンターベアの出世作。

初見は1999年。それも、旧ユーロスペース(現シアターN)にて!

配給もユーロスペースだった作品だ。

駆け出しの映画ファンだった当時、生意気にも私的年間ベスト10に入れた記憶あり。

「ドグマ95」作品にハマった(ということが格好好い気がした)自分は、

続々公開されてたドグマ95作品を律儀に観に行ってたものだった。

偶然か必然か、シネマライズでかかることが多かったりして、

『ミフネ』(1998/ソーレン・クラーク=ヤコブセン)

『ジュリアン』(1999/ハーモニー・コリン)

『キング・イズ・アライブ』(2000/クリスチャン・レヴリング)

なんかはいずれもライズの地下で観た気がする。どれもガラガラだったけど。

今や世界的にも注目を集めるデンマークの女性監督の二人、

『未来を生きる君たちへ』のスザンネ・ビア(『しあわせな孤独』)や

『17歳の肖像』のロネ・シェルフィグ(『幸せになるためのイタリア語講座』)も

参加していたりするから、実り多き通過儀礼であり修行だったのかも>ドグマ95

発起人のくせして「いち、抜けたっ!」な調子で

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』撮ったラース・フォン・トリアーだって、

いまだに(観客迷惑な)手持ちカメラ(手ブレカメラ)好きすぎてやめられないし。

昨今のインディペンデント日本映画なんかにも、影響が顕著な気がするし、

後半は失速してしまったとはいえ、やっぱり重要なムーブメントを生んだのかも。

 

で、そのドグマ95作品の記念すべき1作目という『セレブレーション』。

初見当時は、物珍しく感じた手法やフォーマットにばかり眼がいきがちだったが、

こうして再見してみると、物語の牽引力は途轍もないし、

複雑な内面の戯画化が見事に成功している傑作だ。

 

本作から受ける印象の特徴は、

新旧綯交ぜな「古典的前衛」といった趣。

それもそのはずで、ドグマ95の純潔の誓いとは

《回帰》と《解放》を求めた、回顧と自由のための契約だったから。

 

本作では6つの「戒律違反」をおかしているとして、

トマス・ヴィンターベアは懺悔の書を記している。

その内容は以下の通り。(本作のパンフに掲載)

 

私は、あるテイクで、黒い布を使って窓を覆いました。

   これは小道具の追加ではなく、証明の調節の範疇と見なされるべきだと考えます。

 

私は、トマス・ボー・ラーセンが映画で着るスーツを購入する埋め合わせとして、

    ギャラを上げたことを知っています。

 

同じく、トリーネ・ディアホルムとテレーセ・グラーンも似たようなやり方で、

    服を購入したことを知っています。

 

私は、屋敷の受付デスクがなかったので、それを作るよう手筈を整えました。

    しかし、そのデスクを作るための材料は全てロケ現場にあったものです。

 

クリスチャンの車と携帯電話は彼のものではありません。

    しかし、それはロケ現場にあったものです。

 

私は、あるテイクで、カメラをマイクのブームに固定しました。

   従ってそこでは部分的にしか手持ちの状態になっていません。

 

以上のような「告白」によって、「赦し(=ドグマ作品としての承認)」を求めている。

これを読んでもわかるように、彼(ら)は明らかに十戒を楽しんでいる。

トマス・ヴィンターベアはインタビューでも、ドグマの「制約」を「解放」と捉えている。

それは従来の撮影スタイルという呪縛からの解放であると同時に、

創作意欲の源泉にもなり得るものだという。

 

「映画の中で音楽を使ってはいけない、と規則にあるとします。

僕はどうするかといえば、映画の中に自然と歌をたくさん盛り込むようにします。

この種の制限によって多くのアイディアが生まれるのです。

ドグマ映画の特徴はすぐに群像劇になることです。

ペーソスにあふれた映画になります。

なぜなら、すべての微妙な感情を音楽を使って誇張することができないとしたら、

残ったものを使って表現するしかない。

つまり、それはキャストの俳優たちを最大限に利用するということになるからです。」

  (パンフ掲載のトマス・ヴィンターベア監督インタビューより)

 

