大盛況のうちに終了したtnlf2012。
実はこの「北欧映画の1週間」、スカルスガルド祭りでもあったことに今更気づく。
まずはtnlf2012前夜祭として公開された(違います)『ドラゴン・タトゥーの女』で、
ハリエットの兄役としてステラン・スカルスガルドを拝んだ直後には、
幻の珍作『友達』で二十年以上前の彼に遭遇してしまう。
そして、tnlf201のオープニングにしてクロージング作品『シンプル・シモン』で
シモンを演じたのは、ステランの息子であるビル・スカルスガルドだったのだ!
おまけにtnlf2012前夜祭に出演したステランは、後夜祭『メランコリア』にも出演。
しかも、息子のアレクサンダー・スカルスガルドも新郎役で出演してる!
他にも何処かで出没していそうな気がする、スカルスガルドな1週間。
おそるべし、スカルスガルド包囲網。
さて、今回の上映作品のなかでも極私的待望作として裏最重要だったのが、
『セレブレーション』(1998)。
昨年公開された『光のほうへ』も素晴らしかったトマス・ヴィンターベアの出世作。
初見は1999年。それも、旧ユーロスペース(現シアターN)にて!
配給もユーロスペースだった作品だ。
駆け出しの映画ファンだった当時、生意気にも私的年間ベスト10に入れた記憶あり。
「ドグマ95」作品にハマった(ということが格好好い気がした)自分は、
続々公開されてたドグマ95作品を律儀に観に行ってたものだった。
偶然か必然か、シネマライズでかかることが多かったりして、
『ミフネ』(1998/ソーレン・クラーク=ヤコブセン)
『ジュリアン』(1999/ハーモニー・コリン)
『キング・イズ・アライブ』(2000/クリスチャン・レヴリング)
なんかはいずれもライズの地下で観た気がする。どれもガラガラだったけど。
今や世界的にも注目を集めるデンマークの女性監督の二人、
『未来を生きる君たちへ』のスザンネ・ビア(『しあわせな孤独』)や
『17歳の肖像』のロネ・シェルフィグ(『幸せになるためのイタリア語講座』)も
参加していたりするから、実り多き通過儀礼であり修行だったのかも>ドグマ95
発起人のくせして「いち、抜けたっ!」な調子で
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』撮ったラース・フォン・トリアーだって、
いまだに(観客迷惑な)手持ちカメラ(手ブレカメラ)好きすぎてやめられないし。
昨今のインディペンデント日本映画なんかにも、影響が顕著な気がするし、
後半は失速してしまったとはいえ、やっぱり重要なムーブメントを生んだのかも。
で、そのドグマ95作品の記念すべき1作目という『セレブレーション』。
初見当時は、物珍しく感じた手法やフォーマットにばかり眼がいきがちだったが、
こうして再見してみると、物語の牽引力は途轍もないし、
複雑な内面の戯画化が見事に成功している傑作だ。
本作から受ける印象の特徴は、
新旧綯交ぜな「古典的前衛」といった趣。
それもそのはずで、ドグマ95の純潔の誓いとは
《回帰》と《解放》を求めた、回顧と自由のための契約だったから。
本作では6つの「戒律違反」をおかしているとして、
トマス・ヴィンターベアは懺悔の書を記している。
その内容は以下の通り。(本作のパンフに掲載)
*私は、あるテイクで、黒い布を使って窓を覆いました。
これは小道具の追加ではなく、証明の調節の範疇と見なされるべきだと考えます。
*私は、トマス・ボー・ラーセンが映画で着るスーツを購入する埋め合わせとして、
ギャラを上げたことを知っています。
*同じく、トリーネ・ディアホルムとテレーセ・グラーンも似たようなやり方で、
服を購入したことを知っています。
*私は、屋敷の受付デスクがなかったので、それを作るよう手筈を整えました。
しかし、そのデスクを作るための材料は全てロケ現場にあったものです。
*クリスチャンの車と携帯電話は彼のものではありません。
しかし、それはロケ現場にあったものです。
*私は、あるテイクで、カメラをマイクのブームに固定しました。