ちなみに同インタビューでは、彼の大好きな映画ベスト3も語ってる。

それによると、『ファニーとアレクサンデル』(或るシーンを「盗用した」と述懐)と

『ゴッドファーザー』、三番目には10~15本の映画が並ぶと答えている。

ちなみに、『ゴッドファーザー』からも山ほど引用していると述べた上で、

プロットには多分の影響があったとして、本作のクリスチャンとミケルの役柄は、

『ゴッドファーザー』のジェームズ・カーンとアル・パチーノから発想を得たものだとも。

しかし加えて、「言うまでもなく、比較しようなんて気は毛頭ありません」と恐縮。

私としては、比較には相応しくないが、その対照性(壮大とミニマムな作風)は

継承と更新による理想の換骨奪胎を見る気がした。

 

また、群像劇となると関係性から個人を浮き彫りにするアプローチがとられがちだが、

本作においてはあくまで個人を起点とし、個性の衝突や交錯によって関係がうまれ、

変容が一つずつ重ねられている印象。キャラクターが全体に収斂されることなく、

キャラクターが思い思いに奔走しながら総体の醸成を拒むかのようなリアリズム。

人間の、人間関係の核心に肉迫しようと凝視を止めぬ監督の執拗な眼差し。

その一方で、真剣や深刻が最高の滑稽になりうるブレンドの達人でもある。

意外と場内はそれほど笑いに包まれなかったものの、

近くに座っていた北欧人と思しき観客と一緒に(?)盛り上がって観てました。

ワイズマン作品で時折襲われる笑いの不意打ち、不謹慎な笑いという極上の滑稽。

そもそも、セレブレーション(儀式)というものはナンセンス要素の宝庫だし、

そんなナンセンスな空気に包まれて、異界のようでいて現実そのものの空間は、

機微をデフォルメ顕在化。演劇的になるのも当然で、儀式や宴がそもそも「演じる」場。

裏の裏が表のように、演じる人物が「演じる」時、そこに生まれるリアリティ。

演者と役の境界は消され、現実と虚構の整理は心地よく歪み出す。

作品を創る場合でなくとも、カメラを向けられると人は自動的に

演技せねばという強迫観念にかられてしまう気がする。

それは他者の眼というカメラも同様で、

そうすると、やはり私たちは常に「演じて」いるわけだろう。

そして、「演じている」ことまでを捉えてこそのリアリティなのかもしれない・・・

などと考えてしまうほど、《自然》を人工的に生み出そうとした誇張のドラマのなかに、

唯一無二な人間模様が浮かび上がってきた本作。

極めてローカルで、極めてパーソナルなドラマであるにもかかわらず、

日本における「一族モノ」とも通底しそうな普遍性がみなぎる、偉大なる小品だ。

 

ちなみに、作中で長女の黒人の恋人を乗せてくるタクシーのドライバーは、

トマス・ヴィンターベア監督自身が演じて(?)いる。

ヒッチコックと一味違うカメオ出演。

バッチリ顔を写して自己顕示欲。

それも納得のハンサムぶり。

 

トマス・ヴィンターベアはその後、世界的に(というか、メジャー的に?)

飛躍すべく『It's All About Love』という劇場未公開作 in Japan を撮っているのだが、

この作品のキャストは豪華。ホアキン・フェニックス、クレア・デインズ、

そしてショーン・ペンまで。それなのにDVDスルー。

何故なら、邦題が『アンビリーバル』。近未来ラブサスペンスなんだと。

IMDbでも5点台と怪しいが、Rottenなんて踏んだり蹴ったりだもんね・・・

自分も一度レンタルしながら、怖くて(嘘、単に時間なくて)未見で返却。

確実にトマス黒歴史。

 

それを払拭すべく、盟友ラース・フォンン・トリアー脚本の『ディア・ウェンディ』。

これはなかなか面白く観たんだけど、

公開劇場であるシネカノン有楽町はなくなり(今は角川シネマ有楽町に)、

日本で配給したワイズ・ポリシーも倒産。やや不吉な印象の作品だ。

 

そこで心機一転(?)、

地元に戻って楽しく撮ろうって感じだったと推測される、

その名も『A Man Comes Home(En mand kommer hjem)』。

批評的な成功は特に収めていないようながら、

ノルウェーの映画祭で観客賞獲ってるみたいだし、

何とかして観てみたい気も(・・・来年のノーザンライツでいかがでしょうかっ!?!?)

 

そして、皆さんご存知の『光のほうへ』に至るわけ。

こちらは、久々にドグマ95っぽさも漂いつつ、

人間の真実を剔るように凝視する面目躍如な秀作で、

『セレブレーション』で惚れ込んだ彼の完全復帰を心底喜んだ。

 

次回作は、今や国際的に活躍するデンマーク俳優マッツ・ミケルセン主演の

Jagten』という作品で、トマス作品常連のトマス・ボー・ラーセン(※)も出演する。

タイトルは、デンマーク語で「追う」とか「狩る」とかの意味っぽいので(たぶん)、

これはまた、『光のほうへ』(原題は水攻め拷問を表したりする『Submarino』)

に引き続き、なかなかシビアな作品が届けられそうで大いに期待です。

 

  ※トマス・ボー・ラーセンのIMDb掲載写真が変・・・

     これ、『セレブレーション』の一場面だけど、二人とも別人だし。

     たまにこういうのがあるからIMDbはなぁ・・・面白い(笑)

 

 

そんな十年以上ぶりの再会に胸躍った『セレブレーション』に続き観賞したのが、

生演奏付のサイレント映画『魔女』(1921/ベンヤミン・クリステンセン)。

当初は日曜の回でのみ予定されていた柳下美穂さんの生演奏付き上映が、

彼女の厚意により2回目の上映でも実現!!これは観ないわけにはいかない!!!

そう意気込んでワクワクドキドキ・・・そしてウトウト、ちょっぴりスヤスヤ・・・。

昼下がりという睡魔暗躍タイムもあって、あの美しくも妖艶なピアノの音色が、

瞼にかかる重力を増幅増幅増進増進、子守唄・・・。

でもでも!あの職人技には感歎の嵐!(じゃぁ、寝てんじゃねぇーよ。)

ライブ感は言わずもがなだけど、

スクリーンと演奏者、そして観客という三者で語らうトライアングル・スパイラルは、

新しい(古い、のか?)観賞スタイルとして、確かに超絶魅力で迫ってきました。

『アーティスト』公開という奇遇なタイミングも手伝って、

昨今大盛況のこの観賞スタイルは、映画文化の新たな救世主になるかもしれない。

昔ながらに還る新しさ。そういった意味では、ドグマ95とも通ずるところがあるな。

(無理矢理こじつけんでも・・・)

 

この日は、次の回は休んで(というか他の映画観て)、

オラファー・エリアソンのドキュメンタリー(『Olafur Eliasson : Space is Process』)も

観たんだけど、これが個人的にはtnlf2012の最大の収穫級に面白かったので、

機会があれば別途まとめてみたい。

 

本当、ジャンルも時代も多様な作品群や趣向を凝らした企画やイベントで、

規模に走らず質の向上にむかう姿勢に好感だったトーキョーノーザンライツフェスティバル2012。

来年も開催されそうだし、上映してほしい作品を今からチェックしておこっと。

(爆音映画祭みたいにアンケートとかとったりしないのかな?)

映画ファンにとっての2月の風物詩。寒さが好きになる(?)一週間。

(今更ながらですが)インディペンデント精神旺盛かつ歓待感心なスタッフの皆様、

本当におつかれさまでした&ありがとうございました。

 

 


トーキョーノーザンライツフェスティバル2012(2)

2012-02-16 23:28:46 | 2012 映画祭(その他)

 

TNLF2012でも極私的最重要作品である『友達』を観賞。

語れるレベルには遠く及ばぬが、安部公房は好きで、本作の原作も随分前に読んだが、

原作戯曲よりも、その元となった小説『闖入者』を先に読んだ私にとっては、

そこに隅々まで刻み込まれた近代社会の宿命(とりわけ日本における)が

鮮烈かつ痛烈で、社会科学などは一瞬にして矮小化するほどの「教科書」だった。

『闖入者』では、民主主義の存立基盤である(と曲解されている)多数決原理を、

シニカルながら笑えぬリアリティを刻印しつつ、「ありえない」話が「ありうる」どころか

既に身近で起こり続けていることの底恐ろしさを喚起し続ける。

傑出した批判精神が、単なる《不条理》を軽く凌駕し、日常の現実へと舞い戻る。

 