従ってそこでは部分的にしか手持ちの状態になっていません。
以上のような「告白」によって、「赦し(=ドグマ作品としての承認)」を求めている。
これを読んでもわかるように、彼(ら)は明らかに十戒を楽しんでいる。
トマス・ヴィンターベアはインタビューでも、ドグマの「制約」を「解放」と捉えている。
それは従来の撮影スタイルという呪縛からの解放であると同時に、
創作意欲の源泉にもなり得るものだという。
「映画の中で音楽を使ってはいけない、と規則にあるとします。
僕はどうするかといえば、映画の中に自然と歌をたくさん盛り込むようにします。
この種の制限によって多くのアイディアが生まれるのです。
ドグマ映画の特徴はすぐに群像劇になることです。
ペーソスにあふれた映画になります。
なぜなら、すべての微妙な感情を音楽を使って誇張することができないとしたら、
残ったものを使って表現するしかない。
つまり、それはキャストの俳優たちを最大限に利用するということになるからです。」
(パンフ掲載のトマス・ヴィンターベア監督インタビューより)
ちなみに同インタビューでは、彼の大好きな映画ベスト3も語ってる。
それによると、『ファニーとアレクサンデル』(或るシーンを「盗用した」と述懐)と
『ゴッドファーザー』、三番目には10~15本の映画が並ぶと答えている。
ちなみに、『ゴッドファーザー』からも山ほど引用していると述べた上で、
プロットには多分の影響があったとして、本作のクリスチャンとミケルの役柄は、
『ゴッドファーザー』のジェームズ・カーンとアル・パチーノから発想を得たものだとも。
しかし加えて、「言うまでもなく、比較しようなんて気は毛頭ありません」と恐縮。
私としては、比較には相応しくないが、その対照性(壮大とミニマムな作風)は
継承と更新による理想の換骨奪胎を見る気がした。
また、群像劇となると関係性から個人を浮き彫りにするアプローチがとられがちだが、
本作においてはあくまで個人を起点とし、個性の衝突や交錯によって関係がうまれ、
変容が一つずつ重ねられている印象。キャラクターが全体に収斂されることなく、
キャラクターが思い思いに奔走しながら総体の醸成を拒むかのようなリアリズム。
人間の、人間関係の核心に肉迫しようと凝視を止めぬ監督の執拗な眼差し。
その一方で、真剣や深刻が最高の滑稽になりうるブレンドの達人でもある。
意外と場内はそれほど笑いに包まれなかったものの、
近くに座っていた北欧人と思しき観客と一緒に(?)盛り上がって観てました。
ワイズマン作品で時折襲われる笑いの不意打ち、不謹慎な笑いという極上の滑稽。
そもそも、セレブレーション(儀式)というものはナンセンス要素の宝庫だし、
そんなナンセンスな空気に包まれて、異界のようでいて現実そのものの空間は、
機微をデフォルメ顕在化。演劇的になるのも当然で、儀式や宴がそもそも「演じる」場。
裏の裏が表のように、演じる人物が「演じる」時、そこに生まれるリアリティ。
演者と役の境界は消され、現実と虚構の整理は心地よく歪み出す。
作品を創る場合でなくとも、カメラを向けられると人は自動的に
演技せねばという強迫観念にかられてしまう気がする。
それは他者の眼というカメラも同様で、
そうすると、やはり私たちは常に「演じて」いるわけだろう。
そして、「演じている」ことまでを捉えてこそのリアリティなのかもしれない・・・
などと考えてしまうほど、《自然》を人工的に生み出そうとした誇張のドラマのなかに、
唯一無二な人間模様が浮かび上がってきた本作。
極めてローカルで、極めてパーソナルなドラマであるにもかかわらず、
日本における「一族モノ」とも通底しそうな普遍性がみなぎる、偉大なる小品だ。
ちなみに、作中で長女の黒人の恋人を乗せてくるタクシーのドライバーは、
トマス・ヴィンターベア監督自身が演じて(?)いる。
ヒッチコックと一味違うカメオ出演。
バッチリ顔を写して自己顕示欲。
それも納得のハンサムぶり。
トマス・ヴィンターベアはその後、世界的に(というか、メジャー的に?)