その物語から生まれた、もう一つの現代日本の「世間」論たる『友達』。

数や論理の暴力性が「闖入」との認識を「友愛」コーティングでソフィストケイテッド。

もはや数や論理によって打倒しようとするまでもなく、やさしく懐柔すればよい。

曖昧模糊が魑魅魍魎する日本社会(というより世間)がモダンという晴れ着を纏い、

いよいよ「洗練」されて来て、歪で不格好な己などいくらでも隠せようぞと言わんばかり。

 

そもそも私は「友達」という言葉が大嫌いだ。

それは「友」一人を指すはずなのに、複数形(~達)だから。

(日本語には、「私達」という「私」の複数形という恐ろしい表現まである・・・)

まぁ、言語学的には曲解も甚だしい認識かもしれないが、

その認識が現状と然程かけ離れていない悲劇も散見。

必ずしも、西洋流の確固たる「個人」観こそが日本でも不可欠な理想とも思わぬが、

西洋由来の思想でつくられたシステムを採用している限り、

日本人の認識を西洋流に合わせるにしろ合わせないにしろ、

形式的運用レベルなら支障ないなんてことはない。

システムが心を蝕んで、その心がシステムを濫用してる現実がある。

「a friend of mine」も「my friends」も「友達」な社会において、

《個人》であることは難しい。「友達」に加わるか、加わらず社会不適合に身を処すか。

際限なき流動化によって企図や意図を軽く追い越すネットワーク社会においては、

そのような古くさい問題意識も意義なき遺産となろうもの。

しかし、いくらメンタリティが誘導されようが、身体がそれに追いつくとは限らない。

現に、脳社会と実社会の乖離は進行し、

私のようにそれを巧く埋められぬ不器用な者だって少なくないはずだ。

とはいえ、そうした「不具合」はいつの時代も、どこの社会にも発生するもの。

そのような不備こそを見つめ、時に糾弾しながらも一方で愛でてしまう、

そんな矛盾を受容する強靭さこそがポストモダンとかいうやつ?

 

『友達』は数年前に岡田利規が演出した舞台をシアタートラムに観に行ったものの、

(私は演劇に関しては完全に門外漢なので、あくまで個人的感覚では)全く楽しめず、

物語における表層のドラマだけが展開。《不条理》は個々の演者の動きや発声に終始し、

舞台全体(人物たちが総体として浮かび上がらせる関係性)では何も語らず・・・

といった、安部公房の世界観(あくまで個人的な思い込みですが)とは甚だ懸隔。

そんなこともあってか、今回の映画版『友達』への期待も正直ややアンビバレント。

 

結論から言えば、原作に強い思い入れがある身としては極度の違和感を覚えるも、

安部公房とは別種の珍妙な歪さがユニークな不条理として成立している気もした。

ただ、それはおそらく、制作過程での不運な遅滞による苛立ちが画面に充満し、

ペンのみならずメガホンまで持つことになった監督の、

「初」なりの拘りの新鮮さとそのための拘泥ぶりが見事なまでにアンバランスで、

80年代という小っ恥ずかしさまでブレンドされて、深夜映画の王道イメージに帰着。

 

シェル-オーケ・アンデションに安部公房が直接脚本を以来したという逸話は聞くも、

完成した作品を安部自身がどのように観たかの弁は残っていないのだろうか。

あるいは、ここまで限定的にしか日の目をみなかったことが、それを物語ってる?

 

安部公房の作品の興味深さは、その不条理さ(そこから湧き上がる興奮含め)が

極めて普遍的な面白さを内包しながらも、

極めて日本の現実を浮き彫りにする点だと私は考える。

そういった点では、エキゾチシズムで国際的評価を得るようなタイプとは異なり、

社会の深部をえぐるような辛辣さのダイナミズムに打ちのめされる。

勅使河原宏による『砂の女』や『他人の顔』といった成功例があるものの、

極めて「映画向き」とも思える安部作品が今日まで

映像作品としての傑作にあまり結びついていないのは残念でならない。

確かに物語の強度は半端じゃないが、挑戦しがいのある作品群に思うのだが。

『第四間氷期』なんて、(映画化の話があったようだが)絶対傑作映画に化けそうなのに。

ただ、この手の作品を見事に捌いて再構築できるタイプの映画監督は、

日本には確かに稀有だろう。監督云々より、娯楽と文学と社会性の共存自体、

日本の映画界がもうだいぶ前に忘れてしまった世界観かもしれない。

だからこそ、安部公房は《他者》に望みを託したのかもしれない。

しかし、スウェーデン人によって読まれ、カナダで撮られた物語には、

安部作品のもっている閉塞感よりも、荒涼たる世界における孤立感が際立っていた。

「息がつまりそう」な過剰コミュニケーションよりも、

「息がとどかない」コミュニケーション不全。

前者に物語の肝を感じ続けていた自分としては、

映画の別物感をすんなり受け容れることのできぬまま、戸惑い続きで観賞終了。

 

時代が時代なだけに(日本ではバブル絶頂期?)、

拝金主義やリバタリアニズムなどへの警告が色濃く感じられもして、

主人公を戒めようとする向きが余りにも強すぎたように思う。

原作では、彼を肯定するでもなく否定するでもなしに、

等身大な小市民として感情移入を促すつくりだったように思う。

この映画では、「家族」たちと競うかのように策略家に徹して(実践で対抗して)おり、

理念や思想といった背景は極端に遠ざけられている気がしないでもない。

安部公房の作品におけるメタ化されたイデオロギー闘争のような醍醐味を、

映画版に垣間見られなかったのは残念だ。

 

てっきりマイナーな役者ばかり(しかも、スウェーデンの)が出演してるんだろう・・・

という勝手な思いこみを裏切り、スクリーンに最初に映し出される「Lena Olin」の文字。

すると、主人公を演じるのは『ヤング・ゼネレーション』主演のデニス・クリストファー。

おまけに、『ドラゴン・タトゥーの女』でハリエットの兄を演じた

スウェーデンを代表する俳優ステラン・スカルスガルドまで出てる。

おまけに、撮影はカナダのカルガリーで、使用言語は英語。

スウェーデンと日本の共同制作。

この珍妙さは確かに、不思議な魅力かも。

ただ、エンディングで流れる男女デュエットが

Almost Paradise(『フットルース』愛のテーマ)っぽさ全開で、

時代の宿命かもしれないが、「結局そういう映画なの?」的遺恨がのこる(笑)

ただ、秘かに好きな『マネキン』(1987)を勝手に想起したりもして、

奇天烈ワールドの展開は嫌いになれなかったりもした。

 

◇今年のTNLFでは、各作品の本篇上映前に

   オーレ・エクセルのショート・アニメーション(5分程度)が流れるのだが、

   これが上映作品毎に異なっていて、重複はないようだ。

   フェスティバルとしての統一感を出しつつ、本編までの適度なクッション&助走。

   基本的に「ほのぼの」系が多いみたいだが、

   『友達』上映前の短篇は数分の内に展開されるドラマチックな慈愛のドラマが切なくて、

   本篇前にジーンとし過ぎて「どうしてくれんだよぉ~」な気分になっちまった。

   自己犠牲にしんみり来た途端、他者犠牲を厭わぬ不条理劇を見せられる・・・

   意図した組み合わせなら、なかなか乙ながら鬼畜な所業(笑)

 

 