飛躍すべく『It's All About Love』という劇場未公開作 in Japan を撮っているのだが、
この作品のキャストは豪華。ホアキン・フェニックス、クレア・デインズ、
そしてショーン・ペンまで。それなのにDVDスルー。
何故なら、邦題が『アンビリーバル』。近未来ラブサスペンスなんだと。
IMDbでも5点台と怪しいが、Rottenなんて踏んだり蹴ったりだもんね・・・
自分も一度レンタルしながら、怖くて(嘘、単に時間なくて)未見で返却。
確実にトマス黒歴史。
それを払拭すべく、盟友ラース・フォンン・トリアー脚本の『ディア・ウェンディ』。
これはなかなか面白く観たんだけど、
公開劇場であるシネカノン有楽町はなくなり(今は角川シネマ有楽町に)、
日本で配給したワイズ・ポリシーも倒産。やや不吉な印象の作品だ。
そこで心機一転(?)、
地元に戻って楽しく撮ろうって感じだったと推測される、
その名も『A Man Comes Home(En mand kommer hjem)』。
批評的な成功は特に収めていないようながら、
ノルウェーの映画祭で観客賞獲ってるみたいだし、
何とかして観てみたい気も(・・・来年のノーザンライツでいかがでしょうかっ!?!?)
そして、皆さんご存知の『光のほうへ』に至るわけ。
こちらは、久々にドグマ95っぽさも漂いつつ、
人間の真実を剔るように凝視する面目躍如な秀作で、
『セレブレーション』で惚れ込んだ彼の完全復帰を心底喜んだ。
次回作は、今や国際的に活躍するデンマーク俳優マッツ・ミケルセン主演の
『Jagten』という作品で、トマス作品常連のトマス・ボー・ラーセン(※)も出演する。
タイトルは、デンマーク語で「追う」とか「狩る」とかの意味っぽいので(たぶん)、
これはまた、『光のほうへ』(原題は水攻め拷問を表したりする『Submarino』)
に引き続き、なかなかシビアな作品が届けられそうで大いに期待です。
※トマス・ボー・ラーセンのIMDb掲載写真が変・・・
これ、『セレブレーション』の一場面だけど、二人とも別人だし。
たまにこういうのがあるからIMDbはなぁ・・・面白い(笑)
そんな十年以上ぶりの再会に胸躍った『セレブレーション』に続き観賞したのが、
生演奏付のサイレント映画『魔女』(1921/ベンヤミン・クリステンセン)。
当初は日曜の回でのみ予定されていた柳下美穂さんの生演奏付き上映が、
彼女の厚意により2回目の上映でも実現!!これは観ないわけにはいかない!!!
そう意気込んでワクワクドキドキ・・・そしてウトウト、ちょっぴりスヤスヤ・・・。
昼下がりという睡魔暗躍タイムもあって、あの美しくも妖艶なピアノの音色が、
瞼にかかる重力を増幅増幅増進増進、子守唄・・・。
でもでも!あの職人技には感歎の嵐!(じゃぁ、寝てんじゃねぇーよ。)
ライブ感は言わずもがなだけど、
スクリーンと演奏者、そして観客という三者で語らうトライアングル・スパイラルは、
新しい(古い、のか?)観賞スタイルとして、確かに超絶魅力で迫ってきました。
『アーティスト』公開という奇遇なタイミングも手伝って、
昨今大盛況のこの観賞スタイルは、映画文化の新たな救世主になるかもしれない。
昔ながらに還る新しさ。そういった意味では、ドグマ95とも通ずるところがあるな。
(無理矢理こじつけんでも・・・)
この日は、次の回は休んで(というか他の映画観て)、
オラファー・エリアソンのドキュメンタリー(『Olafur Eliasson : Space is Process』)も
観たんだけど、これが個人的にはtnlf2012の最大の収穫級に面白かったので、
機会があれば別途まとめてみたい。
本当、ジャンルも時代も多様な作品群や趣向を凝らした企画やイベントで、
規模に走らず質の向上にむかう姿勢に好感だったトーキョーノーザンライツフェスティバル2012。
来年も開催されそうだし、上映してほしい作品を今からチェックしておこっと。
(爆音映画祭みたいにアンケートとかとったりしないのかな?)
映画ファンにとっての2月の風物詩。寒さが好きになる(?)一週間。
(今更ながらですが)インディペンデント精神旺盛かつ歓待感心なスタッフの皆様、
本当におつかれさまでした&ありがとうございました。