同日には、『ネクスト・ドア』(2005/ポール・シュレットアウネ)も観たんだけど、

小品ながらも味わいのある作品なのはわかるけど、それほどグッと来ず。

理由の一つとしては、北欧っぽさ(これはノルウェー映画かな)がやや漂うも、

どうしてもハリウッド風味というか「ユニヴァーサル」過ぎるつくりが気になった。

『ラップランド・オデッセイ』にしてもそうだったけど、日本の娯楽作品でもしばしばそうだが、

世界中で似たような構造や語り口、見せ方が氾濫しつつある気がして、

グローバリゼーションによる退屈な展開を寂しく思ったりして。

また、この映画祭は平日も8割超の入りが続いている感じだったものの、

基本的にはどの回も、落ち着きながらも適度な緊張感が漂う「好い場内」だったのに、

『ネクスト・ドア』では入りは半分超ながら、客層も異なれば、雰囲気もあまり好くない・・・

この手の映画って、作中の緊迫感と場内の空気が好い具合にシンクロしないと辛い。

冒頭から菓子袋バリバリ、終始ガムくちゃくちゃ、しばしばヒソヒソされたりな環境で、

どうも適切な観賞モードにメンタル追いつかず・・・だったかも。

あと、又もやいつもの細かすぎる愚痴ですが、

冒頭でいきなり字幕ミス(「役不足」という日本語の誤用)があったりして、

いきなり興醒めしちゃったのも痛かった。翻訳における日本語の力って本当重要だね。

あ、ただ途中で馴染みの顔(ミカエル・ニクヴィスト)が出てきたのは嬉しかった。

スウェーデン版ドラゴン・タトゥーのミカエル役で、MI4で敵ボス役の人。

そういえば、昨年のノーザンライツで上映された『エヴァとステファンとすてきな家族』にも

彼は出演していたので、tnlfには2年連続での参加だな(笑)

 

 


トーキョーノーザンライツフェスティバル2012 (1)

2012-02-14 00:45:44 | 2012 映画祭(その他)

 

ユーロスペースにて昨年に引き続き開催されている「北欧映画の1週間」。

初日および二日目と満席お立見続出のようで、相当な盛況ぶり。

作品も多様なラインナップだし、この寒い冬に北欧って響きは馨しく、今年も参加。

 

映画祭(って表現が見当たらないのは、意識的なのかな?)の

オープニングを飾った『シンプル・シモン』は、

昨年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で観てかなり気に入ったので

(輸入盤[ブルーレイ]まで買ってしまった・・・)

今回の映画祭でも観に行きたかったものの、悉く予定が合わず断念。

しかし、興味をそそられる(そして、これを逃すと銀幕観賞困難そうな)作品多数だし、

時間のある限り足を運んでみたいとは思ってます。

 

まずは、今回の目玉特集でもあるフリドリック・トール・フリドリクソン特集から2本。

マンマ・ゴーゴーは、監督自身の母がアルツハイマーを発症したという経験に基づく。

安易な「劇」的要素は排し、淡々と「壊れゆく」姿を見守る眼差しが、余計につらい。

全体のトーンは決して重くないため、どこかファンタジーであるような錯覚も過ぎる。

しかし、その感覚こそが、(とりわけ男が)そうした状況下で求める現実逃避なのかも。

だからこそ、トイレで母親にオムツを履かせる光景が放つ現実感は途方もない。

しかし、その直前に息子が吐露した母への感謝。

それを聞いていた観客の目には、その姿が苦痛や苦悩だけに映るまい。

無償の愛の円環。

それは時に残酷だが、どんな苛酷も超克しうる母の愛こそが、

残酷さに目もくれずに慈愛を全うすることだけに心を注いでいたことを、

息子は微かに感じとったかもしれない、聖しこの夜。

 

決して乾いているわけではないが、

湿度をすべて飛ばしたかのような最新作とは対照的に、

奥行ある感傷が全篇を覆っているかのような、春にして君を想う

その存在を(オザケンのシングルで(笑))知って以来、14年越し悲願の観賞。

 

原題(英題)は、『Children of Nature』というらしい。観てみれば、大納得。

《自然》から感受したあらゆる記憶を胸に、《自然》へと還ってゆく「子供」たち。

老年の美しさとは、《自然》を忘れて《社会》を知り、汚れた後に来る《無垢》なのだろう。

 

冒頭、どこまでも続きそうな沈黙を破るのは、タクシードライバー。

言葉を弄するよりも、沈黙の背後から浮かび上がってくる記憶による会話。

沈黙に映える自然のグラデーションと、違和が融和に転ずる80年代的シンセなスコア。

確かに唯一無二な世界が展開する不思議な旅路。

ラストの天使など、現実の幻想が幻想の現実にスライドしてくるミクスチャー。

そしてやはり、どんなに傷だらけでもフィルムで観る画の豊かさに、

人はまだまだ惹きつけられるものだという実感。

いや、むしろ、その「傷」にこそ刻まれる《時間》が映画にとっては一つの記憶。

 

そして、そんな地道に地味滋味をしみじみ味わって、

ほんわかしっとりな一日を終えれば好かったものの、

勢いで選択したラストの作品が、見事に余韻を無化してしまう・・・

 

 

ラップランド・オデッセイは、何でも2010年のフィンランド映画最大のヒット作だとか。

基本的にコメディなので、これはもう笑えるか笑えないかの二者択一というか、

感覚とか趣味とかの問題でしかないのかもしれません。

 

ただ、映画祭ウケの好い作品とか、ユニヴァーサル仕様な感情喚起作などとは異なり、

今回のような地域限定映画祭ならではのチョイスとしては、有意義な本作。

昨年、角川シネマ有楽町で開催された「フィンランド映画祭2011」でも上映され、

そのときには監督も来日しており、当時も食指は一旦動くも即失念。気づけば終了。

監督のインタビューは興味深く、そういった内容踏まえると少しは見方変わるかも。

だが・・・

 

個人的には全く笑えず、画面に映り続ける雪景色並に寒々とした心境に終始。

どこの国でもハリウッド映画の亜流(劣化版)が国内ヒットにつながるのだなぁ~とか、

『ハングオーバー』って本当よく出来てたんだなぁ~とか(何度目かの)確認してみたり、

ってことは無暗に裸をつかって笑わせようとしても「寒い」だけだよなぁ~って痛感したり、

タランティーノっぽい音楽の載せ方ってもはや一つの文化なんだなぁ~って認識したり、

とにかく余計なところばかりに思考の行方が・・・

 

監督のインタビューを読むと違った解釈に基づくみたいなんだけど、俺としては、

デジタルチューナーを求め、それを手に入れるハッピーエンドを目指す本作は、

どう考えても「映画の敵」(笑)。テレビに魂、売るんじゃねぇっ!とか頑固オヤジ気分。

ただ、日本(映画)と同じような宿命は万国共通なのかもね。

フランス映画におけるテレビ業界の幅利かせ様もハンパないみたいだし。

 

地デジ化がもっと裏テーマ的にあったりするのかと思いきや、

そのあたりは全くスルーだし、そこらへんに開眼必至な斬新展開が望めたら、

単なるドタバタだけじゃない味わいも得られたような気がするけれど、

まぁいくら北欧だからってコメディくらいドリフで終わりたい!?

 

でも、チラシの紹介文のように「成長する男たち」なんてどこにも見当たらず、

かといって「成長しねぇ~なぁ~」って爽快な諦念が吹き抜けるわけでもないし、

だもんだから、ロードムービーなのに《移動》や《経過》の醍醐味が皆無。

 

ただね。

コメディを字幕で(しかも、音的にも全く知らない言語で)観るっていうのは、

ハードル高すぎだわ、やっぱり。

フィンランド語の響きに《笑い》エッセンス見出すの、

自分にはまだまだ無理そうで。

おまけに、最低最悪な字幕。あれ、昨年のフィンランド映画祭からの流用なのか?

誤字だらけ(気づいただけでも5つ程あった)な上に、

言葉遣いにしたって自動翻訳に毛が生えた程度。

まぁ、字幕のフォントが「スタジオ・カナル・コレクション(例えばコレ)」のそれに

似てた(同じ?)から余計そう感じたっていうのもあるかもしれないけど、

映画館で観た劣悪字幕では、昨年のラテンビートで観たアルモドバル新作並。

ちなみに、(本当細かく五月蝿い奴でごめんなさいだが)

『マンマ・ゴーゴー』の字幕は内容よりもレイアウト(?)にやや難ありだった。

二行になるときの行間が狭すぎるのに、字間は余裕があったりするので、

二行になっている時には読みづらい。

これは制作時の設定でいくらでも変えられただろうから、

次回からは改善(というか、試写段階とかで確認・修正)して欲しいかな。

 

  ※ちなみに、前述の「スタジオ・カナル・コレクション」のブルーレイ・シリーズが、

      廉価版(実売1500円程度)で再発される!!(字幕があのままなら糠喜びだが)

 

小規模な映画祭の場合、

字幕はボランティア・スタッフによって制作されることがしばしばなようで、

なかには「巧いなぁ」とか「自然だぁ」とか上から目線で高評価なものがある一方、

やっぱりプロにはプロの技術があるということを再認識させられることもある。

そういった意味では、一般公開作の「ありがたみ」まで噛みしめつつ、

当然、このような映画祭の醍醐味も堪能できるわけで、

やっぱり魅惑のインディペンデント映画祭。

 

まだ見ぬ運命の作品に、期待をふくらませ、

今週は渋谷へ通うかな。